勝手に僻地散歩



強首温泉 樅峰苑にいってみた その2

f0008679_2295993.jpg
1914年に強首一帯を襲った大地震で倒壊した小山田氏の邸宅を再建するにあたり、建築を任された宮大工の井上喜代松は、京都で改めて地震に強い建築を学ぶ機会が与えられた。1年にわたる遊学より戻った井上は、小山田邸の築造に着手する。強首樅峰苑(こわくび・しょうほうえん)と名付けられる2階建ての大邸宅は、1917年(大正6)に完成した。

f0008679_2581995.png
<写真:屋根の様式の類型>
外観で特徴的なのは、最上部に千鳥破風(屋根の斜面が交差している様式)、中上部が入母屋造り(屋根の斜面が軒先まで伸びている様式)、下部は丸みを帯びた唐(ムクリ)破風とした屋根の造りである。建材にも妥協はなく、所有地から最良のものを用いている。また2階部分は地面で組み上げたものを一度解体した上で、1階部分完成後に再度2階で組み立てるという「地組み」という誤差を最小限に留める工法が用いられている。さらには屋根裏にまでつながる太い柱、梁と柱を結ぶ木組みの筋交いを入れるなど、当時の最先端の耐震構造も取り入れられた。

f0008679_39884.jpg
<写真:秋田杉の古材を用いた廊下、継ぎ目がない>
玄関口の廊下は、全長16.3メートル。樹齢400年を越えるとされた一枚通しの秋田杉が用いられている。鉋(かんな)がけも宮大工の手によって行われた。ここにも施主であった第12代小山田治右衛門のこだわりを感じる。

f0008679_3215575.jpg

建物の意匠はあらゆるところに散らばっている。鹿鳴館風とも言われた二階への階段、階段スペースの折上格天井、鉄刀木(たがやさん)を使った1階奥の間の床柱、金欄菱欄構えを施した2階達磨の間、そして襖を取り払うと40畳にもなる1階大広間、そして玄関横に立てかけられた人力車などである。

建材の一つ一つを丁寧に選び、工法にこだわりぬいた強首樅峰苑(旧小山田家住宅)は、造形の規範となっていると認められ、1999年10月、登録有形文化財に登録されている。
[PR]
# by iyasaca | 2015-02-28 00:00 | 秋田 | Comments(0)

強首温泉 樅峰苑にいってみた その1

f0008679_229243.jpg
秋田県のほぼ中央部、大仙市強首(こわくび)にある樅峰苑(しょうほうえん)に来ている。

強首(こわくび)とは、何だか分からないが尋常でない地名である。いろいろ調べてみると日本書紀巻11仁徳天皇紀に出てくる言葉であることが分かった。少し長いが引用する。

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壤之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。

唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

(かなり)意訳すると、このような感じになる。
冬の10月、宮殿の北の原っぱを掘削し、南からの川の水を引き入れ、西方にある海に注ぐ形とした。以降、この水路(川)を堀江と呼ぶこととなった。またこの北を流れる川が氾濫(澇)するため、茨田堤を築くことにしたが、堤築造が困難を極めた場所が2ヶ所あった。そのときに(仁徳)天皇は夢の中で神から啓示を受けた。「武藏人强頸と河內人茨田連衫子の二人を工事が難航する箇所にそれぞれ生贄に捧げれば、水を漏れる箇所を必ず塞ぐことができるだろう」というお告げであった。強首は、悲嘆に暮れながらも我が身を捧げ、犠牲となったところ、堤の穴の一つを塞ぐことができた、とある。

日本書紀の話はこの後も続き、神に指名されたもう一人の衫子の方は川に瓢箪を投げ入れ、「本当の神ならいま川に流れるこの瓢箪を水に沈めて見せろ、それができないならお前は神ではないし、ニセの神に我が身を捧げるつもりはない」と言い放った。瓢箪は沈むことなくそのまま流れていき、杉子は命を失うことはなかった上に、堤防もそのまま完成し、この2つの難所には、それぞれ强頸斷間・衫子斷間と名付けられたという。

f0008679_16176.jpg
<写真:悠々と流れる雄物川>
この説話が何を意味するのかよく分からないが、強首が治水の難所を示す言葉であることは類推できる。強首温泉郷は北部が「への字」になって蛇行する雄物川のほとりにある(最下段の地図参照)。この辺りが治水の難所であったことが地名の由来なのかもしれない。

地名の由来を巡る話はほかにもある。このあたりで栽培していた稲が強かったことが由来という説もあれば、首相撲の横綱がいたからだとか、辺りの川があまりに急流で渡るのが恐かったことから来ているという説もある。三番目の説は日本書紀の話ともつながる。

さて強首の温泉地としての歴史はさほど古くない。1964年(昭和39)に天然ガスのボーリング調査をしているときにガスでなくお湯が出てきたというのが始まりで、湧出する源泉を使って、現在3軒の温泉宿がある。



[PR]
# by iyasaca | 2015-02-21 00:00 | 秋田 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その4

南機関からネ・ウィンの時代、そしてタン・シュエの時代の功績を伝える写真のパネル展示を抜けると、今度は三軍の兵器の実物展示のコーナーがある。
f0008679_28558.jpg
f0008679_285998.jpg
f0008679_291515.jpg
<写真:陸軍の装備、「大砲は戦いの神」と大書されているが、これはレーダーに見える>
大きなスペースにところ狭しと並べられる実物展示は圧巻である。特にミャンマーは海洋国家ではないため、陸軍の比重が大きいと考えられる。平定しなければならない勢力(主に少数民族)はいずれも内陸に点在している。

f0008679_291962.jpg
f0008679_17435313.jpg

f0008679_292238.jpg
<写真:壮麗なる空軍装備>
中央の写真にあるUB466とある破断した機体は、1961年2月15日に撃墜された機材の残骸。同型機はHawker Aircraft社から18機納入されている。納入時期は1957年12月から1958年5月にかけて。元々は英国空軍が第二次大戦後の1947年に運用を開始したHawker Sea Furyという艦上戦闘機である。主に朝鮮戦争で活躍したが英国空軍では1955年に退役している。ビルマはこの退役機体を買い取ったと思われる。

最下段のUB653とある機体は、DHC-Otterというデ・ハビランド・カナダ社が開発した輸送機である。1958年12月8日に納入。こちらも1958年から1961年にかけて9機を同型機を導入している。日本にもこの型の機材を日東航空という国内定期旅客便を飛ばしていた会社が1958年4月に購入していたが、1963年に大阪から徳島に向かう商用飛行中に濃霧のため墜落(日東航空つばめ号墜落事故)、乗客乗員9名全員が死亡するという事故を起こしている。

f0008679_292658.jpg
f0008679_292935.jpg
<写真:華麗なる海軍装備>
こちらは何だか分からないが、大型船舶のスクリューが恭しく鎮座している。案内板も一部はビルマ語のみであり、聞きたいと思っても周りに誰もいないので致し方ない。

展示されているのは50年近く前の旧式のものばかりである。これ以降に納入したものはまだ現役なのかもしれない。

f0008679_1864570.jpg
f0008679_18125881.jpg

f0008679_18101649.jpg

さらに館内を歩くと、いよいよ軍事とは関係のない、ヤンゴン市内のホテルの模型や飛行場のジオラマなどが展示されているほか、各省庁の報告書や事績(写真は内務省のパネル)についてもパネル展示がされている。興味関心を維持し続けることは著しく困難だが、情報量としては多い。最上階には軍区ごとのコーナーがあり、そこに居住する少数民族の衣装なども展示されていた。その段になると写真を撮る気力もなく、立ち止まることなく見学を終了した。

ところで昨日2月13日はアウンサン将軍の誕生日。生きていればちょうど100歳である。
[PR]
# by iyasaca | 2015-02-14 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル