勝手に僻地散歩



ジャフナにいってみた その3

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ジャフナの地にあって、スリランカが内戦に至る経緯を振り返っている。

1977年7月21日、第8回総選挙(定数168)が行われた。与党として戦ったスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party: SLFP)は、147人の候補者のうち139人が落選するという大敗を喫し、代わって政権の座についたのは140議席を獲得した統一国民党(United National Party: UNP)であった。UNPは、改選前議席17からの大躍進であった。またこの総選挙では、タミル統一解放戦線(Tamil United Liberation Front:TULF)が18議席を獲得した。SLFPの壊滅的な敗北もあってTULFは、大勝したUNPの140議席に続く国会の第二勢力となったのである。

TULFは、1972年に連邦党(Federal Party)と全セイロンタミル会議(All Ceylon Tamil Congress)などのタミル系政党が合併してできたタミル統一戦線(Tamil United Front: TUF)を前身に持つ。そのTUFが、1976年に「世俗的で社会主義国家としてのタミル国家の要求」を採択したことを受けて、TULFに改組・改称したのである。

<写真:ジャフナのラグーン>

いずれにしても、タミル系政党が野党第一党に躍進したという事実、特にジャフナ半島の14の選挙区全てでTULFが議席を獲得したということは、多くのタミル人が、憲法の枠内で合法的に権利拡大を目指すTULF(Tamil United Liberation Front)の路線に大きな期待を寄せていたことを示している。しかし、この政治路線は70年代後半から80年代前半に立て続けに発生する事件に力を奪われ、代わって若者を中心に支持を集めていた武力闘争路線を標榜するLTTEが表舞台に出てくるようになる。第一の契機は1977年に発生した反タミル暴動である。死者100名(一説には300名)、逮捕者1,500人そして避難民2万5000人を出したこの暴動のきっかけは他愛のないものだった。

1977年8月12日、ジャフナで開かれていたロータリークラブ主催の祭りに見回りのため、警察官の一団が入場ゲートに向かっていた。ところが警察官は入り口で係員に止められ、入場券の購入を求められたのである。公務中の場合、入場券が免除されることが通常であるため、激昂した警察官は係員に暴行を加えるなどした。騒ぎはここでおさまらず、翌日タミル人の少年が警察官に銃撃を加えるという事件が発生する。8月15日には警察による報復行為ではタミル人4人が死亡、25人が負傷する。その後も警察によるタミル人に対する報復行為は連日続き、8月17日にはジャフナの中央市場に火が放たれ、ほぼ全焼する事態にまでエスカレートした。


f0008679_15373830.jpg暴動は、他の都市にも飛び火する。古都アヌラーダプラでは、ジャフナ大学に通うシンハラ人学生による「タミル人がシンハラ人の警察官を殺した」という類のアジ演説に興奮したアヌラーダプラ市民が、タミル人の店や家、ヒンズー教の寺院などを襲う事態にまで陥った。さらに7月に就任したばかりのジャヤワルダナ首相(Junius Richard Jayewardene)による「この暴動はTULFの扇動によるものである」とのTULFを痛烈に非難した発言が火に油を注ぐ。首相発言を機に、暴動はさらに、コロンボ、パナデュラ(Panadura)、カルタラ(Kalutara)などの都市にも飛び火し、その後もクルネーガラ、マターレ、ポロンナルワ、キャンディなどに広がっていった。この段階に至って、政府はようやく戒厳令を布告し、事態を収拾した。8月20日のことである。この事件の収拾をめぐって、政府は一つだけタミル側に譲歩した。大学の標準化政策を修正したのである。しかしシンハラ・タミル間のこじれた感情に新しい方向性を持たせることはできなかった。

<写真:J.R. ジャヤワルダナ首相>
ジャヤワルダナは1978年7月に憲法を改正し、大幅に權限を強化した大統領職に就任する。この大統領制はフランスの制度に近いとも言われているが、実質的にはフランス大統領よりも大きな権限を持っている。フランス大統領は、国防と外交にその権能が制限され、内政については首相にその職務が託されているが、スリランカの大統領制度は首相含む閣僚の任命権を有するなど議会からの独立性が高い。議会は大統領罷免の権限を有しているが、大統領は議会の承認を必要としない大統領令の発令が可能であり、また全土に非常事態宣言を布告できる。

f0008679_1733918.jpg強大な権限を手にしたジャヤワルダナ大統領は、テロ防止法を施行する。この法律は警察に逮捕・監禁に関する大幅な権限を付与するものであった。また暗殺されたS.W.R.D.バンダラナイケ首相の後を継ぎ、首相職を断続的に3期にわたって務め、SLFPの有力な大統領候補であったバンダラナイケ(Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike)を6年間の公民権停止処分に付した。1982年に予定されていた大統領選挙のライバルを蹴落としたわけである。さらに1983年の議会選挙を国民投票で中止し、任期を1989年に延長した。また1983年10月には、分離独立に関与した国会議員の被選挙権を剥奪する規定を憲法修正第6条として盛り込み、分離独立不支持の宣誓を拒否したTULFの16議員全員の議席を剥奪したのである。
<写真:S.R.D. バンダラナイケ>
ちなみにジャヤワルダナは、サンフランシスコ講和条約にセイロン全権として出席している。当時蔵相であったジャヤワルダナは、対日賠償請求の一切を放棄することを表明するなど、日本に好意的な演説を行っている。スリランカ人の多くはこのことを記憶していて、日本人にこの事実が知られていないことを知るといつもがっかりされるので、参考のため演説の一部を引用する。

「アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。・・・我々アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本こそが必要である。・・・憎しみは憎しみによっては止まず、愛によってのみ止む。」

またジャヤワルダナは、民営化されたJRという名称を、自分のファーストネームのイニシャルにちなんで命名されたと勘違い?し、親戚を引き連れて、東海道新幹線でグリーン車の往復旅行をしたというエピソードも残している。

もう一つ、ジャヤワルダナ関連のエピソード。ジャヤワルダナは、1985年にスリランカの首都をコロンボから移転している。新首都の名前は、学校でやたら長い首都名として記憶にある人もいるだろうが、スリジャヤワルダナプラコッテである。スリはスリランカの国名にもある通り「光り輝く、聖なる」と言う意味。ジャヤワルダナは大統領である自分の名前であると同時に「勝利をもたらす」という意味があり、14世紀のコッテ王国時代の都の名前でもあった。プラは、~プラという形でインド、スリランカ及び東南アジアの都市に多く見られる言葉であるが、「都、土地」という意味を持つ。例えば、シンガポールという国の名前も「Singha(獅子)」と「Pura(都)]から成る。シンハ・プラ、つまり獅子の都というのが語源である。前のエントリーでも紹介したアヌラーダプラもアヌラーダ・プラである。そしてコッテは移転先の町のもともとの名前。スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ、とそれぞれの意味を理解していると覚えやすいかもしれない。
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by iyasaca | 2007-04-30 15:23 | スリランカ民主社会主義共和国
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