勝手に僻地散歩



ジャフナにいってみた その8

f0008679_032682.jpgプレマダーサ暗殺の翌年、スリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party,SLFP)は、小政党を自陣営に引き込み人民連合(People’s Alliance、PA)を形成する。People’s Allianceは、1994年8月14日の議会選挙で105議席を獲得し、94議席と追いすがった統一国民党(United National Party, UNP)をかわして政権を獲得した。1977年以来14年ぶりに政権が交代し、新たに首相に就任したのは、チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラテュンガ(Chandrika Bandaranaike Kumaratunga)。父に暗殺されたソロモン・バンダラナイケ元首相、母に1960年に世界初の女性首相に就任し、その後断続的に3期にわたって首相職を務めたシリマヴォ・バンダラナイケを持つサラブレッドである。首相に就任するとクマラトュンガは、国際赤十字を介して、LTTEへ直接会談を持ちかける。スリランカに訪れた三回目の和平の機会である。

<写真:C.B.クマラトュンガ大統領>


f0008679_0323150.gif1994年10月13日、バーラバ・タベンディを団長とする政府代表団はLTTEと交渉を始める。政府側代表団には、ライオネル・フェルナンド(上級公務員)、ナビン・グナラトナ(建築家)とラジャン・アサーワタン(新しくセイロン銀行頭取に任命された会計士)が、LTTE側は、スリランカ側東部の上級リーダーであるカリカーラン、そして後にLTTE の政治部門幹部となるタミル・チェルヴァンが交渉にあたった。
LTTEとの直接協議が進む中、プレマダーサ暗殺後に大統領に就任したウィジェトゥンガ(Dingiri Banda Wijetunga)が任期満了を迎え、大統領選挙が行われる。チャンドリカ首相は、その大統領選に立候補するのである。ところが選挙戦のさなか、対抗馬であるUNPの候補ディサナヤケ(Lionel Gamini Dissanayake)が暗殺される。UNP陣営はディサナヤケの妻を急遽候補に立てるが、11月12日に行われた選挙では、南部の強硬派、TULFなどタミル穏健派からも幅広く支持されたチャンドリカが圧勝した。大統領に就任したクマラトュンガは、母のバンダラナイケに首相職を禅譲した。

<写真:暗殺されたL.G.ディサナヤケ>


大統領選挙の熱気も覚めやらぬ1995年1月5日、両者は停戦に合意した。主な合意点は2点。第一に合意事項はスリランカ国軍とLTTEは600メートルの緩衝地帯を設け、現状の変更をしない。第二に、スリランカ政府軍は、指定された地域での漁業の妨害をしないという点であった。両者の間では、停戦発効後も和平委員会設置をめぐり、協議が続けられていた。結局、LTTEが和平委員会設置の条件として提示した、武装兵士の移動の自由(LTTE兵士に対する検問免除)、海岸部水域おける移動の自由、漁業権の問題解決という要求に対し、クマラトゥンガは、北東部への全ての生活必需品の禁止を緩和し、スリランカ軍基地の2 マイルの範囲内以外での漁業に関する規制を解き、エレファント・パスとサングピッディ基地の防御線を後退させて、ジャフナ半島と本土に結ぶ交通路を開くことに同意した。

国民的に人気があり、おそらく任期を通じてもっとも政治的に強い立場にあったクマラトュンガ大統領だからこそ、このような譲歩的な内容でも政府内の反対を押し切ることができたのであろう。しかし、政治的リスクを負ってまでLTTEに譲歩的な内容を受け入れたにもかかわらず、プラバーカランは4月28日付書簡で以下通知するのである。

・ 政府のポーネルン基地撤去の不履行
・ 東部におけるLTTE 兵士の武器を運ぶための移動の自由を許可することに対する政府の拒絶
・ プラバーカランにクマラトゥンガが手紙で誓約したと言われる漁業への全ての規制緩和に対する政府の不履行

通告の翌日、LTTEはトリンコマリー港に停泊していた2 隻の海軍砲艦を攻撃する。停戦は1995 年4 月19 日をもって終了した。この4度にわたって開催されてきた和平協議の決裂は、この後二期にわたるクマラトュンガの任期における対LTTE政策を規定することになる。大幅な譲歩を持っても停戦が維持できなかったことに深く失望したクマラトュンガは、話し合いによる解決が不可能であると確信し、融和的な姿勢を一転して、LTTE掃討を決意する。いかなる犠牲を払っても軍事力で紛争を解決するという新たなスローガン「平和のための戦争」を掲げ、ジャフナの再奪還を目的とする軍事作戦に着手し、多くの兵力を投入した。

10月末に始まったジャフナ攻防戦は激烈を極める。そして1995年12月5日、7週間の攻防戦の末、政府軍はジャフナを奪還する。LTTEはジャフナ半島の南に広がるジャングルへと逃亡し、戦火にまみれた市民35万人も避難民と化した。ジャフナ陥落後、LTTEによる自爆テロ攻撃が頻発する。国際的に報道されるほどの大規模な自爆テロ事件だけでも下記の通りである。

1996年1月  コロンボの中央銀行爆破事件 90人死亡、1,400人負傷
1997年10月 コロンボの世界貿易センタービル爆破事件 
1998年1月  キャンディーの仏歯寺爆破事件

1999年3月政府軍は、LTTEの本拠Vanniへの侵攻作戦「Rana Gosa」を展開するが、掃討作戦は失敗する。政府軍の攻撃をしのいだLTTEは1999年11月2日再攻勢をかけ、エレファント・パスを北に越え、ジャフナに迫った。

f0008679_19122262.jpgクマラトュンガ大統領はこの年、1年前倒しで大統領選挙を行うことを決定した。自らが進める強硬策を継続する政治基盤強化を図ることが目的であった。クマラトュンガはLTTEとの和平路線を主張するウィクラマシンハとの選挙戦を優位に進めていたが、選挙戦最終日である1999年12月18日、事件が発生する。クマラトュンガ大統領はその日、コロンボ市内シティ・ホール前を投票日最後の演説の場所に選び、支持者に最後の訴えを行った。演説を終え、車に乗り込む直前、LTTEブラックタイガー部隊から派遣された女性の自爆テロ要員が大統領を襲う。クマラトュンガ大統領はちょうど車に乗り込むため、身をかがませたところであったため、車のドアに守られて、一命を取り留めたが、破片が右目を直撃、失明する。この事件の余波も覚めやらぬ中、選挙は予定通り12月21日に実施され、クマラトュンガはウィクラマシンハに8ポイントもの差をつけて圧勝し、6年間の任期を手にするのである。

<写真:右目を負傷したクマラトュンガ大統領>


二期目のクマラトュンガ政権における新しい展開はノルウェーが仲介者として登場することである。スリランカ政府、LTTE双方からノルウェー政府に働きかけがあったのは2000年2月のことであると言われている。三者は水面下で協議を続け、2000年12月にLTTEが一方的に停戦を宣言するに至る。しかしこの4度目の和平の機会は4ヶ月で終わりを告げる。2001年4月24日には、停戦は破棄され、武力衝突が再開した。2000年4月の攻勢で、17年間政府軍が支配していたエレファント・パスはLTTEに占拠された。LTTEは攻勢を続け、ジャフナを目指し北に兵を進めたが、ジャフナを陥落させるまでには至らなかった。北東部だけでなく、コロンボにおいてもLTTEはテロ行為を続ける。

2001年7月24日に発生した、国際的にも耳目を集めたバンダラナイケ国際空港への攻撃が記憶に新しい。午前3時50分、滑走路に続く排水溝を通じて高度警戒地域(High Security Zone)を突破したLTTE特別部隊は、スリランカ最大の空軍基地Katunayake空軍基地を急襲し、スリランカ空軍の戦闘機4機(IAI Kfirs(イスラエル製)2機, Mil-17 1機, Mil-24 1機, K-7 trainers(中国)3機, MiG-27 1機)を破壊した。軍服を身に着け、対戦車ライフル、T-56アサルト・ライフル(カラシニコフAK—47の中国コピー版)、RPG(携行用ロケット弾)を装備した特殊部隊要員は、続いて基地の隣にあるバンダラナイケ国際空港に移動、ターミナルビルの屋上によじ登り、そこから駐機してあった3億ドル(約370億円)もするスリランカ航空最新鋭の旅客機エアバス340を含む旅客機4機((Airbus A330s(2機), A340(1機)、 A320(1機))に迫撃砲を撃ちこみ破壊した。空港を即時閉鎖された。ターミナル内の200名あまりの旅客は近くのホテルに避難し死者は出なかったが、LTTEのテロ実行能力を見せつけた事件となった。
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by iyasaca | 2007-06-03 17:02 | スリランカ民主社会主義共和国
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