勝手に僻地散歩



藤ノ木古墳にいってみた

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藤ノ木古墳にいってみた。
訪問のタイミングが悪く、案内板は青いシートに包まれ、南東部にある石室入口には「立ち入り禁止」の看板も立っている。

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住宅地の中に鎮座する直径48メートル、高さ7.6メートルの墳丘は、江戸時代には「崇峻天皇御廟陵山」とも「陵山(みささぎやま)」とも言われ、地元に崇峻天皇陵との伝承も残っている。

藤ノ木古墳は1985年以降6回(1985年、1988年、2000年、2003年、2004年)にわたり調査が行われており、明らかになったことも多い。それでも被葬者が誰であるかはいまだに決着がついていない。考古学的手法とは別に、被葬者の実像に迫るには古文書を紐解くことである。藤ノ木古墳について触れられていると考えられる古い文書はいくつか残っている。

現在に伝わる文献から藤ノ木古墳とその被葬者についてどこまで迫ることができるのだろうか。藤ノ木古墳の東、直線距離にして僅か300メートルほどの場所にある法隆寺に残る文書が最大の手がかりである。

藤ノ木古墳について「触れられている」と考えられる文書は以下の通りである。

1)「法隆寺田畠配宛(でんばたはいえん)日記」
1265年5月26日付の項に、法隆寺に寄進された一町7反の畑内訳として、
「二反の畑は庚陵寺に属して、ミササキという名称がついており、寺で大工仕事を担当している刀祢が耕作、近くにお寺がある(原文では陵は変体字)」とある。
庚陵寺の庚は西という意味で、陵は天皇の墓の意であることから、法隆寺の西にある陵、つまり藤ノ木古墳のことではないかと解釈している。

2)「嘉元記」
14世紀の法隆寺文書。1347年5月に「西郷陵堂(にしのさとのみささぎどう)」の供養を行った」との記述あり。西郷陵堂が藤ノ木古墳の前にあったとされる陵堂ではないかという指摘である。

3)「寺要日記」
14世紀の法隆寺文書(全12冊)。
1366年の年紀の1月4日の項に1月3日の上宮王院(夢殿)での行事に続いて、4日陵堂御行事「免田餅百卌五枚結衆(参列した僧侶)立餅人別五枚宛」(めんでんもちが135枚必要で、参列した僧に一人当たり5個配分した)と2行にわたって墨書されている。この法要が上宮王院や金堂、西円堂など主要伽藍で法隆寺で営まれる行事と併記されていることから、寺の近傍の陵で主要な伽藍で行われていた同じレベルの重要性を持った法要が行われていたことは分かる。

4)法隆寺別当記(14世紀中ごろ)
「陵堂供養とし法要が営まれていた」との記述あり。

5)宗源寺文書(1679年)
1595年に崇峻天皇御廟 陵山(みささぎやま)と呼ばれていたとの記述あり。

6)18世紀始めに法隆寺が奉行所に提出した文書
崇峻天皇の名前が入った図面がある

ざっと見れば分かるように、多くの文書は供養・法要などの儀式が行われた場所として、藤ノ木古墳について「触れている」程度で、被葬者に結びつく情報を引き出すことはできない。かなり強引に藤ノ木古墳と結び付けている例も見られる。

それでもこれら文書から分かることは、法隆寺の近傍に陵と現在はすでに失われた陵堂が存在したらしいこと。さらにこの陵は江戸時代には崇峻天皇が葬られているとの記録が法隆寺に残っていることなどである。

しかし江戸期以前に藤ノ木古墳と崇峻天皇と関係付ける情報は文献の中にはなく、崇峻天皇陵だと同定した根拠も明らかでない。ちなみに陵とは、一般的には天皇及び三后の墓を意味し、それ以外の墓は「塚」と表現される。

しかし藤ノ木古墳と法隆寺の関係はありそうである。地理的な近さだけにとどまらず、その位置関係から法隆寺の一部として考えられていた可能性がある。というのは、藤ノ木古墳は、法隆寺西院伽藍から古代高麗尺で西に1,800尺の場所にある。古代斑鳩地方の地割はこ高麗尺(こまじゃく)300尺なので、6区画分に相当する。また法隆寺創建遺構とされる若草伽藍の寺域の北限線を西に延長するとちょうど古墳の真上を通る。古墳造営の方が若草伽藍創建より数十年古いとされている。これらのことから、法隆寺は藤ノ木古墳をかなり意識して建立されたとも考えられる。となると、藤ノ木古墳南側にあったとされる陵堂における法要などが法隆寺の儀式の一環として行われることはさほど不思議なことではない。

f0008679_11142554.jpgただ法隆寺に残る「宝積寺境内図(1709年)」によると藤ノ木古墳の南側には平安時代に建立されたと伝えられる宝積寺(ほうしゃくじ)とその境内が描かれたいる。橿原考古学研究所の5次に及ぶ調査では宝積寺の遺構を見つけることはできなかったものの、近世以降に墳丘南側の一部が造成され、平坦な面がつくられ、その盛土層には焼けたような痕跡が見つかっている。橿原考古学研究所の報告書によると、「この盛土層における焼けたような痕跡については、『宗源寺過去帳』にある安政元(1854)年の宝積寺焼失に関連する可能性がある」、としている。

結論的には、被葬者を特定するにあたって、有用な情報は文献からは得られないと言わざるを得ない。となると、被葬者の絞込みは発掘調査の結果を分析するしか方法がない。


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by iyasaca | 2008-09-06 00:03 | 奈良
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