勝手に僻地散歩



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強首温泉 樅峰苑にいってみた その3

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<写真:あきたこまちの香里=桜餅>
強首樅峰苑の魅力は、趣向を凝らした建築だけでない。1964年に天然ガス掘削の末、掘り当てた豊かな温泉もある。最初に発見された源泉は宿から3キロ余り離れた場所であったが、2008年(平成20)3月3日には、敷地内からも源泉が発見された。現在の樅峰苑のお湯は、この新たに発見された源泉から引いている。
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<写真:内湯ヒノキ風呂大浴場>
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泉質はナトリウムー塩化物強塩泉であり、無色透明無臭で、強い塩味がありPhは7.6である。飲用はできない泉温は49.0度、湧出量は毎分246リットル。遠い源泉を使っていた時には加温していたが、今では加温はもちろん、加水もしていない、源泉掛け流しである。
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<写真:露天へ向かう>
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<写真:露天到着>この露天は2008年、敷地内の新たの源泉が発見されたことに伴い、新たに作られた施設である。
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<写真:露天風呂大樹の湯>
写真は大樹の湯であるが、隣りに四角い湯船のこもれびの湯がある。源泉が同じなので、泉質はもちろん同じだが、野外にある趣きがある。
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by iyasaca | 2015-03-07 00:00 | 秋田 | Comments(0)

強首温泉 樅峰苑にいってみた その2

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1914年に強首一帯を襲った大地震で倒壊した小山田氏の邸宅を再建するにあたり、建築を任された宮大工の井上喜代松は、京都で改めて地震に強い建築を学ぶ機会が与えられた。1年にわたる遊学より戻った井上は、小山田邸の築造に着手する。強首樅峰苑(こわくび・しょうほうえん)と名付けられる2階建ての大邸宅は、1917年(大正6)に完成した。

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<写真:屋根の様式の類型>
外観で特徴的なのは、最上部に千鳥破風(屋根の斜面が交差している様式)、中上部が入母屋造り(屋根の斜面が軒先まで伸びている様式)、下部は丸みを帯びた唐(ムクリ)破風とした屋根の造りである。建材にも妥協はなく、所有地から最良のものを用いている。また2階部分は地面で組み上げたものを一度解体した上で、1階部分完成後に再度2階で組み立てるという「地組み」という誤差を最小限に留める工法が用いられている。さらには屋根裏にまでつながる太い柱、梁と柱を結ぶ木組みの筋交いを入れるなど、当時の最先端の耐震構造も取り入れられた。

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<写真:秋田杉の古材を用いた廊下、継ぎ目がない>
玄関口の廊下は、全長16.3メートル。樹齢400年を越えるとされた一枚通しの秋田杉が用いられている。鉋(かんな)がけも宮大工の手によって行われた。ここにも施主であった第12代小山田治右衛門のこだわりを感じる。

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建物の意匠はあらゆるところに散らばっている。鹿鳴館風とも言われた二階への階段、階段スペースの折上格天井、鉄刀木(たがやさん)を使った1階奥の間の床柱、金欄菱欄構えを施した2階達磨の間、そして襖を取り払うと40畳にもなる1階大広間、そして玄関横に立てかけられた人力車などである。

建材の一つ一つを丁寧に選び、工法にこだわりぬいた強首樅峰苑(旧小山田家住宅)は、造形の規範となっていると認められ、1999年10月、登録有形文化財に登録されている。
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by iyasaca | 2015-02-28 00:00 | 秋田 | Comments(0)

強首温泉 樅峰苑にいってみた その1

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秋田県のほぼ中央部、大仙市強首(こわくび)にある樅峰苑(しょうほうえん)に来ている。

強首(こわくび)とは、何だか分からないが尋常でない地名である。いろいろ調べてみると日本書紀巻11仁徳天皇紀に出てくる言葉であることが分かった。少し長いが引用する。

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壤之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。

唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

(かなり)意訳すると、このような感じになる。
冬の10月、宮殿の北の原っぱを掘削し、南からの川の水を引き入れ、西方にある海に注ぐ形とした。以降、この水路(川)を堀江と呼ぶこととなった。またこの北を流れる川が氾濫(澇)するため、茨田堤を築くことにしたが、堤築造が困難を極めた場所が2ヶ所あった。そのときに(仁徳)天皇は夢の中で神から啓示を受けた。「武藏人强頸と河內人茨田連衫子の二人を工事が難航する箇所にそれぞれ生贄に捧げれば、水を漏れる箇所を必ず塞ぐことができるだろう」というお告げであった。強首は、悲嘆に暮れながらも我が身を捧げ、犠牲となったところ、堤の穴の一つを塞ぐことができた、とある。

日本書紀の話はこの後も続き、神に指名されたもう一人の衫子の方は川に瓢箪を投げ入れ、「本当の神ならいま川に流れるこの瓢箪を水に沈めて見せろ、それができないならお前は神ではないし、ニセの神に我が身を捧げるつもりはない」と言い放った。瓢箪は沈むことなくそのまま流れていき、杉子は命を失うことはなかった上に、堤防もそのまま完成し、この2つの難所には、それぞれ强頸斷間・衫子斷間と名付けられたという。

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<写真:悠々と流れる雄物川>
この説話が何を意味するのかよく分からないが、強首が治水の難所を示す言葉であることは類推できる。強首温泉郷は北部が「への字」になって蛇行する雄物川のほとりにある(最下段の地図参照)。この辺りが治水の難所であったことが地名の由来なのかもしれない。

地名の由来を巡る話はほかにもある。このあたりで栽培していた稲が強かったことが由来という説もあれば、首相撲の横綱がいたからだとか、辺りの川があまりに急流で渡るのが恐かったことから来ているという説もある。三番目の説は日本書紀の話ともつながる。

さて強首の温泉地としての歴史はさほど古くない。1964年(昭和39)に天然ガスのボーリング調査をしているときにガスでなくお湯が出てきたというのが始まりで、湧出する源泉を使って、現在3軒の温泉宿がある。



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by iyasaca | 2015-02-21 00:00 | 秋田 | Comments(0)

奥那須 北温泉旅館にいってみた その1

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今回の目的地は、奥那須の秘湯、北温泉である。

北温泉は、かつては岐多、喜多とも表記されていたこともあったが、明治に入って「北」に統一されたようである。
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宿までは車で到達することはできない。旅館から約400メートルほどの場所にある駐車場からは、遊歩道を歩かなければならない。
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緩やかな坂道をしばらく下るとまず目につくのは谷間から顔を出す赤茶色のコンクリート壁である。防砂ダムと思われるコンクリート構造物の周辺に、黒い屋根の旅館の建物が見えてくる。一番古い建物は江戸時代の建造で、その後明治、昭和と新たな棟が建てられている。
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宿の脇には余笹川が流れている。
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坂を下りきると宿の全景が見える。右手には15m×10mの大露天風呂が目に飛び込んでくる。水着着用可能の混浴風呂である。湯温は低く、温泉というより温水プールである。人影はない。いよいよ旅館の入口に到達する。
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by iyasaca | 2011-10-22 00:55 | 栃木 | Comments(0)

沢渡温泉 まるほん旅館にいってみた その1

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上州路に加水、加温をしていない「源泉かけ流し」の宿があると聞き、沢渡温泉を訪ねた。

沢渡は、わずか12軒の温泉宿が丘陵地の斜面に軒を連ねるこぢんまりとした温泉地であるが、強い泉質の草津で湯ただれを起こした湯治客が「仕上げの湯」として湯浴みに訪れることも多いらしい。湧出する無色透明の硫酸塩泉は、その肌触りの良さから一浴玉の肌とも呼ばれている。

開湯の歴史は錯綜している。起源を縄文時代に求める記述から源頼朝を引く記録まであるが、風景の輪郭が見え始めるのは、江戸中期以降のことである。来湯者としては、沼田藩真田氏五代目藩主真田伊賀守信澄と母慶寿院、儒者の平澤旭山、書家市河米庵、蘭学者高野長英、後藤新平、医師のベルツなどが知られている。また図画の確認ができないが、上州沢渡温泉絵図なるものがあるらしい。草津、四万などは同様の絵図があるので、恐らく沢渡もあるのだろう。

f0008679_21253092.gif明治末期から大正時代にかけての盛時には湯宿だけでなく、小料理屋も多く軒を連ねていたと言う。この時期になると文人墨客の名前も出てくる。若山牧水は特に関係が深かった。

牧水は花敷温泉から沢渡に向かう途上、暮坂峠で「枯野の旅」という詩を詠んでいる。1922年10月20日というから晩秋、紅葉が残っていたようである。
<写真:若山牧水>

乾きたる/落葉の中に栗の實を
濕りたる/ 朽葉(くちば)がしたに橡(とち)の實を
とりどりに/拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ

長かりし/けふの山路/ 樂しかりし/
けふの山路/ 殘りたる
紅葉は/照りて餌に餓うる鷹もぞ啼きし

上野(かみつけ)の草津の湯より
澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路/名も寂し暮坂峠


花敷温泉の宿を早朝に発った牧水は、沢渡の正栄館に正午近くに到着し、昼食をとっている。わずかな滞留で、この詩のほかに53首の短歌と沢渡の湯を褒める文章をみなかみ紀行の中に残している。

牧水が沢渡を訪れた4年後の9月、JR吾妻線の前身、草津鉄道が開通する。東京から草津温泉へのアクセスが格段に向上することになったが、この鉄道開通によって人の流れが変わった。以降、沢渡を訪れる湯治客は少しずつ減り始めるのである。

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<写真:右手に見えるのが龍鳴館>
終戦間際の1945年4月16日には、近くの山小屋の火事が山林に飛び火し、温泉街が壊滅するほどの火災に遭う。現在も沢渡に宿を構える龍鳴館の主人、都筑重雄氏の言によれば、「戦後、ここに入った時は焼夷弾が落ちたような光景だった」と言う。しばらくは荒れるがままになっていたのだろう。

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<写真:沢渡に唯一残る共同浴場>
沢渡は1959年に復興したが、往時に50軒を数えた湯宿は、いまは12軒。5軒あった共同浴場も1軒のみとなっている。
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by iyasaca | 2011-08-20 22:29 | 群馬 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その1

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<写真:案内板。テントの設営はダメらしい。>
手白澤温泉は奥鬼怒温泉郷四湯のひとつで、鬼怒川温泉駅からバスで2時間ほどの山あいにある女夫淵から徒歩でしかアクセスできない湯宿である。
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<写真:女夫淵へ向かうバス車内>
かつて激しい競争をj繰り広げていた日光市営バスとしおや交通は和解したようで、鬼怒川駅前から女夫淵へは、「日光市営バスの運行をしおや交通が受託した」形になっていた。八丁の湯を訪れた前回は道中ほとんど寝ていたが、今回は起きていたせいか、2時間は長かった。
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<写真:最初は少しだけ起伏がある>
バスの終点女夫淵から12キロほどの道のりは遊歩道が整備されている。遊歩道入口から入って10分ほどの区間と八丁の湯から手白澤までの間は、起伏があり、重力を堪能することができるが、それ以外は、足に大きな負担がかかることはない。
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<写真:途中から平らに>
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<写真:コザ池の滝>
健脚ならば2時間半ほどと言われている道のりだったが、休憩を挟みながら歩いていたので、今回の目的地、手白澤温泉までは、3時間ほどかかった。
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by iyasaca | 2011-06-11 21:03 | 栃木 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その1

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修善寺温泉では20の温泉宿が軒を連ねている。あさば、菊屋などいくつもの老舗旅館があるが、今回投宿したのは、新井旅館である。この旅館は、約3,000坪の邸内に建つ建物のうち、15棟が有形文化財に指定されている典型的な動態保存の文化財なのである。特に湯殿として唯一の有形文化財である天平大浴場は見ものである。

新井旅館は1872年(明治5)に「養気館新井」として創業している。源頼政の室であった「菖蒲の前」が入浴したという伝説のある「あやめの湯」を再興するためという創業者の思いがこめられていると伝えられている。創業者の相原平右衛門氏は、旅館業に転ずる前は、現在の新井旅館から天城方面に3キロほどの場所にあった修善寺町本立野新井という村落の地主で酒造元蔵元「新井」を営んでいた。新井という土地の名前の由来は、そのまま新しい井戸というところにある。良質の水の湧く酒造りに適していた場所だったのだろう。

当初は部屋を提供するだけで、食事は自炊、風呂も外湯のみだった。いわゆる湯治場を経営するかたわら、平右衛門は薪や炭の販売を行うなど、狩野川を経由して沼津港や横浜を相手にする船廻問屋で財をなした。

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新井旅館が飛躍を遂げるのは三代目相原寛太郎(1875-1945)の代になってからである。相原寛太郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に学び、画家を志していたが、その時に知り合ったのが、新井旅館二代目館主相原平八の娘つるである。相原家の婿養子に入った寛太郎は後に、三代目館主となった。三代目は、岡倉天心の没後に解散状態となった再興日本美術院や安田靫彦、前田青邨、今村紫紅、石井林響、川端龍子など、当時の若手芸術家のパトロンとなるなど美術界への支援を惜しまなかった。このことが、後の新井旅館の隆盛をもたらすことになる。後年、芸術に造詣の浅い私でも名前くらいは知っているという横山大観をはじめとする多くの文人墨客の作品が多く新井旅館に残されることとなり、その作品群は「沐芳コレクション」とまで言われるほどである。沐芳は寛太郎の雅号である。

新井旅館には書画として横山大観22点、前田青邨20点、紫紅14点、古径11点、良寛10点、安田靫彦85点など計300点以上、書簡としては安田靫彦500通、横山大観40通、今村紫紅32通、速水御舟7通、菱田春草7通など手紙、礼状、宿泊申込の書などが所蔵されている。多くが逗留のお礼で置いていったものである。
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by iyasaca | 2010-04-03 21:41 | 静岡 | Comments(0)

四万温泉 積善館にいってみた その1

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四万温泉街でひときわ強い存在感を放っているのは、元禄年間の姿を今に伝える積善館である。

代々四万村の名主を務める関家の当主善兵衛が、この土地に湯場と2階建ての湯屋を建てたのは元禄4(1691)年のことである。元禄7年に代官竹村惣左衛門宛に湯屋敷御年貢を納めていることが関家の記録に残されていることから、湯屋建築の3年後には旅籠宿として開業していることが確認できる。かつては元禄7年の棟札(寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札)も存在していたらしいが、現在は失われた。残された系図によると関家の本家については、以下の通り記録されている。

「関家の本家は、中之条町大字上澤渡字大岩にあり、残されている系図によると、遠祖は『大職冠・藤原鎌足公で、藤原姓・佐藤末葉』という。寿永元(1182)年佐藤肥後守清忠は、源頼朝から山口県下関の内160を領し『関』の姓を賜わる。鎌倉幕府滅亡後、関肥後守憲清が「吾妻郡澤渡の郷大岩」に移り、その長子・関堪解由左衛門の三男・関織部介行利が四万に分家、四万湖畔の殿貝戸の「せきぜん屋敷」に居住し『善兵衛』を名乗る。これが四万:関家の創祖であり、当主は、代々四万村の名主を勤め「積善兵衛」を襲名.元禄4(1691)年隠居して現在地に湯場を作り、旅籠宿を始めた」

とある。300年以上前の話である。
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by iyasaca | 2010-01-02 23:55 | 群馬 | Comments(0)

法師温泉長寿館にいってみた その1

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山間の一軒宿、法師温泉長寿館にいってみた。国道を途中から離れて、狭い山道をしばし走ると、その先に「秘湯 法師 長寿館」と大書された看板が現れる。「法師」の名の由来は、弘法大師巡錫の折に発見されたところにある。
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温泉宿となっている7つの建物のうち3棟は、有形登録文化財に指定されている。法師川をまたいで、東岸に明治初期に建造された木造2階建ての本館が、西岸には昭和15年に建てられた別館が並んでいる。そしてもう一棟は、明治28年に建てられた法師温泉長寿館大浴場、「法師の湯」である。
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この大浴場は、上の世代にとっては、この宿の大浴場は上原謙と高峰三枝子が出演した国鉄のフルムーン・ポスターの撮影場所として知られている。そのポスターは、本館内に今でも貼られている。
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部屋は簡素だが、掛け軸や欄間などに趣向が凝らされている。部屋は十分な広さがあり、快適である。
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ガラスは二重になっているので防寒も万全である。外の雪景色もまた美しい。
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長寿館は誰もが絶賛する温泉と対照的に、食事に苦言を呈する向きもあるようだが、供された食事は質も量も十分であった。

<リンク>
法師温泉長寿館公式ページ: インターネット予約も可能。Twitterもやっています。
〒379-1401 群馬県利根郡みなかみ町永井650
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by iyasaca | 2008-07-05 12:19 | 群馬 | Comments(0)

奥鬼怒温泉郷 八丁の湯にいってみた

鬼怒川から奥鬼怒温泉郷へと足を延ばしてみた。奥鬼怒川とは加仁温泉、日光澤、手白澤、八丁の湯の4つの湯を指して言う。今回は4つの湯でも比較的アクセスのいい八丁の湯に向かう。八丁の湯のホームページを覗くと、鬼怒川温泉駅前から女夫渕(めおとぶち)駐車場行きの日光市営バス(運賃1500円)に乗り、そこから宿の送迎バスに乗り換えてくださいとある。駐車場から先は、一般車両立ち入り禁止であり、そこからは宿の送迎バスか徒歩である。

鬼怒川温泉駅を降りると目の前にタクシー乗り場が、右手と左手にバス乗り場がある。右手のバス乗り場は鬼怒川温泉駅前に点在する宿を巡回するバスの乗り場である。目当ての日光市営バスの停留所は左手奥にあった。停留所の前まで行くとバスが二台止まっている。よく分からないので、停留所の前でうろうろしている運転手らしき中年男性に
「女夫渕に行きたいのですが」
と話しかけると、
「ああ、じゃあこれでいいんだよ」
と前に止まっているバスを指差した。
おとなしく指を指されたバスに乗り込むと、しばらくしてバスは出発した。バスのバックミラーの上にあるデジタル時計を見ると事前に調べていた発車時刻より10分ほど早い。車内に書かれている運賃も1000円であり、ホームページに載っていた運賃より500円安い。変だなと思いつつもバスは無事に女夫渕駐車場に到着した。バスを降り、振り返って見ると、乗ってきたバスの側面に「しおや交通」と書いてある。後で調べてみると、この何気ないやり取りにも意味があったことが分かった。

2005年7月、日光市営バスが独占していた鬼怒川温泉駅前―女夫渕駐車場の区間にしおや交通が参入した。毎日運行している日光市営バスに対して、しおや交通は土曜・休日のみの運行である。しおや交通は、当時2,100円だった日光市営バスの料金に対し、1,600円という値段設定をし、かつバスの出発時間を日光市営バスの5分前にした。その後の値下げ競争の末、現在ではしおや交通1,000円、日光市営バス1,500円という値段設定になっている。このしおや交通による新規参入の結果、日光市営バスは1,000万円の減収となってしまったという。しおや交通にいいとこ取りをさせた規制緩和の方針に、日光市営バス側は強い疑義を投げかけている。日光市営バス側の気持ちは分からないでもないが、競争に勝つにはさらなる値下げ競争を行うか、付加価値をつけて、高価格でも顧客に選択してもらうような戦略をとるかのいずれかしかないだろう。私が声を掛けたのが、たまたましおや交通の運転手だったわけで、それゆえに前方に止まっていたしおや交通のバスに乗ることになったわけである。ちなみに、後ろにとまっていた日光市営バスの方が大型で新しい車両であった。


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女夫渕駐車場に到着。すでに標高が高いのか、鬼怒川温泉駅よりもかなり涼しい。女夫渕というのも随分と変わった地名である。聞いてみると、いわゆる平家の落ち武者伝説に由来するらしい。

壇ノ浦の戦いで敗れ、平氏の一族は散り散りに逃れていった。その中の一人、中将姫も山奥に逃げ延びた。姫は中納言も奥州路に逃げ延びたと聞き、その後を追う。二人はそれぞれ鬼怒川の右岸と左岸で、ときに大自然に前途を遮られながら、懸命に北へと向かう。放浪の果てに、二人は鬼怒川を過ぎた黒沢と本流の合流点である三音渕で再会する。この話にちなんで、三音渕は女夫渕と地名を改めたというのである。

上の写真の右に見えるのは土産物屋で、その奥に女夫渕ホテルがある。このホテルでは日帰り入浴もできる。土産物屋の右は崖になっており、20メートルほど下には渓流が流れている。写真には写っていないが、中央分離帯のようになっている草の帯の左側には50台ほど収容できる駐車場がある。


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さて女夫渕駐車場からは、一般車両は通行止め。宿の送迎バスに乗り換える。ここからは目的地の八丁の湯までは約3.5キロ。起伏のある遊歩道を歩いていけば、約1時間半の距離である。この橋の下には鬼怒川の源流が流れている。送迎バスに乗って八丁の湯に向かう途中、通行禁止のはずの山道に、一般車両が何台か入り込んでいた。あれだけ大きく通行禁止と書いてあるのに、気づかないはずはなく、おそらくは全て承知の上で進入しているのだろう。送迎バスの運転手はおそらく山菜取りが目的だろうと言う。二台ほど目撃した一般車両にはいずれも若者ではなく、年配のグループが乗っていた。

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八丁の湯への道路ができたのはそれほど昔のことではない。遊歩道を拡幅して小型の四輪駆動車が走れるようになったのが、1973年(昭和48年)のことで、現在のようにバスが通行できるほどの道路ができたのは1988年(昭和63年)のことでしかない。また道路が開通したと同時に電気も通ったという。開業からつい最近まで、繁忙期には一日2回も、30-40キロ近い荷物を背負って行き来したというから想像を絶する。あまりの環境に、90年代中ごろまでは1月から4月上旬までは閉館していたという。女夫渕駐車場から、起伏のある道をバスで走る。途中、送迎バスを出していないという手白沢温泉、日光沢温泉への分岐を抜けて約1時間、ブナやナラの茂る山の谷間にある八丁の湯に到着する。宿の隣を走る渓流は鬼怒川の源流である。

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さて八丁の湯という名前の由来である。
八丁の湯から鬼怒川沿いにさらに北へ向かうと日光沢温泉がある。このあたりに、かつて川俣部落の人たちが木杓子やまげわっぱを作っていた作業小屋があった。この作業小屋に詰めていた職人たちが通った風呂が八丁の湯であった。作業小屋から八丁(800メートル)の距離にあったことからそのように呼ばれるようになったという。八丁の湯の宿は、栃木県鹿沼生まれの電気職人、鈴木富次郎氏が2年がかりで男女が入れる内風呂と露天風呂、4つの客室を建造し、昭和4年8月に開業した。山間の地勢は、稲作には不向きで、稗や粟で生活する貧しい村であった。電気が通る昭和63年までは、宿は30あまりのランプが灯っていたこともあり、「ランプの宿」とも呼ばれていた。

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現在は本館とログハウスの二種類の宿泊施設がある。本館は16室、トイレは共同。ログハウスは17室、バストイレつきである。ログハウスは畳敷きで天井も高い。6人くらいは泊まれるので、人気の紅葉の時期には少人数だとログハウスでの宿泊は断られることもあるらしい。風呂は以下に見られるように、内風呂に露天が4種類ある。うち露天の3種類は混浴である。源泉は岩盤の割れ目など8箇所から毎分220リットルの湯を湧出している。滝の中に9つ目の源泉が湧出しているらしい。


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上の写真は、男性用の内風呂。開業と同時に作られた一番古い湯船である。開業当時は真ん中に仕切りがあり、男女を分けていたとのことで、その名残で湯船が二つある。下の写真は、雪見の湯。こちらも昭和4年開業時に作られた露天風呂(混浴)である。温泉の効能が強いのか、風呂上りにぐったりとした疲労感が襲ってきた。これも効いているということなのだろう。

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こちらは、いずれも昭和40年頃に作られた風呂である。上の写真は、滝見の湯。下の写真は、石楠花の湯でいずれも混浴である。構造上、混浴部分は廊下から丸見えであり、女性の入浴はよほどの覚悟がないと難しい。しかし、石楠花の湯は手が届くほどの距離に滝が流れており、また湯温も一番高いのでオススメである。宿自体は旅館というよりも、山間の一軒宿というつもりでいた方が良い。食事も一斉に大広間で食べさせるスタイル。例のごとく風呂上りでだらだらし、食事の開始時間から30分も遅れたため部屋まで女将が
「お食事用意ができてますよ」
と呼びに来てくれた。
この大広間で気づいたのが、外国人の姿が多いことに意外な思いがした。しかしよく考えてみれば、古代ローマの時代から公衆浴場というものは存在するし、別に温泉文化が日本特有なものでも何でもないということを考えると、「意外」と思う方がおかしいのかもしれない。それにしても、ここを見つけ出す外国人がひとりや二人でないところを見ると、ガイドブックにでも掲載されているのだろう。

<追記>
2008年4月からは、しおや交通が日光市営バスより運行業務を受託することとなったようで、かつて鬼怒川駅前で見られた微笑ましい競い合いは見られなくなった。
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by iyasaca | 2007-07-28 21:49 | 栃木 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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