勝手に僻地散歩



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旧三菱銀行佐原支店本館にいってみた

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水郷の町、佐原を訪ねる。

歴史のある町であるが、最も栄えたのは江戸時代である。江戸後期の医師赤松宗旦が1855年(安政5)に著した利根川中・上流の地誌である「利根川図志」の第五巻、「佐原川」の項の中でこう紹介している。

「佐原ハ下利根附茅(ママ)一繁昌の地なり。村の中程に川有て、新宿本宿の間に橋を架す(大橋云)。米穀諸荷物の揚さげ、旅人の舩川口より此処まで先をあらそひ両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来群集昼夜止む時なし」
(赤松宗旦(1855) 『利根川図志』 第五巻 丗三ノ四、山田屋佐助。 埼玉県立図書館所蔵)
往時の喧噪ぶりをよく表現している。
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正面に見える木造の橋梁は樋橋(とよはし)である。今はコンクリート製となったこの橋は、江戸の初期に佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋(とい)をつくり、小野川に架けられたことがそもそもの縁起である。その目的から当初は人が渡ることを想定していなかったが、後に大きな樋を箱形につくり、そこに丸太の手すりを付け、板を敷いて、人が渡れるようになった。大きな樋から小野川にジャージャーと水が流れ落ちていたので、別名ジャージャー橋とも呼ばれていた。写真で言うと橋の中央部少し黒く見える場所から水が流れ落ちるのである。現在の橋は平成4年に建て替えられているものである。
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この水運の町は戦後のモータリゼーションの進行とともに、ゆるやかに鄙びていったが、美しい街並みは残った。
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さてこれが本日の目当ての旧三菱銀行佐原支店旧本館(佐原三菱館)である。ルネッサンス様式の赤煉瓦造りの洋館に使われているこのレンガは英国から輸入されたものである。正面右隅のドーム状の屋根が特徴的なこの2階建ての洋館は1914年(大正3)、清水満之助商店(後の清水建設)の設計施工で川崎銀行佐原支店として建設された。川崎銀行は1943年に三菱銀行に吸収され、戦後は長く三菱銀行佐原支店として佐原の町の中心で金融サービスを提供した後、1989年佐原市に寄贈された。1991年に千葉県有形文化財に指定されている。
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by iyasaca | 2015-03-14 00:00 | 千葉 | Comments(0)

奈良ホテルにいってみた

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興福寺の南、小高い丘の上にある和洋折衷の木造建築、奈良ホテルを訪ねる。

奈良ホテルは、後藤新平が総裁を務めていた内閣鉄道院が35万円を拠出し、1909年(明治42)10月17日に竣工した。1883年(明治16)に建てられた鹿鳴館の総工費は18万円だったという。1883年から1909年の36年間に物価は2倍ほどに上昇していた。つまり奈良ホテル建築には、鹿鳴館と同程度の力が入っていたということになる。ちなみに1883年の18万円、1909年の35万円は現在では50億円ほどの価値になる。

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設計を手がけたのは、辰野片岡事務所である。辰野金吾は東京帝国大学工科大学退官後の1905年(明治38)、大阪で片岡安とともに事務所を立ち上げていた。辰野は1903年(明治36)に東京にも事務所を構えており、1919年(大正8)にスペイン風邪(今で言う新型インフルエンザ、H1N1型)に斃れるまで、これらの拠点から朝鮮を含む全国主要都市で多くの作品を残している。辰野の代表作とも言える中央停車場(東京駅)を手がけたのは1914年(大正3)だったので、奈良ホテルは辰野の全盛期の作品と言えるだろう。

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見えづらいが、屋根の上には東大寺大仏殿と同じ型の鴟尾を配置し、壁面を白漆喰で仕上げている。

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エントランスホール上方にあるシャンデリアは、春日大社の釣燈籠を模している。

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階段の手すりの節目についている擬宝珠は、戦時中金属類回収令に基づき、供出してしまっため、陶器で出来ている。手すりはヒノキの一本木、他にもあちこちに興福寺や東大寺など奈良の代表的建築物をモチーフとした装飾が施されている。辰野が単に「和」とではなく、「奈良の伝統」と、洋風でしか成立しえない「ホテル」との融合に心を砕いていたことが分かる。
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天井はエントランスホールだけでなく、客室廊下に至るまで格天井(ごうてんじょう)があしらわれている。ちなみに様式としては、折上(おりあげ)格天井がより格式が高い。最も格式が高い様式は二重折上格天井で二条城やかつての江戸城本丸大広間の上段の間(将軍の座するところ)に使われていた。
  
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当時は誰でも宿泊できたわけではない。原則として宿泊できたのは、「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」だけであった。海外からもアインシュタイン、リンドバーグ、チャップリン、ヘレン・ケラー、鄧小平、ヘップバーンなどが宿泊客帳簿に名を連ねている。
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奈良は、京都への観光客の一部が、日帰りで訪れるだけの場所となっているという。奈良は田園に広がる美しい古都としてだけでなく、奈良吉野山より熊野三山に至る修験道を有する味わい深い地である。和洋が高いレベルで融合した宿で時間を費やす客が少しでも増えてほしいものである。
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by iyasaca | 2015-01-17 00:00 | 奈良 | Comments(0)

旧青木周蔵那須別邸にいってみた

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那須野ヶ原の原野に佇む白亜の洋館、旧青木周蔵那須別邸を訪ねる。

明治にあって那須野ヶ原は、いわゆる華族牧場のメッカであった。1880年代以降、大山巌、毛利元敏、松方正義、乃木希典、山県有朋ら明治の元勲らが、殖産興業下における農業振興を先導するように次々と大農場を拓いていった。その中でも青木周蔵が1881年(明治14)、37歳の時に開設した「青木開墾」(1,576ha)は、松方正義の千本松農場(1,640ha)に次ぐ規模を誇った。

青木周蔵は、この広大な農場の管理拠点と避暑地邸宅として、ドイツ帰りの建築界の泰斗、松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)に設計を依頼、1888年(明治21)に竣工している。

松ヶ崎は1871年(明治4)、13歳の時に岩倉使節団とともに渡欧し、12年にも及ぶドイツ滞在中にベルリン工科大学にて建築を学んだ後に帰国、日本建築学会の前身、造家学会設立にも創立メンバーとして参画するなど日本近代建築の祖とも言うべき人物である。松ケ崎は、仙台の七十七銀行本店などを設計した後に、台湾に拠点を移し、台湾総督府交通局鉄道部、新竹駅、台北西門市場などの設計を手がけたが、多くは現存しない。この旧青木周蔵那須別邸は、国内に残る松ヶ崎設計の唯一の作品である。

f0008679_10242391.jpgさて、青木周蔵は長州藩西南部の吉田宰判土生村小土生(おはぶ)の地下医三浦玄仲の長子として1844年(天保15)に生を受ける。幼名は三浦團七であった。

1864年春に長州藩校明倫館好生館が陪臣、地下医にも開放されると團七はすぐに入門する。才気あふれる少年であったのであろう、翌年11月に、好生館教諭役で蘭学者の青木研藏の養子となり、青木周蔵に改名する。このときに大村益次郎が周蔵の語学力(オランダ語)を褒めたという話が残っている。

長崎にてしばし滞留した後、1868年(慶応4年)、24歳のときに長州藩留学生として3年分の費用1,575両を携え、ドイツに医学留学をするのである。

<写真:青木周蔵>

周蔵は奔放な人物であったようである。青木家に入る前の話は後年の回顧録にあるほかはあまり伝わっていないが、留学後から晩年に至るまで彩り豊かな人物であったことを物語るエピソードが尽きない。周蔵はもちろん対英条約改正交渉を始め、大いに大日本帝国に貢献した人物であるが、ここでは人間らしいエピソードを中心に紹介したい。

周蔵は藩留学生としてドイツに渡ってほどなく藩に相談することなく、政治経済学へと転籍をする。藩費での医学留学のため、この「勝手な」行動は騒動となる。この騒動は山県有朋の助けを借りて、何とか収まるが、その後も1872年(明治4)にも北ドイツ留学生総代となった後も在独留学生の専攻科目に容喙したりするなどして不興を買うなど活発であったようだ。

1874年(明治6)に30歳で帰国した後も、青木家との関係は微妙な状態であった。後見人とも言える木戸孝允が青木家より伝えられる不満(医師の家に入りながら、医学を放棄し、義父、義母の死に際しても連絡も寄越さなかったなどという苦言)を周蔵に伝え、幾度も萩に出向くよう説得するも、周蔵は結局一度もその意に沿うことはなかった。一時期は青木家より離籍するという話まで出るほどであった。

f0008679_1913267.jpg公使としてドイツに再び渡った後も周蔵は期待を裏切らない。青木家の養子という立場のまま、何とプロイセン貴族であるエリザベート(へルマン・カール・アルベルト・フォン・ラーデ、母はブランデンブルク家出身のクレメンティヌ・ヘンリエッテドの子)と結婚してしまうのである。


<写真:エリーザベト・フォン・ラーデ・フンケンハーゲン>
1886年に帰国した周蔵は政界に転ずる。1889年の第一次山県有朋内閣における外務大臣就任を皮切りに、松方内閣、第二次山縣内閣でも外務大臣を務めることになるのである。この外務大臣時代にも、周蔵らしさが見られる騒動を起こしている。1891年5月に発生した大津事件の対応をめぐる失策である。

大津事件とはロシア帝国ニコライ皇太子が大津にて滋賀県警察部津田三蔵巡査によって切りつけられ、右側頭部に9cm近くの傷を負わせた事件である。

この事件の処理をめぐって、犯人の死罪を強く要求していたロシア側は、政界の有力者に強く働きかける。当時外務大臣であった周蔵もその1人であった。ここで周蔵はロシア公使シュービッチに対し、犯人の死刑、つまり旧刑法116条大逆罪の適用を約束してしまったのである。

ちなみに旧刑法116条とは、
「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
とある。三后とは、太皇太后、皇太后、皇后のことである。

しかし大審院(現在の最高裁判所)は、旧刑法116条は日本の皇族にしか適用されず、外国の皇族は想定されていないとし、旧刑法292条一般人に対する誅殺未遂罪が適用され、襲撃犯の津田への判決は死刑ではなく、無期徒刑(無期懲役)となった。

この判決に憤激したロシア公使シュービッチは、周蔵との密約を公表する。これが、いわゆる公書問題である。この暴露に際して周蔵は「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と逃げ口上を図ったことが事態をさらに悪化させる。伊藤が「ロシア側の真意を確かめよと指示しただけ、政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職する」と反論したところ、周蔵はさらに「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言、大騒動となってしまう。そして、すったもんだの末、結局自身が外務大臣の職を辞することになったのである。

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さて旧青木周蔵那須別邸である。設計当初は、中央の2階建てのみであったが、その後東西に付属棟、東棟、西棟、中央棟屋上の物見台が1909年(明治42)に増築され、今の姿となった。写真では小さいが、最大の特徴は外壁を全て覆った鱗型のスレートである。

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ここは一階の一角にある浴室である。バスタブのほかにスツールが置いてあったという。随分小さなバスタブである。
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二階のスペースは、最も古い部分である。これまた小さな鉄製のベッドが2つ並んでいる。すでに残っていないが、窓際には水差しとホーローの洗面器を備えた机が置かれていたらしい。印象的なのは、暖色系の光を放つ球状の照明である。この形は邸宅にあるすべての照明に使われている。

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手前に見えるブリキ製のつづらは、もともと屋根裏にあったものである。よく見えないがつづらの蓋には、周蔵の娘ハナの夫の姓である「ハッツフェルト」と墨書されている。これはハナの家族がドイツ→東京→那須を移動する際に使用していたとのことである。

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<写真:青木邸に至るアプローチに立ち並ぶ杉並木>
青木は、農場の従業者の子弟のために小学校をつくったりするなど、地元に大いに貢献した。また避暑に訪れた際には、鹿狩りを楽しんでいたとの話も残っている。

エリザベートは周蔵の死後、ドイツに帰国してしまったが、地域の人に青木邸と呼ばれていたこの邸宅は、1960年代半ばくらいまで青木家の別荘として使われていた。

東京での喧噪から離れ、ドイツで過ごした豊かな時間に思いを馳せることのできたであろうこの空間も、主を失ってから時を経て、1989年に栃木県に寄贈された。その後に行われた1996年から1998年の解体修理の際に元の場所から南東に50メートル離れた現在の場所に移築、99年12月21日に重要文化財に指定されている。
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by iyasaca | 2013-11-10 20:48 | 栃木 | Comments(2)

ベルギー王国大使館にいってみた

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かつて下二番町(現在の千代田区二番町)と呼ばれていたこの区画は武家屋敷が立ち並んでいた。江戸時代から町の主は変わったが、現在に至るまで、通りの位置、方向は変わっておらず、往時の雰囲気を味わえる落ち着いた町である。

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<写真:左が加藤高明伯爵、右がジョサイア・コンドル>
ここにかつてジョサイア・コンドル設計による加藤高明邸があった。加藤高明は元外交官で、東京日日新聞の社長を務めた後、政界に転身、4度にわたって外務大臣の任につき、20世紀初頭の外交の舵取りを行った人物である。その後、1924年6月からは第24代日本国総理大臣まで務めた。しかし1926年1月、帝国議会内で肺炎で倒れ、そのまま亡くなった。66歳であった。激務が寿命を縮めたのだろうか。

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ジョサイア・コンドルは、25歳で日本政府より工部大学校造家学科の教師として招請され、43年に及ぶ日本での滞在中に、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計したほか、辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎など、その後の日本の建築界を支える人材を育成した。コンドルは夫人とともに日本で没している。

残念なことに、1911年に建てられたコンドル設計の邸宅(当時の写真はこちら)は、関東大震災は耐えたものの、空襲で焼けてしまった。その後1959年に、元の8,500平方メートルの敷地はそのままに、新たに3階建ての洋館が再築され、2007年までベルギー大使館として使われていた。

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邸宅の一階にはゲストを遇する広間が複数あり、二階へと続く特徴的な螺旋階段が絶妙の位置に配されている。調度品、壁にかけられた絵画なども味わいがある。

二階は寝室と思われる小部屋が5つほど並んでいる。プライベートスペースだろう。

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庭園も広い。芝生が全面に敷かれており、灯籠や池、プールまである。この庭園は邸内から広く見渡せるようになっていた。庭で展開される四季の変化はさぞ美しかったことであろう。

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時の流れは残酷で、すでにこの洋館も取り壊され、現在この場所には13階建て、8階建て2棟のビルが建っている。
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by iyasaca | 2013-10-19 00:32 | 東京千代田区 | Comments(0)

自由学園明日館にいってみた その1

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池袋の駅から西に少し入ると、駅前の喧騒が嘘のように静かな住宅地が広がっている。その住宅地に、20世紀初頭に活躍した世界的な建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)の作品が残されている。自由学園明日館(みょうにちかん)である。

自由学園は、クリスチャンである羽仁吉一、もと子夫婦が1921年4月15日に高等女学園として創立した学校である。学校名の由来は、ヨハネによる福音書8章32節にある「真理はあなたたちを自由にする」にある。自由学園最初の入学式の際には、まだ工事が完了しておらず、教室は「荒壁が残り木部の塗装もされていなかった」状態であった。中央棟が完成したのは1年後のことである。

後に幼稚園から大学まで一貫教育を行う学校となった自由学園は、大正デモクラシーの隆盛を背景に、1920年代から30年代初頭にかけて一世を風靡した大正自由教育運動の影響を色濃く受けている。教育改造運動・新教育運動とも言われたこの運動は、詰め込みや画一教育を否定し、子供の関心や感動を中心に自由で生き生きとした教育体験の創造を目指していた。自由学園の生徒は、校内の維持管理や昼食の調理を自らの手で行うなど、従前の教育機関から一線を画する「自労自治の精神」に基づく独自の教育スタイルを採り入れている。ちなみにオノ・ヨーコや坂本龍一は自由学園の幼稚園(自由学園では幼児生活団と呼ぶ)出身である。

f0008679_0275117.jpg折から帝国ホテル設計のため訪日中だったライトは、助手の遠藤新を介して自由学園の教育理念を知ったと思われる。羽仁夫婦の友人でもあった遠藤新は、ライトと羽仁夫婦を引きあわせている。その教育理念に強く共感したライトは、自由学園の校舎の設計を引き受ける。「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という羽仁夫婦の思いをもとにライトが設計した自由学園の工事は1921年1月に着工、校舎群が完成したのは1927年のことである。1934年に自由学園は東久留米市に移転したが、ライトの残した旧目白の校舎群は後に重要文化財に指定され、今は一般公開されている。
<写真:フランク・ロイド・ライト、Portrait photograph of Frank Lloyd Wright, Library of Congress, 1954, Public Domain>
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by iyasaca | 2010-07-10 23:20 | 東京都豊島区 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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