勝手に僻地散歩



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天皇皇后両陛下のパラオ国御訪問

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天皇皇后両陛下が、4月8日から9日にかけてパラオ共和国を訪問される。硫黄島(1994年)、サイパン(2005年)と続く太平洋の激戦地の慰霊の一環で、戦後70周年にあたる今回は玉砕の島ペリリューに散った英霊の慰霊が主たる目的と理解している。両陛下はミクロネシア地域の他の島嶼の訪問も希望していたに相違ないが、諸々の理由でパラオのみの訪問となったようだ。そのため旧南洋群島のマーシャル諸島、ミクロネシア連邦の大統領も両陛下の訪問に合わせてパラオ入りされている。

本ブログでもパラオについて取り上げたエントリーが10本ほどある。残念ながら私自身はペリリュー島の訪問はしていないが、戦前の南洋統治に思いを馳せながら史跡を訪ねている。ご関心があればこちらからどうぞ。

パラオ共和国訪問についての記事はこちらから
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by iyasaca | 2015-04-04 00:00 | パラオ共和国 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その4

南機関からネ・ウィンの時代、そしてタン・シュエの時代の功績を伝える写真のパネル展示を抜けると、今度は三軍の兵器の実物展示のコーナーがある。
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<写真:陸軍の装備、「大砲は戦いの神」と大書されているが、これはレーダーに見える>
大きなスペースにところ狭しと並べられる実物展示は圧巻である。特にミャンマーは海洋国家ではないため、陸軍の比重が大きいと考えられる。平定しなければならない勢力(主に少数民族)はいずれも内陸に点在している。

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<写真:壮麗なる空軍装備>
中央の写真にあるUB466とある破断した機体は、1961年2月15日に撃墜された機材の残骸。同型機はHawker Aircraft社から18機納入されている。納入時期は1957年12月から1958年5月にかけて。元々は英国空軍が第二次大戦後の1947年に運用を開始したHawker Sea Furyという艦上戦闘機である。主に朝鮮戦争で活躍したが英国空軍では1955年に退役している。ビルマはこの退役機体を買い取ったと思われる。

最下段のUB653とある機体は、DHC-Otterというデ・ハビランド・カナダ社が開発した輸送機である。1958年12月8日に納入。こちらも1958年から1961年にかけて9機を同型機を導入している。日本にもこの型の機材を日東航空という国内定期旅客便を飛ばしていた会社が1958年4月に購入していたが、1963年に大阪から徳島に向かう商用飛行中に濃霧のため墜落(日東航空つばめ号墜落事故)、乗客乗員9名全員が死亡するという事故を起こしている。

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<写真:華麗なる海軍装備>
こちらは何だか分からないが、大型船舶のスクリューが恭しく鎮座している。案内板も一部はビルマ語のみであり、聞きたいと思っても周りに誰もいないので致し方ない。

展示されているのは50年近く前の旧式のものばかりである。これ以降に納入したものはまだ現役なのかもしれない。

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さらに館内を歩くと、いよいよ軍事とは関係のない、ヤンゴン市内のホテルの模型や飛行場のジオラマなどが展示されているほか、各省庁の報告書や事績(写真は内務省のパネル)についてもパネル展示がされている。興味関心を維持し続けることは著しく困難だが、情報量としては多い。最上階には軍区ごとのコーナーがあり、そこに居住する少数民族の衣装なども展示されていた。その段になると写真を撮る気力もなく、立ち止まることなく見学を終了した。

ところで昨日2月13日はアウンサン将軍の誕生日。生きていればちょうど100歳である。
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by iyasaca | 2015-02-14 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その3

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<写真:館内の様子>
ビルマ独立義勇軍は初期に破竹の進撃を果たすが、そのあまりの成功が路線対立を引き起こす。結局は紆余曲折はあるものの、日本と袂を分かつことになる。

f0008679_1485628.jpg最終的に、南機関がビルマ独立を巡って大本営と対立し、鈴木が職を解かれた際に、鈴木はアウンサンにビルマ独立の道を説き、日本に反旗を翻すべき時期であることを示唆する。そして日本人である自分にはそれはできない、それをやるべきはビルマ人自身だと言い残し、内地に戻っていった。アウンサンはそのとき、どういう気持でその言葉を聞いたのか。ただ軍刀一振りと感謝状を鈴木に贈っている。
<写真:アウンサンが贈った感謝状、左端に孔雀が見つめるのが鈴木大佐、抱えられているビルマ兵は鉄鎖を解こうとしている>

f0008679_25281.jpgそしてアウンサンはビルマ人にしかできないという道を選ぶ。日本に反旗を翻したのである。この決断には4名の志士が従わなかった。その内の1人、ボミンオンは自決という道を選んでいる。アウンサンにとっては厳しい決断だったに相違ない。アウンサンはその後も、南機関高橋中尉に救命指示を出し、また戦後BC級戦犯として捕らえられた鈴木大佐の赦免に力を尽くしている。

そのアウンサンもビルマ独立の直前の1947年7月19日、6名の閣僚とともにに暗殺された。暗殺の背景は諸説あるが未だ判然としない。
<写真:最晩年のアウンサン>

f0008679_1659546.jpgミャンマー国軍と日本のつながりはその後も長く続く。30人の志士の1人、ネ・ウィンは自らの統治の後期、1981年1月4日にビルマ大統領として、国家の最高勲章である「アウンサン・タゴン(アウンサン勲章, Order of Aung San)」を7名の日本人に自らの手で授与している。
<写真:1962-1988年までビルマの最高権力者であったネ・ウィン>

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<写真:大統領官邸におけるアウンサン・タゴン授賞式>
7名とは、鈴木敬司氏未亡人、杉井満(興亜院)、川島威伸(陸軍大尉)、泉谷達郎(陸軍中野学校)、高橋八郎(陸軍中尉)、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄(満鉄調査部)である。いずれも南機関関係者である。ネ・ウィンは、1988年に権力の座を追われた後も、1990年代半ばまで、南機関関係者との旧交を温めていたという。

f0008679_1717840.jpgそのネ・ウィンも2002年12月5日に91歳でこの世を去った。しかし現在でもミャンマーの士官学校では、日本人が疾うの昔に忘れてしまった「海いかば」、「愛馬進軍歌」など日本の軍歌50曲がいまも歌い継がれており、国軍記念日の3月27日には軍艦マーチが演奏されている。どれだけの日本人がこのことを知っているのだろうか。
<写真:最晩年のネ・ウィン>
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by iyasaca | 2015-02-07 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その2 - 南機関と海南島での特訓

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<写真:地雷除去に勤しむミャンマー国軍兵士>
1941年2月1日の南機関の設立を受けて、ビルマ作戦が本格化する。アウンサンは南機関の一員としてビルマ米を積載する輸送船に乗船してビルマに渡り、30人の志士のリクルーティングの任を担った。指名手配中の隠密行動は命がけであった。アウンサンは、入れ歯を口に含み、黒メガネをかけた中国人に扮して活動していたという。

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<写真:訓練中の30人の志士>
数名ずつ選ばれた精鋭たちが30名の定員に達したのは6月であった。この30名の中には後のビルマ政治を支えるネ・ウィンらが名を連ねていた。30人の志士は、海南島三亜の海軍基地内の特殊訓練地(要するにジャングル)に送られ、厳しい軍事訓練が行われた。
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<写真:三亜の訓練所前での30人の志士と日本人教官>
三亜の訓練所は同年10月には閉鎖され、訓練は終了した。30名は台湾玉里に移動した後、12月28日に、バンコクのビルマ人歯科医の家で集まった。200名は集まったこの決起集会でビルマ独立義勇軍Burma Independence Armyは正式に発足した。

f0008679_1263012.jpg司令官はボ・モージョー(雷将軍の意)を名乗った鈴木大佐が務めた。ボ・モージョーとは、ビルマの古来からの言い伝えにある、白馬にまたがり東からやってくるビルマを解放する王子のことである。、鈴木は金モールの王冠に純白のロンジー(ビルマ伝統衣装)を着用し、白馬でビルマ入りしたのである。
<写真:ボ・モージョーを囲む30人の志士>

すぐに「日本人が変装しているだけではないか」とバレるリスクをどう考えたのか分からないが、実際にはビルマ民衆の反発を買ったどころか、あちこちで民衆の協力を得られたという。

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<写真:ほぼ貸切状態の館内>
アウンサンはじめとする30名の志士に加え、日本人74名を含む計140名が義勇軍に加わり、出陣式も31日と決まった。また義勇軍に参加とまではいかない者も、志願者探し、資金的支援、家族の支援などを約束した。この義勇軍がミャンマー国軍へと発展していくのである。
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by iyasaca | 2015-01-31 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その1- アウンサン将軍の日本滞在

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<写真:博物館入口、外国人入場料は3ドルとの掲示がある>
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「絶対に降伏しない精神」、「任務を遂行する断固たる決意」、「高貴なる国軍の伝統を守る犠牲の精神」。ミャンマー国軍(Tatmadaw)を支える戦陣訓である。

ミャンマー最大の都市ヤンゴンに、そのミャンマー国軍を顕彰する軍事博物館(Defence Services Museum)がある。博物館は国軍の歴史、装備、そして現在における国への貢献について、貴重な写真や実際に使われていた装備の展示を通じて、世に広く知らしめることを目指しているのだろう。

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入口で入場料を支払うと見学者用バッジを手渡される。特に見学者用に館内案内などは作成していないようである。

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館内は、電力節約のためか、電気は落とされており、全体として薄暗い。ところどころに博物館の職員らしき姿は見えるが、私の他に見物客はいない。

ところでミャンマー国軍創設には、日本が深く関わっていた。

f0008679_0491839.jpg話は、中国戦線が膠着状態に陥りつつあった1940年、蒋介石軍の物資調達ルートの一つである援蒋ルートを遮断する作戦の一環で、ビルマに独立を志向する集団を組織、支援することが望ましいとの認識のもと、大本営陸軍本部が鈴木敬司大佐を長にビルマ研究を命じたことに端を発する。この研究は後に特務機関である「南機関」発足へと展開していく。

ビルマ研究の内示を受け、鈴木大佐は興亜院、満鉄調査部、上海の特務機関などとの協力を得て情報収集を開始した。そして3ヶ月後の1940年6月には、読売新聞特派員「南益世」として現地に入ったのである。すぐにティモン博士より将来有望な独立運動家アウンサンの存在を知らされる。アウンサウンとは言うまでもなく、アウン・サン・スーチーの父である。

<写真:鈴木敬司陸軍大佐>

f0008679_0562370.jpgしかしアウンサンは、宗主国英国に対する激しい独立運動を展開していた秘密結社タキンの一員であったことから、当局より懸賞金付き指名手配がかけられ、厦門(アモイ)に逃れた直後であった。鈴木からの要請を受けた日本軍はすぐに潜伏中のアウンサンを厦門で発見、面田紋二という名前を与え、浅黒い彼らが怪しまれないようフィリピンとの混血児として、もう一人の独立の志士ラミヤン(糸田貞一)とともに日本に連れ出した。1940年11月のことである。
<写真:日本滞在中のアウンサン、珍しい和装の写真>

f0008679_185189.jpgちなみにアウンサンに与えられた面田という名前は、ビルマの漢字表記「緬甸」からとったものである。二人は鈴木の東京の宿舎、浜松の実家、そして浜松湖湖畔の旅館「小松屋」などを転々としていた。この間の心境はいかばかりであっただろう。しかしこの当時世話をしてくれた同年代の女性(エイコさん)にカタカナで恋文を書いてもいる。将軍も25歳の若者だったのである。

<写真:鈴木大佐の実家?アウンサンは右端>
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by iyasaca | 2015-01-24 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その9 ポナペにおける軍の配備

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<写真:ソケースマウンテンよりポンペイ空港を望む>
1940年から44年にかけて、ポナペにおける軍の配置は度重なる編成の変更、偶然による増強が続く。その経緯は複雑で、軍歴のない私などには、追うのが大変である。

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<図:中部太平洋の地図。なぜ日本軍がトラックに基地を構えていたか分かる>
おおまかに言えば、ポナペは、中部太平洋の要衝であるトラック諸島の東の守りとして、その地政学的位置、そして島の大きさから重要な拠点となっていた。さらに増強の時期とポナペ以東の拠点が次々に陥落していく時期が重なったことで、もともとポナペの東への展開のために派遣された部隊が進軍できなかったことで、多くの兵力が滞留する結果となった。さらに皮肉なことに、米軍はポナペ島に空爆こそ加えたものの、上陸はせずに西進したため、ポナペ守備隊の被害は玉砕が相次いだ周辺島嶼と比べて軽かった。

以下はポナペ島守備隊の増強について、時系列に追ったものである。備忘録としての位置づけが強く、細かすぎて読みづらい。読み飛ばしていただいて結構である。

★★★★★★★★★★

1940年11月15日、日本海軍は第五根拠地隊をサイパンに編成した。この第五根拠地隊隷下にあった第四防備隊がポナペ(ポンペイは1984年までポナペと呼ばれていた)に最初に配備された日本軍の守備隊であった。

1941年8月11日にトラック島(現在のチューク)に第四根拠地隊が新設されると、ポナペに派遣された防備隊はサイパンの第五根拠地隊から第四根拠地隊の指揮下へと移った。翌年にはこの第四防備隊は第四ニ警備隊に再編成されている。

さて1942年6月のミッドウェーでの敗戦以降、ますます戦況が日本不利に傾く中、戦局打開のため南洋方面へ一層の戦力投入が求められていた。そこで満州に駐屯していた陸軍第五ニ師団所属連隊のなかの一つ、歩兵一〇七連隊(徴兵区金沢、山中萬次郎大佐)が実質的な海上機動旅団(正式な旅団ではなかった)、甲支隊として再編成された。1943年9月1日の連合軍による南鳥島空襲対応のためであった。

しかしその後、南鳥島の情勢が安定したため、中部太平洋へと戦力を振り向けることとなり、いよいよ動員の下令があったのが1943年9月2日(大本営 動第二四号)、9月6日に甲支隊の編成・派遣(大陸命第八三七号)が決定、翌日には編成が完了、出陣は11日だった。

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<写真:軽巡洋艦木曾、三笠保存会所蔵、1942年>

-甲支隊:宇品からポナペへ-
甲支隊は、トラック島経由でポナペに輸送された。第一陣は以下の通り。
1)歩兵連隊本部
2)歩兵第一大隊
3)歩兵砲中隊
4)独立山砲兵第一六連隊第三大隊
5)工兵第五ニ連隊第二中隊
甲支隊第一陣は、軽巡洋艦「木曾」、「多摩」、特設巡洋艦「栗田丸」、駆逐艦「大波」、「谷風」、空母「隼鷹」にて輸送された(丁一号輸送作戦)。ポナペには各艦船が、9月27日までに到着している。

また10月には、海軍第一通信隊を主体とする部隊で、陸兵と機材を戦艦「山城」、「伊勢」、空母「隼鷹」、「雲鷹」に搭載、第十一水雷戦隊(十一水戦)の「龍田」と第二水雷戦隊第32駆逐隊の「早波」、「涼波」、「藤波」に護衛され、10月13日に宇品を出港、15日に佐伯を出て、20日にトラック島着、10月27日にポナペに到着した。(15から20日が丁三号輸送作戦)当初予定されていた船舶工兵、十五榴大隊の配属は見送られた。

丁一号と三号があって、二号はどうなったのかと思ったが、丁二号輸送作戦は、ラバウルに第17師団を輸送する作戦であった。

ポナペに配備された甲支隊の編成は以下の通りである。
歩兵第一〇七連隊
   歩兵大隊(四歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊)3
   歩兵砲中隊(聯隊砲2、速射砲2)
   通信中隊(有線小隊2)
山砲兵第一六聯隊第三大隊
   山砲小隊(山砲4)
   大隊段列
工兵第五二連隊第二中隊
この間にポナペから西に約500キロの場所にあるモートロック諸島タ環礁(Mortlock Islands、Ta Atoll)で飛行場の設営を終了(43年9月末より作業開始)した海軍第一一航空艦隊(1943年7月25日編成、北川玉一大尉)第ニニ一設営隊がブラウン環礁(現在のマーシャル諸島エネウェトク環礁、Enewetak Atoll)に転進中に海没(1944年1月)し、残員はポナペ島に上陸している。(1943年10月に第四ニ警備隊に編入されたの情報も。要確認)。

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<写真:ポンペイ島南東のナーレップ島(Nahlep)、浅瀬が続き軍事拠点に相応しくないことが分かる。>
-ポナペからクエゼリンへ-
ポナペに集結した甲支隊は、1943年10月20日の大陸命第八七四号により、第五ニ師団に復帰した。同日に発令された軍令陸甲第九五号により、第五ニ師団は、海洋編成師団に改変され、歩兵一◯七連隊はB連隊に再編されている。その編成は以下の通りである。見ると分かる通り、占領された島嶼の逆上陸、海上機動反撃にあたる連隊である。今で言う海兵隊のような機能が期待されていたことが分かる。

またこの改変に伴い、甲支隊のうち以下はそれぞれ歩兵連隊の基幹に充用、復員している。
1)山砲兵第一六聯隊は、歩兵連隊砲兵大隊の基幹に充用し、復員
2)工兵第五ニ連隊は、歩兵連隊工作中隊の基幹に充用し、復員

従って、歩兵連隊Bの編成は以下の通りとなっている。

連隊本部(160名):水陸両用自動車9輛、自動貸車2輛

第一大隊(950名)
 大隊本部(91名)
 第一中隊(181名):5個小隊
 第二中隊(181名):5個小隊
 第三中隊(181名):5個小隊
 第一迫撃中隊(142名):指揮小隊、3個小隊
 第一砲兵中隊(113名):3個小隊
 第一作業小隊(61名):4個小隊
第二大隊(950名)
 大隊本部
 第四中隊
 第五中隊
 第六中隊
 第二迫撃中隊
 第二砲兵中隊
 第二作業小隊
第三大隊(950名)
 大隊本部
 第七中隊
 第八中隊
 第九中隊
 第三迫撃中隊
 第三砲兵中隊
 第三作業小隊
機関砲中隊(68名):3個小隊
戦車中隊(60名):3個小隊(各軽戦車3輛)、整備分隊、
工兵中隊(219名):4個小隊
通信中隊(124名)2個小隊(有線及び、無線)
衛生隊(176名):2個担架小隊、医療班(46名)

総員3,657名

<歩兵聯隊B 編成表要約、陸軍航空隊-戦闘序列と編制-第五二師団編制より>

新設された海洋編成師団は、ブーゲンビル島タロキナ岬(現在のパプアニューギニア、Cape Trokina)への出撃に向け準備をしていたが、11月末に連合軍のタラワ、マキン両島への上陸作戦が展開されたこともあり、急遽、山中萬次郎大佐以下が逆上陸部隊として、クエゼリンに進出した。クエゼリンに進出した部隊の編成は以下の通りである。
1)歩兵連隊本部
  第一大隊
  第三大隊
  通信中隊
  砲兵大隊(元独立山砲兵第一六連隊第三大隊)
  工兵中隊(元工兵第五ニ連隊第二中隊)
2)海軍第一通信隊
部隊は第二艦隊の重巡・駆逐隊を護衛につけ、十四戦隊の軽巡 「那珂」「五十鈴」にてポナペを発った。

-クエゼリンからクサイ、ミリ(ミレー)へ-
しかしタラワ、マキンはわずか数日(ともに11月23日)で玉砕に至ったため、歩兵連隊本部と歩兵連隊第一大隊をクサイ島(現在のコスラエ)に、歩兵連隊第三大隊と歩兵連隊砲兵大隊、歩兵連隊工兵中隊をミリ島に展開することとした。ポナペに残ったのは第二大隊を主体とする部隊のみとなった。

-続くポナペの戦力増強ー南洋第三支隊-
この時期以降、島嶼守備隊が次々と玉砕し、日本は制海権をどんどん喪失していった。その結果、逆上陸作戦に派遣した部隊が出撃できず、皮肉な形でポナペの戦力が増強されることになった。

まず増強されたのは満州に展開していた3個の守備大隊を主体として編成された南洋第三支隊である。動員が下令されたのは1943年11月15日、ポナペには翌44年1月10日に到着している。

南洋第三支隊は到着と同時に、ポナペにいた歩兵連隊第二大隊(大隊長、伊藤皓少佐、総員1,205名、他の連隊残員248名など)を指揮下に入れた。他に海軍第42警備隊(警備隊司令内藤淳大佐)をはじめとする海軍部隊(総員約2,000名)もポナペに展開中であった。

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<写真:コロニア市内に放置してある九五式軽戦車、装甲はぺらぺら>
-クサイ、ミリ島方面展開部隊の合流-
1944年2月にはクサイ、ミリ島方面への展開部隊として以下がポナペに輸送された。
1)迫撃砲第一連隊(第一中隊148名、第ニ中隊153名、第三中隊149名。各中隊には九七式(二式)中迫撃砲12門装備)
2)機関銃第一大隊機関銃中隊(総員71名。九八式高射機関砲6門装備)
3)戦車第ニ連隊戦車中隊(総員63名。九五式軽戦車9両装備)
4)衛生隊(総員186名)

いずれもポナペより先の輸送ができなくなっていたことから、これら全てが南洋第三支隊第二大隊の指揮下に入った。

-独立歩兵第五連隊の合流と第三一軍独立混成第五ニ旅団の編成-
さらにウェーク島へ展開する予定であった独立歩兵第五連隊総員1,757名もクエゼリンの戦闘が始まり、2月6日に玉砕したことにより、ポナペより先に展開せずにそのまま南洋第三支隊の指揮下に入った。
独立歩兵第五連隊の構成は以下の通り。
1)第二大隊(大隊長、才津彌三郎大尉、3個歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、装備は37ミリ速射砲(2)、九二式歩兵砲(2))
2)砲兵大隊(大隊長、田口多徳少佐、野砲2個中隊編成、各中隊3門装備)
3)工兵中隊(詳細不明)
4)衛生隊(詳細不明)

1944年2月18日に第三一軍が新設、第五ニ師団は編入された。さらに5月27日における再編成で、独立混成第五ニ旅団が編成された。その指揮下には、
1)南洋第三支隊の独立守備歩兵大隊3個大隊(独立歩兵三四ニ、三四三、三四四大隊)総員1,565名
2)独立歩兵第五連隊の第二大隊(独立歩兵三四五大隊)と砲兵大隊(総員1,757名)
3)歩兵第一◯七連隊の第二大隊はじめとする旧甲支隊の残部隊(総員2,223名)

この混成旅団の編成により、指揮命令系統が旅団長のもとに統一された。

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<写真:ポナペ島地図、今西錦司 ポナペ島ー生態学的研究、彰考書院、1944年>
この5個大隊は、ポナペ島の北、東北、東南の3地区に一個大隊ずつ、飛行場のある西地区には2個大隊が配置された。

全くの偶然ながら、ポナペは大部隊を擁する一大拠点となっていったのである。
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by iyasaca | 2014-06-07 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(6)

沖縄に行ってみた その6 -ミトコンドリアDNAから探る日本人の起源

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日本人はどこから来たのかという問いに答えるべく、人骨や石器の痕跡を探ってきた。

日本の国土の大部分が酸性土壌であることから、旧石器時代の人骨はほとんど残っていない。沖縄を中心に発掘された旧石器時代の人骨は、多めに数えても9体のみである。このサンプル数では、どの集団がどこから来たのかというについて、推測を行うことすら困難である。

石器については、施されている製造技術から、石器を携え移動した思われる人間集団の大まかな流れを推測することができた。細石刃石器の分布状況から、2万年前以降にシベリアから北海道・東北地方へと入ってきたルート、剥片尖頭器の分布状況から2万7,000年前に朝鮮半島から九州へと入ってきたルート、そして東南アジア地域(スンダランド周辺)から1万8,000年前に入ってきたルートの3つが推測できる。

ここでは近年の分子生物学の挙げている成果を引くことで、今までの人骨や石器の研究成果と重ねあわせていく作業を行う。いくつかの方法論が存在するが、ここではミトコンドリアDNAを用いた分析を主に話を進めていく。

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さて現代日本人1,000人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの調査がある。その調査によると現代日本人には20種類のハプロタイプが存在することが分かった。その中で最も多いのはD4タイプで全体の32.61%を占める。二番目に多いタイプがBの13.26%であるので、D4の多さは突出している。D4タイプは日本国外では朝鮮半島や中国北東部に多い。このことから、日本人の3割は、高い確率で朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたグループであると推測できる。ただいつ頃渡ってきたのかはこれだけでは分からない。

ここにもう一つの調査がある。北海道縄文人、東北縄文人、関東縄文人のそれぞれのミトコンドリアDNAを調べたものである。この調査によると縄文時代(今から6,000年ほど前の時代)にはD4を含むDグループは多数派ではなかった。縄文関東人こそDグループの占める割合が25%であったが、東北では10%、北海道では13.6%しかいない。しかもこの時代に多く見られるのはD4ではなく、D10という異なるタイプであった。縄文時代にいなかったD4が、現代日本にこれだけ多いことを考えると、D4グループの大量流入は縄文時代以降であったということになる。

N9bの分布の変遷も興味深い。N9bは、現代日本人に2.13%しか見られないタイプだが、北海道縄文人に65.9%、東北縄文人に41.7%という高い割合で見られるタイプである。N9bは、現代のアムール川流域の先住民に多く見られるタイプであること、この先住民に見られる4つのハプロタイプと一致する集団は北海道アイヌだけであること、そして南方に痕跡がないことなどから、北方から渡来してきた集団であると推測できる。

縄文時代のミトコンドリアDNA調査でもう一つ特徴的なのは、東北縄文人に占めるM7aタイプの多さである。このハプロタイプは東北縄文人の50%を占めている一方、北海道縄文人に占める割合は6.8%、関東からは5%でしかなかった。

M7aタイプは現代日本人の7.47%でしかないが、現在でも海道では16%、沖縄には20%という高率で確認されている。日本国外ではフィリピンのルソン島など東南アジアの島嶼部、中国南部、チベットにも多く見られるタイプでもあることからM7aタイプの集団は南方から日本に渡ってきたと推測できる。しかしなぜ本州から消え失せ、北海道と沖縄に多く残っているのかは謎である。

そのほかにも現代日本人の13.26%を占め、ベトナム北部に分布が多いBタイプ、6.86%を占め、シベリア東部の先住民やアイヌに見られるG1bタイプ、5.34%を占め、タイ、中国南部、台湾に見られるFタイプなどが現代日本人に多く見られるハプロタイプで、それぞれ流入経路も推定できる。これら三つのタイプは縄文時代にも確認されている。

さてルートと流入の時期については縄文時代と弥生時代の境目を一つの基準に、ある程度仕分けることができるが、最後にそれぞれの流入ルートと流入量について考察を加えたい。

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<表:Shuzo Koyama, "Jomon Subsistence and Population", Senri Ethnological Studies no. 2, 1–65 (1978). (b) 小山修三, 『縄文時代』, 中央公論社, 1983>


この表を見ると縄文期においては、北方からの流入が圧倒的に多かったことが分かる。おそらく北方から渡ってきた集団は、より温暖で食料等も豊富で、広い平野である生活のしやすい関東まで南下を続け、そこで滞留したという推測ができる。抗争に敗れるか、天変地異以外の理由で、温かいところからわざわざ住みづらい寒冷地に移動することは考えづらい。寒冷地よりも温かい場所で生活したいというのが人間の感情として自然であるし、ましてや人口密度もさほど高くない当時の状況を考えると、北方から南方へという流入がメインであったという傾向は、縄文期以前も同様であったのではなかろうか。

この横長の表を眺めていると、縄文時代は一様に時間が流れていた平穏な時代ではなく、結構ダイナミックな時代であったことも分かる。縄文中期まで順調に増えていた人口が、その後弥生時代に入る直前までの2,000年間で4分の1に減っている。これだけの期間で人口が激減しているところを見ると、縄文時代に文化の連続性はさほどなく、流入した人間集団も、抗えない自然条件や戦乱などによって、吸収されたり、消滅したりするプロセスが繰り返されたのではないか。

弥生時代に入ると人口は劇的に増加する。雑穀と狩猟をメインとした生活様式から、稲作文化に切り替わったことが大きな要因であろう。このタイミングで稲作文化とともに、朝鮮半島から大量の人口流入があったことが考えられる。この人口流入の原因が自然環境の変化であるのか、朝鮮半島における戦乱の結果によるものなのかは不明であるが、弥生期以降はほぼ右肩あがりの人口増加がつい最近まで続いていたわけである。

要するに1,800年ほど前までは、日本列島へは北方、朝鮮半島・中国北東部、南方の3つのルートから、継続的に複数の集団が流入していた。主たる流入ルートは北方からであり、それは列島が大陸と陸続きでなくなった後も続いていた。縄文末期に何らかの理由で朝鮮半島経由で大量にD4グループが流入、おそらくこのグループが統一国家をつくっていったのであろう。強い武力と組織力なくして、全国に拡散することは考えにくいからである。

現在の日本人は、多くの民族集団が混淆して形成されていった。長い時間をかけて、あるときは中央集権的に、あるときは分権的に緩やかな統合体を構成していった我が国は、周辺地域とは異なるアイデンティティと文化を紡ぎだしていくことになったわけである。今回は取り上げなかった言語学の視点からも面白い知見が得られるだろう。これからも考古学、人類学、民俗学、分子生物学など諸分野の新しい成果の発表によって、より解像度の高い歴史が見えてくるようになるだろう。密やかにその成果を楽しみにしたい。
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by iyasaca | 2012-12-09 14:49 | 沖縄 | Comments(2)

沖縄に行ってみた その2 -旧石器時代における「日本人」の痕跡

「日本人はどこから来たのか」という疑問は、日本人ならば少なくとも一度はぼんやりと抱いたことがあるだろう。沖縄はこの問いに対する回答に貢献するところが大きい。

日本列島に人がやってきたのは4万年前のことと言われている。その集団がやがて「縄文人」(縄文時代は約1万6,000年前から2,300年前までの期間、旧石器時代とは土器の発見時期によって区分)という均一な集団を形成し、その後、2,900年ほど前に朝鮮半島から渡ってきた渡来系弥生人がその縄文人と混血し、現代日本人の祖先となった、というのが少し前までの定説であった。原日本人の渡来から縄文時代に至るこの歴史の記述を支える貴重な考古学的発見の多くは、沖縄が提供している。本州の土壌が人骨の残りにくい酸性であるのに対し、沖縄の土壌は石灰岩質であるからである。

日本の国土から発掘された旧石器時代のものとされる人骨は以下の通りである。

1)白保竿根田原(しらほそねたばる)洞穴発掘の人骨(沖縄県石垣市)
f0008679_23234468.jpg2007年に新石垣空港建設予定地内の洞穴より頭、脚、腕などの骨9点が発掘される。2010年2月に発表された放射性炭素年代測定の結果、そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものであることが確認された。


<写真:白保竿根田原洞穴出土の骨片>
2010年3月に新たに発見された約25点の人骨の一つである肋骨の一部を米田穣・東大准教授らが放射性炭素測定法にて分析をしたところ、2011年11月10日、2万4000年前の人骨であることが判明した。人骨の直接測定から得られた年代としては国内最古である。同時に出土した他の3つの骨片も約2万年前との分析結果が出ている。

国立科学博物館が2013年、5つの骨片からDNAの抽出に成功、うち2点はM7aと判明。M7aは現代日本人の7.4%が持つ。沖縄には24%、北海道にも16%と地域的に偏りがあるハプログループである。国外ではフィリピンルソン島に9%、朝鮮半島に4%確認されている。しかし縄文時代には東北地方に多く(50%)、北海道、関東には少なかった。南方から渡ってきたと思われるM7a型が、旧石器時代にあたる約2万年前の沖縄から出たことの意味ははかりしれない。ミトコンドリアDNAのエントリーに詳細あり。

2)浜北人(静岡県浜北市)
f0008679_23323424.jpg1960年から62年にかけて根堅の石灰採掘場で行われた発掘調査で、頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)が出土した。
<写真:浜北人骨(上層人骨複製)、浜松市博物館収蔵>
当初は人骨から直接測定ができず、それぞれの層から出た獣骨(トラ・ヒョウ・クズアナグマ・ニホンシカ・ナキウサギ・キクガシラコウモリ・サル・イシガメ、ヒキガエル、鳥類など)の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定で割り出すという手法をとり、1万4,000-1万8,000年前との結果が出ていた。

2002年9月に浜北人の頭や腕の骨から0.2-0.5グラムの少量の骨の試料を採取し、放射性炭素年代測定の対象となるタンパク質のコラーゲンの抽出に成功した。その試料を放射性年代測定で分析した結果、約1万3,900-1万4,200年前の人骨と判明、すでに同じ地層から発見された獣骨とほぼ同じ時代の人骨であることが裏付けられたのである。コラーゲンは肌のはりを維持するためだけのものではないのだ。

3)その他(港川人、山下町洞人など)
f0008679_23395499.jpg歴史の教科書によく出てくる1967年に発掘された港川人(沖縄県八瀬町港川)は1万8,000年前、1969年に那覇市山下町から出土した山下町洞人が3万7,000年前の人骨とも言われている。ほかにも、

ピンザアブ洞人(宮古島ピンザアブ洞穴、1979年発掘)
ヒトの後頭骨片が発掘された後、三次の調査が行われた結果、上左第2小臼歯、下左第2切歯(第一次調査)、頭頂骨、右第1中手骨、手指末節骨(第二次)が発掘されている。同じ地層から出土した木片の放射性炭素年代測定の結果、約2万6000年ほど前のものであることが判明。

下地原(しもじばる)洞人(久米島下地原洞穴、1982年発掘)
同一個体の人骨が50片発掘される。分析の結果、右下顎骨、生後8-10ヶ月の乳幼児の脊椎骨と肋骨、肩甲骨、鎖骨、上腕骨、大腿骨と判明。同じ地層で発掘されたカニ化石の放射性炭素年代測定によると約1万5000年前と鑑定される。



<写真:港川人1号全身骨格>
サキタリ洞人(沖縄県南城市、2009年より発掘開始)
2012年10月19日に沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡にて、人骨化石(長さ約2センチの子供の犬歯1点)と石英製の石器(剥片石器3点)、獣骨(イノシシ、貝など)などが発掘される。同じ地層の木炭を放射性炭素年代測定法で分析した結果、約1万2000年前と判明した。2013年には9000年前とされる押引文土器も発掘されている。

f0008679_243339.jpg2014年2月15日には貝器(道具、装飾品)、人骨などが出土したことが発表された。旧石器時代の遺跡から貝器が出土したのは国内初である。出土した貝器は、二枚貝のマルスダレガイ科20点、クジャクガイ3点の計23点でいずれも2-4センチほどの破片。二枚貝には加工して扇形に揃えたものが7点、叩いて割れ口を鋭くし、物を切ったり、けずったりすることができるように加工が行われた跡があった。また使用時に生じた線状の傷跡もあった。


<写真:サキタリ洞より出土した国内初の旧石器時代の貝器>
装飾品は細長い筒状の形をしたツノガイを加工したものが2点、いずれも1-1.5センチほどの破片である。内側に人為的にこすった跡があり、ビーズのような形状になっている。用途が明確に推定できるのは、上記貝器を合わせて9点のみ。

ほかにも、大人の人間の臼歯(2センチ)と舟状骨(足首の骨、4〜5センチ)の2点、モクズガニの爪、食料のイノシシの骨、焼きけた形跡のある土も見つかった。今回の一連の出土品は、同じ地層にあった木炭を放射性炭素年代測定した結果、2万3000~2万年前という結果が出た。

さらに大山洞人、ゴヘズ洞人、カタ原洞人という旧石器時代と思われる人骨も沖縄から発掘され、フッ素分析、フイッショントラック法などの方法で分析されている。いずれも1万年前との結果が出ているが、新しい技術によるさらなる分析が求められているところである。

3)項にあげたものは、いずれも人骨そのものの放射性炭素年代測定による結果ではなく、同じ地層から出土した動物の骨などの炭化物を分析した結果に基づく推測であり、後に新しい時代のものが紛れ込んだ可能性も否定できないことから、上記2例と並列に並べて論じることはできない。

とはいえ、港川人の史料的価値は、全身の人骨が出土したところにある。他は骨片しか出土していない。全身の人骨があるということは、形態分析が可能であるということである。港川人は、頭骨の分析から九州以北の縄文人の祖先であるとされてきたが、最近の研究で、そうではないということが分かってきた。
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by iyasaca | 2012-07-17 01:22 | 沖縄 | Comments(1)

パラオにいってみた その8 コロールの町並み

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<写真:マダライン通り周辺>
日本は南洋群島施政の中心をパラオに置き、ヤルート、ポナペ、トラック、サイパン、ヤップには出先機関としての支庁が置かれた。行政の担い手たる南洋庁の行政職員は日本人であったが、補佐的なポジションには現地人も採用され、官房、内務部、財務部、拓殖部、交通部などの各部署に配置されていた。

立法機関は存在せず、原則として日本の法律が適用され、また必要に応じて勅令によって法律が施行されていた。司法機関としては、地方法院がパラオ、サイパン、ポナペに、そして南洋群島唯一の高等法院がここパラオに設置された。ただし軽微な刑事事件については支庁長が即決処分する権限を持っていた。島民間の民事事件については、慣習に従い、パラオの伝統酋長が裁くこととなっていた。当時の資料によると違法行為の大半は国際連盟の委任統治領規定で禁止されていた飲酒(酒類取締り規則違反)であった。禁酒法の理想主義が国際連盟のこの規約にも反映されていたのだろうか。背景は知らないが、興味深い規定である。
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<写真:魚網を前にした男性たち(日本統治前)、1912年頃、この上下の写真と比べてみれば、パラオの町並みを整備するのに日本がどれだけのリソースをつぎ込んだかが分かるであろう>
南洋庁は設立と同時に以下の4種類の租税を導入した。

1)人頭税(*1)
2)出港税
3)関税
4)鉱区税

(*1)16歳以上の男子に課せられた税で、パラオ人に対しては一律年額5円、離島民は2円、子供が5人以上いる場合は免除。日本人に対しては収入に応じ2円から50円まで11の区分があった。

この税制は1938年に改正される。人頭税が廃止され、新たに所得税、法人営業収益税、鉱業税
利益配当税、関税、出港税、臨時通行税、タバコ税が導入され、南洋群島の税制は8区分となった。税制改正の背景には南洋群島の産業振興の成功がある。会社や住民がを利益を上げていなければ所得税や法人営業収益税を導入しないだろう。実際に1930年代中頃には、内地からの産業助成金が必要ないほどの状況になっていたことは以前のエントリーで触れた通りである。
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by iyasaca | 2009-12-05 22:31 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その7 パラオ熱帯生物研究所

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かつて岩山湾と呼ばれた海を臨む小高い丘の斜面に、パラオ熱帯生物研究所の入口跡が残っている。入口は海に続く緩い坂道の途上にあり、入口からさらに階段を下りた場所に研究所の施設が建っていた。

この研究所の設立にあたっては、東北帝国大学の畑井新喜司教授(1876-1963)が大きな役割を果たした。畑井教授は若き日にシカゴ大学で動物学と神経生理学を学び、ペンシルバニア大学ウィスター研究所、東北帝国大学動物生理学講座などで教鞭をとっていた。1925年には「白鼠(しろねず)に関する研究」で帝国学士院賞を受賞している。何でも白ネズミが動物実験材料に使われるようになったのは、この研究の成果なのだそうだ。
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<写真:パラオ南洋生物研究所正門の今昔>
研究者としても円熟期を迎えていた畑井教授は、当時東北大学に、水産生物の飼育、観察を目的とした浅虫臨海実験所の創設に力を注いでいた。1924年に実験所を立ち上げると、教授の関心は熱帯生物へと向けられていった。1928年には珊瑚礁の動物蒐集や生理学的研究を行うため、弟子二人を連れてパラオを訪れている。このパラオ訪問を契機に畑井は
「日本が熱帯生物研究所を開設して世界の学界に貢献することは、第一次世界大戦の結果、国際連盟委任統治の受任国として南洋群島を統治している我が国の責任である」
と朝野に強く働きかけ、1934年、日本学術振興会第7 常置委員会特別委員会(第11 小委員会)にてパラオ熱帯生物研究所の設置が決定したのである。

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<写真:敷地に建つ建物、研究所とは無関係>
設立当初は南洋庁水産試験場の一室を間借りしていたが、1934年8月敷地貸下げの許可を受けた後、1935年3月に木造平屋建て一棟(80m2)の建物が竣工した。1938年頃までには、かなり研究環境が整っていたようだ。1938年6月発行の雑誌「科学南洋」によると、当時のパラオ熱帯生物研究所の設備は以下の通りである。

実験室        1棟(平屋木造家屋一棟7m×11m、内部に大実験室、暗室、部屋番室)
海水タンク      1個 容量5トン
淡水タンク      4個 容量9.8トン(5トン1個、1.6トン3個)
物置及び便所    1棟 (5.5m×3.6m)
電動機室及び物置 1棟
採取船パパヤ号  1艇(石油発動機2馬力半装備)
採集船マンゴー号 1艇
図書
珊瑚標本陳列室
宿舎

科学南洋の記載に「図書」の寄贈者についての情報はないが、畑井教授の蔵書がかなり寄贈されていたらしい。
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<写真:1938年当時の配置図、科学南洋1-3 pp162>
さらに1939年12月には畑井の退職記念会からの寄付1,962円を元手に、木造平屋建ての畑井記念図書館が建設されている。
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<写真:1942年当時の配置図、日本学術振興会編・発行「特別及ビ小委員会ニヨル総合研究ノ概 第7回」 p265>
1940年10-11月頃には南洋真珠株式会社の寄付により、正門の右側に木造平屋建ての新実験室も建設された。内部には暗室、薬品戸棚、標本棚、応接室まであったという。

ただ配置図を見ると1938年にはなかったはずの記念図書館の建つ場所に、すでに何らかの建物が建っているのがやや気になる。また2003年8月に行われた調査によると、まだ図書室の基礎、玄関ポーチ、門柱、海水タンク、淡水タンクの基礎が残っているとのことである。敷地内にはすでに住居が建っており、私有地であると思われたので、自ら敷地に立ち入ることはしなかった。
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<写真:パラオ熱帯生物研究所の研究者たち>
1934年6月に最初の研究者が派遣されてから、研究所が閉鎖される1943年までの間にのべ27名の研究者が派遣され、珊瑚礁をはじめとする海洋生物の研究が行われたのである。派遣された研究者は数名を除き、20代から30代の大学の助手(無給福手)か大学院の学生であった。常勤の研究員も置かず、所属の大学に在籍したまま、常時3名ほどの研究員が入れ替わり立ち替わり派遣されている。任期も不定期で短い人は数ヶ月、長い人は4年以上にも及んだ。事務の取り扱いは南洋庁水産課の職員が委嘱され、研究をサポートした。

研究テーマは、岩山湾の測量をはじめ、造礁サンゴの分類、生態、代謝機能、生殖と発生、骨格造成、湾内の海水の物理化学、プランクトン、サンゴ礁の構成、破壊に関係する動物、造礁作用と外囲条件などで、主に研究所の目の前に広がる湾で調査研究が行われた。畑井が命名したという「岩山湾」は、大小40余りの隆起珊瑚島が散らばり、研究には絶好の環境であった。

研究所として稼動していたのは10年に満たなかったが、若い研究員らは、世界最初の珊瑚礁研究所として、後世にまで残る多くの業績を残している。当時は熱帯における長期間の観察データをもとにした海洋生物の研究はほとんどなく、先駆的な研究テーマに取り組む世界にもまれな研究機関であった。


当時の研究成果は、主に英文のパラオ熱帯生物研究所研究報告(Palau Tropical Biological Station Studies)の創刊号(1937 年3 月)から最終号(1944年5 月)までに刊行された8 号、66 篇の論文や和文の雑誌「南洋科学」収蔵の116 編の論文に発表されている。発表論文は、その他の雑誌、著書を合わせると280 に及ぶ。

記録から拾える限りにおいて、在籍した研究員の研究テーマは以下の通り
江口元起:岩山湾から43 属116 種の造礁サンゴを報告
阿部襄:サンゴや無脊椎動物の分布調査
内海富士夫:サンゴや無脊椎動物の分布調査、蔓脚類の分類学的研究
元田茂:造礁サンゴの成長と環境要因研究
林一正:サンゴの骨格形成の組織学的研究
阿部襄:造礁サンゴの摂食習性
川口四郎:サンゴ虫や褐虫藻の色素や代謝研究
羽根田弥太:発光生物
山口年彦:造礁サンゴとナマコ類調査
阿刀田研二:サンゴ類の生殖及び幼生の発達研究
川上泉:サンゴ類の生殖及び幼生の発達研究
時岡隆:ホヤ類の分類学的研究
三宅貞祥:十脚甲殻類の分類学的研究
林良二:ヒトデ類の分類学的研究
村上四郎:蛇尾類の分類学的研究
高橋敬三:多毛類の分類学的研究
阿部宗明:魚類の分類学的研究

この中でも川口四郎氏の研究は、特に高く評価された。川口博士は、造礁サンゴが体内に住まわせている褐虫藻の分離培養に世界で初めて成功し、さらにそれが渦鞭毛藻の一種で、プランクトン生活(サンゴが褐虫藻の光合成から栄養を得ていることを意味する)をするという発見をした。これは「サンゴは動物を食べることによってのみ栄養を摂取している」とされた当時の学説を根底から覆す研究成果であった。

しかし研究所は、戦争の激化によって、1943 年3 月日本海軍によってセレベス島マカッサルに建設された海軍総合科学研究所の環境科学部に編入されることが決まり、コロールの研究所は閉鎖された。そしてマカッセルに遷された研究機材と図書文献は終戦の混乱と共に散逸した。

しかしパラオ熱帯生物研究所が育んだ若き研究者らは、戦後の珊瑚礁研究の大黒柱へと成長していった。初代所長として、自らも現地に幾度も出向き、将来の泰斗を育成した畑井教授の精神を端的に表す言葉が浅虫臨海実験所の一画に刻まれた石碑に残っている。

「それは 君大変おもしろい。君 ひとつ やってみたまえ」

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by iyasaca | 2009-08-29 21:29 | パラオ共和国 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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