勝手に僻地散歩



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ベルギー王国大使館にいってみた

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かつて下二番町(現在の千代田区二番町)と呼ばれていたこの区画は武家屋敷が立ち並んでいた。江戸時代から町の主は変わったが、現在に至るまで、通りの位置、方向は変わっておらず、往時の雰囲気を味わえる落ち着いた町である。

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<写真:左が加藤高明伯爵、右がジョサイア・コンドル>
ここにかつてジョサイア・コンドル設計による加藤高明邸があった。加藤高明は元外交官で、東京日日新聞の社長を務めた後、政界に転身、4度にわたって外務大臣の任につき、20世紀初頭の外交の舵取りを行った人物である。その後、1924年6月からは第24代日本国総理大臣まで務めた。しかし1926年1月、帝国議会内で肺炎で倒れ、そのまま亡くなった。66歳であった。激務が寿命を縮めたのだろうか。

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ジョサイア・コンドルは、25歳で日本政府より工部大学校造家学科の教師として招請され、43年に及ぶ日本での滞在中に、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計したほか、辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎など、その後の日本の建築界を支える人材を育成した。コンドルは夫人とともに日本で没している。

残念なことに、1911年に建てられたコンドル設計の邸宅(当時の写真はこちら)は、関東大震災は耐えたものの、空襲で焼けてしまった。その後1959年に、元の8,500平方メートルの敷地はそのままに、新たに3階建ての洋館が再築され、2007年までベルギー大使館として使われていた。

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邸宅の一階にはゲストを遇する広間が複数あり、二階へと続く特徴的な螺旋階段が絶妙の位置に配されている。調度品、壁にかけられた絵画なども味わいがある。

二階は寝室と思われる小部屋が5つほど並んでいる。プライベートスペースだろう。

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庭園も広い。芝生が全面に敷かれており、灯籠や池、プールまである。この庭園は邸内から広く見渡せるようになっていた。庭で展開される四季の変化はさぞ美しかったことであろう。

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時の流れは残酷で、すでにこの洋館も取り壊され、現在この場所には13階建て、8階建て2棟のビルが建っている。
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by iyasaca | 2013-10-19 00:32 | 東京千代田区 | Comments(0)

旧弘道館 孔子廟にいってみた その2

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旧弘道館の孔子廟は、過去に復元直後の1970年と2009年の水戸藩開藩400年記念の折に特別公開されたことはあるが、通常非公開である。従って、普段は弘道館正庁・至善堂の北の築地塀の向こうに屋根を仰ぐことしかできない。
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3度目となる今回の特別公開では、孔子廟の表門である戟門(げきもん)からではなく、裏手にある勝手口のような出入り口から敷地に入るという趣向であった。


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さて孔子廟は、魯の第27代君主である哀公(あいこう、不詳~前467)が孔子の1周忌に際し、出生地である昌平郷陬邑(しょうへいごう・すうゆう、現在の山東省曲阜)にある孔子の旧宅を廟に転じたことが始まりと言われている。その後、孔子を祀る廟は、台湾、ベトナム、マレーシアなど東南アジア各地に広がっていった。日本で最古の孔子廟は足利学校に併設されているもので、1668年(寛文8年)に造営された。他にも昌平黌、長崎、岡山(閑谷学校)、佐賀(多久聖廟)、沖縄(至聖廟)などに存在する。

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<写真:大成殿。左手の観音開きの木戸があるところが正面>
弘道館の孔子廟の聖廟(大成殿)は、1841年の弘道館仮会館時に造営され、1857年に孔子神位が安置された。このときに同じくすでに建てられていた鹿島神社の社屋に、鹿島神宮から分祀遷座が挙行されている。大成殿は入母屋造り瓦葺き、天井は格天井、床は瓦碁盤目敷、海鼠漆喰目地という手法が用いられ、正面は西を向いている。これは曲阜の方角である。

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大成殿の中央に祀られている木牌にある「孔子神位」とある字は徳川斉昭の手によるものである。その両脇、向かって右に顔氏、子思が、左に曾子と孟子が四配として祀られている。

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<写真:大成殿の屋根。上に見える潮を吹き上げている鬼犾頭と手前の猫みたいなのが鬼龍子>
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<写真:鬼犾頭(左)と鬼龍子(右)の拡大図>
屋根には竜頭魚尾の神魚で、水の神として火を避け、火災を防ぐとされる鬼犾頭(きぎんとう)と獅子の体に龍の爪を持つ鬼龍子(きりゅうし)が辺りを見張っている。これは、徳川光圀の師・朱舜水(しゅしゅんすい)が好んだ様式だという。

また敷地内には、楷樹(かいのき)、兒手柏 (このてがしわ)も植えられている。それぞれ孔子の墓所に植えられたのが由来とされる聖木である。配されているものすべてに意味がある。徳川斉昭の思いが時を超えて伝わってくる、まさにこれぞ聖域である。
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by iyasaca | 2013-04-27 00:00 | 茨城 | Comments(0)

旧弘道館 孔子廟にいってみた

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<写真:弘道館の庭園に咲く山茱萸(さんしゅゆ)>

旧弘道館に孔子廟を訪ねた。

弘道館とは水戸藩9代藩主斉昭が神儒一致、文武両道の精神を体現すべく、1841年(天保2年)に開校した水戸藩の藩校である。敷地内には正庁・至善堂の西に武甕槌大神(たけみかづちのみこと)を祀る鹿嶋神社が、北に孔子廟が併設されている。

f0008679_221904.jpg斉昭は、単に儒学と武芸を学ぶ場とされていた藩校を革新した。弘道館では、医学、薬学、数学、天文学、蘭学など従来藩校の埒外であった学問の諸分野を取り入れ、また薬草園、天文台なども備えた。さらに武道修練の場として馬場、砲術場なども抱えており、その敷地は54,070坪(約178,400平方メートル)に及んだ。これは、加賀金沢藩の明倫堂(17,000坪)、長州藩の萩明倫館(14,000坪)はおろか、幕府の昌平黌(11,000坪)をも凌ぐ規模であった。
<写真:水戸藩9代藩主 徳川斉昭公>

f0008679_22265055.jpgまた斉昭は入学・卒業の概念に拘泥せず、若者から老人まで同じ場でいつでも教育が受けられる環境を提供した。幕府の統治能力が低下していく中、ロシア、英国、米国などの列強が日本に迫り来ていた時機にあって、藩主斉昭が人材養成の要をいかに深く認識していたかは、後期水戸学の泰斗、藤田東湖の手による「弘道者何 人能弘道也 道者何・・・」で始まる弘道館記(設立趣意書)に明晰に語られている。
<写真:藤田東湖>

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<写真:戦前の学生警鐘(左)と孔子廟(右)>
さて孔子廟は戦災、天災に翻弄されてきた。1945年8月の水戸空襲で類焼を奇跡的に免れた戟門と左右の土塀を除き本殿は全焼。この際に鹿嶋神社、八卦堂も焼失している。その後、茨城県が1970年に復元したものの、2011年3月の東日本大震災で柱が歪み、板戸が脱落、板壁や長押(なげし)に隙間も生じた。今回の公開は3回めということになる。
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by iyasaca | 2013-04-20 00:00 | 茨城 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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