勝手に僻地散歩



タグ:平和構築 ( 2 ) タグの人気記事


カブールにいってみた その6

f0008679_752358.jpg

<写真:カブールの夜明け>
「平和構築」という言葉は、流行り言葉のように飛び交っているが、統治能力を失った(失わせた)国家を外的な力によって再建するという作業そのものは別に新しいことではない。

ある国を攻め滅ぼした後に、自ら統治を敷くということは古くから行われてきたことである。戦勝者が自ら統治するという場合もあっただろうし、植民地(と一言で言っても多様な統治形式があったが)という形で支配を行う場合もあったであろう。江戸期の外様大名のように、軍門に降り、忠誠を誓った者に間接統治を許す場合もあるだろう。

植民地化し、被植民地の資源を搾取し、露骨に自国の利益を追求しても何も言われなかった古きよき時代が過ぎ、第一次世界大戦後の世界になると、委任統治という統治制度が発明された。国際連盟規約第22条を根拠とするこの制度は、国際連盟によって委任された国に、国際連盟理事会の監督下において一定の非独立地域の統治を許した。例えば、第一次大戦の敗戦国ドイツ帝国の植民地であったアフリカと太平洋の一部地域とオスマン帝国が支配していた中東地域にて委任統治が行われたが、実際には植民地統治とほとんど変わらなかった。

委任統治領は、原則的に国際連合下の信託統治領へと移行がなされたが、一部の地域は反発し、移行を拒否している。英国が受任国として委任統治していた旧オスマン・トルコ領パレスチナもその一つである。結局このケースは、ユダヤ人とアラブ人との間の調整に失敗し、双方から攻撃を受けるようになった英国がパレスチナ統治を断念し、委任統治の期限である1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言、現在にまで続く紛争地となった。タイ南部であれ、インド北東部であれ、パレスチナであれ、アフガニスタンであれ、現在も打ち続く多くの紛争の地で英国は何らかの形で関わっていることを考えると、罪深い限りである。その後、信託統治領も次々と独立し、1994年10月1日に米国の信託統治下にあったパラオが独立したのを最後に、信託統治領は姿を消した。

第二次大戦後、代わって主流となったのが国連PKOという仕組みである。PKOは当初、停戦合意が成立した後に、紛争当事者の同意を得て、紛争が再発防止を目的に、停戦監視などを中立的な活動を中心に実施されてきた。しかしながら、その活動の範囲は徐々に広がっていき、停戦後の復興にかかわる武装解除の監視や選挙が公正に行われるかどうかの監視、難民帰還支援などの文民活動についてもあわせて実施されるようになった。

f0008679_6233753.jpg
<写真:地雷原。写真中央の緑色に黒の十字が入っている物体が対人地雷。ほかにもいくつか落ちているのが見える>
90年代に展開したカンボジアやモザンビークでのミッションに典型的なように、国連PKOの下で軍事部門のみならず、文民部門についても幅広く任務を遂行することになり、実質的に国家運営を暫定的に担うようになった。2000年8月に出された国連の報告書(通称ブラヒミ・レポート)では、拡大するミッションに対応するため

1)紛争予防
2)平和構築
3)PKOの原則と戦略
4)PKOの任務と安保理の関係
5)緊急展開と待機制度
6)情報収集・分析能力強化
7)後方支援拡充と本部による支援能力の強化

の7つの分野について勧告がなされた。

上に挙げたカンボジアやモザンビークのほかにも例えば、シエラレオネや東チモールなどでも国連が暫定統治を敷き、軍事、文民部門の一切の運営を行った。またイラクのように国連ではなく、占領軍がそのまま占領統治を行うケースもあるが、担う役割はそれほど変わらない。

平和構築のメニューは、停戦合意後、武装解除を行い、必要に応じて憲法を含む法制度、司法制度の確立を図り、新しい治安維持機構(軍、警察)を整備しつつ、選挙を行い、権限を現地に委譲するという一連のプロセスを辿る。国の文民的機能の運営権限の委譲を受けた後も治安維持機能だけは国際社会に頼るという場合もある。

このメニューを見れば明白であるように、ここで構築しようとしている平和の先に見据えている国家像は、中央集権型国家である。例えば、停戦合意後に行われる武装解除である。アフガニスタンにおける武装解除・動員解除は、軍閥(Paramilitary含む)が対象である。そして回収された武器は、アフガニスタンの新しい国軍の武器となるのである。

しかしアフガニスタンと呼ばれている物理的空間が、中央集権的な国家を経験した時期は極めて短い。そしてカブールで「新国軍」と称して武器を回収している輩も、一歩引いて見てみれば軍閥の一つに過ぎない。にもかかわらず、軍閥の一つだけを正統とみなし、武器を回収されている軍閥の支配地域にほとんど影響力を持たない「カブール閥」に暴力装置の独占を許すということが、アフガニスタン全土の治安を確保する上で最善の道であるかどうかは疑問が残る。

もちろんカンボジアのように民族の同一性が比較的高いとされている国家であれば、中央集権化を推し進めることは確かに有益であろう。しかし、多民族国家であるアフガニスタンでも同様に効果的であるかは再考の余地がある。結局人々は「中央集権国家」、「国民国家」、「民主主義」という理念を食べて生きていくわけではない。自分の子供が無事に学校から帰ってくるか、汗水たらして働いて得た収入が誰かに不当に奪い取られないか、つまり日々の安全、周りの環境が安寧であることが最も重要なのである。理念に溺れて、人々にとって最も重要なものがないがしろにされるようでは、理念そのものから疑ってみるのが正しい思考方法だろう。

これは思いつきに過ぎないのだが、日本は自らの歴史、経験の中から、平和構築、国づくりについて新しいパラダイムを提示することができるのではないかと思っている。日本は戦国時代から江戸期にかけて、分権的な統治スタイルを260年あまりも維持した歴史を持つ。しかも、それは戦乱にまみれていた日本という空間に長い平和をもたらした成功モデルである。この移行期の政治過程を平和構築という観点で分析をすることで、多民族国家の統治スタイルのひとつのモデルを引き出せるのではないかと考えている。もう一つの日本の財産は明治維新である。発展途上国としての日本の近代化の足跡も同様に研究に値する興味深いテーマである。すでに多くの先行研究はあるだろうが、日本の国際貢献という観点から新しいパラダイムを提示すると言う作業はいまだなされていないように思う。今後も折に触れて、このテーマは追っていこうと思う。

日本はアフガニスタンの治安部門改革にて、最も困難であるDDR(武装解除・動員解除・元兵士の社会再統合)を担当した。その成否は別にして、これは欧米が設計図を引いた平和構築のモデルの一端を担ったに過ぎず、そこに日本でなければ貢献できないというメッセージを強く感じることはできない。パラダイムを転換するような発想とそれを推進する政治力がなければ、国際社会の都合のいい金づるとして利用されるだけ利用され、そして捨てられるだろう。経済力の低下は必ずしも発言力の低下を意味しない。日本は経済力があるうちに、それ以外の方法で発言力が確保できるような知的な力を備えなければならない。そのようなことをカブールで感じた。
f0008679_2223537.jpg

<写真:雪のカブール空港:サヨナラ、カブール>

[PR]
by iyasaca | 2008-03-22 20:39 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その9

2000年2月にスリランカ政府、LTTE双方から調停を依頼されたノルウェー政府は、水面下で協議を始めた。協議が進む中、2001年12月の議会選挙で、LTTEとの対話を通じた和平を訴えたウィクラマシンハ率いるUNFが政権につく。この政権交代が、和平への新たな機運を高めることになった。選挙から約2週間後の12月19日、LTTEは一方的に停戦を宣言、政府も24日に停戦に合意した。2002年1月1日には和平調整本部が立ち上がるなど、急ピッチに和平交渉の舞台が整い始めた。これが2006年7月に実質的に停戦合意が崩壊するまで4年間に渡る停戦期間の始まりであった。

第一回和平交渉は、2002年9月16日、タイ・サタヒップ海軍基地内で行われた。2003年4月にLTTEが一方的に和平交渉の一時中断を表明するまでの約8ヶ月間、計6回の和平交渉が行われた。

以下の通り、ほぼ月に一回のペースで和平交渉が開かれていた。また議題を追ってみると協議も順調とまではいかないまでも、少しずつ進展していた。
第一回和平交渉 2002年9月16日 タイ・サタヒップ海軍基地
第二回和平交渉 2002年11月11日タイ・パタヤ(治安、緊急人道支援、政治問題を扱う3つの小委員会の設置に合意)
第三回和平交渉 2002年12月ノルウェー(統一国家の枠内での連邦制導入を目指すことで合意)
第四回和平交渉 2003年1月タイ・ナコンパトム(和平成立後の政治的枠組みとしての連邦制について議論)
第五回和平交渉 2003年2月ドイツ・ベルリン(児童兵士問題とロードマップ作成をイアン・マーティン元アムネスティインターナショナル代表に委任することが決まる)
第六回和平交渉 2003年3月18日 日本 箱根

しかし箱根での第六回協議の翌月、LTTEは一方的に和平交渉の一時中断を表明する。その後も直接協議こそ行われなかったものの、2004年3月にLTTEのカルナ東部地域司令官の離反などの事件を経ながら、小康状態は続いていた。転機はクマラトュンガ大統領の任期満了にともなう大統領選挙であった。2005年11月の大統領選挙は、対話による和平を訴えるウィクラマシンハ候補と、強硬路線を訴えたラジャパクサ候補(Percy Mahendra 'Mahinda' Rajapaksa )の一騎打ちとなった。そしてラジャパクサ候補が僅差(ラジャパクサ50.29%、ウィクラマシンハ48.43%)でウィクラマシンハ候補を下し、大統領に当選するのである。

f0008679_17421226.jpgラジャパクサ新大統領の対LTTE政策は、一時期のクマラトュンガ大統領ほどの頑迷な強硬路線ではなく、より洗練されてはいたのだが、選挙後は双方で停戦合意違反の報告件数が増えるなど、小康状態にあった両者の関係に少しずつ変化が見えるようになった。それでも2006年2月22日には、ジュネーブで約3年ぶりの直接協議も実現したが、LTTEは4月に予定されていた第二回協議を6月に延期した上、土壇場で会議をキャンセルした。関係者全員が会議開催予定のノルウェーに入った後でのキャンセルに、さすがのノルウェーも公の席で憤りを表明した。

結局この実現しなかった協議を最後に、スリランカは再び内戦の道へと後戻りしていく。2006年7月にはスリランカ東部地域の水門封鎖事件を発端に、軍事衝突が再開、これをもって2002年以来の停戦合意は事実上崩壊した。スリランカ政府はその後も軍事作戦を展開、2007年6月にはLTTEの東部の拠点を全て制圧した。今後は北部に戦略資源を振り分け、引き続きLTTEに圧力をかけつつ、スリランカ政府に有利は形での紛争の妥結を探るということになるのだろう。
<写真:M. ラジャパクサ大統領(www.mahinda4srilanka.org/より)>


f0008679_17423681.gifさて日本は戦後スリランカに対して、多額のODAを供与している。世界の対スリランカODAの約7割は日本である。停戦期間中も日本政府は、スリランカ復興開発に関する東京会議(2003年4月)などで10億ドルの資金拠出(参加国中最高額)を表明し、また明石康氏を政府代表に任命するなどのスリランカ和平に向けて一定のコミットをしている。しかしながら、スリランカ和平における日本のプレゼンスは限りなく低い。日本は自らの経済的支援を用いて、交渉をしている気配がないのである。70代の後半にある明石氏の個人的限界もあるのだろうが、それ以上に和平交渉を行う上においてのサポート体制にも問題がある。

効果的な和平調停のためには、明石氏のような政府代表の下に、情報ソースとしての現地にネットワークを持つNGOと紛争研究の蓄積がなければならない。いずれの分野についても、日本は遠くノルウェーに及ばない。何しろ、このような分野でプロとして活躍できる人材がいないのである。今年度から外務省がパイロット事業としてスタートさせた「寺小屋構想」にも和平調停の分野は含まれていない。
<写真:明石康日本政府代表(スリランカの平和構築および復旧・復興担当)>


日本は戦後、日本国憲法のもと地域の発展と安定に武力以外の手段をもって貢献してきた。この戦後60年間の取り組みは国際社会からおおむね高い評価を得ていると言えよう。この高い評価の源である戦後日本の平和国家としての歩みと実績は、日本が今後も守り続けるべき財産である。

より積極的な国際貢献が求められるようになった日本はすでに平和構築と呼ばれる多くの分野に、政府として、また国際機関を通じて支援を行ってきている。しかし多くの支援は、欧米がひいた設計図の上をなぞっているに過ぎず、そこに内側から出てきた理念や信念を感じることはできない。

ありうべき日本の国際貢献の道筋はいくつかあるだろう。米軍との協力関係を強化するのもいいが、その切り口の一つは、和平・調停の分野であろう。紛争(紛争の再発)を予防し、平和の維持・構築の支援を行っていくという方向性は、平和国家として歩んできたと戦後日本の歩みと矛盾しない形で国際社会に対する責任を果たすことができる。この分野における人材育成が待たれるところである。
[PR]
by iyasaca | 2007-07-07 16:53 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(5)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル