勝手に僻地散歩



コタキナバルにいってみた その3

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日本軍がボルネオに上陸したのは、1941年12月16日のことである。約2,500名からなる南方総軍直轄部隊歩兵124連隊川口支隊が戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻に援護され、ミリ(Miri、現在のブルネイの南西の国境から南20キロほど)海岸に上陸した。

上陸後、川口支隊は北上し、沿岸の町を次々に攻略する。1週間後の23日にはラブアン島、24日クチン、26日にはコタキナバルが攻略され、翌42年1月3日クダット、19日サンダカン、29日には、オランダ領ポンチャナックとほぼ6週間で主要都市は日本軍の手に落ちた。

ボルネオ作戦後、川口支隊はガダルカナルに転進し、攻略後の北ボルネオの治安維持には、南方総軍直轄独立混成第四連隊歩兵第三大隊がその任に当たった。42年3月には南方総軍独立守備歩兵第40大隊800名がボルネオ守備隊として再編成されている。

その2ヵ月後の42年5月、前田利為中将が着任、軍政が敷かれる。ボルネオ軍政は、1941年11月20日に大本営・政府連絡会議が決定した「南洋方面占領地域行政指導要領」に基づいて行われた。この指導要領の抜粋を紹介する。

1)軍政実施にあたりては、権力残存統治機構を利用するものとし、従来の組織及び民族的慣行を尊重する。
2)華僑に対しては、中国政権より離反させ、我が施策に協力せしむるものとする。現地土民に対しては、皇軍に対する忠誠観念を助長せしめる如く指導し、その独立運動を誘発せしめることを避くるものとする
3)作戦に支障なき限り、占領軍は重要国防資源の獲得及び開発を促進すべき措置を講ずるものとする

この指導要領という文書自体は、華僑云々の表現部分がpolitically correctかどうか(及び実際の適用ぶり)は別として、その意味するところは至極常識的であり、現在にも適用できる。
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いずれにせよ、この指導要領に基づき、ボルネオの5つの州(西海州、東海州、シブ州、クチン州、ミリ州)にそれぞれに司政官を配置し、州の下の県にも県知事が配置された。

しかし日本が敷いた軍政は地域住民、特に華僑との関係構築に失敗したようである。というのも軍政を敷いてからわずか一ヶ月の42年6月13日付で、ボルネオ守備軍司令官から以下の布告が出ている。長いが引用する。

「ボルネオ在住華僑に告ぐ。日支事件が勃発してから過去5カ年間、在外華僑は重慶政府の募金に応じてきているが、同時に華僑は在外日本人を差別し、圧迫を加え、また追放している。このよう反日行動は日本国民にとって耐え難いことであった。またボルネオ在住華僑は日支事変が勃発してからこの地域において、英国及びオランダと行動を共にして日本に抗してきた。ボルネオ在住華僑が日本の敵国人を助けてきたことは、敵対行為をとってきたことを意味するに他ならないが、日本軍がボルネオを占領し、英・米・オランダを追放すると、華僑は態度を変えて過去に何事もなかったかの如き振りをしている。華僑は日本軍司令部の決断一つで死と面していることを忘れてはならない。華僑は今は自由を許されているが、それは華僑の行動次第である。華僑は更なる布告の発出をしないで済むように深く反省し、深慮を望むものである。」


反日行動に走る華僑に手を焼いている様子が垣間見える。尤も、42年1月12日付にてシンガポールや英領マラヤにて実施された華僑に対する措置は、華僑の不興を買うに十分であった。まず現地通貨を軍票に切り替え、手持ちの現金をわずか30ドルに制限し、残額は銀行に寄託することを義務付け、さらに一人当たり500万ドルの寄付を強制するなどした。北ボルネオ在住の華僑に対しても、これに準ずる措置として60万ドルの寄付の強制が行われている。果たして、これらの施策がどれほど徹底されたのかどうかは不明だが、軍政による華僑のコントロールの失敗は1943年10月10日にコタキナバル(アピ)で起きた事件によって決定的となった。アピ事件である。
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双十節(辛亥革命の記念日、十が二つ重なるので「双十」)にあたる10月10日早暁、約300名の抗日ゲリラ((神山遊撃隊、キナバル・ゲリラ)によって、アピの日本人居住区の日本人50名が殺害されたとされるこの事件は、その経過を見ると分かるとおり、周到に用意された作戦であり、それを察知できなかったボルネオ守備隊に衝撃を与えた。

標的は軍政機関と邦人企業で、二つの部隊が編成されている。華僑中心に編成された部隊はコタキナバルの北東にあったゲリラ本部のあるイナナム(Inanam)から陸路で中心部に向かい、バジャウなど少数民族からなるもう一つの部隊は、小船を使って海路にてアピ港に上陸している。

華僑部隊は市内に到達するとトラック2台を強奪し、そのままアピ警察署に向かい、制圧し、小銃50丁と弾薬600個を押収した。武器を得た華僑部隊はさらに、アピ刑務所を襲撃し、囚人全員が逃亡した。

少数民族部隊は、アピ港上陸後、近傍の日本軍の軍用倉庫に火を放ち、炎上させている。

二つの部隊は作戦遂行後、本拠地に無事帰還していることから分かる通り、当時アピ市内は、治安要員が手薄であった。アピ市の中心を貫くトアラン街道(Jalan Tuaran)に憲兵分隊が6名、飛行場に分遣隊6名がいたに過ぎなかった。アピの軍政当局の日本人職員は西海州長官以下30名ほどの規模だった。

日本軍政部はかなりの動揺であったようで、事件の収拾に動き出したのは10月20日、事件から10日も経ってからである。しかし動き始めた日本軍の行動は徹底していた。潜伏地の疑いがある村落はすべて焼き討ちされ、不審人物は脅迫や拷問で供述を引き出し、事件参加者の絞込みを図り、413名を逮捕している。

逮捕拘禁者に対する取調べにかかわる資料は残っていない。しかし証言は残っている。
処罰にかかわる方針については、西海州警備課長である大穂益夫氏が
「確か12月初旬であったかと思う。軍司令部でアピ事件処理についての打ち合わせがあったので、私も州長官と共に出席した。席上、司令部側は日本人が50名くらい殺害されたので、少なくとも500名は処罰しなければ軍の威信を保たれない、と厳罰論を主張した」
と手記に残している。

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事件の首謀者の処刑現場跡を整備してつくった慰霊公園にある慰霊碑裏面の碑文によると、日本軍は逮捕した413名すべてを処刑したとある。うち96名は1月21日以前にバテュ・ティガ(Batu Tiga)にあるアピ刑務所で拘禁中に処刑され、176名がアピ空港近くの砂浜ペタガスにて銃殺刑にあった。141名が21日以降にラブアン島に移送され、後に全員餓死したとある。

逮捕され、処刑された413名がどのような経緯で事件の責任者とされたのかについての詳細は分かっていない。また413名という数字も、慰霊公園の慰霊碑の裏面に書かれている碑文にあるのみで、他のソースでは確認できない。

いずれにしても、現地の華僑を中心とした反軍政のグループが決起し、日本人を殺害し、その後に首謀者と目された者は、日本軍によって処刑されたということは事実であろう。このことが軍政とボルネオ島民の間に決定的な溝が生じたことも確かであろうし、その後は両者が信頼で結ばれるということはなく、日本側のボルネオ住民に対する圧力も加えられたことは容易に想像できる。

現在もサバ州では、毎年1月23日に政府主催の慰霊祭が行われている。そこで語られる歴史とは、50名が殺害した決起運動に関連して、逮捕監禁された413名全てが処刑されたということである。

アピ事件をめぐる研究はそれほど進んでいるようには見えない。事実というよりも情報戦に使われたと思われる極端で感情に訴えるストーリーしか残っていない。しかしここで重要なのは、北ボルネオの人々が、上に述べたストーリーを通じて、歴史を学び、日本観を醸成しているということである。

コタキナバルを訪れる日本人は、少なくとも北ボルネオにおいて、そのような「歴史」が語られているということを知っておかなければならないだろう。

<参考>
「日本軍政期における北ボルネオにおけるアピ事件について」上東輝夫元コタキナバル総領事による研究ノート(名古屋商科大学)

「英領(北)ボルネオの軍政 アピ事件」kakek氏のブログ。アピ事件の経緯が詳しく書かれている。
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by iyasaca | 2009-02-09 00:37 | マレーシア
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