勝手に僻地散歩



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パラオにいってみた その6 南方航路と九七式飛行艇

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<写真:パラオ松島>
当時、海上を飛ぶ長距離空路に就航していたのはほとんどが大型旅客飛行艇であった。しかしとりわけ、パラオ線を含む南方航路に飛行艇が重宝されたのは、多くの南洋の島々には水上飛行場として利用できる、環礁内の外海の波の影響を受けない内海があったからである。
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さてパラオに話を戻す。216機製造された九七式飛行艇のうち18機が大日本航空に卸されたことは先に触れた。これらの飛行艇はそれぞれに「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」「巻雲」などの愛称がつけられ、商業飛行が行われた。南洋への航路は二つ。横浜(40年までは富岡飛行場、以降は根岸飛行場)―サイパンーパラオ(後にポルトガル領チモールまで延びた)とサイゴンートラック(現チューク)-ポナペーヤルート(現ジャルート)であった。綾波は新航路開拓に先立つ調査飛行にもよく使われた。1939年10月22日には、パラオからはるか南のチモールへ調査飛行を行っているほか、同年11月22日から27日にかけては、横浜―サイパンーパラオー淡水(台湾)-横浜という9,237キロの航路を37時間12分で航行したとの記録が残っている。

サイパンまでの運賃は235円。当時の大学の初任給が50円だったから、現代で言うと100万円くらいの感覚だろう。ちなみに同時期に飛行機で東京ー大阪を移動すると30円、東京ー大阪ー福岡、福岡-蔚山(うるさん)―京城―平壌―大連という満州方面のルートの運賃は145円だったという。

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<写真:南洋庁が島を切り開いてつくった水道、「新水道」の文字が見える>
サイパン経由南洋群島への定期便は1939年に就航する。午前05:30発でサイパンには15:30着。その先は翌日07:30発の便に乗り、パラオ到着は14:00であった。横浜からは飛行時間だけで17時間である。1940年3月には根岸飛行場の拡張工事が完了したことを受け、サイパン航路の出発空港が富岡飛行場より移転する。併せて月2便から4便にと増便されている。

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1945年ポツダム宣言受諾を受けて、即日武装解除が始まりまた民間航空についても航空機の所有、運用の一切が禁じられ、関連組織は全て廃止、解散することとなった。大日本航空もその一つ。戦後処理のため運行していた緑十字飛行も10月17日に終了
11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止された。日本の航空産業は未だにこの敗戦の痛手から立ち直っていない。
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by iyasaca | 2009-08-22 02:06 | パラオ共和国 | Comments(0)

コタキナバルにいってみた-ポーリン温泉からキナバル公園へ

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ポーリン温泉である。ここは温泉といっても、日本で言う、いわゆる温泉とは異なる。露天では水着着用をしなければならないこともあり、温水プールと言ったほうがイメージに近いだろう。お金を払えば、個室で風呂に入ることもできる。11部屋あるとのことである。硫化水素系の緑がかったお湯の源泉温度は55度であるとのことだが、湯船のお湯はかなりぬるい。

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ポーリン温泉は、旧日本軍によって発見された。地元には温泉習慣がないのか、日本軍が撤退した後は放置されていたが、70年代から少しずつ整備が進められ、90年代までにはキャノピー・ウォーク(ジャングルの木々、地上40メートルに渡してある吊り橋)やバタフライ・ファームなどを併設する国立公園となった。現在では年間15万人の観光客が訪れているという。

地上41メートルの高さに架けられた吊り橋も名物であるというので、出かけてみる。この日は体調が悪く38度近い熱があったのだが、20分近くかけて山道を登った。

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ようやくたどり着いた吊り橋は、一度に6名しか渡れず、またかなり狭い。発熱のため歩くのが精一杯で、スリルを感じる余裕はなかった。カメラの持ち込みは5リンギット、ビデオカメラの持ち込みは30リンギットとなっているが、お金を払う余裕もなかった。

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ポーリン温泉からキナバル山公園本部に移動した。キナバルとは中国人の未亡人との意味である。周辺には中国の王子とその未亡人の伝説も残っている。語源としてはもう一つ、キナバル アキ・ナバル(祖先の霊る山)が訛ったものだとする説もある。世界自然遺産のキナバル山の頂きは、厚い雲に遮られて見ることができなかった。
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このあたりは標高も1,600メートルほどで、空気もひんやりしている。
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植物園には熱帯特有の植物が群生している。植物に詳しい人間ならば、楽しめる場所だろう。
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かえる。
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by iyasaca | 2009-04-18 22:40 | マレーシア | Comments(0)

屋久島にいってみた その1

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鹿児島県大隅半島の南端から南南西へ約70キロ、屋久島にいってみた。東シナ海に浮かぶこのほぼ円形の島は約1,500万年前の火山活動によってその原形が形作られた。海底に噴出した花崗岩は長い時間をかけ隆起を続け、現在の屋久島には、九州最高峰を誇る宮之浦岳(標高1,936m)を筆頭に、標高1,000メートルを越える山巓が30以上ある。


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<写真上:千尋滝(せんぴろのたき)、写真下:大川(おおこ)の滝>
長い時間をかけて形成されたこの急峻な地形は、508.8平方メートルの島に多様な気候をもたらした。気候帯として冷温帯に分類される山頂部では、冬季は冠雪する。一方亜熱帯である沿岸部は冬季でも霜が降りることはない。さらに高湿の南洋に出現した1,000メートル超の山系は、この島に豊かな水を供給することになる。山肌にぶつかった雲がもたらす雨量は東京の4倍、山地に至っては8倍にも達する。(東京の年間降雨量は約1,400ミリ、屋久島の場合平地では約4,000ミリ、山地では8,000ミリを越える)屋久島の各所に点在する滝は水量も多く、どれも見事である。

写真左の千尋滝は、剥き出しの花崗岩の上を流れる落差60メートルの大瀑布である。写真奥に見える小さな滝も落差は20メートルある。写真右は落差88メートルの大川の滝である。展望台から遠望する形になる千尋滝と異なり、滝壺近くまで遊歩道が設置されており、迫力は段違いである。


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さて屋久島に、いつ人が定住を始めたのかは定かではないが、島内に点在する遺跡から縄文時代前期にはすでに人が居住していたことが分かっている。飲料に適する豊かな水と海洋資源をもってすれば、人が住みにくい地ではなかったであろう。屋久島には一湊松山(いっそうまつやま)遺跡はじめ縄文前期から弥生時代の遺跡が65確認されている。この遺跡から大量に出土された曽畑(そばた)式土器は、朝鮮半島南部から九州全域、沖縄県読谷まで広く発掘されている。このことは、縄文の時代から九州や沖縄との間には、人とモノの往来があったことを示している。

屋久島の名前が文書に現れるのは、もう少し時代を下った7世紀のことである。隋の第二代皇帝煬帝が編纂した隋の正史「随書」の中で、
「異国の風俗を調べるため兵を東海に派遣したが、言葉が通じないので、地元の人を一名連れて帰り、翌年再び派遣したが、従わないので布甲などをとって帰った。その折、倭国の使者が来朝していて、これを見て、『それは夷邪久(いやく)国の人が使っているものだ』と言った。」
という記述が残っている。朝廷の使者が屋久島の存在だけでなくその産品についても知っていたということは、屋久島がこの地域一帯の海の交易ネットワークに入っていたことの一つの証左であろう。

世界遺産に登録され、多くの観光客が訪問するようになり、語り尽くされた感のある屋久島であるが、私自身の備忘録として屋久島の森と海について感じたことを何回かに分けて書いていきたい。
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by iyasaca | 2007-09-22 13:09 | 鹿児島 | Comments(0)

知床にいってみた その1

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シリエトク(sir-etok)。大地の突端との意である。東方上位の思想を持つアイヌにとって、また樺太などさらに北方の島々や極東ロシアまで交易圏がひろがっていたことを考えると、シリエトクという言葉には、巷間言われる「最果ての地」、「地の果て」というよりも、玄関口という語感がこもっていたのだろう。

知床半島は、860万年前の海底火山の噴火に始まる一連の火山活動によって形成された。このときに噴出した溶岩が長い年月のうちに侵食され、奇岩が連なる半島へと変貌を遂げた。現在の姿が形作られたのは、50万年前の火山活動によるものである。

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一帯は千島火山帯に属しており、半島中央を貫く知床連山は、羅臼岳、硫黄山という二つの活火山を抱えている。羅臼岳は2300年前、1500年前、700年前とほぼ700年周期で噴火を繰り返している。また硫黄山には安政年間(1858-1860)に4回の噴火の記録が残っている。この硫黄山が高純度の融解硫黄を噴出したことで、安政年間に会津藩が盛んに採掘作業を行った。硫黄は火薬の材料となる。


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この知床半島は、先端部に至る道路もなく、また多様な生態系(確認されているだけで鳥類270種、哺乳類63種、魚類265種)が評価され、近年世界自然遺産に登録されたことから未踏の地とのイメージがあるが、実際には約3万年前の先土器時代から人が住んでいた。知床岬には、縄文時代、続縄文時代、オホーツク文化期の大集落の遺構が残っている。


f0008679_1495166.jpgさて、続縄文時代やオホーツク文化時代など耳慣れない時代区分について、少し補足したい。もともと日本に渡ってきたモンゴロイドには南方系と北方系の二つのタイプがある。大雑把な分類としては、目が丸く二重瞼なのが南方系で、目が細く切れ長なのが北方系である。

日本に最初に渡ってきたのは、南方系であった。南方系は縄文文化の担い手として、生活圏を少しずつ広げてきたが、弥生時代に入ると北方系の流入が始まった。稲作文化を携えて渡ってきた北方系が開墾地を広げるにしたがい、狩猟を生業としていた南方系は、生活圏を徐々に北へ移すようになった。日本列島という同じ場に生活をしながら、南方系モンゴロイドは、北方系と異なる歴史を歩むことになる。北方系は日本史で学ぶように、縄文時代から弥生、古墳、奈良・平安、鎌倉、室町、江戸時代を経て近現代へと区分されるが、南方系モンゴロイドは縄文時代の後には、続縄文時代、擦文・オホーツク文化、アイヌ文化から近現代と区分されている。

続縄文時代は、弥生期に入っても稲作文化に染まらず、縄文時代的な生活が営まれた時代。擦文時代は、縄文・弥生と同様に土器の文様から名づけられた時代で、引き続き狩猟と雑穀農耕を生業とし、また徐々に鉄器も普及した時代である。
オホーツク文化は、シベリアからアムール、樺太、北海道北東部にまで展開した北アジア文化圏に属するもので擦文とは起源が異なる。例えば、13世紀に始まるアイヌ文化にとって重要な祭祀として引き継がれた熊送り(イオマンテ)はオホーツク文化にあるもので、擦文文化には存在しない。


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専門性もなく、根拠もなく言うのだが、縄文時代は狩猟と魚撈を中心とし、小さな集団で移動を繰り返しながら竪穴式住居で生活をし、弥生時代はコメ作り+定住生活を営み、貧富の差が生じ、云々という時代区分には違和感を覚える。あまりに物事を単純化しているように感じるからだ。仮にそれだけ異なる文化を携えたグループが登場し、かつ今までの文化が消え去ってしまったというのであれば、そこには大規模な戦闘なりがあって、旧文化が殲滅させられたということ以外には考えられない。しかし、大規模な戦闘があった様子がなかったことを考えれば、もっとゆっくりと時代が遷移していったということだろう。また貧富の差、階級がなかった社会というが、そのようなことがありうるのか。少なくとも現存するいかなる人間社会(どれだけ原始的でも)には階層が存在する。

縄文時代にも水稲耕作をしていた部族はあったであろうし、竪穴式住居以上の建築物を構築する技術は持っていた(三内丸山遺跡)。その場合、縄文と弥生はあえて分ける必要があるのかどうか。分けなければならないほど大きな文化的断絶なり転換があるのであれば、それはそれでいい。しかし、いつまでも縄文・弥生という区分の枠組みの中で、発掘調査の結果、次々に明らかになる新事実を説明するのではなく、もう少し新しい時代区分で古代日本を捉えようという試みがあってもいいのではないか。
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by iyasaca | 2006-12-02 13:12 | 北海道 | Comments(0)

アッサム州カジランガ国立公園にいってみた

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インド北東部アッサム州中央部。一角サイの最後の楽園カジランガ国立公園(Kaziranga National Park)にいってみた。ブラマプトラ川流域に430平方キロメートルにわたって広がるこの堆積平野には、世界に2,500頭しかいない一角サイのうち、1,500頭が生息している。

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カジランガに生息する野生動物をめぐる環境は厳しい。例年モンスーン期には、ブラマプトラ川は氾濫し、カジランガ国立公園の4分の3が冠水する。かつて、カジランガに生息する一角サイや鹿、イノシシ、ゾウ、ガウル(インドの野牛)、ベンガルトラなどは南のミキル丘陵周辺に逃げ、難を逃れてきたが、現在は農村となり、野生動物が近づけず、多くが溺死している。さらには、英国植民地時代に入ってからは、紅茶の栽培地拡大や当時発見された石油の精製が始まった。精製所の排出物による環境汚染により、一角サイはじめとする野生動物の生息地は大いに減少した。


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これが一角サイ。興奮のあまり、ピントがぼけ、盗撮したような仕上がりになってしまった。

さて、サイの角は、アラブの短剣の柄の材料として、また漢方薬として乱獲され、1904年の調査の際には、その生息数は200頭にまで減少した。その後の保護活動が奉公し、ネパールのロイヤル・チトワン国立公園と合わせると2, 500頭にまで生息数が回復しているが、今でもサイの角は1キロあたり90万円の値段がつく高級品であり、密猟が頻発している。

ところでサイの角には、古くから解熱作用があると信じられており、今でも正倉院に薬として残っている。正倉院に納められている薬は、他の宝物とともにシルクロードを通じて、奈良の都に入ってきた。光明皇后が、聖武天皇の遺品を東大寺の御仏に捧げるために建立した正倉院には9,000点もの宝物が所蔵されているが、そのうち40点が、麝香(じゃこう、ジャコウウジカの牡の分泌物)、五色龍歯(ごしきのりゅうし、ナウマン象の化石)など石、動物、植物などを素材とする薬であり、一部は今でも効能があるとの調査の結果も出ている。もちろんサイの角には解熱作用がないことも分かっている。

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公園は保護地区となっており、観光客は車か、ゾウに乗って見学する。車は一度に10台まで、ゾウによるツアーは一日48名までと人数を制限し、自然へのインパクトをコントロールしている。また公園は冠水する雨季(10月から4月)には閉鎖される。


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公園の半分は2メートルほどの背丈の高い野草が生い茂っている。いわゆる高茎草原である。1985年には「比類なき生物多様性の価値」が認められ、世界自然遺産に登録されている。

さて、その登録理由を整理すると

1)世界で最も多くの一角サイ(1,550頭以上;世界の60%)が生息する。
2)世界で最も多くの野生水牛(1,650頭以上;世界の65%)が生息する。
3)世界で最も多くの野生のアジアゾウ(1,000頭)が生息する。
4)世界のインドヌマシカの3分の1(500頭)が生息する。
5)トラの分布密度が世界一(100平方キロメートル当たり約17頭)
6)絶滅の危機に瀕するベンガルショウノガン、ハイイロペリカン、ヌマシャコ、セイタカコウ、インドオオハゲコウなど23種を含む、 490種の鳥類が確認されている。


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それにしてもガイドは目が大変よく、地平線のかなたに動く動物や鳥を判別し、教えてくれた。教えてくれた方向を凝視しても、しばらくは何がいるのかが分からず、特に鳥類については、名前を言われても覚えられず、それがどの程度希少なのかも分からない始末。とりあえず全て絶滅寸前だと見なし、鑑賞することにした。訪れる観光客は年間6万人。ほとんどがインドの国内旅行者であるとのことであるが、外国からは英国の観光客が多いそうだ。
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by iyasaca | 2006-07-06 00:12 | インド | Comments(0)

イルクーツクにいってみた

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文豪チェーホフが友人に宛てた手紙の中で「すばらしい町、知的な町」と賞賛したバイカル湖西岸の町イルクーツク。

古くからモンゴル系遊牧民族が割拠している地域であったが、1571年にシベリア進出を始めたコサックがこの地を治めていたブリヤート・モンゴル族との戦いの末、17世紀の中頃(1652年)ようやくこの地に宿営地を築き、町の礎を作った。ほどなくモスクワから市として認められたが、主に黒貂の毛皮供給元として、そして政治犯などの流刑先(1825年デカプリストの乱の反逆貴族の流刑先)として位置づけられてきた時期が続いた。


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1898年にはシベリア鉄道が敷設され、1904年にはウラジオストクにまで開通したことにより、中央アジア、清への中継都市として、そしてシベリア東進の前線基地としての産業都市の色彩が明確になった。同時にイルクーツクは、またシベリアへのキリスト教宣教の拠点として、ロシア正教会の大主教座も置かれている。現在は石造り建築と丸木作りの建造物が特徴的なのどかな地方都市である。

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そのようなイルクーツクにも日本とは深い関わりがある。
第二次世界大戦後、満州、北朝鮮、千島、南樺太にいた軍民合わせて272万余の日本人のうち約60万人がソ連軍に抑留され、シベリア各地での極東開発に従事させられた。その極東開発事業の一つである「バム鉄道計画」は、犠牲者が特に多かったと言う。バイカル湖の北を通り、アムール河からウラジオストクへと続く鉄道計画は、工事の中絶もあり、完成は1980年代まで待たなくてはならなかったが、鉄道建設のための労働力は、シベリアや北朝鮮などの収容所からかき集められた。イルクーツクには81ヶ所もの収容所があり、抑留者はイルクーツクの多くの建物の建設にも携わった。

ほぼ同じ時期、抑留中に一部の日本人将校は、ソ連の収容所に吹き荒れた「シベリア民主運動」という名の思想教育に踊らされ、同胞に対し反ソ分子の烙印を押すなどのつるし上げ大会も発生する。リンチ行為も発生したと言う。抑留者は激しい労働、厳しい気候だけでなく、理不尽な思想教育にも耐えなければならなかった。


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引揚援護局の発表(1975年)によるとイルクーツク州内の日本人墓地は33箇所。この美しいバイカル湖の周辺に6,000人が眠っている。ソ連全土の日本人墓地数は332箇所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままであるとのことである。
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by iyasaca | 2006-02-05 10:53 | ロシア連邦 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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