勝手に僻地散歩



屋久島にいってみた その7

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縄文杉へと先を急ぐ。

険しい山道に入ってから40分、突然前が開け、巨大な切り株が目の前に現れる。ウィルソン株である。

この巨大な切り株の名称は、アメリカ人の植物学者アーネスト・ウィルソンの名前からとられている。ウィルソンは、針葉樹研究のため、日本を二度訪れており、屋久島へは、1914年(大正3年)最初の訪日時に立ち寄っている。そのときに、この巨大な切り株を発見したのである。ウィルソンはその調査結果を「日本の針葉樹林」という論文にまとめ、学会で発表した。その一節を引用する。

「至るところに濃密な原初の森が続き、空き地がない。広大な常用樹の天蓋の下に、潅木の低い茂みを伴った、全くすばらしい陰花植物の王国である。最も注目すべき森林は、杉がそこに南の故郷を持っているこの屋久島の森林である。」

切り株の高さは約4メートル、胸の高さの外周は13.8メートルある。樹齢は推定2,000年~3000年、中は空洞で人が入ることができる。かなり広い空間である。内部には、小さな祠があり、その脇からは水が湧いている。そして切り株の周りからは樹齢300年ほどの杉が3本切り株更新している。

さて、ウィルソン株の伐採された部分は一説によると豊臣秀吉が造営を命じた京都東山の方広寺大仏殿の用材として使うため、楠川の牧五郎七ら6名が櫓を組み斧で倒して京都まで運ばれたと言われている。方広寺と言えば、現在では大仏よりも、豊臣家滅亡のきっかけとなった鐘がある寺と言った方が分かりやすいだろう。言うまでもなく、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘が家康の名前を引き裂くものであると言いがかりをつけられたあの事件である。しかし、江戸期においては「京の大仏」の寺として名高く、18世紀に火災で焼失したときには、市中で大仏を惜しむわらべ歌が歌われ、また周辺の地名には大仏やそれにまつわる名が今でも残っている。

1586年(天正14年)、秀吉の命により造営が始まった方広寺大仏殿は、完成間近となった1596年(慶長元年)、慶長大地震に見舞われ、崩壊する。秀吉の死後、秀頼が大仏殿の再建を命じ、1612年(慶長17年)完成するが、1798年(寛政10年)、落雷による火災によって焼失してしまう。その後、方広寺は規模を大幅に縮小し、現在の場所(京都府京都市東山区大和大路通七条)に再興される。寛政年間に焼失した後、大仏殿が再建されることはなかったため、現在の方広寺に行っても、当時の面影はなく、また当時の様子を伝える資料も少ないため、長い間、大仏殿が建っていた場所すら正確に分からないままであった。

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<写真:ケンペル「日本誌」 1729年版>
しかし、資料が全くないわけではない。当時の様子をうかがい知ることのできる資料の一つは、ドイツ人医師のケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651-1716)が残した旅行記「日本誌」である。ケンペルは五代将軍徳川綱吉の時代である1690年に日本各地を訪れ、ドイツ語で「今日の日本」という原稿をまとめている。その中に方広寺の大仏殿を描いた挿絵がある。判読しにくいが、右上にDAJBODS(ダイボツ≠ダイブツ=大仏), Tempel even buyten de stad, MIACO(ミアコ≠ミヤコ=都)との但し書きがある。

ちなみに、ケンペルの死から11年、「今日の日本」の原稿はショイヒツェル(J.C. Scheuchzer)によって英語翻訳され、「The History of Japan(日本誌)」として世に出た。この本はすぐにベストセラーとなり、1729年にはフランス語(Histoire naturelle, civile, et eccl'esiastique de I'empire du Japon)とオランダ語(De Beschryving van Japan)に翻訳された。オランダ語版は1733年にも再刊されている。オリジナルは現在大英博物館に所蔵されており、現在でも江戸期の日本を研究する者の必読書となっている。

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<写真:都名所図会(1786年再版本) 巻之三 左青龍再刻 十四ページ、国際日本文化センター所蔵 >
さて当時の様子を伝えるもう一つの資料は、1780年に京都の書林吉野家が刊行した「都名所図会」である。焼失するのは1798年であるので、直前と言ってもよい時期である。この中にある俳諧師秋里籬島の説明書きによると、大仏殿は西向きに建てられており、東西27間(約49メートル)、南北45間(81メートル)の大伽藍であった。さらに、東西に100間(180メートル)、南北に120間(約216メートル)の回廊に囲まれていたと言う。そして大仏殿には、六丈三尺(約19メートル)の盧舎那仏の坐像が鎮座していた。楼門には一丈四尺(約4.2メートル)の金剛力士の大像が置かれ、門の内側には金色に輝く長さ七尺(2.1メートル)の高麗犬が、堂前には列国諸侯の名が刻まれた石灯籠が立ち並び、大仏殿の敷石と正面の石垣には諸侯の紋や名前が刻まれていたと言う。都名所図会には大坂の絵師竹原春朝斎の手による挿絵も残っている。

2000年8月に行われた発掘調査により、方広寺大仏殿の基壇と台座が発見され、大仏殿の建っていた場所と規模が明らかになった。調査結果によると方広寺の境内は、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含む広大な敷地にまたがり、大仏殿は都名所図会にある記述にほぼ等しく、東西55メートル、南北90メートルであったことが判明した。まさに奈良の東大寺を凌駕する規模であったのである。

ただ、この巨大な建造物に屋久杉が使われたのかについては疑問が残る。確かに1586年(天正14年)4月、秀吉が方広寺大仏殿の建築用材を諸国に求めたという記録はある。そして屋久島を治めていた島津義久が秀吉の軍門に降ってからちょうど二年後の1589年5月に
「羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ方広寺大仏殿用の柱及び島津分領中で刀狩した刀、脇差30,000腰の進上を賞す。」
との記述が島津家文書(2-780)に残っている。

しかしここにある「方広寺大仏殿用柱」が屋久島から届けられたかどうかの記述はない。またウィルソン株横の立て看板によると「伐採年代は18世紀末ごろと伝えられ・・・」とある。つまり伐採時期は今から200年ほど前ということになる。さらに言えば、ウィルソン株に根付いている3本の小杉の樹齢は、300年だと言われている。この巨大な切り株に新しい杉が着生するまで100年もかかったことは考えづらい。したがって伐採時期は300年ほど前と考えるのが妥当だろう。どれをとっても420年前の秀吉の時代とは合わない。

結局のところ、方広寺大仏殿とウィルソン株は関係ないのだろう。
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by iyasaca | 2007-11-03 17:50 | 鹿児島
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