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ジャフナにいってみた その6

インドがあえて国連の枠の外で単独でスリランカ和平にかかわった1980年代後半の話の続きである。インドが軍隊を投入してまでスリランカに関与するのは、1983年に始まった内戦期間中、この時期だけである。

さてLTTE、そしてシンハラ・ナショナリストの反対にもかかわらず、両政府はインド・ランカ協定の合意事項の履行を淡々と進める。合意事項に基づくロードマップでは、

1)1987年末までに北東部州に臨時行政評議会(Interim Admistrative Council)を設立する。
2)北東部州議会選挙実施

しかし、臨時行政評議会の8議席の配分をめぐって、調整がつかない。1987年7月の段階では、タミル系グループに対しては、等分の議席配分がなされるということが前提であった。しかしLTTEはその議席配分案に納得しなかった。LTTEが議席配分を増やせば、他がしわ寄せを受ける。議席配分をめぐる協議は難航を極めた。協議が続く間も散発的な戦闘は止まず、平和をもたらすということ一点に期待を寄せられていたIPKFに対するシンハラ、タミル双方からの見方も厳しさを増すばかりであった。また戦闘中に交渉を行うということは、捕虜交換や軍事作戦を交渉条件として組み込まれる可能性もあり、交渉をより複雑にするリスクを抱えることでもあり、高度に政治的な協議を進めるにあたって好ましい環境ではないのである。

f0008679_9353635.jpgそこへLTTEメンバーの一人であるティレーパン(Thileepan)がナルー・ムルガン寺院(Nallur Murugan Temple)でハンガー・ストライキを始めた。当初はさほど注目されていなかった動きであったが、LTTEがそのハンガーストライキを追認するなどの動きでプレイアップされていく中で、徐々に政治的意味を持つようになっていった。25歳の青年の要求はテロ防止法によって拘束されている全てのタミル人の解放、タミル人居住地域へのシンハラ人による入植の停止、北東部におけるスリランカ警察の駐屯所の追加設置の停止、スリランカ政府が提供した武器で武装したタミル武装グループの武装解除、そしてスリランカ国軍の北東部地域の学校からの撤退などであった。
9月24日、26日、28日と行われたディキシット(Jyotindra Dixit)駐スリランカ高等弁務官とプラバーカランの直接交渉では、臨時行政評議会の定数を8から12とし、諮問議会の過半にあたる7議席をLTTEに与える提案を携えてLTTEとの交渉に臨んだ。28日にプラバーカランは新提案に合意した。最終合意案は、LTTEが7議席、TULFが2議席、スリランカ政府2議席、そしてムスリム系に1議席(スリランカ政府の任命による)であった。交渉が行われている最中の26日、ティリーパンが衰弱死してしまう。このことは、一般民衆レベルの反インド感情をさらに刺激することになった。彼の命日には今でもプラバーカランが献花をするなどセレモニーが行われている。
<写真:ハンガーストライキを続けるティリーパン>


さてLTTEは評議会へ送り込む7議員の名簿を提出するところまで話は進んでおり、交渉の焦点は、臨時行政評議会の議長選任と一部議員の入れ替え問題に移っていた。前者の議長問題については、LTTEはテロ防止法で45ヶ月間の拘留を経て、解放されたばかりのN.パットマーダン(Pathmanathan)を推し、スリランカ政府は、前ジャフナ市理事のシバニャーナン(C.V.K. Sivangnanam)を推していた。議長人事が難航する中、決定的な事件が発生する。

1987年10月2日、スリランカ海軍がポイントペドロ沖を航行中の2 隻のトロール船を拿捕し、積載してあった武器と弾薬を押収、17名のLTTE要員を拘束するという事件が発生した。17名の中にはLTTEのトリンコマリー地区司令官プレンドラン(Pulendran)、ジャフナ地区司令官クマラッパ(Kumarappah)などスリランカ政府が100万ルピーの懸賞金をかけていた重要人物も含まれていた。17名はIPKFとスリランカ海軍の基地のあるパライ(Palay)まで連行された。

スリランカ政府は、積まれていた武器・弾薬はタミル・ナドゥからの密輸品であり、合意事項違反及び出入国管理法違反にあたるとし、尋問のためコロンボに連行する主張した。LTTEは、インド・ランカ協定の合意事項においてLTTE要員は恩赦されているはずだと主張したが、スリランカ政府は合意事項以前の罪状についての恩赦であり、今回のケースはその対象ではないとした。

インド政府は、事態のさらなる悪化を避けるため、17名をコロンボに送還しないようディキシットはジャヤワルダナ大統領と直談判を行う。当初はIPKFも実力でコロンボ移送を阻止する構えであった。しかし10月5日午後4時半、IPKFはニューデリーからコロンボ移送を黙認するよう命令を受ける。障害のなくなったスリランカ政府は、移送を即日実施することを決定した。このインド政府の心変わりの背景は不明である。移送の直前LTTEのナンバー2、マハータヤ(Gopalaswamy Mahendraraja)に17名との面会が許されている。どうやら、このときにシアン化物のカプセルを人数分渡したとされている。

10月5日午後5時半いよいよ移送が始まった。17名は移送中に一斉にシアンカプセルを飲み、二人の地区司令官含む12名がその場で絶命した。3名は入院先の病院で死亡が確認された。

この事件を契機にLTTEとインドの関係は急速に悪化する。臨時行政評議会が組織されたのは1988年12月。その議長職にはEPRLFのヴァラタラージャ・ペルマーが就いた。その後で開かれた州議会選挙は北部では実施されず、LTTEはジャフナから追放された。この時点を持って事実上インド・ランカ協定の根幹を支える臨時評議会は機能不全に陥っていたと言えるだろう。

ちなみにプラバーカランの従兄弟でもあるLTTEナンバー2のマハータヤ副議長は、1989年にLTTEの政治部門のリーダーとして解放のトラ人民戦線(PFLT,People's Front of Liberation Tigers)という政党を立ち上げる。しかし1992年にはLTTEの副議長職とPFLT党首の職を解かれ、1993年にはインドの情報機関RAWにLTTEの機密事項を漏洩したとして拘束され、1994年12月28日LTTEによって暗殺された。


f0008679_0572587.jpgIPKFに対する風当たりはいよいよ強くなり、ついにスリランカ政府は、IPKFの撤退をインド政府に要請しする。すでに、IPFKは撤退に向け、独自にLTTEと停戦合意に達していた。スリランカ政府のほうでは、IPKFの撤退を促すためにLTTEへの支援も行ったとも言われている。ガンジー首相は、一貫してIPKFの撤退に反対の立場であったが、1989年12月の議会選挙を機に退陣したこともあり、その後インドは、急速にスリランカとの距離を置くようになる。

新首相に就任したシン首相(V. P. Singh)は、公約通りIPKFの撤退を決断した。IPKFの最後の部隊は、1990年3月24日にスリランカ北東部の港湾都市トリンコマリーからインドに帰任した。ここに12万もの兵力を投入したIPKFの32ヶ月にわたる駐留が終了したのである。インド軍兵士の犠牲者は1,100名。スリランカ側の被害者は5,000人。20,000,000インドルピーの戦費が費消された。しかし、IPKF撤退後LTTEは単なる軍事組織から文民機能を備えた統治機構を徐々に整えていくのである。

<写真:トリンコマリー港より撤退するIPKF(Army, Sri Lanka. (1st Edition - October 1999). "50 YEARS ON" - 1949-1999, Sri Lanka Army. ISBN 995-8089-02-8)>

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by iyasaca | 2007-05-19 14:10 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

コロンボにいってみた その1

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インド洋に浮かぶ島国、スリランカにいってみた。

この豊かな島の各所に残る仏教遺跡の多くは世界遺産に指定されており、また国名(光り輝く島)の通り、ダイヤモンド、エメラルド、オパール以外のほとんどの宝石を産出するという宝石の島である。特にブルーサファイアの品質は世界最高水準であり、チャールズ皇太子がダイアナ妃へ贈る婚約指輪として選んだのは、スリランカ産のブルー・サファイアであった。

スリランカの宝石の質の高さは古くから知られており、紀元10世紀にソロモン王がシヴァの女王に贈ったのもスリランカ産のルビーであったと伝えられているほか、マルコ・ポーロの東方見聞録の中にもスリランカの宝石の素晴らしさについての記述がある。
島の北東には天然の良港であるトリンコマリーがあり、交易の中継地としても大きな可能性を秘めている。「可能性を秘めている」というのは、現在トリンコマリー周辺は情勢が不安定で商業活動が十分に行えないからである。

この豊かな天然資源、絶好の地勢、質の高い人的資源、多くの観光資源などに注目し、1950年代にスリランカは、世界銀行の報告書の中で、アジアで最も成長が見込める国の一つとして挙げられていた。


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しかしスリランカは、その後シンハラ・タミル両族間の戦火にまみれ、膨大なる国富を戦争に投入した。ここ10数年、国家予算に占める軍事費は尋常ならざる比率である。

現在もノルウェーによる仲介が続くが、要人の暗殺、暗殺未遂が頻発している。和解調停のプロセスをも、体勢を整えるための時間稼ぎという形で戦争の一手段として活用している現状を見るに、平和への道の険しさを感じる。

ちなみに世銀のレポートで他に「アジアで最も成長が見込める国」として挙げられていたのはビルマ(現ミャンマー)とフィリピン。共に多くの有能な人材を抱えていながら、社会主義と軍事政権という道を歩んだビルマと富の再分配機能が麻痺したままにあるフィリピンの独立後の歩みは、国家にとって、いかにガバナンスが重要であるかを思い知らせてくれる。

写真は、スリランカの中心都市コロンボのフォート地区である。英国植民地時代の建築が連なる整然とした町並みである。以降、数回に分けてスリランカの王都を周ることにする。
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by iyasaca | 2007-01-06 02:32 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)


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