勝手に僻地散歩



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ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その2 - 南機関と海南島での特訓

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<写真:地雷除去に勤しむミャンマー国軍兵士>
1941年2月1日の南機関の設立を受けて、ビルマ作戦が本格化する。アウンサンは南機関の一員としてビルマ米を積載する輸送船に乗船してビルマに渡り、30人の志士のリクルーティングの任を担った。指名手配中の隠密行動は命がけであった。アウンサンは、入れ歯を口に含み、黒メガネをかけた中国人に扮して活動していたという。

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<写真:訓練中の30人の志士>
数名ずつ選ばれた精鋭たちが30名の定員に達したのは6月であった。この30名の中には後のビルマ政治を支えるネ・ウィンらが名を連ねていた。30人の志士は、海南島三亜の海軍基地内の特殊訓練地(要するにジャングル)に送られ、厳しい軍事訓練が行われた。
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<写真:三亜の訓練所前での30人の志士と日本人教官>
三亜の訓練所は同年10月には閉鎖され、訓練は終了した。30名は台湾玉里に移動した後、12月28日に、バンコクのビルマ人歯科医の家で集まった。200名は集まったこの決起集会でビルマ独立義勇軍Burma Independence Armyは正式に発足した。

f0008679_1263012.jpg司令官はボ・モージョー(雷将軍の意)を名乗った鈴木大佐が務めた。ボ・モージョーとは、ビルマの古来からの言い伝えにある、白馬にまたがり東からやってくるビルマを解放する王子のことである。、鈴木は金モールの王冠に純白のロンジー(ビルマ伝統衣装)を着用し、白馬でビルマ入りしたのである。
<写真:ボ・モージョーを囲む30人の志士>

すぐに「日本人が変装しているだけではないか」とバレるリスクをどう考えたのか分からないが、実際にはビルマ民衆の反発を買ったどころか、あちこちで民衆の協力を得られたという。

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<写真:ほぼ貸切状態の館内>
アウンサンはじめとする30名の志士に加え、日本人74名を含む計140名が義勇軍に加わり、出陣式も31日と決まった。また義勇軍に参加とまではいかない者も、志願者探し、資金的支援、家族の支援などを約束した。この義勇軍がミャンマー国軍へと発展していくのである。
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by iyasaca | 2015-01-31 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その1- アウンサン将軍の日本滞在

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<写真:博物館入口、外国人入場料は3ドルとの掲示がある>
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「絶対に降伏しない精神」、「任務を遂行する断固たる決意」、「高貴なる国軍の伝統を守る犠牲の精神」。ミャンマー国軍(Tatmadaw)を支える戦陣訓である。

ミャンマー最大の都市ヤンゴンに、そのミャンマー国軍を顕彰する軍事博物館(Defence Services Museum)がある。博物館は国軍の歴史、装備、そして現在における国への貢献について、貴重な写真や実際に使われていた装備の展示を通じて、世に広く知らしめることを目指しているのだろう。

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入口で入場料を支払うと見学者用バッジを手渡される。特に見学者用に館内案内などは作成していないようである。

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館内は、電力節約のためか、電気は落とされており、全体として薄暗い。ところどころに博物館の職員らしき姿は見えるが、私の他に見物客はいない。

ところでミャンマー国軍創設には、日本が深く関わっていた。

f0008679_0491839.jpg話は、中国戦線が膠着状態に陥りつつあった1940年、蒋介石軍の物資調達ルートの一つである援蒋ルートを遮断する作戦の一環で、ビルマに独立を志向する集団を組織、支援することが望ましいとの認識のもと、大本営陸軍本部が鈴木敬司大佐を長にビルマ研究を命じたことに端を発する。この研究は後に特務機関である「南機関」発足へと展開していく。

ビルマ研究の内示を受け、鈴木大佐は興亜院、満鉄調査部、上海の特務機関などとの協力を得て情報収集を開始した。そして3ヶ月後の1940年6月には、読売新聞特派員「南益世」として現地に入ったのである。すぐにティモン博士より将来有望な独立運動家アウンサンの存在を知らされる。アウンサウンとは言うまでもなく、アウン・サン・スーチーの父である。

<写真:鈴木敬司陸軍大佐>

f0008679_0562370.jpgしかしアウンサンは、宗主国英国に対する激しい独立運動を展開していた秘密結社タキンの一員であったことから、当局より懸賞金付き指名手配がかけられ、厦門(アモイ)に逃れた直後であった。鈴木からの要請を受けた日本軍はすぐに潜伏中のアウンサンを厦門で発見、面田紋二という名前を与え、浅黒い彼らが怪しまれないようフィリピンとの混血児として、もう一人の独立の志士ラミヤン(糸田貞一)とともに日本に連れ出した。1940年11月のことである。
<写真:日本滞在中のアウンサン、珍しい和装の写真>

f0008679_185189.jpgちなみにアウンサンに与えられた面田という名前は、ビルマの漢字表記「緬甸」からとったものである。二人は鈴木の東京の宿舎、浜松の実家、そして浜松湖湖畔の旅館「小松屋」などを転々としていた。この間の心境はいかばかりであっただろう。しかしこの当時世話をしてくれた同年代の女性(エイコさん)にカタカナで恋文を書いてもいる。将軍も25歳の若者だったのである。

<写真:鈴木大佐の実家?アウンサンは右端>
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by iyasaca | 2015-01-24 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

奈良ホテルにいってみた

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興福寺の南、小高い丘の上にある和洋折衷の木造建築、奈良ホテルを訪ねる。

奈良ホテルは、後藤新平が総裁を務めていた内閣鉄道院が35万円を拠出し、1909年(明治42)10月17日に竣工した。1883年(明治16)に建てられた鹿鳴館の総工費は18万円だったという。1883年から1909年の36年間に物価は2倍ほどに上昇していた。つまり奈良ホテル建築には、鹿鳴館と同程度の力が入っていたということになる。ちなみに1883年の18万円、1909年の35万円は現在では50億円ほどの価値になる。

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設計を手がけたのは、辰野片岡事務所である。辰野金吾は東京帝国大学工科大学退官後の1905年(明治38)、大阪で片岡安とともに事務所を立ち上げていた。辰野は1903年(明治36)に東京にも事務所を構えており、1919年(大正8)にスペイン風邪(今で言う新型インフルエンザ、H1N1型)に斃れるまで、これらの拠点から朝鮮を含む全国主要都市で多くの作品を残している。辰野の代表作とも言える中央停車場(東京駅)を手がけたのは1914年(大正3)だったので、奈良ホテルは辰野の全盛期の作品と言えるだろう。

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見えづらいが、屋根の上には東大寺大仏殿と同じ型の鴟尾を配置し、壁面を白漆喰で仕上げている。

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エントランスホール上方にあるシャンデリアは、春日大社の釣燈籠を模している。

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階段の手すりの節目についている擬宝珠は、戦時中金属類回収令に基づき、供出してしまっため、陶器で出来ている。手すりはヒノキの一本木、他にもあちこちに興福寺や東大寺など奈良の代表的建築物をモチーフとした装飾が施されている。辰野が単に「和」とではなく、「奈良の伝統」と、洋風でしか成立しえない「ホテル」との融合に心を砕いていたことが分かる。
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天井はエントランスホールだけでなく、客室廊下に至るまで格天井(ごうてんじょう)があしらわれている。ちなみに様式としては、折上(おりあげ)格天井がより格式が高い。最も格式が高い様式は二重折上格天井で二条城やかつての江戸城本丸大広間の上段の間(将軍の座するところ)に使われていた。
  
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当時は誰でも宿泊できたわけではない。原則として宿泊できたのは、「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」だけであった。海外からもアインシュタイン、リンドバーグ、チャップリン、ヘレン・ケラー、鄧小平、ヘップバーンなどが宿泊客帳簿に名を連ねている。
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奈良は、京都への観光客の一部が、日帰りで訪れるだけの場所となっているという。奈良は田園に広がる美しい古都としてだけでなく、奈良吉野山より熊野三山に至る修験道を有する味わい深い地である。和洋が高いレベルで融合した宿で時間を費やす客が少しでも増えてほしいものである。
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by iyasaca | 2015-01-17 00:00 | 奈良 | Comments(0)

ナン・マトールにいってみた その3

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20世紀に入ると本格的な考古学的調査が入るようになり、口伝や伝承を補強する新たな知見が得られている。島の各所から採取された残留物を放射線炭素年代測定した結果、初期居住が始まったのは紀元前2世紀、ナン・マトールの人工島建造が始まったのが西暦500年頃、祭祀遂行の痕跡を辿ると王朝が成立したのは西暦1,000~1,200年頃とされている。

戦後は1963年にスミソニアン博物館のチームが、1970年代には米国政府による文化財保護行政の一環として数次の調査が入っており、最近は周辺島嶼、及び地域との比較研究が進み、複眼的な歴史の検証が進められている。ポンペイの東にあるコスラエ島にあるレロ(Lelu)遺跡よりも古いということも分かってきた。また発掘された遺物、食糧の残滓などの方面からの研究も進んでいる。とりわけ出土した土器は形象、機能両面に多様性があり、外部世界との取引が盛んであったことを示唆している。

さて入場料を払って環礁内の浅瀬をカヌーで進む。

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到達したのは、ナンタワス(Nan-Dauwas)である。「首領の口の中」を意味する。AD1100年代後期の建造と言われている。外界とを隔てる内外壁の二重構造が特徴的である。ここは観光客が必ず訪れる遺跡であり、観光局も定期的な草刈りなどの保全作業を行っているため、外形をよく確認できる。

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サウテロール王の代々の墓所であり、精霊ナニソーンサップの祈りの場、審判の場でもあったとされている。石室は少なくとも大小4つは確認できる。高さ1メートル、長さ7メートルの中央の墓所を二重の壁が取り囲んでおり、内側の壁は一番高い地点で8メートルある。石壁に絡まるようにガジュマルなどの植生が見られる。

中央石室の上部は6メートルほどの石柱が8本、蓋をするように並べられている。内部はハンブルック(Hambruch)、八幡ら多くが荒々しく発掘作業を行っており、残念ながら原型をとどめていない。内室からは、多量の貝製品、手斧、首輪、針、ペンダント、ブレスレット、真珠貝を使った釣り針などが発掘されている。1834年から40年にかけての記録によると、同じ場所から銀柄の短剣、金の十字架なども見つかっている。キリスト教関連の遺物が発見されていることから、記録には残っていないが、かなり前から西洋人が訪れていたことが考えられる。

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<写真:崩れ落ちた石柱>
ナン・マトール遺跡は広大であるが、保存状態が悪い。かなり崩壊が進んでもいる。それでも最近の研究により、それぞれの人工島の機能も明らかになりつつある。全てを紹介することは私の能力を超えるため、他文献を参照されたい。日本語文献としては、東京文化財研究所が発行している「ミクロネシア連邦ナンマドール遺跡現状調査報告書(2012)」がよくまとめられている。特に参考文献が網羅されているのが良い。

主要な島についてのまとめは以下の通り。

ダロン(Darong)
島中央の池を囲むように外壁が建造されている。中央の池は、王の儀式に用いるシャコ貝が養殖されていたとされ、11本の地下水路によって外海とつながっていた。残存する外壁、石敷跡から、かつて島には儀式用の建物、聖職者の住居があったと推定される。

デパフ(Depahu)
王のための厨房の島とされているが、多くの手斧の破片も発見されていることから、高位聖職者のカヌー建造の地であったとも推定されている。炭素年代測定法では西暦232年頃、オレゴン大学の調査では西暦227年頃より人類の痕跡があるとの結果が出ている。

イテート(Idehd)
内部に約1.8メートルの壁がある。毎年決められた時期に服従・祈願・償いの儀式「プング・エン・サプー」が行われた場所。この儀式の最後には聖なるウナギ(人間と神の間の存在と信じられていた)に亀を捧げ、そのときのウナギの様子を見て、その年の人間の行いを神が受け入れたかどうかの占いを行った。スミソニアン研究所の調査団が、島がいつまで祭礼に使われていたかについて炭素年代測定法で計測したところ、西暦1260-1380年との結果が出た。

カリアン(Kariahn)
ナンタワスと同じ構造であることから、王族または聖職者の住居・墓(2基確認できる)であったと推測されている。

ケレプウェル(Kelepwel)
コスラエから渡ってきたイソケレケルと333人の兵士が滞在したとされている島。構造から王の臣下または、客人を留め置く住居であったと推測されている。

コーンデレク(Khonderek)
葬儀の島であり、最も重要なサカオの儀式と踊りの場である。伝統的な葬儀では、遺体はココナッツ油、花、魚の骨で化粧が施される。遺品とともに包まれた遺体は、故人が生前生活した島々をカヌーで回り、最後のコーンデレクに戻り、葬礼が執り行われる。葬礼にあっては、聖職者の参加のもと、食べ物が分配され、サカオが供され、精霊との対話、歌唱と踊りをもって故人を送り出す。葬礼後は、故人の生前の地位に則したそれぞれの墓所に葬られる。

レメンカウ(Lemenkau)
サウテロール王朝時代の医療施設。治療を終えた患者は、隣にあるナムェンカウという池で水浴びをしたとされる。

マトルポウェ(Madol Powe)
司祭の住居であり、儀礼の際の食事が準備される場。

ナンウォルセイ(Nan Mwoluhsei)
「航海の終着地」を意味する外界からナンマドールを守る石垣。外壁には切れ目があり、水中にも石柱が立っている。そこがナンマドールの外洋からの水門であったと推測される。伝承ではこの門は二匹の鮫によって守られており、聖なる海底都市カーニムェイソ(Kahnimweiso)へと通じる道とされていた。聖なるウナギが生贄のウミガメを供される際の入り口であり、若者の肝試しの場でもあった。

パーンカティラ(Pahn Kadira)
「男の家」との意味を持つ。王が執務を行ったナーン・サプェ神を祀るナン・ケイル・マーオ寺院があった。高位者の住居跡も確認されている。最も詳しい口伝が残っている島であることから、かなり重要な位置づけにあった島であることが推測される。推定建造年代は西暦900-1000年頃。1300-1400年頃に拡張されている。

パーンウィ(Pahnwi)
「ウイの木の下」との意味がある。大きなカヌーが係留できる船着場跡が特徴的。墓か家屋の土台と思われる跡も残されているほか、高さ約8メートルの南西の壁面中央に妊婦が安産祈願に訪れる大きな岩もある。推定建造年代は西暦1250年頃。

ペイカプ(Peikapw)
生贄として儀式に使う海亀を養殖する大きな池「ナムエイアス」と、将来を見通すことができたとされる魔法の池「ペイロット」がある。島の北東部にはロペンゴ神にお供えを忘れた4名の女性が、2つの岩と2本の木にされたとの伝承がある。

ペイニオット(Peiniot)
本島から飲料水を一時貯蔵する場。水はここからUsennamw, Usendauへと運ばれていく。

ペイネリング(Peinering)
椰子の実の皮むきと等級別の仕分け、ココナッツオイルの精製と貯蔵の場。儀礼用、灯火用のオイルを全面的に供給していたと推定される。

ワサウ(Wasau)
王のための食料庫。全島から集められた供え物が貯蔵されていた。
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by iyasaca | 2015-01-10 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ナン・マトールにいってみた その2

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<写真:ナンタワス遺跡正面入り口>
捕鯨や宣教活動でポンペイに西洋人が出没し始めたのは19世紀初頭のことである。簡単な調査は最初期から始まっていたが、本格的な調査が入り始めたのは20世紀に入ってからである。初期における調査としては、Paul Hambruchの業績が目を引く。1910年にナン・マトールの全体地図の作製、遺物採集を行ったほか、住民への聞き取りを行い、島の名称を記録している。

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<写真:高く積み上げてはいるが、組み上げ方は結構雑>
とりわけ口伝の収集にはかなり苦労したようである。ポンペイの民には、知っていることの全てを話すと災いがもたらされるという信心が強く、ましてやそれを遠くから来た外国人に話すということに心理的抵抗があったことは想像に難くない。さらには19世紀前半、西洋人の来島に伴い断続的に発生した天然痘の流行によって、ポンペイの人口は1万人から2,000人へと5分の1にまで激減していた。おそらくこの時期に適切な口承ができず、多くの口伝が失われたことだろう。

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<写真:周辺の水路。深くとも大人の腰くらい>
そのような中で記録されたナン・マトールの由来にかかわる口伝が残っている。

その昔、オロソーパ(Olosohpa)とオリシーパ(Olisihpa)という兄弟がいた。二人は家来とともに日の沈む方角の島から大きなカヌーでポンペイにやってきた。新天地で政(まつりごと)の中心を建設しようと最初に島の北部地区のソケースを選ぶもうまくいかず、その後ネット(Nett)、ウ(U)と転々とする。最後にポンペイ島東部のマタレニアム(Madolenihmw)に新都市建設の適地をついに発見する。兄弟はウナニ(魔術、呪文)を唱え、空飛ぶ龍の助けを借りて巨石を運んだと伝えられている。兄のオロソーパは新都市の完成を見ずに世を去ったが、残った弟のオリシーパが初代ポンペイ王の座につき、自らをサウ・テロール(シャウテレウル、Sau Deleur、Lord of Deleur)と名乗り、サウ・テロール王朝の祖となった。

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<写真:比較的よく残っている壁面>
17世紀に入り、ポンペイは、サウ・テロール王朝第16代サウ・テモイ(Sau-Demwohi)王の治世下にあった。理由は明らかでないが、サウ・テモイ王は、ポンペイの神ナン・サプウェ(Nahn Sapwe)を幽閉する。ほどなくナン・サプウェは幽閉を逃れ、コスラエに渡る。

その後しばしの小康を経て、サウ・テロール王朝は一気に崩壊する。コスラエに逃れたナン・サプウェの息子、イソケレケル(イショケレケル、Isohkelekel)が決起したのである。1628年のある日、333名の手勢を連れたイソケレケルはコスラエを発ち、ポンペイに向かった。イソケレケルの一団は一気にナン・マトールに攻め込み、サウ・テモイ王はあっけなく敗れた。ここにサウ・テロール王朝は滅亡し、イソケレケルは、新王朝ナンマルキ(Nahnmwarki)を樹立したのである。

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<写真:ナンマルキの中のナンマルキ(マタレニアム)、Isipahu the High King of Nahnmwarki of Madolenihmw>
時代は下り、そのナンマルキ王朝も分裂し、現在ポンペイには5人のナンマルキがいる(まずマタレニアム、ウ、キチの3派に分裂、さらにドイツ統治時代にはソケース、ネットが加わる)がいる。その中でもマタレニアムのナンマルキはイソケレケルの直系とされ、5人のナンマルキの中で唯一、「ニンニンナンマルキ」と呼ばれる神器(貝製の首飾り)を身に付けることができ、イシバウ(Isipahus)と尊称されている。現在のナン・マトールを「私有」しているのもマタレニアムのナンマルキであり、我々がナン・マトールを訪れる際には必ず入場料を払わなければならない。ちなみに現第40代イシバウは、40年ほど前にJICAが日本に招聘し、数ヶ月の滞在の支援をしている。いい仕事をしている。
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by iyasaca | 2015-01-03 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

乙未

謹賀新年。

本年の干支は乙未(きつ・び)である。

乙は、説文解字に「春に草木、冤曲して出ずるも、陰気なお強く、その出ずること乙乙(いついつ)たるを象る」とある。つまり固い殻を破って芽が頭だけ少し出た昨年の状態(甲)から、さらに伸びようとする草木の芽が、外の障害に遭って、曲がりくねった状態(乙)へと遷移するということである。

未は羊(ひつじ)と解されているが、十二支の動物名は漢代につけられたものであり、本来、未と羊は無関係である。元々の字義は木の上の方に繁茂する枝や葉を表している。このことは未という字を「木」と「一」に分解してみるとよく分かる。要するに木の上部にある横棒(一)、つまり枝葉である。枝葉は生い茂ると足元が暗くなる。それがゆえに未は「くらい」とも読む。

したがって乙未とは、ようやく進取の精神が芽吹き出し、前進を図ろうとするが、阻害する要因や雑音が多く、そのままでは真っ直ぐに進むことができない状態のことと捉えられる。新しい息吹を殺さぬためには、暗い足元を明るくし、風通しを良くする必要がある。つまり茂った枝や葉を払い落とすという作業が重要となる年ということである。うまく障害を払い、足元を明るくすることができれば、さらなる発展を期待することができる。逆にそれができなければ、根元が右に左に曲がりくねったまま前に進まなければならない事態に陥るとも解釈できる。

暦を遡る。

前回の乙未は1955年である。この年、自由党と民主党という2つの保守勢力が合従し、自由民主党を結党している。同様に革新勢力も左派社会党と右派社会党が統一を果たした。戦争の記憶が未だ生々しく残っていたこの時期、小異を捨て、大同団結することで、日本政治は新たな均衡を見出し、国家をさらなる発展へと導いたのである。

さて昨年12月の総選挙で安倍政権は現有勢力を維持することに成功した。これから取り組むであろう安保法制の整備や憲法改正などは、戦後体制からの脱却の第一歩である。また退路を断った消費増税の日までにデフレ脱却を成し遂げなければならない。残る第三の矢の肝である規制緩和をどこまで断行できるかにかかっているといえよう。

さらには民主党や維新の会などの野党の動きも注目である。民主党は上の方に古い枝や葉が未だに生い茂っていて、下の世代に陽があたらない。過去に何度も執行部に名を連ねたような古い枝と葉を刈り取ることができるだろうか。維新の会にあっては、賞味期限が切れかかっている大阪市長が、古き枝や葉である大阪府と市を解体し、大阪「都」構想を成就できるかどうかが刮目すべきところである。与党も野党も足元を新たにしなければ、そのまま壊死してしまいかねない。このまま繁茂する枝や葉を刈り取らずに右へ左へと蛇行するのか、周囲の雑音、障害に屈せずにこれからの前進の基礎を固めることができるのか、与野党ともに正念場である。

私個人の話をすれば、昨年は本ブログの更新が7月以降、5ヶ月以上途絶した。ひとえに気力の問題である。何を整理せねばならないのか、よく見えていないが、次のステップに向けて、改めて基礎を固める要があることは確かである。

皆様にとってよい一年となりますことを。
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by iyasaca | 2015-01-01 00:00 | 新年のご挨拶 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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