勝手に僻地散歩



屋久島にいってみた その3

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荒川登山口から緩やかな坂道を歩くこと50分、小杉谷製品事業所跡に到着する。登山口との標高差はわずか60m。足元は森林軌道として整備されており、ここまでは体力の消耗はほとんどない。

屋久島の杉は、江戸末期までカツオ漁と共に島民の生活の糧の一つであったが、明治12年の地租改正を受け、島の森のほとんどが官有となり、伐採が厳しく管理されるようになった。生活を山海の恵みにより生活を営んでいた島民にとっては、片腕をもがれたような形になった。

島民は伐採再開に向け、嘆願を始める。1899年には、「国有土地森林原野下戻法」発布を受けて、村議会は、古来からの村持支配山を民間山林として認めてほしいという国有森林下戻申請を行うが、申請した村持支配山の範囲が古来からのものであるという証拠が不十分であるとの理由で却下される。

1904年には、島民が国を相手に「不当処分取消並びに国有山林下戻」訴訟を起こす。この訴訟は、16年という長きに渡る係争の後、島民側が敗訴するという結果になる。
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しかし1921年、国は方針を転換し、「屋久島国有林経営の大綱」が定められ、国有林伐採の道が開けた。小杉谷はその2年後の1923年に安房官行斫伐所として開設されるわけである。その後、小杉谷は、閉鎖される1970年までの47年間にわたり屋久島国有林開発の拠点であった。

国有林開発が始まったことで、森林軌道と呼ばれるトロッコ道、島の外周道路など屋久島のインフラは急ピッチで整備される。そして事業所での活動が始まると、小杉谷には労働者と共に家族も移り住んだ。1935年には、作業員200人、家族を含めて300人が住む集落となった。小杉谷集落には、各戸に電気と水道が引かれ、郵便局、床屋や銭湯、商店に至っては4店も並び、学童期にある児童のための私塾も営林署によって建設された。営林署の私塾は1943年には1943年に粟穂(あわほ)国民学校太忠岳文教場として国に認可され、正式に小学校となった。電気に水道そして交通機関。当時は鹿児島市内ですらそのようなインフラが整備されていなかった時期の話である。

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戦争が長期化するにつれ、小杉谷の集落の規模は縮小する。記録によると1945(昭和20)年、小杉谷の住人は30家族、100人にまで減り、1947年には児童数は5人にまで減少した。

しかし戦後作業員は再び増え始める。1960年には133世帯、540人が最盛期の杉伐採を支えた。1962年には小杉谷集落、石塚集落(小杉谷から上流へ徒歩一時間ほどにあった集落)からの生徒の数は小・中学校合わせて147名に達した。しかし1955年にチェーンソーが導入され、杉の伐採の増産体制が図られたことによって周辺の杉林は急速に消滅し、1970年小杉谷製品事業所は閉鎖された。

閉山から約40年、小杉谷はいま静かに原生林に戻りつつある。

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by iyasaca | 2007-10-06 19:02 | 鹿児島
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知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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