勝手に僻地散歩



タグ:アイヌ ( 2 ) タグの人気記事


鬼怒川温泉にいってみた

f0008679_033922.jpg

f0008679_035138.jpg

東京の奥座敷、鬼怒川温泉にいってみた。
江戸時代、このあたりは江戸と会津を結ぶ会津西街道の宿場町として活況を呈していた。その宿場町に元禄4年(1691年)、地元の村人によって温泉が発見された。滝温泉として知られることになるこの湯治場は、その後日光奉行と村人との間に所有権をめぐる争いが発生、宝暦元年(1751年)に日光奉行に没収され、日光御神領となり、以後、日光輪王寺の管理のもと、日光詣帰りの大名や日光山の僧侶のみ利用が許され、一般の利用は許されなかった。ただ、日光輪王寺が直接管理していたのではなく、7年という期間を設けて、商人に経営を委託していたらしい。「藤原町史(通史編)」によると、「天保3年(1832)から明治7年(1874)においては、温泉の経営は宇都宮上河原町の塩屋清左衛門と今市相之道坂本屋文五郎に委託していた」とある。
f0008679_013290.gif
<写真:イザベラ・バード>
明治の代になって、温泉は一般に開放された。当時は、鬼怒川の西岸にしか温泉が湧出しなかったが、明治の末期、上流域に第一発電所が、大正12年に竹の沢発電所が建設されたことにより、鬼怒川の水量が減ったことで、川の東にも温泉が自然湧出しているのが確認され、藤原温泉と名づけられる。しかし、開放直後の知名度は低く、大正時代に発行された代表的温泉案内誌である「温泉案内」(博文館)や「全国温泉案内」(日本書院)には鬼怒川温泉は掲載されていない。日本旅行協会が昭和2年に発行した「温泉案内」に「大瀧温泉」としてかろうじて一行の記述があるのみである。

その藤原温泉を明治11年にアメリカ人の旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)が訪ねている。その時の様子は、「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」の第11信の中で丁寧に描写されている。(英文のフルテキストはこちら)ちなみにバードは、「日本奥地紀行」の第35、36信の中で、アイヌについての記述も残している。明治初期におけるアイヌの文化、風俗をうかがい知る数少ない資料の一つである。

昭和4年には東京との鉄道(下野電気鉄道、後に東武日光線)も開通した際に、当時の星藤太町長が鬼怒川西岸の滝温泉と東岸の藤原温泉をあわせて鬼怒川温泉と地名を変更した。そして「傷は川治、火傷は滝」と呼ばれるほどの高い効能と豊富な湯量に支えられ、鬼怒川温泉はいわゆる「歓楽街温泉」として一世を風靡するのである。ピーク時の1993年には年間341万人もの観光客をもてなしてきた鬼怒川温泉は、60年代から周辺にライン下りやテーマパークの建設などを集中的に行ってきた。バブル期には、収容能力を増やそうと過剰な設備投資もなされた結果、年間850万人も収容できるほどの施設を備えることになったのである。しかしバブル崩壊後、地域をファイナンスしてきた足利銀行が破綻したことも追い討ちとなって、多くの旅館やホテルが経営難に陥った。原因は一つではなかろう。温泉郷としての魅力を向上させる投資よりも子供用のテーマパーク作りに精を出したつけもあろうし、団体客に依存し、質をないがしろにした拡大路線に走った宿泊施設の経営方針も衰退の理由であろう。
f0008679_081548.jpg

f0008679_011187.jpg
f0008679_011205.jpg
f0008679_0113256.jpg
<写真:廃墟と化したかつてのホテル>
こうして町を歩くと、寂れた感は拭いきれない。鬼怒川温泉駅から程近い鬼怒川沿いの一等地にあるにもかかわらず、多くのホテルが廃業し、建物は荒れるがままになっている。鬼怒川温泉駅前にこそ、観光客の姿はあるが、多くはすぐにホテルや旅館へと消え、温泉郷全体としては閑散としている。しかし再生に向けての取り組みはすでに始まっている。いくつかの大手ホテル・旅館などは産業再生機構の支援を受けて、再建中である。また川の周辺に河川遊歩道を設置するなど、美しい渓谷と鬼怒川の急流を間近でみることができるようになった。経営の苦しい旅館も老人ホームへ衣替えをしたり、集中して仕事をしたいビジネスの一人客にも対応できるようなサービスを提供するホテルが登場するなど一部には変化が見られることも事実である。高い泉質と美しい渓谷をより快適に楽しめる宿が一軒でも多く増えて欲しいものである。
[PR]
by iyasaca | 2007-07-14 11:57 | 栃木 | Comments(0)

霧多布にいってみた

f0008679_146246.jpg

f0008679_1455191.jpg


釧路から東、海岸線沿いに進むと霧多布にたどり着く。北海道の地名はアイヌ語起源であることが多いが、霧多布もその一つ、「キイタップ」、平坦な土地、ヨシ・アシの多いところを意味する。霧多布はアイヌ語の音に漢字を当てただけであるが、朝方には霧がかかりやすいというこの周辺の地勢をうまく表すよい当て字である。
f0008679_1465451.jpg


海側は太平洋側に突き出すように岬を形成している。岬は切り立った崖になっており、激しい波が岩場を洗っている。また、この辺りは海鳥の繁殖地でもあり、巨大な岩には多くの海鳥が羽を休めている。写真では鮮明でないが、岩の上部に生えている草にところどころ見える白い点は、海鳥(カモメ?)である。

さて、北海道の地名の語源として頻出するアイヌである。

「日本は単一民族国家である」という主張に対して、ほぼ反射的に出てくるのが、「いや、そんなことはない。沖縄は琉球だし、北海道にはアイヌ民族がいるではないか。サッポロとかオシャマンベとか、変な名前の地名はアイヌ語起源だし。」というような、とりあえずの反論がある。しかし、「で、そのアイヌって何?」と突っ込まれると、実は何も知らないことに気づく。北海道各地に残るアイヌ語起源の「変な」地名を目にするごとに、列島の北端の地に広がる圧倒的な自然の美しさだけでなく、地名の背後に宿るアイヌという民族について、少し学ばなければいけないと感じた。



f0008679_1472473.jpg
アイヌの人口は、1931年には、15,000人台にまで減少したが、現在は73の市町村に23,000人を越えるところまで増加してきている。(「ウタリ生活実態調査」によると23,767人:1999年)。人口は増加傾向にあるが、アイヌ語は危機的状況にある。

アイヌ語はかつて北海道だけでなく、樺太の南半分、千島列島、東北地方北部など広い範囲で話されていた言葉であった。東北地方では、早々に話し手が姿を消し、地名や東北方言の一部、マタギ言葉などにその名残りを残すのみである。

例えば、岩手県の栃内(とちない)は、アイヌ語のトチナイで、「栃の実」の意。似田貝もニタッオカイで「谷地の沢山ある所」という語源を持つ。ちなみにラッコもトナカイもマタタビもすべてアイヌ語である。

さてアイヌ人は、千島列島からも1910年代に消え、樺太のアイヌ人もソ連領となった後、多くが北海道へと強制移住させられ、消滅した。

北海道でも、アイヌ語を「流暢に話せる人(Active Speaker)」として分類される話者は、20人に満たない。一ケタ台であるとの説もある。話者の平均年齢は80歳で、消滅に近い言語(Nearly Extinct)とされている。
[PR]
by iyasaca | 2006-11-04 01:51 | 北海道 | Comments(1)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル