
ポンペイ島のそぞろ歩きは続く。
スペイン砦を後にし、周辺に点在する、と言われている日本統治時代の痕跡を探し、歩く。
日本のミクロネシア統治は31年に及び、終戦時には沖縄、朝鮮出身者を中心に1万4,000人もの日本人が居住していた。うち軍属はおよそ半分の7,000名ほどで、ポンペイ島民は6,000名ほどだった。ゆえに経済活動も活発であった。
<写真:南洋庁ポナペ国民学校門柱>
ポンペイ島は791メートルのナナラウト山、630メートルのカプソン山という二つの大きな山がある起伏が激しい島だが、水量豊かであることもあり、周辺島嶼に比べ農耕に適している。日本人は熱心に田畑を開墾し、コメや野菜の栽培を始めた。1931年にはコロニアとパリキールの間の辺りに実験農場も拓かれている。さらに裁判所、警察署、病院、国民学校、公学校、郵便局などの公共施設だけでなく、市場、雑貨店、トラックの修理工場、映画館、玉突き屋、寿司屋、女郎屋などが軒を連ね、活況を呈していた。
<写真:のどかな大通り>
当時並木通りと呼ばれていた目抜き通りのKaselehie Streetは、軒先を辿れば、雨に濡れることなく、端から端まで歩くことができたという。
さてまず目についたのは、スペイン砦公園のあちこちに点在するオブジェのような石碑である。

これは鳥獣魚類之碑である。朽ち果てた感はあるが、碑の中央に白地に黒の文字で鳥獣魚類之碑と縦に書かれている文字ははっきりと読める。おそらく後で書き直したのだろう。碑文の上部左右にそれぞれ鶏と豚の彫像が形どられている。さらに上部に構造物があったようだが、失われている。
<写真:鳥獣魚類之碑の背面>
由来などが分からないものかと裏に回りこんで色々と見てみるも何もない。いつできたのか、誰がどういう経緯で建てたのかは不明のままである。

これも由来不明。何の台座だったのだろう。