勝手に僻地散歩



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ナン・マトールにいってみた その1

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<写真:Tenwenの艀から遺跡に向かう>
テンウェン(Tenwen)というポンペイ島南東部にある半島南部の沿岸一帯に巨石構造物群がある。ナン・マトール(Nan Madol、ナンマドール)である。

ナン・マトールは、巨大な黒褐色玄武岩を環礁の上に積み上げ形成された95の人工島が水路によって結ばれた古代都市である。正確な建造時期は不明だが、紀元500年頃から1,000年近くかけ、16世紀頃までに現在の姿になったというのが有力な学説である。その範囲は幅1.5キロ、奥行き0.7キロ、北東部と南西部の間に広めの水路があり、前者が司祭の居住区画や墓所であるMadol Powe、後者が礼拝所や王の住処、行政の区画であるMadol Pahに分かれており、それぞれの島に儀礼、埋葬、行政、食物倉庫など別々の機能と役割があった。湧水もなく、食糧も全て持ち込まなければならなかった。

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<写真:崩落した石材が無造作に並ぶ>
構造と大きさは島によって異なるが、多くは五角形、六角形に自然形成された柱状の石を、環礁の浅瀬の上に高さ1,2メートルほど積み上げ、低層の壁を形成し、その内部の空間には砕いたサンゴを敷き詰めている。この基礎の上に木造の構造物が建てられていたと推測されている。儀礼や墓地など格式の高い島の場合は、低層の外壁の内側にさらに壁が設けられた。壁は高いもので8メートルにも達する。使われた石材の重さは平均で5トン、最も大きなものでは25トンにも及ぶ。

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ナン・マトールには75万トンの石材が使われているが、採石場は近傍に存在しない。採石されたと思われる場所は、島の北部、西部などいくつか確認できるが、どこから採石されたものなのかは不明である。それだけでなく実際にこれだけの大きさの石材をどのように運搬したのかも分かっていない。というのも文字による記録が残されておらず、19世紀初頭に出没した西洋人が発見、調査を始めた時にはすでにナン・マトールは長く打ち捨てられた後だった。
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<写真:石材はかなり大きい。これはまだ小さい方>
1995年にはディスカバリーチャンネルが石材輸送の再現映像を撮ろうと、竹製の筏で運ばれたと仮説をたて、色々と試みたが結局どの方法も成功しなかった。当時の様子を知る術、手がかりはほとんどなく、頼るは考古学的手法を用いた知見と口伝された村人の記憶だけなのである。
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by iyasaca | 2014-12-29 12:35 | ミクロネシア連邦 | Comments(1)

座喜味城にいってみた その1

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1416年、北山攻略の軍勢を率いる武将の中に、一人の若者がいた。今帰仁按司を曽祖父に持つ護佐丸盛春(ごさまる・せいしゅん)である。今でも沖縄で高い人気を誇るこの人物の実像は謎に包まれている。護佐丸の拠点であった座喜味周辺の民話や伝承に護佐丸は登場しない。琉球の万葉集と言われる「おもろさうし」にも護佐丸の記述はない。それでも護佐丸は、琉球史に彩りを与える武将として、語られ続けているのである。

1322年、今帰仁按司であった護佐丸の曽祖父は、後の北山王、怕尼芝(はにじ)に攻められ、今帰仁を明け渡した。今帰仁按司の子である読谷山按司や伊波按司らは、近傍の有力按司のもとへ落ち延びた。

護佐丸は、伊波按司の次男の息子として1390年頃生を受けたと伝えられている。1416年、北山攻略第二軍の指揮官として800の軍勢を率いていたときの彼の年齢は20代前半ということになる。進軍する護佐丸の頭には曽祖父の無念を果たす時が来たとの思いがあったことであろう。

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<写真:座喜味城内部。赤土には見えない>
今帰仁城の攻防戦は、中山側の勝利に終わる。護佐丸は攻め落とした今帰仁城に北山守護職として入城し、未だ不安定な北山を監視するため、中山王より座喜味の地に城の建築が命じられる。護佐丸はかつての居城である山田城から石材を運び出し、赤土の軟弱な大地に座喜味城を築城する。

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<写真:座喜味城の石垣、保存状態が良い>
1422年の座喜味城の完成に伴い、巴志は今帰仁に二男尚忠を北山監守として据え、護佐丸を座喜味城に移した。護佐丸はこの城から18年間、尚氏王統を支えることになる

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<写真:第一尚氏王統の系図>
尚巴志の死後、統一王朝は王が目まぐるしく変わる時期を迎える。その後の琉球王の平均在位は5年未満で、いかに沖縄最初の統一王朝が不安定であったかを物語っている。尚巴志の死からわずか14年後、第5代琉球王尚金福が55歳で世を去ると、ついに跡目争いが武力抗争にエスカレートする。この王位をめぐる武力抗争は志魯布里(しろふり)の乱として史書に記録されている。

志魯布里というのは跡目争いの当事者二人の名前である。志魯は、亡き金福王の子、布里は金福王の弟であった。両者の力は拮抗していたがため、やがて消耗戦となり、その過程で首里城は焼失する。戦乱は両者が斃れたことで終結した。王位は結局志魯にも布里にも渡らず、布里の弟で尚巴志の七男の泰久が継いだ。泰久が大いなる策謀家であったのか、単なる漁夫の利だったのかは分からない。

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<写真:座喜味城内建物跡周辺>
尚氏の混乱ぶりを周辺の有力按司は、好機と見たに相違ない。この機会に乗じて勢力伸長を狙ったことであろう。しかし尚氏側も無策であったわけではない。有力按司らと姻戚関係を結ぶことで求心力を維持しようとしていた。尚巴志が没した翌年の1440年には中城に移っていた護佐丸の娘が泰久王の正室となっており、護佐丸の叔母は尚巴志の妃となった。また伸長著しい勝連城按司の阿麻和利(あまわり)の正室は、尚泰久の長女百度踏揚(ももとふみあがり)であった。姻戚関係を結び、政略を巡らせるのは古今東西同じである。
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by iyasaca | 2013-04-04 23:20 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その1

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今帰仁(なきじん)城址に来ている。今から700年ほど前の三山分立時代、三代で潰えた北山王の居城である。
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<写真:外郭。城壁の上面に攻撃・防御用の胸壁が見える>
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今帰仁城は、沖縄本島北部、親泊の海岸から南へ1.5キロほどの場所にある標高100メートルほどの丘にある。西から東の方面に、せり上がるように盛り上がった丘の斜面には、石灰岩を積み上げた10メートルほどの高さの城壁が曲線を描くように築かれている。外周は1,500メートルに及ぶ。
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北、東、南側は断崖絶壁で、天然の要害となっている。1972年5月15日に「今帰仁城跡」として国の史跡に指定されたときには、丘の頂きの主郭しか確認されていなかったが、その後、西の斜面に二の丸、北殿跡、大庭(うみやー)、御内原(おうちばる)、最後部の低地の曲輪、そして外郭と遺構が次々と確認され、2010年2月22日には今帰仁城跡附シイナ城跡として再指定された。今帰仁城は、南北に350メートル、東西800メートル、総面積3万7000平方メートルの広大な敷地に7つの郭が連なる、首里城に匹敵する大グスクだったのである。

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<写真:戦前の今帰仁城、田辺泰撮影、1934年>
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by iyasaca | 2013-01-05 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

アヌラーダプラにいってみた

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<画像:アジャンタ石窟のフレスコ画「ヴィジャヤのセイロン上陸」より>

5世紀末に成立したというスリランカの仏教史書マハーヴァンサ(Mahavamsa、『大王統史』)にスリランカの建国神話が記されている。

ある日ヴァンガ国王を父に持つ王女が、母の故郷で、仏教の盛んなカリンガ国へと旅立った。しかし、王女は旅の途上でライオンに捕らえられてしまう。王女はライオンに嫁ぎ、長子シンハバーフと長女シンハヴァーリーを儲けた。

ライオンの子ではあったが、姿かたちは人間であったというこの兄弟は、やがてライオンである父を残して、母とともにヴァンガ国へと戻っていった。しかし父ライオンは一人の生活に戻ることに耐えられなかった。母子を追う父ライオンはヴァンガ国に至ると、母子を守ろうと行く手を遮る多くの人々を襲った。死に物狂いで母子を探す父ライオンを前に、ヴァンガ国の民は恐れ慄き、誰も立ち向かう者がいなかった。そこにある若者がライオン退治に名乗りを上げる。子であるシンハバーフであった。シンハバーフは、父ライオンに挑み、勝利する。

祖父のヴァンガ王は、国の半分を与えるとして、その労をねぎらった。しかしシンハバーフは、その報償の申し出を断って、妹シンハヴァーリーとともに再び旅に出る。多くの従者とともに海を漂い、陸を彷徨った後、ラータデーサに辿りつく。そこで妹との間に32人の子を儲ける。長子の名はヴィジャヤ、次男がスミッタである。

長男のヴィジャヤは気かん坊であった。取り巻きを引き連れて、国中を荒らしまわる毎日にしびれをきかせたシンハバーフが、3回にわたり忠告するも、その素行が改まることはなかった。ヴィジャヤは、ついに頭を半分丸められ、700人の従者とともに船に乗せられ、追放された。漂流を続けた船はスッパラーカなどを経て、タンパパンニーに至る。現在のスリランカである。これが紀元前483年のことと言われている。ヴィジャヤは、タンパパンニーで、夜叉族の女王クウェーニを娶り、王国を建設し、初代王となる。王国は、一族の歴史にちなみ、「獅子の子孫=シンハラ」と呼ばれるようになった。

この説話は、細かな描写に違いが見られるものの、7世紀の玄奘の手による『大唐西域記』巻第11「僧伽羅国」条にも見られる。息子による父殺し、近親相姦などタブーを織り込んだ話が建国神話として広く受け入れられているのは興味深い。

アヌラーダプラ(Anuradhapura)が首都に定められたのは、それから約100年後の紀元前377年、シンハラ王朝の第5代王パンドゥカーバヤ(King Pandukabhaya)の時代である。同じく「マハーヴァンサ」によると、首都建設はかなり大規模に行われたようである。乾燥地帯であるアヌラーダプラ周辺に、農業用の灌漑施設、上下水道などのインフラ設備のほか、病院、食堂、墓地など基本的な都市機能を整備した。特に農業灌漑施設の整備は目を見張るほどで、貯水池の数は、中小規模のものを含めると1万にものぼり、三毛作が可能となった。農業生産性が飛躍的に向上したであろうことは想像に難くない。

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このアヌラーダプラの灌漑技術と日本をつなぐ面白い話がある。5世紀初頭に、このアヌラーダプラに中国人僧侶法顕(ほっけん)が訪れている。彼の見聞を後世取りまとめた紀行文「高僧法顕伝」の中に、当時のアヌラーダプラの溜池と灌漑技術、水管理の方法についての詳細な研究が残っている。この紀行文を7世紀に留学中の長安で読んだ空海は、帰国後に宮中に願い出て、別当という官位を得て、香川県の満濃池の大改築を行っている。「満濃池の技術はスリランカ起源である」という説はそこから来ている。もちろん空海自身その技術をどこから学んだかについて、記録を残していない。しかし、アヌラーダプラの技術が中国の高僧法顕の書を経て、空海という日本史に残る天才の手によって日本に伝えられたという話だけで、さらなる詮索を野暮に感じさせるほどの微笑ましい話である。アヌラーダプラには写真のような溜池があちこちにある。

さてアヌラーダプラは、1017年にヒンズー教王国チョーラに攻め込まれ、スリランカ王ミヒンドュ5世が捕縛されるほどの大敗北を喫する。アヌラーダプラの町は徹底的に破壊され、首都はポロンナルワに遷されることとなった。ここに1400年間首都として機能し続けてきたアヌラーダプラは放棄される。アヌラーダプラの遺跡の発掘、保存の作業が始まるのは、1912年。それまでは朽ち果てるがままとなっていたのである。現在は1982年に世界遺産に登録されたため、UNESCOによる遺跡の保存と修復作業が進んでいるが、何しろ1400年の歴史を持つ大都市である。未だに遺跡の破片と見られる石片が路傍に打ち捨てられている状態であり、その作業は端緒についたばかりである。
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<クッタム・ポクナ(Kuttam Pokuna)>

3世紀に作られた僧侶の淋浴場である。水は、まず奥の小さな池に引かれ、濾過された水が地下に廻らせてある導管を通じて、大きな池に流れ込むようになっている。使用後の水は、近くの水田に流していたと言う。現在は水の循環システムは機能しておらず、溜まった雨水が緑色に濁っている。
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底面と壁面は花崗岩が使われており、「豊穣の壺」が階段の手すりの両端にデザインされている。ドラクエっぽい。
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周辺にはかつて休憩所の屋根を支えた石柱が残っている。

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< ルワンウェリ・セーヤ仏塔(Ruwanweli Seya Dagoba)>
高さ55メートルのダゴバ。紀元前2世紀にドゥッタガーマニー王が建立を指示した。王は完成を待たずにこの世を去り、完成を見届けるのはサッダーティッサ王子であったが、創建当初は、高さ110メートルあったと伝えられる。ダゴバの台座には、仏教で聖なる動物とされる象が並んでいる。かつては周辺に僧院や病院、食堂などが配置されていたが、現在は傾いた石柱が並ぶのみである。1873年から60年近くにわたって修復にあてられた。


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<トゥーパーラーマ・ダーガバ(Thuparama Dagoba)>
ティッサ王により紀元前4世紀に創建された仏塔で仏陀の右鎖骨が納められていると伝えられている。アヌラーダプラで最古のダーガバとも言われている。現在見られるものは1862年に再建されたものである。手前に見られる列柱は、ダーガバを風雨から守るための伽藍の跡であると言われている。


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<ジェータワナ・ラーマヤ大塔(Jatavana Ramaya)>
紀元3世紀にマハーセーナ王の命により建立。創建当時は高さ122メートル。さらに高さ30メートルの水晶の柱が立っていたという。現在の高さは70メートルである。かつては草木に覆われていたが、UNESCOによる修復作業が進み、現在はご覧の通り、草木がきれいに取り除かれている。世界遺産に登録された直後の1982年に、9世紀にサンスクリット語で書かれたマハーセーナ経典の金板が発見されたことでも有名である。


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マヌーン発見。

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by iyasaca | 2007-01-21 15:51 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(2)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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