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パラオにいってみた その2 南洋庁パラオ支庁庁舎と南洋神社

パラオは南洋群島の中でも日本に地理的に近かったこともあって、日本の影響が最も色濃く残っている。1995年のパラオ共和国の独立式典の際にパラオ国歌に続いて君が代が流れたことは日本ではあまり知られていない。

日本とパラオが交差した最初記録は江戸時代にまで遡る。1821年、岩手県宮古市を出港した神社丸の船員12名が漂流、うち10名が上陸し、パラオに4年間滞在した後にマニラ経由で帰国している。帰国したときには8名になっていた。

ドイツに代わって日本が支配を始めるのは1914年のことである。軍政を経て、民政移管を果たした際に、コロールに南洋庁を置いている。南洋庁は大変な資金を投入し、コロール島を中心に、パラオのインフラを整えていった。

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<写真上:南洋庁パラオ支庁庁舎、写真下:現在の姿、今はパラオ最高裁判所>

日本が短い統治期間中に整備したインフラは、敗戦後米国によって、徹底的に破壊されてしまった。「日本色を完全に払拭する」ため、商店は取り壊され、畑は掘り起こされ、道路までもブルドーザーで掘り返されてしまったという。例えば、かつてコロール島の中心部は、東西に複数の道路が走っていたが、現在綺麗に舗装されているのは、幹線道路一本だけで、あとの道路は舗装こそされているが、がたがたである。

さて今回の目的地は南洋神社である。コロール島の東にあるアルミズという高台に南洋神社跡が残っているのである。1938年頃の建築と言われている南洋庁パラオ支庁庁舎周辺に広がるコロールの中心街を抜けて、東へ約15分。そこから幹線道路をはずれて、南に入り、舗装の質がぐんと低下した道をしばらく走ると旧参道入口に到達する。右側に石灯籠が見える。

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<写真:南洋神社の参道入口>
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<写真:南洋神社本殿へ続く参道>

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天照大神をご神体とする官幣大社、南洋神社は1940年に創建された。1945年5月17日の米軍の空襲により本殿は大破するが、すぐに日本軍が修復した。1945年9月11日、コロールの社殿が奉焼され、11月17日日本政府が南洋神社廃止を決定、1946年1月5日仮本殿で昇神の儀、仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ1月19日御奉遷の手続きが行われた。9万6,248坪といわれる広大な境内は私有地となり、住宅が建てられた。
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1997年に住吉会系日本青年社の幹部が組織した清流社によって再建がなされ、また「日本—パラオ心を結ぶ会」によって石碑も設置された。
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<写真:かつての南洋神社の様子>
さて南洋神社は日本とパラオの祖先神と大東亜戦争の戦死者が合祀されている官幣大社であった。近代社格制度は少し複雑であるが、簡単に説明を試みる。まず神社は、大きく官社と諸社の二つに分けられ、さらに「神宮」がこれらの神社の上に位置づけられている。神宮とは要するに、伊勢神宮を構成する16の神社のことである。

官社(官国幣社)はさらに官幣社と国幣社に分かれており、それぞれに大・中・小の格が定められている。格の順序としては、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社(別格官幣社)>国幣小社となっている。別格官幣社は、国体に特に貢献をした人物を祀る神社を指す。

諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分類されている。社格の順序としては、府社=県社=藩社>郷社>村社>無格社となっている。

社格の違いは延喜式に定められたものに倣っている。例祭などの際に、神に捧げる布帛、衣服、武具、神酒など供え物の出し手も社格によって異なる。官幣大社は、宮内省(皇室)から、国幣大社は国庫から、府県社は府県から奉幣を受け、郷社は府県または市から奉幣を受けた。

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<写真:南洋神社のみこし行列>
幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀の際に神に捧げる供え物のことで、上にも触れたとおり、布帛、衣服、武具、神酒を指す。神饌(しんせん)は含まない。神饌とは、米、塩、水、野菜、鯛、鰹節(干鰹)、海藻、果物、清酒など、食べ物の供え物のことである。ちなみに、天皇陛下の命により幣帛を奉献することを奉幣(ほうべい、ほうへい)と言う。

官幣大社である南洋神社は、いわば神社の中では最高の社格であったのである。
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by iyasaca | 2009-07-11 00:18 | パラオ共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた その5

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<写真:かつて南洋櫻と呼ばれたフレームツリー>
-戦争から敗戦と撤退-
1933年3月に日本は「日本軍の満州撤退勧告案」の採択に反対し、国際連盟を脱退する。米国との対立も深まるなか、クェゼリン、ウォッジェ、マロエラップ、ジャルートの要塞化を始めた。要塞化は、その後ミリ(Mili)、エニウェトクの環礁にも及んだ。ハワイ、ウェークなどへの攻勢を念頭に置いた動きであった。

米国の太平洋諸島への反転攻勢は1942年6月5日のミッドウェー海戦を機に始まる。1942年2月1日の米国機動部隊の攻撃は何とかしのいだものの、反転攻勢が本格化した43年12月5日のマーシャル諸島沖航空戦以降は、一方的にことが進む。

すでに43年にアッツ、タラワ、マキンを失っていた日本は、マーシャル防衛のため、マロエラップ、ウォッゼに重点的に守備隊を配置した。しかし、米軍はマロエラップ、ウォッゼには目もくれずに、防備の手薄なクエゼリンを攻撃目標に定めた。

マーシャルには44年の段階で、日本陸軍海上機動第一旅団第二大隊1,020名を中心に、海軍所属の第6根拠地隊付属陸戦隊と第61警備隊所属など軍人軍属合わせて5,210名が守備についていた。だいたいの内訳は以下の通り
第6根拠地隊本隊 80名(第6根拠地隊司令官 秋山門造少将)
第61警備隊1,500名(第61警備隊司令 山形政二大佐)
第6通信隊400名 
第6潜水艦基地隊200名 
海上機動第1旅団第2大隊基幹 1,020名(海機第1旅団 第2大隊長 阿蘇太郎吉大佐)
また司令部には来島中の海機第1旅団参謀の伊藤豊臣少佐がいた。 

43年11月に第6根拠地隊司令官に着任した秋山門造海軍少将は、海岸沿いにトーチカや戦車壕の構築を命じたが、珊瑚礁であるクエゼリンで地下陣地を構築できるわけもなく、椰子の木で掩蔽壕を作るのが精一杯であった。その他の防御用陣地も米軍攻撃開始までにはほとんど完成できなかった。

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<写真:クエゼリン環礁全図。米軍は環礁の西端より上陸。中央部に飛行場、その北東には司令部があった、Wiki Commons, Public Domain>
リッチモンド・ターナー中将の指揮によるクェゼリン攻略が始まったのは、1944年1月30日のことであった。米軍はこの作戦に、戦艦4隻を背後に、輸送船20隻を配置、水陸両用兵員輸送車240両、水陸両用戦車74両、上陸攻撃部隊5万3000人、守備部隊3万1000人を投入した。上陸作戦は、B-24爆撃機による空爆で始まった。第一波は午前3時25分。B-24爆撃機15機、第二波は午前4時45分にB-24 60機、そして午前9時には120機による三次にわたる空襲が加えられた。

翌31日も三波にわたる空爆が行われた。完全に制空権を握っていた米軍はまともな反撃も受けることなく、一方的に爆撃を加えた。日本は環礁内に停泊していた輸送船を全て失い、地上の施設もほぼ全て無能力化された。空からの攻撃が一段落すると艦砲射撃も本格的に行われた。3000メートルほどの距離から40センチ砲を撃ちこむため、「命中しないのがどうにかしている」というほどの精度で地上施設が破壊され、守備隊の5分の1が死傷した。この段階で第6根拠地隊は暗号文書などの焼却を始めている。勝ち目がないことは分かっていたのである。米軍はこの間にクエゼリンに最も近いエヌブ島に48門の火砲を陸揚げしている。

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<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン上陸作戦、National Park Service, US Dept of the Interior, Public Domain>
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<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン攻略、archives.com, Public Domain>
2月1日早暁、ついに上陸作戦が始まる。艦船の支援射撃を受けながら、戦車を先頭に西海岸の上陸地点に到達した米軍は、日本守備隊の決死の防戦に苦戦する。秋山門造司令官より「各隊は一兵となるまで陣地を固守し本島を死守すべし」との指令を受けていた守備隊は健闘し、米軍は正午近くになっても500メートルほどしか前進できないほどであった。

しかしこの日の夜、秋山司令官は前線視察のため、司令部壕を出た瞬間、艦砲弾の破片を被弾、即死する。にもかかわらず、守備隊の士気は下がらず、その日の夜半、阿蘇太郎吉陸軍大佐麾下の機動大隊と第61警備隊は、夜襲をかけ、一時期は米軍を水際近くまで撃退する。しかし前日にエヌブ島に陸揚げされていた火砲と艦船からの集中攻撃を浴び、陣地確保はならず、ほどなく退却を余儀なくされた。

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<写真:クエゼリンで降伏する二人の日本兵、2月2日頃、RWP>
2月2日には飛行場の東側の陣地をめぐる戦闘が続き、日本守備隊による戦車への体当たり攻撃など玉砕攻撃も始まる。守備隊による抵抗は翌3日も続いたが、圧倒的な戦力を前に死傷者の数は増えるばかりであった。4日の夜明けあたりから日本軍の陣地が戦車に突破されるようになり、ついに2月4日午前10時、海軍首脳部は司令部作戦壕で自決した。その後、阿蘇大佐率いる残存兵も敵中に突撃し、玉砕した。米軍はその後残存兵の掃討作戦に入り、翌5日午前零時30分、米軍が島の北岸に到達したことをもって、米第7師団長コーレット少将は組織的抵抗が終了したことを宣言した。日本側の戦死者は4,800名あまり、その中には臣籍降下していた朝香宮鳩彦王の次男、音羽正彦少佐も含まれる。生存者はわずか263名であった。そのほとんどは設営労務者であった。対する米軍の死者は177名、死傷者まで含めると1,214名、死傷者の比較で言えば一方的であったが、激戦であった。

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<写真:クエゼリン環礁で手榴弾を投げ、進軍する米軍4th Division, RWP>
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<写真:クエゼリン、2月2日頃、 National Archives、Public Domain>
一方マジュロは守備隊が配置されておらず、2月1日にハリー・ヒル少将指揮の部隊に上陸され、あっさり占領されている。 米軍は、クェゼリンを空軍基地とし、そしてマジュロを航空母艦基地として整備し、カロリン諸島攻略の重要な起点とした。その後44年7月にはサイパン、44年9月にはグアム、テニアン島、45年3月には硫黄島と日本の玉砕が続くことになるのである。グアム・サイパンは日本の本土空襲の拠点となり、そしてテニアン島は、広島・長崎の原爆搭載機が飛び立つ基地となるのである。

クエゼリンの戦闘の帰結が内地に伝えられるのは戦闘終了から約3週間後の2月25日である。大本営は午後4時に、こう国民に伝えた。
「クェゼリン島竝(ならび)にルオット島を守備せし約四千五百名の帝国陸海軍部隊は一月三十日以降来襲せる敵大機動部隊の熾烈なる砲爆撃下之と激戦を交え二月一日敵約二ヶ師団の上陸を見るや之を激撃し勇戦奮闘敵に多大の損害を与えたる後二月六日最後の突撃を敢行、全員壮烈なる戦死を遂げたり。ルオット島守備部隊指揮官は海軍少将山田道行にしてクェゼリン島守備部隊指揮官は海軍少将秋山門造なり。尚両島に於て軍属約二千名も亦(また)守備部隊に協力奮戦し全員其の運命を共にせり」

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by iyasaca | 2009-06-06 12:42 | マーシャル諸島共和国 | Comments(9)

ナガランド州コヒマにいってみた その8

ギャリソンヒルの丘の上に立ち、ここでの戦いを理解したくて、8つものエントリーを長々と書いてしまった。コヒマとインパールの戦いについての記事はこれで最後。

牟田口司令官は1944年8月30日参謀本部付となり、内地に戻る。その際にラングーンでビルマ方面軍が主催した歓送会で、牟田口氏はこう発言している。

「自分は、インパール作戦は失敗したとは思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマを取られずに済んでいる。自分がもし、無理をしてもやらなかったら、今頃は大変なことになっておった。」その後、陸軍予科士官学校長となる。戦後は東京都調布市で余生を送り、1966年に77歳で亡くなった。

彼に対しては最後までインパールの責任を認めなかったという批判の声がある。
彼の戦績と戦後の行動、言動を見ると、ベトナム戦争時の国防長官でその後、世界銀行の総裁を務めたロバート・マクナマラ(Robert S. Macnamara)を思い出す。彼は、齢80に到達するかというところで、ベトナム戦争に対して反省めいた発言を始める。彼の回顧録("In Retrospect: The Tragedy and Lessons of Vietnam"1996)やFog of War(2003年製作)では、彼の苦悩が比較的正直に表現されている。70を超えて、自分の考え、特に自分の人生を否定することになりかねないほどの考えの変更を公にするその勇気は、素晴らしい。

さて一方、佐藤幸徳師団長である。牟田口のコヒマ死守命令を無視し、激烈な電文を打ちながらラングーンに向け撤退していった。下の引用は、師団長解任直前、ラングーンに向かう途中のカレワからの電文である。

「統帥もここに至っては完全にその尊厳を失い、全て部下に対する責任転嫁と上司に対する責任援助の耐え存在しあるに過ぎざるものと断ぜざるを得ず。実に前代未聞のことなり。彼ら(第15軍)には微塵も誠意なく責任感なく、ただ虚偽と、部下に対する威嚇あるのみ。小官はコヒマに在りし当時より、つとにこの深層をカンパし、警戒しつつ今日に至れるものなり。林(第15軍)司令部の最高首脳の心理状態については、速やかに医学的断定を下すべき時期なりと思考す。森(ビルマ方面軍)司令部もまた,第一線より遠く隔絶せるラングーンより、第一線の身体を指導せんとするがごとき、実に統帥の要諦を理解せざる結果と思考せざるを得ず。」

佐藤氏は、解任後、「急性精神過労症」との診断により、ジャワの第16軍司令部付となる。軍法会議では不起訴になっている。戦後インパール作戦について手記を残したとのことだが、出版はされていないようだ。

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さて現在、ギャリソンヒルは英印軍第二師団の墓地となっている。その麓には有名な碑が立っている。

When you go home
Tell them of us and say
For your tomorrow
We gave our today

この碑文は英印軍第二師団ジョン・エティー・リール(John Etty-Leal)少佐が第一次世界大戦のジョン・マックスウェル・エドモンズ(John Maxwell Edmonds)少佐による碑文、
When you go home, tell them of us and say
"For your to-morrows these gave their to-day."
に触発されて書かれたものであると伝えられている。

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さらにその横にある説明文の全文である。訳すのが面倒なので、英文のまま掲載する。(原文は全て大文字)

In February 1944, A Japanese Army of Invasion advanced across the hill of Manipur and Assam, Proclaiming as its mission the conquest of India.

By April the Japanese 31st Division had invested Kohima. Its vanguard were approaching Dimapur to meet the threat to the lifeline of our force in Imphal. The 2nd Division was called from southern India.

By land, sea and air, the Division moved to Dimapur. As fast as troops arrived, they advanced to the relief of the valiant Kohima Garrison, isolated on the top of Garrison Hill.

On 14 April, leading the advance, 5 Inf. Bde. Smashed foremost Japanese road block at Zubra, and on 18 April, 6 Inf. Bde. relieved the Kohima Garrison. Now almost at the limit of its endurance, the first task had been completed.

The second and heaviest task was to drive the enemy from the dominating heights of Kohima.

On this and the surrounding hills was fought. For one month the bloodiest and most desperate battle of the campaign, here and on the hills. Above, 6 Inf. Bde. endured and fought back till every Japanese soldier was killed or lay buried under his broken strong points. To the north the Kohima Naga village was carried by the night assault of 5 Inf. Bde and held against repeated counter attacks to the south. Over the steep jungle covered hills of Pulebadze, 4 Inf. Bde. marched for fourteen days to strike the enemy in the heart of his positions. By 15 May, all Kohima was ours, and the strength of the 31st Japanese Division broken. Without continuously loyal aid from Naga stretcher bearers, porters and guides, this victory could not have been won.

There renamed the final task of 2nd Division. To complete the rout of 31st Japanese Division, and open the road to the besieged Garrison at Imphal at Aradura, Viswema, Khuzama and Maram, victories were quickly won against deperate enemy rearguards. On 22 June 1944, contact was made at Mile 108 with the forces advancing from Imphal. The road was open and the three-month siege of Imphal raised.

A routed force, the once proud 31st Japanese Division was in heralding retreat eastwards, uttering the hill tracks with its dead and dying.




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ギャリソンヒルにある墓地は英印軍だけのもので、そこで命を落とした日本軍の英霊は葬られていない(と書いたが、後述するように、日本人らしき名前が刻まれた墓碑が並んでいる区画があった)。ひとつのひとつの墓石には、英印軍に参加した、英国人、インド人、ネパール人の名前が刻まれている。写真の墓石は1944年4月19日に25歳で亡くなったR.C.Raw上等兵のものである。ちなみにこの丘の頂上に、前回のエントリーで紹介したテニスコートがある。

日本軍の慰霊碑は、インパール近郊15キロのインド政府の協力を得たロトパチン村の村民と日本政府によって1994年になってようやく建立された。

ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えていこうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼を供養のため、慰霊祈念碑を建て、独立インドのシンボルとしたのです。」
ロトパチン村の好意はありがたいが、行き届いた管理がなされたギャリソンヒルの英印軍の墓地を見ると、この戦没者への姿勢の彼我の違いは何であろうかということを感じざるを得ない。

とはいえ、日本も遺骨収集は1978年まで粛々と行われていた。しかしながら、現地の治安悪化によって、長きにわたって中断していた。しかし2012年1月25日、グワハティに英軍墓地で、34年ぶりの遺骨収集が行われた。墓地の一角に日本人とみられる名前が刻まれた11の墓碑が一列に並んでいる区画があり、2012年の遺骨収集団は、そのうち9つの墓碑前面から遺骨を収容している。しかし、インパール作戦で犠牲になった3万人のうち、収容できた遺骨は2万人分に満たないのである。

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コヒマに残る戦跡は、ほかにもある。山腹に英国第二師団がコヒマ攻略のために使ったM3戦車が野外展示してある。あまりに普通のところにあるので、知らないでいたら、気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

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戦後、日本側とイギリス側の戦友会がお金を出し合い、カトリックの教会を建立している。平和を願って建てたものでキリスト教会にしたのはナガの多くがキリスト教徒であるからである。内部の様子を見れば分かる通り、かなり大きい教会である。

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入り口を入ってすぐ右側に日英両言語での碑文がある。コヒマのエントリーの締めくくりにこれ以上ふさわしい文章はないので、引用して、その結びとしたい。

奉納趣意書
一九四四年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて○千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。

“君、故郷に帰りなば伝えよ
  祖国の明日の為に死んで逝った
    われらのことを“

ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らが願った「祖国の明日」とは、平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。

しかしいまや世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私たちはお互に国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。

このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又、地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。

玆に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。

合掌

一九八九年一月吉日
  日本国
    コヒマ戦生存戦友
    同 戦友者遺族  一同
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by iyasaca | 2006-08-19 11:07 | インド | Comments(3)

ナガランド州コヒマにいってみた その6

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前のエントリーでも触れたとおり、ナガの民はモンゴロイド系である。突然現れた日本人が自分たちと姿形がそっくりであったこともあり、当初は日本人のことを親しみを込めて「アッパニーズ」と呼んでいた。しかし、補給の尽きた烈師団の将兵が、コヒマの村民の生活の糧である鶏はじめとする家畜を次々に奪ったことで、徐々に反発を買い、烈師団が撤退する頃には敬称がとれて、ただの「ジャパニーズ」になってしまったそうだ。

一方英印軍は、空路で潤沢な補給を受けていた。3ヶ月あまりの戦闘の期間を通じ、英印軍は1万9,000トンあまりの物資と1万2,000人の兵員を空路で運び込んだ。日本の優勢はあっという間に失われていった。

第58連隊の兵士の証言によると、
「(英印軍は)彼らの自由自在に好き勝手に爆撃されたわけだから、しまいにはね、もう連砲(連隊砲)撃たないでくれって。結局私らが撃つでしょう、一発撃つと、向こうは450門も揃えているから、一斉に撃つわけだから、ばーっと。もう撃たないでくれって言われちゃうんだから、小銃隊から。」(大越正意連隊砲中隊兵長の証言、シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

「ポンポンという音じゃないですよ。ただグワーといってくるだけですよ。だから何十か何百かそのくらいの砲撃がいっぺんにやってくるんですからね、それはもう絶え間なく撃ってくるくらいですよ。」(第58連隊山田義弘兵長の証言、同番組)

一方、佐藤師団長は、圧倒的な物量作戦が展開されるのを見て、第5飛行師団の田副師団長宛に
「弾一発、米一粒も補給なし。敵の弾、敵の糧秣を奪って攻撃を続行中。いまや頼みとするは空中よりの補給のみ。敵は糧秣弾薬はもとより、武装兵員まで空中輸送するを眼の前に見て、ただただ慨嘆す。」
との電文を打っている。


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この時期、兵士たちの間に一つの噂が流れる。天長節(天皇誕生日)である4月29日に一斉攻撃があり、作戦が完了するのだというものである。攻め込まれてはいたものの兵士たちの士気はある程度は保たれていたようであり、英印軍に投降を呼びかけるビラを撒くなどPsyOpも行っていた。

「絶対に日本軍は大丈夫だ、勝つんだ。負ける経験がないんだから、僕なんかも全然あとで、インパールもすぐ何日かたったら落ちるだろうと、インパールが落ちれば、占領したら物資がどんどん後方から来るからと、最初いくらやられても負けるという気持ちは10日や15日くらいは私の気持ちにはなかったような気がしますね。」(第58連隊山田義広兵長の証言、同番組)
しかし、状況は改善しない。
「29日に近い日になれば20日頃なら20日頃にね、本当だったら陥落間近だという情報が来るはずだけど、全然来ないでしょう。これはだめだなと感じがしましたね。」(山上博少尉の証言、同番組)

英印軍は徐々に盛り返し、5月13日にはコヒマの丘はほとんど英印軍に再奪取される。
完全に劣勢となった日本軍は、ついにはほぼ毎晩、突撃という強硬手段に訴えるようになる。
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突撃に討って出た兵士はほとんどが戦死したが、生き残りの兵士による証言も残っている。
「靴は音が出るんだから、靴脱いで、靴下だけになって、それから帯剣は布を巻いて、光らないように反射しないように。それで夜襲に出ていく準備なんですよ。
で、そこへ行かなければだめというのは本当に涙が出たね。これが最期の別れになるんだろうかなと」(第58連隊牧岡善太軍曹の証言、同番組)

「突撃するときは銃を持って、片方に手榴弾を持って飛んでって、安全栓は口でもってぐっと抜くんだけど、そんな暇なんかないですよ。もう抜いてあるから、ぱーんと靴の裏に当てて投げて、だからともすれば自爆覚悟でみんな行く。突撃するときは、人間そのものが狂乱になっちゃうんだね。前に敵がいれば殺すよりしょうがない。死ぬか生きるか、殺されるか生きるかの戦い
だから、何回やってもね、突撃する前、まあ我々は何回もやりましたけどね、やっぱし、友達5-6人で『じゃあよし、おいやるか』、『やろうと』、やっぱし、たばこを吸って、『もう一服吸うか』、それを吸うっていうのは、やっぱり、怖いんじゃないんだけれども、生きたいわけだ。」(第58連隊泰信之兵長の証言、同番組)
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戦闘は激烈を極めた。
「頭部は即死ですね 腹をやられるというのは一番気の毒ですね。腹とか手がもげた足がもげた、吹っ飛んでいても即死にならないから。向こうは暑いでしょう温度は40度もあるから、すぐに人間は化膿して腐ってくるわけですよ。だからもう一週間もいれば とても自分たちの壕の中にいても鼻をつままないとね。山の下から風が来るでしょ、そのにおいがね、前の方に死骸が累々としているわけだ。」(第58連隊真貝秀広伍長の証言、同番組)

前線の兵士たちが決死の突撃を繰り返している5月中旬、ビルマを視察した大本営の参謀は、「作戦は不成功と判断して間違いない」と首脳部に主張する。しかし首脳部が行った東条英機参謀総長への報告は「作戦は極めて困難」という言い回しに、修正され伝えられる。そして、東条参謀総長は昭和19年5月16日、「現下における作戦指導と致しましては、剛毅不屈、萬策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます。」と天皇陛下に上奏する。

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コヒマ包囲戦で、最後の、そして最も激烈な戦闘はギャリソンヒル、DCのバンガローとテニスコート周辺で行われた。戦闘は激烈で、ギャリソンヒルの北東方面のテニスコート〔ナガランド地区Charles Pawsey弁務官の邸宅〕では、両サイドから至近距離で手榴弾を投げ合うなど、死闘が続いた。今はすでにないが、当時はテニスコート脇に大きな桜の木が立っていた。その桜の木の上からは烈師団の狙撃手が攻め込んでくる英印軍の兵士を狙撃していたが、その狙撃手も最後は力尽きた。今はその跡に小さな桜の木が植林されている。

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今は博物館のあるギャリソンヒルの南の丘の上には、烈師団が残した歩兵砲が保存されている。昭和十三年に大阪で製造された九十二式歩兵砲との刻印が読み取れる。砲身だけで105キロあるらしい。飢えに苦しみながら、インドの奥地の山の上までこんなものを引っ張ってきたという事実に圧倒される。
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by iyasaca | 2006-08-16 19:36 | インド | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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