勝手に僻地散歩



石舞台古墳にいってみた その2

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<写真:石舞台古墳遠景>
前回のエントリーでは、石舞台古墳の被葬者を探るべく、古文献を見てきたが、有力な情報はほとんど得られなかったというのが結論であった。文献による示唆が得られないゆえ、考古学調査からの知見に頼るほかない。古墳の形状、副葬品、築造時期・場所などから得られている研究成果を整理してみることとしたい。

石舞台古墳は20世紀に入ってから、本格的な調査が数回行われている。その先鞭をつけたのは、1933年(昭和8)1月と1935年(昭和10)4月に、奈良県史蹟調査会と京都帝国大学考古学研究室による合同調査である。この調査の時の様子は、デジタル化され、だれでも閲覧することができる(リンクはここ)。その後も奈良県橿原考古学研究所などが発掘調査を行っている。これらの数次の調査から、何がどこまで分かっているのであろうか。

古墳築造の時期
古墳外堤の北西部より、石舞台古墳より古い時代の小規模古墳7基(一辺8メートルから18メートル)が発見されている。いずれも円形、方形古墳で横穴式石室である。須恵器、耳鐶(じかん)、釘などの出土遺物や横穴式石室の形態からこれら小規模古墳の築造時期は、6世紀後半から7世紀初めと推定できる。石舞台古墳はこれらの古墳の一部を削って、その上に築造されている。このことから、石舞台古墳は7世紀中頃の築造と推定される。
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<写真:築造時の石舞台古墳想像図、関西大学文学部考古学研究室、奈良県明日香村、石舞台古墳-巨大古墳築造の謎-解説書より>
築造時の古墳の形状
墳丘の下の段は方形を呈している。上段は失われているので不明だが、円形か方形の2つの可能性がある(上の絵図では上段も方形になっている)。より時代が下ると古墳は3段、4段、5段築成と発展していくが、築造の時期や古墳の規模から石舞台古墳は2段築成であったとする説が有力である。一段目と二段目の平坦な部分には通常埴輪などが並べられるが、墳丘が全て削られた石舞台古墳ではそれらの遺物は残っていない。

濠の斜面には30-80センチほどの花崗岩が平らな面を表面に揃えて敷き詰められていた。この貼石は築造当時、墳丘の全面に敷き詰められていたものと推定される。同じ時代に築造されたと推定される梅山古墳(欽明天皇陵と推定。発掘作業未実施のため、正確な築造時期は不明)、西宮古墳にも花崗岩の貼石が墳丘に施されている。
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# by iyasaca | 2015-04-18 00:00 | 奈良 | Comments(0)

石舞台古墳にいってみた その1

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<写真:石舞台古墳、Wikipedia>
奈良県明日香村石舞台古墳に来ている。7世紀中葉の築造と伝えられている石舞台古墳は、墳丘が全て失われ、石室部分の巨石が露出するという荒々しい形状を呈している。いくつかの傍証から被葬者を蘇我馬子とする説が有力とされているが、めぼしい副葬品はほぼ失われており、被葬者を確定するだけの証拠は揃っていない。

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<写真:玄室内部から天井石を仰ぐ>
大小30数個の閃緑岩によって組み上げられた両袖式横穴式石室は、総重量2,300トン、西南部に開口している。2枚の天井石は特に大きく、それぞれ54トン、77トンある。

残存する遺構の大きさは以下の通り
  玄室 長さ 7.7メートル 幅 3.5メートル 高さ 4.7メートル


石室が露出する異様な形状は、古くから世間の耳目を集めたはずであるにもかかわらず、文献上の記録に古いものが残っていない。石舞台について書かれたとされる最も古い文献は1681年(延宝9年)の林宗甫「大和名所記 和州旧跡幽考」である。この中に
「その近き所に石太屋(いしふとや)とて陵(みささぎ)あり」
と記されている。「石太屋」は、大きな石で造った屋の意味で、これが「いしぶたい」へと転訛したのではないかとの説がある。

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<写真:菅笠日記、公益財団法人鈴屋遺跡保存会 本居宣長記念館所蔵、国重文>
次に石舞台について書かれている文献は、本居宣長が1772年(明和9年)に著した「管笠(すががさ)日記」である。菅笠日記は、宣長が43歳のときに、吉野と飛鳥を10日間にわたって見て回った際の記録である。その記録によると宣長自身は石舞台古墳を訪ねてはいないが、近くまで来た時に聞いた話として、以下のように書き残している。
さてこゝのいはやのつひでに。しるべするをのこが語りけるは。岡より五六丁たつみのかたに。嶋の庄といふ所には。推古天皇の御陵とて。つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。
意訳すると、「さてこの岩屋(艸墓古墳、くさはかこふん)を訪ねたついでに、土地に詳しい男に聞いた話として、岡寺より5、6丁(109.2mx6丁=655メートルほど)ほど東南の方角(たつみのかた、巽、辰巳)に島の庄というところがあり、そこに推古天皇の御陵がある。塚の上に岩屋があり、中は8畳ほどの広さだという」

とある(該当箇所はここ)。当時は推古天皇陵とされていたらしいことが分かる。

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<写真:西国三十三所名所図会、武庫川女子大学所蔵>
さらに時代を下って1848年(嘉永元年)には、暁鐘成(あかつきかねなり)の手による「西国三十三所名所図会」の中で、石舞台古墳の絵とともに、「高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、天武帝殯古址(てんむてい・もがり・こし、天武天皇を仮に葬り奉った場所)との添え書きが付されている。

絵図を見ると分かる通り、石室が露出した形状に描かれており、現在とほぼ同じ形である。

これらの文献によって分かることは、少なくとも江戸期には、墳丘は存在せず、ほぼ現在見られるような形となっていたこと。さらに確認できる伝承からは、時代によって天武天皇の殯の場所であるとされたり、推古天皇陵であるとされたりしていることからも分かる通り、確たることは言えないというのが結論である。


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# by iyasaca | 2015-04-11 00:00 | 奈良 | Comments(0)

天皇皇后両陛下のパラオ国御訪問

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天皇皇后両陛下が、4月8日から9日にかけてパラオ共和国を訪問される。硫黄島(1994年)、サイパン(2005年)と続く太平洋の激戦地の慰霊の一環で、戦後70周年にあたる今回は玉砕の島ペリリューに散った英霊の慰霊が主たる目的と理解している。両陛下はミクロネシア地域の他の島嶼の訪問も希望していたに相違ないが、諸々の理由でパラオのみの訪問となったようだ。そのため旧南洋群島のマーシャル諸島、ミクロネシア連邦の大統領も両陛下の訪問に合わせてパラオ入りされている。

本ブログでもパラオについて取り上げたエントリーが10本ほどある。残念ながら私自身はペリリュー島の訪問はしていないが、戦前の南洋統治に思いを馳せながら史跡を訪ねている。ご関心があればこちらからどうぞ。

パラオ共和国訪問についての記事はこちらから
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# by iyasaca | 2015-04-04 00:00 | パラオ共和国 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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