勝手に僻地散歩



コタキナバルにいってみた その2

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日本がボルネオを占領するのは、太平洋戦争が始まってからであるが、ボルネオ島西海岸には、明治期からすでに日本人は移民としてボルネオに渡っている。タワオ(Tawau)など、ボルネオ東海岸への本格的な入植は昭和に入ってからである。また1947年まで北ボルネオの首都であったサンダカンには、日本から多くのからゆきさんが渡ってきていた。からゆきさんとは、「唐行き」(海外に行く人)を語源とする日本人の妻妾のことである。当時の様子については、山崎朋子の手によるノンフィクション作品「サンダカン八番娼館- 底辺女性史序章」に詳しい。

さてボルネオで最大の産業は30-40年代を通じて、天然ゴム栽培であり、輸出額ベースでは他産業の2倍以上を占めていた。他には材木、ヤシから採れるコプラ油生産(マーガリンや石鹸、ロウソクの原料。搾りかすには豊富なビタミンと油脂を含むことから最近ではブランド和牛の飼料としても使われている)、そして1930年代からはマニラ麻の栽培なども盛んであった。マニラ麻は一年半ほどで直径25センチ、高さ6メートルに成長する。植物繊維としてはもっとも強靭な部類に属し、当時は軍艦用のロープとして世界中に需要があった。ただ、ボルネオではロープ加工まではできず、皮をはいで繊維にする工程(麻引き)の工程までを行い、日本に輸出していた。

北ボルネオへの日本人の入植は、軍が入るよりも前に始まっている。入植者の使ったルートの一つである神戸発の船は、途中燃料補給のため長崎、釜山、サイパン、テニアン、ロタ、パラオを経て、タワオに入るルートを辿った。16日間の行程であった。

入植地の一つであった北ボルネオ東海岸のモステンを例に、入植の仕組みについて触れる。

モステンは日産農林が拓務省の委嘱を受け、英領北ボルネオのモステンにマニラ麻自営農家を入植させる目的で拓いた農村である。真偽のほどは不明だが、マニラ麻栽培に適するアルカリ性の土地がなかなか見つからず、苦労の末見つけた場所だけに、「もう棄てん」という日本語が語源であるとの話もある。入植者は、まずタワオの日産農林麻園で麻栽培の指導を受けた後、モステンに入植した。入植が始まったのは、戦争が始まる直前の1941年3月からであった。

モステン入りした入植者はまず仮住まいに入る。仮住まいにいられる期間は限られているので、その間に自分の農園を拓き、自らが住む住居を建設する。
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<写真:こんなジャングルを開墾したのだろう>住居に用いる材木はモステンにある製材所から調達できた。住居が完成し、仮住まいが空くと新たな家族が移り住んできた。本宅はだいたい40坪ほどの広さで、敷地内には苦力が起居する小屋も建てた。苦力は福建からの中国人、マレー人、船上生活者であるバジャオ人などが主であった。中国人はよく働くため、人気だったようである。入植者には、一家族あたり100反歩(25エーカー)の土地が割り当てられた。土地は、日産農林が北ボルネオ会社から99年の期限で借り上げ、入植者に提供した。この土地は実際にはジャングルであり、農地とするにはまさに切り開く必要があった。入植者は、伐採した木材のうち、売却できるものは売却し、そうでないものは燃やし、肥料とした。
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開墾した農園では多くはマニラ麻が栽培されたが、収穫の時期になると、資金的に余裕のあるものは自前で麻引き工場や麻干し場を設えた。新たな設備投資をするほどの余裕がない入植者に対しては、日産農林が持つ共同作業場で麻引きをし、持ち帰って乾燥させた後、梱包をして、ロープなどへの加工をするため、シンガポール経由で日本に輸出された。

5家族の入植を契機に始まったモステンへの入植は、徐々に増え、最盛期には自営農73家族、病院や関連会社など関係者を合わせると90家族、450人にまで達した。入植者の出身地として多かったのは熊本県(20家族)、山形、宮城、福島など東北地方からの入植者も多かった。

もちろん麻だけでなく、タピオカ、サツマイモ、かぼちゃ、カンコン、ナス、きゅうり、糸瓜、ニガウリ、トマト、インゲン、サトイモなどが取れる土地柄で、肉は野生の豚や鹿はもちろん、象やサル、熊、トカゲ、ワニ、蛇なども食べていた。また陸稲は4ヶ月で収穫ができたこともあり、三毛作が可能であったが、土地が悪く、一反歩(300坪=990平方キロ)から5,6俵(300キロ)程度しか収穫できなかった。単純比較はできないが、現在の日本で豊作であれば、同じ面積で600キロほど収穫できる。三毛作をしても年間収量が半分だったということである。

しかし入植者にとって、モステンでの生活には苦労が絶えなかったようである。元々何もなかったところであっただけに、水道や電気などの基礎的な公共サービスが存在せず、電灯や調理用の火としては石油やヤシ油を使っていた。水は雨水を溜め、軽石などで濾過器を作って、飲料用としていたようである。

入植してから作物を育て、収入を得るまでの間の資金(苦力に払う賃金)や食糧については、日産が貸付を行っていた。主にマニラ麻を栽培していた入植者は収穫した麻で日産に返済した。

戦後、荒廃した都市と農園の復興が自力では困難であると判断した北ボルネオ会社は統治権を英国政府に返上し、1963年にマラヤ連邦と合併し、マレーシアに編入されるまで間、英国の直轄植民地となった。同時に先人たちの努力によって開墾された農園は、マニラ麻からゴム農園になり、その後油やし農園と姿を変え、現在に至る。
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by iyasaca | 2008-11-30 11:08 | マレーシア
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