勝手に僻地散歩



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屋久島にいってみた その6


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登山口から約8キロ、2時間半をかけて大株歩道入り口に到達する。ここの標高は929メートル。荒川登山口から335メートル登ってきたことになる。登山口から入り口の横には清流が流れていて、飲料水を汲むことができる。大株歩道から先は、いよいよ数々の杉の巨木を目にすることができる。ここからは、本格的な山道となる。
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大株歩道を登る。縄文杉までは、2キロの距離であるのだが、標高差は352メートルある。荒川登山口から大株歩道まで、8キロかけて登ってきた高さにほぼ等しい標高差をわずか2キロの道のりで登らなければならない。そのことだけで、ここからの道が今まで歩いてきた森林軌道とかなり異なるということは分かるだろう。山道に入って思いのほか活躍したのはトレッキングポール。緩やかな森林軌道を歩いているときは邪魔でよほどバッグパックの中にしまってしまおうかとも思ったが、山道では驚くほど使いでがあった。特に帰路、足に対する負担がピークになるウィルソン株から大株歩道までの下りでは、トレッキングポールなしでは、歩行のペースを維持できなかっただろう。

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<写真:翁杉。もうこの杉を仰ぎ見ることはできない>
屋久島の杉は樹齢によって名称が変わる。樹齢100年以下の若杉は「地杉」、1,000年以下は「小杉」、そして1,000年以上になって初めて「屋久杉」と呼ばれるようになる。

切り株歩道に入って、最初に出会う巨大杉は翁杉である。樹齢は推定2,000年。屋久杉である。寿命が近づいているこの老杉は、幹が地上23.7メートルのところで折れている。しかし幹の外周は縄文杉に次ぐ12.6メートルある。根元は苔に覆われ、幹には多くの着生植物が彩りを加えている。翁杉の語源は、杉の樹齢によるものではなく、ここから翁岳がよく望めることから名づけられた。

縄文杉への道のりはまだ長い。


<追記>2010年9月10日未明、翁杉が地表から3メートルのところで折れて、倒れているのが見つかった。屋久島を再訪できるかどうか分からないが、もう仰ぎ見ることができないと思うと寂しい限りである。推定2000年とも言われた樹齢の老杉にはお疲れさまと言いたい。またこの幹から新しい杉が生まれることであろう。
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by iyasaca | 2007-10-27 15:41 | 鹿児島 | Comments(1)

屋久島にいってみた その3

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荒川登山口から緩やかな坂道を歩くこと50分、小杉谷製品事業所跡に到着する。登山口との標高差はわずか60m。足元は森林軌道として整備されており、ここまでは体力の消耗はほとんどない。

屋久島の杉は、江戸末期までカツオ漁と共に島民の生活の糧の一つであったが、明治12年の地租改正を受け、島の森のほとんどが官有となり、伐採が厳しく管理されるようになった。生活を山海の恵みにより生活を営んでいた島民にとっては、片腕をもがれたような形になった。

島民は伐採再開に向け、嘆願を始める。1899年には、「国有土地森林原野下戻法」発布を受けて、村議会は、古来からの村持支配山を民間山林として認めてほしいという国有森林下戻申請を行うが、申請した村持支配山の範囲が古来からのものであるという証拠が不十分であるとの理由で却下される。

1904年には、島民が国を相手に「不当処分取消並びに国有山林下戻」訴訟を起こす。この訴訟は、16年という長きに渡る係争の後、島民側が敗訴するという結果になる。
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しかし1921年、国は方針を転換し、「屋久島国有林経営の大綱」が定められ、国有林伐採の道が開けた。小杉谷はその2年後の1923年に安房官行斫伐所として開設されるわけである。その後、小杉谷は、閉鎖される1970年までの47年間にわたり屋久島国有林開発の拠点であった。

国有林開発が始まったことで、森林軌道と呼ばれるトロッコ道、島の外周道路など屋久島のインフラは急ピッチで整備される。そして事業所での活動が始まると、小杉谷には労働者と共に家族も移り住んだ。1935年には、作業員200人、家族を含めて300人が住む集落となった。小杉谷集落には、各戸に電気と水道が引かれ、郵便局、床屋や銭湯、商店に至っては4店も並び、学童期にある児童のための私塾も営林署によって建設された。営林署の私塾は1943年には1943年に粟穂(あわほ)国民学校太忠岳文教場として国に認可され、正式に小学校となった。電気に水道そして交通機関。当時は鹿児島市内ですらそのようなインフラが整備されていなかった時期の話である。

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戦争が長期化するにつれ、小杉谷の集落の規模は縮小する。記録によると1945(昭和20)年、小杉谷の住人は30家族、100人にまで減り、1947年には児童数は5人にまで減少した。

しかし戦後作業員は再び増え始める。1960年には133世帯、540人が最盛期の杉伐採を支えた。1962年には小杉谷集落、石塚集落(小杉谷から上流へ徒歩一時間ほどにあった集落)からの生徒の数は小・中学校合わせて147名に達した。しかし1955年にチェーンソーが導入され、杉の伐採の増産体制が図られたことによって周辺の杉林は急速に消滅し、1970年小杉谷製品事業所は閉鎖された。

閉山から約40年、小杉谷はいま静かに原生林に戻りつつある。

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by iyasaca | 2007-10-06 19:02 | 鹿児島 | Comments(1)

屋久島にいってみた その2

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屋久島に来たからには、あの縄文杉を一目でも見なければという思いで、何はともあれ、縄文杉に向かうことにした。一月ほど前に島を襲った台風の影響で道路の一部が崩落し、登山口までの一般車両の通行が制限されているということで、路線バスを使って荒川登山口に向かう。宿を取った屋久島南部、尾之間から登山口までは70分かかる。

登山口に直行するバスはなぜか存在しない。路線バスは全て、荒川分れという登山口へ10分ほどの場所までしか行かず、そこから登山口までは別のバスに乗り換えなければならない。登山口までのバスを待つ間、ふと荒川分れのバス停の脇を見ると、ログハウス風の休憩所がある。休憩所横の白い杭によれば、このログハウス風の休憩所は平成11年4月の建築であるとのことである。比較的新しい建築であるにもかかわらず、休憩所は崖下に向かって大きく傾いている。
よく見ると、休憩所の壁には
「危険のため、休憩施設の利用を禁止します」
とだけ貼り紙がしてある。丁寧に6箇所を画鋲でとめてある張り紙はまだ新しい。休憩所が傾きはじめたのは最近のことなのだろう。気になって、地面を見渡すと、この辺りは地盤が緩いのか、足元にもところどころ大きなひびが入っており、すでに崩れた跡もあった。左の写真のようにかなり派手に崩れている場所も一ヶ所や二ヶ所ではなかった。

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荒川登山口は縄文杉まで約9時間で往復できる最も人気のあるルートの起点である。上級者は、宮之浦岳を経由する別のルートもあるらしいが、そのためには本格的な登山の装備が必要で、また時間もかかる。

しばらく待つと登山口までのバスが来る。坂を10分ほど下るとそこは荒川登山口である。登山口入り口に群がる記念写真を撮る集団を横目に登山届を出して、すぐに縄文杉に向かって歩き出す。すでに日の出の時刻を過ぎており、かなり明るく、ヘッドライトは必要がなかった。

写真の通り、荒川登山口からは、森林軌道と呼ばれるトロッコ道が真っ直ぐに走っている。入り口横には救急車が待機している。リタイヤする登山客を運ぶために必ず毎日出番があるそうである。この日は、登山ガイドまで救急車で運ばれていったのである。

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これより先は、ひたすらトロッコの線路の上を歩き、第一のチェックポイントである小杉谷製品事業所跡を目指す。登山口からは50分の道のりである。
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by iyasaca | 2007-09-29 11:59 | 鹿児島 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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