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茶臼山 堀越神社にいってみた その5

587年8月2日に即位した崇峻天皇は倉梯に宮殿を構え、翌年3月に大伴糠手連の娘である小手子(こてこ)を妃に娶った。すぐに皇子と皇女をもうけている。

皇位継承をめぐる争いの直後であり、安定性と継続性を重視したのか、崇峻天皇は用明天皇の側近をそのまま引き継いでいる。

崇峻天皇は、仏法の振興(僧侶の招聘と留学、寺院の建立)と国境(東海道:うみつみち、北陸道:くるがのみち、蝦夷)の監視強化を行い、朝鮮半島に対しては、新羅に滅ぼされた任那の宮家復興を目指すことを掲げた。

仏法の振興とは、僧侶を連れてきて説法や布教をさせるといった単純なものではなく、寺院建築工や瓦葺など最先端の技術をもった専門家を朝鮮半島から受け入れるための国策であった。また同じ目的で百済に日本の僧侶(善信尼)を留学させている。590年10月には新しく身に着けた技術と半島から渡来した熟練工らを使って、自らの求心力も高まるであろう新しい寺院(法興寺)建設にも着手している。

しばらく続いた混乱を収めたことに自信を持ったのか591年8月、崇峻天皇は新羅に滅ぼされた任那における宮家の再建の可能性について群臣らと諮り、11月には2万余りの軍勢をまずは筑紫に向けて出兵させると同時に吉士金(きしのかね)を使者として新羅に送っている。軍事行動と話し合いを織り交ぜた、なかなかしたたかな外交である。

ここまでの崇峻天皇の治世は手堅く、決して愚かな指導者ではなかったことをうかがい知ることができる。わずか4年前には、群臣らが内乱を繰り返し、朝鮮半島どころではなかったことを考えると、ここまでの安定をもたらした崇峻天皇の手腕は評価されるべきものである。

しかし翌592年10月4日、献上された猪を前に発した一言をきっかけに崇峻天皇の運命は暗転する。日本書紀にその発言はこう記述されている。

「何時如断此猪之頸。断朕所嫌之人。」
(いつの日かこの猪の頸を斬るように自分が嫌いな奴を斬りたいものだ)

日本書紀はさらに続く。
「多設兵仗、有異於常」
(兵仗=武器を多く集めたことが、いつもと違うところであった)

このことは崇峻天皇は以前から用明天皇からそのまま引き継いだ群臣、特に大臣蘇我馬子に対する不満を抱いていたことを示唆している。しかしその不満を行動に移したのはこのときが初めてであった。

ところで、日本書紀のこの部分には「或る本によると(或本云)」と注が挿入されている。
妃の小手子が崇峻天皇の寵愛が衰えたことを恨み、使いを馬子のもとに送って崇峻天皇の発言を告げ口した。馬子はそれを聞いて驚いた、とある。

武力で自分を排除しようとするほど自分が天皇に嫌われているという事実に驚き、恐れた馬子は群臣を集め、先手を打って天皇を排除することを決意する。11月3日、馬子は、東の国から使者を迎えると嘘をついて崇峻天皇を誘き出し、その場で天皇を殺した。下手人は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)であった。その日のうちに崇峻天皇は、倉梯岡陵に葬られた。

天皇ほどの高位にある人物が殯(もがり)もなく葬られるのは異例のことである。殯は、「本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認する(Wikipediaより)」儀式のことであり、この時代には重要視されていた儀式である。例えば先代の用明天皇の本葬は死後4年経ってから、つまり殯は4年間にも及んだのである。

天皇を排除した後の馬子の動きに抜かりはない。わずか2日後の11月5日には、早馬を筑紫の将軍に送り、「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」と命じている。

この巻の最後に東漢直駒のその後について書かれている。東漢直駒は馬子の娘である河上娘をひそかに妻とした。馬子は姿を見せない娘を死んだものと思っていたが、ある日それが露見し、東漢直駒は馬子によって殺されたという。おそらくは、非が自らに及ぶことを避けるために消されたと考えるのが妥当だろう。実際に馬子は天皇暗殺という大罪が身に及ぶことはなく、626年に死ぬまで大臣という地位にとどまり続けるのである。

崇峻天皇暗殺のほぼ一ヵ月後、天皇に即位したのは炊屋姫であった。女性が天皇に即位するのはこれが初めてである。欽明天皇の皇子らがすべて世を去り、次の世代がいまだ幼少であったため、リリーフ的に即位したのであろうが、炊屋姫改め推古天皇の治世は35年に及ぶ。この後の時代は推古天皇の兄である用明天皇の皇子、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が両輪となって展開していくことになるのである。

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さて堀越神社である。この神社は推古天皇の時代に、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父にあたる崇峻天皇の徳を偲んで創建したとされている。しかし今までの経緯と歴史を考えると、本当に厩戸皇子にそのようなことができたのだろうかと不思議さが残る。さらに日本書紀の記述が正しいとすれば、告げ口をして身の破滅を招いた張本人の小手子妃が崇峻天皇とともに御祭神となっているのも不思議である。

厩戸皇子にとって馬子は20年以上も年長であり、また厩戸皇子は馬子よりも先に世を去っている。厩戸皇子にとって馬子は、おそらく生涯を通じて恐ろしい存在であったに違いない。

厩戸皇子は当時権力争いのただなかにあり、全てを見聞してきたはずであり、馬子が叔父殺しの黒幕であったこともうすうす分かっていたことだろう。すでに推古天皇の摂政としてキャリアを重ねてきた厩戸皇子に、崇峻天皇を祀る神社を創建するというあえて馬子を刺激するようなリスクを犯すメリットがあるとも思えない。ひょっとしたら馬子が「自分は天皇暗殺とは関係ない」ということをアピールするために、厩戸皇子にあえて、崇峻天皇を祀る神社創建を勧めたのかもしれない。

このように素人がああでもない、こうでもないと、いろいろ考えることができるのも楽しいことである。

いずれにしても現在の堀越神社は、「日本一オモロイ神社」を目指している愉快な神社である。ライトアップや落語会、ブルース演奏のライブまで行っているという。こじんまりとした境内も美しい。四天王寺訪問の際に、立ち寄るに値する神社である。
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by iyasaca | 2008-08-30 20:44 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その2

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堀越神社に来ている。

堀越神社のご祭神、崇峻天皇とはどのような人物であったのか、そしてなぜこの神社に祀られているのだろうか。

この問いに答えるのは容易ではない。何しろ資料が少ないのである。崇峻天皇が生きた6世紀当時に書かれた歴史書は残っていない。最も古いのは712年に完成したとされる古事記、そして720年に編まれたとされる日本書紀で、いずれも592年に没した崇峻天皇の時代とは100年以上の隔たりがある。つまり、現存する最古の文書はすでに崇峻天皇を直接知る者がいなくなった時代に編まれたものなのである。文献の研究はかなり進んではいるが、記述の乱れもあり、6世紀日本の風景は時の流れの彼方に霞んでいる。

文献資料がどれだけ少ないかということは、現在にまで伝わる日本の古文書の一覧を見るのが一番いいだろう。

f0008679_22121871.jpg712年:古事記
太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻。現存する最古の写本は14世紀(1371-2年)に宝生院の僧賢瑜(けんゆ)が書写した古事記賢瑜筆(真福寺本)。3帖のみ現存。1951年(昭和26年)に国宝に指定されている。
<写真:古事記 賢瑜筆(宝生院蔵)、愛知県HPより>

f0008679_001817.jpg720年:日本書紀
伝存最古の正史。舎人(とねり)親王らの撰。神代から持統(じとう)天皇の時代まで全30巻、系図1巻。系図は失われた。現存する最古の写本は9世紀のもの、奈良博物館所蔵。
<写真:日本書紀 巻第十残巻、奈良国立博物館蔵、奈良国立博物館HPより>

733年:出雲国風土記
現存する風土記の中で一番完本に近い。記紀神話とは異なる伝承が残されている。元明天皇が編纂を命じ、聖武天皇に奏上されたとされる。最古の写本「細川本」は16世紀(1597年)のもの。

f0008679_23221973.jpg759年:万葉集
日本に現存する最古の歌集。編者は大伴家持との説が有力である。全20巻。最古の写本「桂本」は11世紀中頃のもので巻4しか残っていない。
<写真:桂本万葉集巻第四断簡(栂尾切)、MIHO Museum所蔵、MIHO Museum HPより>

f0008679_23311562.jpg 797年:続日本紀
勅撰史書。編者は菅野真道。697年から791年まで95年間を扱っている。全40巻。最古の写本「駿河御譲本」は13世紀後半のものと推定されているが巻11から40までしかない。名古屋市蓮左文庫所蔵。
<写真:続日本紀「駿河御譲本」、名古屋市蓮左文庫所蔵、名古屋市蓮左文庫HPより>

807年:古語拾遺
天地開闢から749年まで記されている。古斎部広成が編纂。記紀にも見られる古伝承のほか、斎部氏に伝わる伝承も含まれる。全1巻。最古の写本は、卜部兼直が嘉禄元年(一二二五年)に書写した嘉禄本(天理図書館蔵)。
815年:新撰姓氏録
各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類している氏族の名鑑。全国(五畿七道六十六ヶ国)にまたがっていたとされるが、現存するのは左京・右京と五畿内分のみ。本文も失われ、目録だけの抄記(抜き書き)のみ残存する。最古の写本は、室町初期の菊亭文庫本。
807-833年:先代旧事本紀
天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。全10巻。序文など信頼に欠ける記述が見られる。記紀、古語拾遺のつぎはぎであるが、独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用の可能性もある。資料的価値があるかどうかは論争有。編者不詳。

以上である。つまり、古代日本を描写する文献で、オリジナルの形で残っているものは皆無である。残っている最古の写本の時期も見れば、いかに古代日本が闇に閉ざされているかが分かる。
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by iyasaca | 2008-07-26 00:25 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その1

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茶臼山の堀越神社にいってみた。近傍に聖徳太子を祀る四天王寺があり、お世辞にも目立つと言えないが、小さいながらも雰囲気のある空間を演出している神社である。明治中期まで境内の南にお堀があり、参詣するに当たっては堀を越えなければならなかったことが「堀越」の名前の由来である。

ご祭神は、第三十二代 崇峻(すしゅん)天皇
配祀 小手姫皇后(こてひめこうごう、大伴糠手連(おおとものむらじぬかて)の娘
蜂子皇子(波知乃子王はちこのおうじ)
錦代皇女(にしきでこうじょ)
聖徳太子が叔父の崇峻天皇天皇を偲び建立されたと伝えられている。
堀越神社のホームページには、神社の由来として以下の文章が掲載されている。

崇峻天皇と皇后・皇子の物語。
崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。折しも蘇我氏の全盛時代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こうとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
 天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷よりも、当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わんとされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。すなわち今日、日本三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。皇子は文字通り出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となられた。蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれている。
 小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指され、そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

さて堀越神社のご祭神、崇峻天皇とはどのような人物であったのか、そしてなぜこの神社に祀られているのだろうか。
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by iyasaca | 2008-07-19 21:00 | 大阪 | Comments(0)


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