勝手に僻地散歩



石舞台古墳にいってみた その1

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<写真:石舞台古墳、Wikipedia>
奈良県明日香村石舞台古墳に来ている。7世紀中葉の築造と伝えられている石舞台古墳は、墳丘が全て失われ、石室部分の巨石が露出するという荒々しい形状を呈している。いくつかの傍証から被葬者を蘇我馬子とする説が有力とされているが、めぼしい副葬品はほぼ失われており、被葬者を確定するだけの証拠は揃っていない。

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<写真:玄室内部から天井石を仰ぐ>
大小30数個の閃緑岩によって組み上げられた両袖式横穴式石室は、総重量2,300トン、西南部に開口している。2枚の天井石は特に大きく、それぞれ54トン、77トンある。

残存する遺構の大きさは以下の通り
  玄室 長さ 7.7メートル 幅 3.5メートル 高さ 4.7メートル


石室が露出する異様な形状は、古くから世間の耳目を集めたはずであるにもかかわらず、文献上の記録に古いものが残っていない。石舞台について書かれたとされる最も古い文献は1681年(延宝9年)の林宗甫「大和名所記 和州旧跡幽考」である。この中に
「その近き所に石太屋(いしふとや)とて陵(みささぎ)あり」
と記されている。「石太屋」は、大きな石で造った屋の意味で、これが「いしぶたい」へと転訛したのではないかとの説がある。

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<写真:菅笠日記、公益財団法人鈴屋遺跡保存会 本居宣長記念館所蔵、国重文>
次に石舞台について書かれている文献は、本居宣長が1772年(明和9年)に著した「管笠(すががさ)日記」である。菅笠日記は、宣長が43歳のときに、吉野と飛鳥を10日間にわたって見て回った際の記録である。その記録によると宣長自身は石舞台古墳を訪ねてはいないが、近くまで来た時に聞いた話として、以下のように書き残している。
さてこゝのいはやのつひでに。しるべするをのこが語りけるは。岡より五六丁たつみのかたに。嶋の庄といふ所には。推古天皇の御陵とて。つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。
意訳すると、「さてこの岩屋(艸墓古墳、くさはかこふん)を訪ねたついでに、土地に詳しい男に聞いた話として、岡寺より5、6丁(109.2mx6丁=655メートルほど)ほど東南の方角(たつみのかた、巽、辰巳)に島の庄というところがあり、そこに推古天皇の御陵がある。塚の上に岩屋があり、中は8畳ほどの広さだという」

とある(該当箇所はここ)。当時は推古天皇陵とされていたらしいことが分かる。

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<写真:西国三十三所名所図会、武庫川女子大学所蔵>
さらに時代を下って1848年(嘉永元年)には、暁鐘成(あかつきかねなり)の手による「西国三十三所名所図会」の中で、石舞台古墳の絵とともに、「高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、天武帝殯古址(てんむてい・もがり・こし、天武天皇を仮に葬り奉った場所)との添え書きが付されている。

絵図を見ると分かる通り、石室が露出した形状に描かれており、現在とほぼ同じ形である。

これらの文献によって分かることは、少なくとも江戸期には、墳丘は存在せず、ほぼ現在見られるような形となっていたこと。さらに確認できる伝承からは、時代によって天武天皇の殯の場所であるとされたり、推古天皇陵であるとされたりしていることからも分かる通り、確たることは言えないというのが結論である。


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by iyasaca | 2015-04-11 00:00 | 奈良
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