勝手に僻地散歩



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強首温泉 樅峰苑にいってみた その3

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<写真:あきたこまちの香里=桜餅>
強首樅峰苑の魅力は、趣向を凝らした建築だけでない。1964年に天然ガス掘削の末、掘り当てた豊かな温泉もある。最初に発見された源泉は宿から3キロ余り離れた場所であったが、2008年(平成20)3月3日には、敷地内からも源泉が発見された。現在の樅峰苑のお湯は、この新たに発見された源泉から引いている。
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<写真:内湯ヒノキ風呂大浴場>
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泉質はナトリウムー塩化物強塩泉であり、無色透明無臭で、強い塩味がありPhは7.6である。飲用はできない泉温は49.0度、湧出量は毎分246リットル。遠い源泉を使っていた時には加温していたが、今では加温はもちろん、加水もしていない、源泉掛け流しである。
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<写真:露天へ向かう>
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<写真:露天到着>この露天は2008年、敷地内の新たの源泉が発見されたことに伴い、新たに作られた施設である。
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<写真:露天風呂大樹の湯>
写真は大樹の湯であるが、隣りに四角い湯船のこもれびの湯がある。源泉が同じなので、泉質はもちろん同じだが、野外にある趣きがある。
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by iyasaca | 2015-03-07 00:00 | 秋田 | Comments(0)

強首温泉 樅峰苑にいってみた その2

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1914年に強首一帯を襲った大地震で倒壊した小山田氏の邸宅を再建するにあたり、建築を任された宮大工の井上喜代松は、京都で改めて地震に強い建築を学ぶ機会が与えられた。1年にわたる遊学より戻った井上は、小山田邸の築造に着手する。強首樅峰苑(こわくび・しょうほうえん)と名付けられる2階建ての大邸宅は、1917年(大正6)に完成した。

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<写真:屋根の様式の類型>
外観で特徴的なのは、最上部に千鳥破風(屋根の斜面が交差している様式)、中上部が入母屋造り(屋根の斜面が軒先まで伸びている様式)、下部は丸みを帯びた唐(ムクリ)破風とした屋根の造りである。建材にも妥協はなく、所有地から最良のものを用いている。また2階部分は地面で組み上げたものを一度解体した上で、1階部分完成後に再度2階で組み立てるという「地組み」という誤差を最小限に留める工法が用いられている。さらには屋根裏にまでつながる太い柱、梁と柱を結ぶ木組みの筋交いを入れるなど、当時の最先端の耐震構造も取り入れられた。

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<写真:秋田杉の古材を用いた廊下、継ぎ目がない>
玄関口の廊下は、全長16.3メートル。樹齢400年を越えるとされた一枚通しの秋田杉が用いられている。鉋(かんな)がけも宮大工の手によって行われた。ここにも施主であった第12代小山田治右衛門のこだわりを感じる。

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建物の意匠はあらゆるところに散らばっている。鹿鳴館風とも言われた二階への階段、階段スペースの折上格天井、鉄刀木(たがやさん)を使った1階奥の間の床柱、金欄菱欄構えを施した2階達磨の間、そして襖を取り払うと40畳にもなる1階大広間、そして玄関横に立てかけられた人力車などである。

建材の一つ一つを丁寧に選び、工法にこだわりぬいた強首樅峰苑(旧小山田家住宅)は、造形の規範となっていると認められ、1999年10月、登録有形文化財に登録されている。
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by iyasaca | 2015-02-28 00:00 | 秋田 | Comments(0)

強首温泉 樅峰苑にいってみた その1

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秋田県のほぼ中央部、大仙市強首(こわくび)にある樅峰苑(しょうほうえん)に来ている。

強首(こわくび)とは、何だか分からないが尋常でない地名である。いろいろ調べてみると日本書紀巻11仁徳天皇紀に出てくる言葉であることが分かった。少し長いが引用する。

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壤之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。

唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

(かなり)意訳すると、このような感じになる。
冬の10月、宮殿の北の原っぱを掘削し、南からの川の水を引き入れ、西方にある海に注ぐ形とした。以降、この水路(川)を堀江と呼ぶこととなった。またこの北を流れる川が氾濫(澇)するため、茨田堤を築くことにしたが、堤築造が困難を極めた場所が2ヶ所あった。そのときに(仁徳)天皇は夢の中で神から啓示を受けた。「武藏人强頸と河內人茨田連衫子の二人を工事が難航する箇所にそれぞれ生贄に捧げれば、水を漏れる箇所を必ず塞ぐことができるだろう」というお告げであった。強首は、悲嘆に暮れながらも我が身を捧げ、犠牲となったところ、堤の穴の一つを塞ぐことができた、とある。

日本書紀の話はこの後も続き、神に指名されたもう一人の衫子の方は川に瓢箪を投げ入れ、「本当の神ならいま川に流れるこの瓢箪を水に沈めて見せろ、それができないならお前は神ではないし、ニセの神に我が身を捧げるつもりはない」と言い放った。瓢箪は沈むことなくそのまま流れていき、杉子は命を失うことはなかった上に、堤防もそのまま完成し、この2つの難所には、それぞれ强頸斷間・衫子斷間と名付けられたという。

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<写真:悠々と流れる雄物川>
この説話が何を意味するのかよく分からないが、強首が治水の難所を示す言葉であることは類推できる。強首温泉郷は北部が「への字」になって蛇行する雄物川のほとりにある(最下段の地図参照)。この辺りが治水の難所であったことが地名の由来なのかもしれない。

地名の由来を巡る話はほかにもある。このあたりで栽培していた稲が強かったことが由来という説もあれば、首相撲の横綱がいたからだとか、辺りの川があまりに急流で渡るのが恐かったことから来ているという説もある。三番目の説は日本書紀の話ともつながる。

さて強首の温泉地としての歴史はさほど古くない。1964年(昭和39)に天然ガスのボーリング調査をしているときにガスでなくお湯が出てきたというのが始まりで、湧出する源泉を使って、現在3軒の温泉宿がある。



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by iyasaca | 2015-02-21 00:00 | 秋田 | Comments(0)

旧青木周蔵那須別邸にいってみた

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那須野ヶ原の原野に佇む白亜の洋館、旧青木周蔵那須別邸を訪ねる。

明治にあって那須野ヶ原は、いわゆる華族牧場のメッカであった。1880年代以降、大山巌、毛利元敏、松方正義、乃木希典、山県有朋ら明治の元勲らが、殖産興業下における農業振興を先導するように次々と大農場を拓いていった。その中でも青木周蔵が1881年(明治14)、37歳の時に開設した「青木開墾」(1,576ha)は、松方正義の千本松農場(1,640ha)に次ぐ規模を誇った。

青木周蔵は、この広大な農場の管理拠点と避暑地邸宅として、ドイツ帰りの建築界の泰斗、松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)に設計を依頼、1888年(明治21)に竣工している。

松ヶ崎は1871年(明治4)、13歳の時に岩倉使節団とともに渡欧し、12年にも及ぶドイツ滞在中にベルリン工科大学にて建築を学んだ後に帰国、日本建築学会の前身、造家学会設立にも創立メンバーとして参画するなど日本近代建築の祖とも言うべき人物である。松ケ崎は、仙台の七十七銀行本店などを設計した後に、台湾に拠点を移し、台湾総督府交通局鉄道部、新竹駅、台北西門市場などの設計を手がけたが、多くは現存しない。この旧青木周蔵那須別邸は、国内に残る松ヶ崎設計の唯一の作品である。

f0008679_10242391.jpgさて、青木周蔵は長州藩西南部の吉田宰判土生村小土生(おはぶ)の地下医三浦玄仲の長子として1844年(天保15)に生を受ける。幼名は三浦團七であった。

1864年春に長州藩校明倫館好生館が陪臣、地下医にも開放されると團七はすぐに入門する。才気あふれる少年であったのであろう、翌年11月に、好生館教諭役で蘭学者の青木研藏の養子となり、青木周蔵に改名する。このときに大村益次郎が周蔵の語学力(オランダ語)を褒めたという話が残っている。

長崎にてしばし滞留した後、1868年(慶応4年)、24歳のときに長州藩留学生として3年分の費用1,575両を携え、ドイツに医学留学をするのである。

<写真:青木周蔵>

周蔵は奔放な人物であったようである。青木家に入る前の話は後年の回顧録にあるほかはあまり伝わっていないが、留学後から晩年に至るまで彩り豊かな人物であったことを物語るエピソードが尽きない。周蔵はもちろん対英条約改正交渉を始め、大いに大日本帝国に貢献した人物であるが、ここでは人間らしいエピソードを中心に紹介したい。

周蔵は藩留学生としてドイツに渡ってほどなく藩に相談することなく、政治経済学へと転籍をする。藩費での医学留学のため、この「勝手な」行動は騒動となる。この騒動は山県有朋の助けを借りて、何とか収まるが、その後も1872年(明治4)にも北ドイツ留学生総代となった後も在独留学生の専攻科目に容喙したりするなどして不興を買うなど活発であったようだ。

1874年(明治6)に30歳で帰国した後も、青木家との関係は微妙な状態であった。後見人とも言える木戸孝允が青木家より伝えられる不満(医師の家に入りながら、医学を放棄し、義父、義母の死に際しても連絡も寄越さなかったなどという苦言)を周蔵に伝え、幾度も萩に出向くよう説得するも、周蔵は結局一度もその意に沿うことはなかった。一時期は青木家より離籍するという話まで出るほどであった。

f0008679_1913267.jpg公使としてドイツに再び渡った後も周蔵は期待を裏切らない。青木家の養子という立場のまま、何とプロイセン貴族であるエリザベート(へルマン・カール・アルベルト・フォン・ラーデ、母はブランデンブルク家出身のクレメンティヌ・ヘンリエッテドの子)と結婚してしまうのである。


<写真:エリーザベト・フォン・ラーデ・フンケンハーゲン>
1886年に帰国した周蔵は政界に転ずる。1889年の第一次山県有朋内閣における外務大臣就任を皮切りに、松方内閣、第二次山縣内閣でも外務大臣を務めることになるのである。この外務大臣時代にも、周蔵らしさが見られる騒動を起こしている。1891年5月に発生した大津事件の対応をめぐる失策である。

大津事件とはロシア帝国ニコライ皇太子が大津にて滋賀県警察部津田三蔵巡査によって切りつけられ、右側頭部に9cm近くの傷を負わせた事件である。

この事件の処理をめぐって、犯人の死罪を強く要求していたロシア側は、政界の有力者に強く働きかける。当時外務大臣であった周蔵もその1人であった。ここで周蔵はロシア公使シュービッチに対し、犯人の死刑、つまり旧刑法116条大逆罪の適用を約束してしまったのである。

ちなみに旧刑法116条とは、
「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
とある。三后とは、太皇太后、皇太后、皇后のことである。

しかし大審院(現在の最高裁判所)は、旧刑法116条は日本の皇族にしか適用されず、外国の皇族は想定されていないとし、旧刑法292条一般人に対する誅殺未遂罪が適用され、襲撃犯の津田への判決は死刑ではなく、無期徒刑(無期懲役)となった。

この判決に憤激したロシア公使シュービッチは、周蔵との密約を公表する。これが、いわゆる公書問題である。この暴露に際して周蔵は「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と逃げ口上を図ったことが事態をさらに悪化させる。伊藤が「ロシア側の真意を確かめよと指示しただけ、政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職する」と反論したところ、周蔵はさらに「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言、大騒動となってしまう。そして、すったもんだの末、結局自身が外務大臣の職を辞することになったのである。

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さて旧青木周蔵那須別邸である。設計当初は、中央の2階建てのみであったが、その後東西に付属棟、東棟、西棟、中央棟屋上の物見台が1909年(明治42)に増築され、今の姿となった。写真では小さいが、最大の特徴は外壁を全て覆った鱗型のスレートである。

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ここは一階の一角にある浴室である。バスタブのほかにスツールが置いてあったという。随分小さなバスタブである。
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二階のスペースは、最も古い部分である。これまた小さな鉄製のベッドが2つ並んでいる。すでに残っていないが、窓際には水差しとホーローの洗面器を備えた机が置かれていたらしい。印象的なのは、暖色系の光を放つ球状の照明である。この形は邸宅にあるすべての照明に使われている。

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手前に見えるブリキ製のつづらは、もともと屋根裏にあったものである。よく見えないがつづらの蓋には、周蔵の娘ハナの夫の姓である「ハッツフェルト」と墨書されている。これはハナの家族がドイツ→東京→那須を移動する際に使用していたとのことである。

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<写真:青木邸に至るアプローチに立ち並ぶ杉並木>
青木は、農場の従業者の子弟のために小学校をつくったりするなど、地元に大いに貢献した。また避暑に訪れた際には、鹿狩りを楽しんでいたとの話も残っている。

エリザベートは周蔵の死後、ドイツに帰国してしまったが、地域の人に青木邸と呼ばれていたこの邸宅は、1960年代半ばくらいまで青木家の別荘として使われていた。

東京での喧噪から離れ、ドイツで過ごした豊かな時間に思いを馳せることのできたであろうこの空間も、主を失ってから時を経て、1989年に栃木県に寄贈された。その後に行われた1996年から1998年の解体修理の際に元の場所から南東に50メートル離れた現在の場所に移築、99年12月21日に重要文化財に指定されている。
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by iyasaca | 2013-11-10 20:48 | 栃木 | Comments(2)

自由学園明日館にいってみた その1

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池袋の駅から西に少し入ると、駅前の喧騒が嘘のように静かな住宅地が広がっている。その住宅地に、20世紀初頭に活躍した世界的な建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)の作品が残されている。自由学園明日館(みょうにちかん)である。

自由学園は、クリスチャンである羽仁吉一、もと子夫婦が1921年4月15日に高等女学園として創立した学校である。学校名の由来は、ヨハネによる福音書8章32節にある「真理はあなたたちを自由にする」にある。自由学園最初の入学式の際には、まだ工事が完了しておらず、教室は「荒壁が残り木部の塗装もされていなかった」状態であった。中央棟が完成したのは1年後のことである。

後に幼稚園から大学まで一貫教育を行う学校となった自由学園は、大正デモクラシーの隆盛を背景に、1920年代から30年代初頭にかけて一世を風靡した大正自由教育運動の影響を色濃く受けている。教育改造運動・新教育運動とも言われたこの運動は、詰め込みや画一教育を否定し、子供の関心や感動を中心に自由で生き生きとした教育体験の創造を目指していた。自由学園の生徒は、校内の維持管理や昼食の調理を自らの手で行うなど、従前の教育機関から一線を画する「自労自治の精神」に基づく独自の教育スタイルを採り入れている。ちなみにオノ・ヨーコや坂本龍一は自由学園の幼稚園(自由学園では幼児生活団と呼ぶ)出身である。

f0008679_0275117.jpg折から帝国ホテル設計のため訪日中だったライトは、助手の遠藤新を介して自由学園の教育理念を知ったと思われる。羽仁夫婦の友人でもあった遠藤新は、ライトと羽仁夫婦を引きあわせている。その教育理念に強く共感したライトは、自由学園の校舎の設計を引き受ける。「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という羽仁夫婦の思いをもとにライトが設計した自由学園の工事は1921年1月に着工、校舎群が完成したのは1927年のことである。1934年に自由学園は東久留米市に移転したが、ライトの残した旧目白の校舎群は後に重要文化財に指定され、今は一般公開されている。
<写真:フランク・ロイド・ライト、Portrait photograph of Frank Lloyd Wright, Library of Congress, 1954, Public Domain>
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by iyasaca | 2010-07-10 23:20 | 東京都豊島区 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その1

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修善寺温泉では20の温泉宿が軒を連ねている。あさば、菊屋などいくつもの老舗旅館があるが、今回投宿したのは、新井旅館である。この旅館は、約3,000坪の邸内に建つ建物のうち、15棟が有形文化財に指定されている典型的な動態保存の文化財なのである。特に湯殿として唯一の有形文化財である天平大浴場は見ものである。

新井旅館は1872年(明治5)に「養気館新井」として創業している。源頼政の室であった「菖蒲の前」が入浴したという伝説のある「あやめの湯」を再興するためという創業者の思いがこめられていると伝えられている。創業者の相原平右衛門氏は、旅館業に転ずる前は、現在の新井旅館から天城方面に3キロほどの場所にあった修善寺町本立野新井という村落の地主で酒造元蔵元「新井」を営んでいた。新井という土地の名前の由来は、そのまま新しい井戸というところにある。良質の水の湧く酒造りに適していた場所だったのだろう。

当初は部屋を提供するだけで、食事は自炊、風呂も外湯のみだった。いわゆる湯治場を経営するかたわら、平右衛門は薪や炭の販売を行うなど、狩野川を経由して沼津港や横浜を相手にする船廻問屋で財をなした。

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新井旅館が飛躍を遂げるのは三代目相原寛太郎(1875-1945)の代になってからである。相原寛太郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に学び、画家を志していたが、その時に知り合ったのが、新井旅館二代目館主相原平八の娘つるである。相原家の婿養子に入った寛太郎は後に、三代目館主となった。三代目は、岡倉天心の没後に解散状態となった再興日本美術院や安田靫彦、前田青邨、今村紫紅、石井林響、川端龍子など、当時の若手芸術家のパトロンとなるなど美術界への支援を惜しまなかった。このことが、後の新井旅館の隆盛をもたらすことになる。後年、芸術に造詣の浅い私でも名前くらいは知っているという横山大観をはじめとする多くの文人墨客の作品が多く新井旅館に残されることとなり、その作品群は「沐芳コレクション」とまで言われるほどである。沐芳は寛太郎の雅号である。

新井旅館には書画として横山大観22点、前田青邨20点、紫紅14点、古径11点、良寛10点、安田靫彦85点など計300点以上、書簡としては安田靫彦500通、横山大観40通、今村紫紅32通、速水御舟7通、菱田春草7通など手紙、礼状、宿泊申込の書などが所蔵されている。多くが逗留のお礼で置いていったものである。
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by iyasaca | 2010-04-03 21:41 | 静岡 | Comments(0)

法師温泉長寿館にいってみた その1

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山間の一軒宿、法師温泉長寿館にいってみた。国道を途中から離れて、狭い山道をしばし走ると、その先に「秘湯 法師 長寿館」と大書された看板が現れる。「法師」の名の由来は、弘法大師巡錫の折に発見されたところにある。
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温泉宿となっている7つの建物のうち3棟は、有形登録文化財に指定されている。法師川をまたいで、東岸に明治初期に建造された木造2階建ての本館が、西岸には昭和15年に建てられた別館が並んでいる。そしてもう一棟は、明治28年に建てられた法師温泉長寿館大浴場、「法師の湯」である。
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この大浴場は、上の世代にとっては、この宿の大浴場は上原謙と高峰三枝子が出演した国鉄のフルムーン・ポスターの撮影場所として知られている。そのポスターは、本館内に今でも貼られている。
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部屋は簡素だが、掛け軸や欄間などに趣向が凝らされている。部屋は十分な広さがあり、快適である。
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ガラスは二重になっているので防寒も万全である。外の雪景色もまた美しい。
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長寿館は誰もが絶賛する温泉と対照的に、食事に苦言を呈する向きもあるようだが、供された食事は質も量も十分であった。

<リンク>
法師温泉長寿館公式ページ: インターネット予約も可能。Twitterもやっています。
〒379-1401 群馬県利根郡みなかみ町永井650
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by iyasaca | 2008-07-05 12:19 | 群馬 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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