勝手に僻地散歩



青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その2 - 竹内文書と神代文字の真偽

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新郷村にあるキリストの墓にまつわる説明が典拠とする竹内文書は、一般に偽書とされているようだが、実際のところはどうなのだろうか。

まず竹内文書と言う場合は、以下の4つを指しているようだ。
1)神代文字で記された文書
2)平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳された写本群
 平群真鳥は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫。
 写本は武烈天皇(第25代天皇、489年-507年)の勅命による
3)文字の刻まれた石
4)鉄剣

f0008679_20241828.jpgこれらの存在は平群真鳥の末裔の武内家に婿入りした竹内巨麿氏によって公にされた。しかし武内氏はその後、新興宗教を立ち上げ、不敬罪で裁判にかけられた。神宝を含む4,000点あまりの文書は証拠資料として裁判所に提出され、その後東京大空襲によって焼失した。
<写真:竹内巨麿>
現在残っているのは、竹内巨麿と一部の研究家によって写筆された資料に基づく『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)という解説書と焼け残ったわずかな「神宝類」だけである。

f0008679_5342876.jpgつまり厳密な検証を可能とする文書はもはや現存しないのである。しかし消失する前の1935年、京都帝国大学文科大学の初代学長(現代の文学部長に相当)まで務め、当時書画や刀剣の鑑定を生業としていた狩野亨吉氏が、「日本医事新報」からの依頼を受けて、竹内文書の一部について、鑑定を行っている。
<写真:狩野亨吉氏、安藤昌益研究の大家>

鑑定のため持ち込まれたのは竹内文書そのものではなく、7枚の写真だけであった。実際に鑑定を行ったのは、提供された7枚のうち5枚、それぞれ長慶太神宮御由来、長慶天皇御真筆、後醍醐天皇御真筆、大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆、大日本国太古代上々代神代文字之巻を写したものであった。

狩野氏は、1936年6月に岩波書店の「思想」上で、書体、文体、内容の観点から竹内文書は偽書であるとの鑑定結果を寄稿した。鑑定結果の概要は以下の通りである。なお、全文は青空文庫で参照できる。

1)長慶太神宮御由来
→明治後期以後に書かれたもの
江戸期以降に特徴的な文体表現が見られ、文法的に誤りが多い。存在しない官位への言及もあり、典故について知識があるとは認められない。書体は幕末三筆の一人である書家・巻菱湖の影響が見られるが、それほど上手ではない。従って天保年間(1830-43)以降に素人によって書かれた書であると言える。

2)長慶天皇御真筆
→筆法が長慶太神宮御由來と同じ。明治後期以降の作。
わずか30字足らずの手紙であるが、第一行の第一字から「鳴」を「嗚」と間違えるなど誤字・当て字・衍字(誤った不要の字)・脱字が多い。書体は「長慶太神宮御由來」を書いた人のものと酷似している。同一人物による書と考えるのが妥当。

3)後醍醐天皇御真筆
→1,2と同一の筆者であり、書状の日付が後醍醐天皇崩御後となっている。
真筆とされる2枚の書状にある日付は1341年9月6日と9月12日となっている。しかし後醍醐天皇は1339年8月16日に崩御されている。

4)大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆
拙い文章で、発音上「シ」「ス」の区別がなされていない。シとスの区別がないのは、出雲か東北出身者であるが、平群真鳥はいずれでもない。文法上の誤りが1,2,3と共通するが、筆跡は異なる。いずれにしてもく、中央政府の要職である大臣の地位にあった人物の手による書とは考えにくい。

5)大日本国太古代上々代神代文字之巻
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数字に注目して、神代文字の解読に成功。平安期以降に確立した50音図に引きずられており、漢字渡来以前の文字形式とは考えにくい。

狩野氏の鑑定文は端々に天津教への反発をあらわにし、感情のほとばしりを強く感じる。加えて、文書の現物ではなく写真を通じても鑑定ではあるということを割り引いても、文体、文法、内容などの分析は説得的で、少なくとも鑑定対象となった文書は、江戸期以降に作られたものと判断せざるをえない。

竹内文書のほかにも象形文字のような神代文字が用いられている書はいくつかある。よく出てくるのは、「九鬼文書(くかみもんじょ)」、「宮下文書」、「上記(うえつふみ)」、「秀真伝(ほつまつたえ)」、「三笠紀」、「大友文書」、「神字日文伝」などであるが、いずれも信ずるに足る材料がない。

漢字以前に日本に文字がなかったとされる証拠は他にもある。
1)隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國伝
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<写真:隋書。以下の該当箇所はもっと後ろ。>

無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字
倭国には文字がなく、ただ木を刻んで印をつけたり、縄を結い、縄目をつける、それだけだったが、仏法を敬うようになり、百済に仏典を求め、得た頃から文字を使い始めた、とある。確かに縄に結び目をつけることで記録していたのは文字がなかったインカにも見られ、しっくりくる話だ。

2)二中歴
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<写真:二中歴。重要文化財、財団法人前田育徳会所有>

年始五百六十九年、内卅九年無号不記支干、其間結緙刻木、以成政
<中略>
明要十一年元辛酉文書始出来結縄刻木止畢
13帖からなる鎌倉時代の書。現存する際この写本、尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。重要文化財に指定されている。「古くは号もなく、干支も使われておらず、その間は縄を結び木を刻み、政治をしていた」とある。さらに、元年の干支は辛酉(541年)。初めて文書ができた、結縄刻木を終わらせた

3)、古語拾遺 一卷 加序
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<写真:古語拾遺、龍門文庫写本(室町末期)、阪本龍門文庫所蔵。最古の写本は嘉禄本(1225年)>

蓋聞 上古之世未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行存而不忘
9世紀の書。最古の写本は卜部兼直の書写の嘉禄本(1225)とされている。

聞くところによると上古の時代には文字がなく、貴賎老少に至るまで口伝えで伝えられ、忘れることがなかった

書物に残されている象形文字が漢字渡来以前のものとする説には、さらに多くの疑問がある。神代文字とされる象形文字のほとんどが平安時代以降確立した50音図と同じであることである。例えば奈良時代の日本語は88音節あったことが分かっている。平安時代以前の上代日本語の痕跡が神代文字には見られないのである。

さらに決定的なのは、象形文字らしきものが刻まれた土器・金属器・木簡が、縄文、弥生時代の遺跡や古墳から一つも見つかっていないことである。

焼失した4,000点にも及ぶ竹内文書の一部には古い時代からの書物が含まれていた可能性までは否定できないが、サンプル調査による書体、書式、内容の分析、神代文字などが書きつけられているという事実などから、これらの文書群は後世、おそらく江戸期以降に作られたものである確率が極めて高いと言える。したがってその資料を典拠としたキリストの墓の説明もフィクションの世界に属するものと考えていいだろう。ロマンチックな結論に至らず、残念である。
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by iyasaca | 2011-11-12 23:12 | 青森
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