勝手に僻地散歩



沖縄に行ってみた その6 -ミトコンドリアDNAから探る日本人の起源

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日本人はどこから来たのかという問いに答えるべく、人骨や石器の痕跡を探ってきた。

日本の国土の大部分が酸性土壌であることから、旧石器時代の人骨はほとんど残っていない。沖縄を中心に発掘された旧石器時代の人骨は、多めに数えても9体のみである。このサンプル数では、どの集団がどこから来たのかというについて、推測を行うことすら困難である。

石器については、施されている製造技術から、石器を携え移動した思われる人間集団の大まかな流れを推測することができた。細石刃石器の分布状況から、2万年前以降にシベリアから北海道・東北地方へと入ってきたルート、剥片尖頭器の分布状況から2万7,000年前に朝鮮半島から九州へと入ってきたルート、そして東南アジア地域(スンダランド周辺)から1万8,000年前に入ってきたルートの3つが推測できる。

ここでは近年の分子生物学の挙げている成果を引くことで、今までの人骨や石器の研究成果と重ねあわせていく作業を行う。いくつかの方法論が存在するが、ここではミトコンドリアDNAを用いた分析を主に話を進めていく。

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さて現代日本人1,000人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの調査がある。その調査によると現代日本人には20種類のハプロタイプが存在することが分かった。その中で最も多いのはD4タイプで全体の32.61%を占める。二番目に多いタイプがBの13.26%であるので、D4の多さは突出している。D4タイプは日本国外では朝鮮半島や中国北東部に多い。このことから、日本人の3割は、高い確率で朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたグループであると推測できる。ただいつ頃渡ってきたのかはこれだけでは分からない。

ここにもう一つの調査がある。北海道縄文人、東北縄文人、関東縄文人のそれぞれのミトコンドリアDNAを調べたものである。この調査によると縄文時代(今から6,000年ほど前の時代)にはD4を含むDグループは多数派ではなかった。縄文関東人こそDグループの占める割合が25%であったが、東北では10%、北海道では13.6%しかいない。しかもこの時代に多く見られるのはD4ではなく、D10という異なるタイプであった。縄文時代にいなかったD4が、現代日本にこれだけ多いことを考えると、D4グループの大量流入は縄文時代以降であったということになる。

N9bの分布の変遷も興味深い。N9bは、現代日本人に2.13%しか見られないタイプだが、北海道縄文人に65.9%、東北縄文人に41.7%という高い割合で見られるタイプである。N9bは、現代のアムール川流域の先住民に多く見られるタイプであること、この先住民に見られる4つのハプロタイプと一致する集団は北海道アイヌだけであること、そして南方に痕跡がないことなどから、北方から渡来してきた集団であると推測できる。

縄文時代のミトコンドリアDNA調査でもう一つ特徴的なのは、東北縄文人に占めるM7aタイプの多さである。このハプロタイプは東北縄文人の50%を占めている一方、北海道縄文人に占める割合は6.8%、関東からは5%でしかなかった。

M7aタイプは現代日本人の7.47%でしかないが、現在でも海道では16%、沖縄には20%という高率で確認されている。日本国外ではフィリピンのルソン島など東南アジアの島嶼部、中国南部、チベットにも多く見られるタイプでもあることからM7aタイプの集団は南方から日本に渡ってきたと推測できる。しかしなぜ本州から消え失せ、北海道と沖縄に多く残っているのかは謎である。

そのほかにも現代日本人の13.26%を占め、ベトナム北部に分布が多いBタイプ、6.86%を占め、シベリア東部の先住民やアイヌに見られるG1bタイプ、5.34%を占め、タイ、中国南部、台湾に見られるFタイプなどが現代日本人に多く見られるハプロタイプで、それぞれ流入経路も推定できる。これら三つのタイプは縄文時代にも確認されている。

さてルートと流入の時期については縄文時代と弥生時代の境目を一つの基準に、ある程度仕分けることができるが、最後にそれぞれの流入ルートと流入量について考察を加えたい。

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<表:Shuzo Koyama, "Jomon Subsistence and Population", Senri Ethnological Studies no. 2, 1–65 (1978). (b) 小山修三, 『縄文時代』, 中央公論社, 1983>


この表を見ると縄文期においては、北方からの流入が圧倒的に多かったことが分かる。おそらく北方から渡ってきた集団は、より温暖で食料等も豊富で、広い平野である生活のしやすい関東まで南下を続け、そこで滞留したという推測ができる。抗争に敗れるか、天変地異以外の理由で、温かいところからわざわざ住みづらい寒冷地に移動することは考えづらい。寒冷地よりも温かい場所で生活したいというのが人間の感情として自然であるし、ましてや人口密度もさほど高くない当時の状況を考えると、北方から南方へという流入がメインであったという傾向は、縄文期以前も同様であったのではなかろうか。

この横長の表を眺めていると、縄文時代は一様に時間が流れていた平穏な時代ではなく、結構ダイナミックな時代であったことも分かる。縄文中期まで順調に増えていた人口が、その後弥生時代に入る直前までの2,000年間で4分の1に減っている。これだけの期間で人口が激減しているところを見ると、縄文時代に文化の連続性はさほどなく、流入した人間集団も、抗えない自然条件や戦乱などによって、吸収されたり、消滅したりするプロセスが繰り返されたのではないか。

弥生時代に入ると人口は劇的に増加する。雑穀と狩猟をメインとした生活様式から、稲作文化に切り替わったことが大きな要因であろう。このタイミングで稲作文化とともに、朝鮮半島から大量の人口流入があったことが考えられる。この人口流入の原因が自然環境の変化であるのか、朝鮮半島における戦乱の結果によるものなのかは不明であるが、弥生期以降はほぼ右肩あがりの人口増加がつい最近まで続いていたわけである。

要するに1,800年ほど前までは、日本列島へは北方、朝鮮半島・中国北東部、南方の3つのルートから、継続的に複数の集団が流入していた。主たる流入ルートは北方からであり、それは列島が大陸と陸続きでなくなった後も続いていた。縄文末期に何らかの理由で朝鮮半島経由で大量にD4グループが流入、おそらくこのグループが統一国家をつくっていったのであろう。強い武力と組織力なくして、全国に拡散することは考えにくいからである。

現在の日本人は、多くの民族集団が混淆して形成されていった。長い時間をかけて、あるときは中央集権的に、あるときは分権的に緩やかな統合体を構成していった我が国は、周辺地域とは異なるアイデンティティと文化を紡ぎだしていくことになったわけである。今回は取り上げなかった言語学の視点からも面白い知見が得られるだろう。これからも考古学、人類学、民俗学、分子生物学など諸分野の新しい成果の発表によって、より解像度の高い歴史が見えてくるようになるだろう。密やかにその成果を楽しみにしたい。
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by iyasaca | 2012-12-09 14:49 | 沖縄
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