勝手に僻地散歩



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今帰仁城址にいってみた その4

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<写真:テンチジアマチジ(カナヒヤブ)の御嶽 城中で最も神聖な場所 かつては男子禁制の神域>

攀安知の治世時(1401-1416)、中山はまだ乱れていた。1406年中山王の武寧王は、佐敷按司の巴志(はし)に攻め滅ぼされ、父思紹(ししょう)が新たに王位に就いていた。攀安知が行動を起こそうとしたこの時期は、 思紹父子が中山の王位を簒奪してから10年しか経っていないという時期である。すでに20年も王位にあった攀安知としても好機と見たのだろう。中山を南から脅かす南山も、1413年に王の暗殺があり、他魯毎(たるみい)が南山王に就いてから、それほど時間も経っていない時期でもあった。それゆえに攀安知には、一気に琉球統一ということも頭にあったのかもしれない。

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<写真:志慶真門郭(しじまじょう) 城内東部分 重臣の居住区画>
ところが攀安知の強権的な支配に日頃から不満を抱く国頭(くにがみ)、名護、羽地の諸按司が中山攻略に向けた軍の動きを中山王の思紹(ししょう)に伝え、機先を制し、山北を攻めよと進言した。

思紹は、その進言を容れ、息子の巴志(はし)に命じて山北に攻め入った。しかし今帰仁城の守りは固かった。膠着状態に陥ったのである。このことは、この城構えを見れば容易に想像できる。ましてや、北山王には勇猛な軍勢がついていたのである。そこで巴志は計略を巡らせる。城内に陣取る攀安知の腹心、本部平原を籠絡し、謀反を促したのである。本部はその話に乗る。

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<写真:金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸) 国宝 那覇歴史博物館所蔵>
本部は攀安知に言う。「王は表、私は裏から攻め、敵を挟み撃ちにしよう」。信頼していた臣下からの言葉を攀安知は行動に移す。攀安知は城外に出て、巴志への攻勢をかけたのである。ほどなく、背後の城中から火の手が上がった。裏切りを知った攀安知は直ちに引き返し、城内にて宝刀千代金丸(ちよがねまる)で本部を斬って捨てる。さらに自らの運命を呪った攀安知は、城の守護神イビガナシを祀るカナヒヤブの霊石(上に写真あり)を十文字に斬りつけた後に、千代金丸を志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で自害して果てた。3代北山王統はここに滅びたのである。投げ捨てられた千代金丸は、川から回収され、中山王に献上、その刀が現在にも伝わっている。

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<写真:おまけ。古そうな写真。撮影日時ほか不明>
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by iyasaca | 2013-01-26 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その3

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<写真:旧道 大庭(うーみやー)へと続く参道。敵兵襲来に備え、道幅が狭い>
攀安知は、珉の後継である。明実録には1396年から1416年の19年間に複数回の朝貢の記録が残る。この攀安知が北山最後の王となる。北山の滅亡と尚氏の統一王朝の成立までのここからの記述は、中山世鑑(ちゅうざんせかん)、中山世譜(ちゅうざんせいふ)に拠る。

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<写真:中山世鑑 沖縄県指定有形文化財 沖縄県立博物館・博物館所蔵>
中山世鑑とは、1650年に羽地朝秀が王命により編纂した琉球王国初めての正史である(全6巻。和文体)。

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<写真:中山世譜 蔡鐸本 沖縄県指定有形文化財 沖縄県立博物館・博物館所蔵>
中山世譜とは、1697年に蔡鐸によって編纂が始められ、1701年に成立した漢文の史書である。中山世鑑を主たる原典としており、中国との関係を中心にまとめた部分(正巻5)と、薩摩藩など日本との関係を中心にまとめた部分(附巻1)とに分かれている。その後、蔡鐸の子の蔡温が加筆修正を加え、正巻13、附巻7の構成となった。いずれも沖縄県立博物館に所蔵されている。

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<写真:大庭。政治・祭祀が行われた場所。正面に正殿、右に南殿、北に北殿があった>
さて短い在位に終わった先王珉の没後、不安定であったであろう北山を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評された攀安知が、堅牢な今帰仁城と自らの「勇剛驍健(ゆうごうぎょうけん)」な軍勢を背景に、有力諸按司を次々と支配下に置き、統治体制を強化していった。即位から20年を経た1416年、北山統治に一応の目処が立ったのだろう、腹心の本部平原(もとぶていばら)とともに、いよいよ中山へ進出しようと兵馬の準備に入ったのである。
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by iyasaca | 2013-01-19 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その2

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<写真:平郎門(へいろうもん)、現在の正門>
今帰仁城の来歴にかかわる一次資料は残っていない。発掘調査などの成果から、築城が始まったのは13世紀末頃との説が有力ではあるが、文献・資料にそれを示すものはない。これだけの威容を誇る大グスクであるにもかかわらず、この城が誰によって、いつ造られたのかすら正確には分からないのである。今帰仁城と北山に関して、確認できる最も古い記述は、「大明実録」(俗に明実録、皇明実録)にまで下らなければならない。

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<写真: 『皇明実録』 明・胡広等奉勅纂修及び、楊士奇等奉勅纂修 東北大学附属図書館蔵 残本 計四十巻 一帙七册 明末内府鈔本>
大明実録は、14世紀後半から17世紀後半の明太祖洪武帝から熹宗天啓帝に至る十三帝の実録で、通行本(日本に伝わる写本群)は2,999巻、紅格本(北平図書館旧清朝内閣大庫に所在)の抄本は3,058巻と残る写本によって多少のバリエーションがある。(写本の系統については、川勝賢亮九州大学名誉教授の研究に詳しい。

その大明実録に、琉球国山北王として、「怕尼芝(はにじ)」、「珉(みん)」、「攀安知(はんあんち)」の三王の名前が登場する。しかし歴代の王についての記述は短く、出生も統治期間も17世紀以降にようやく編纂され始める資料や口承、伝承に頼らなければならない状態である。やはり300年から400年という時間の隔たりは大きい。

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<写真:おもろさうし 尚家本 国指定重要文化財 沖縄県立博物館・美術館蔵
怕尼芝(はにじ)とは、羽地按司(はねじあじ)という音に似ていることから、もとは羽地を治める按司であったと推定される。17世紀初頭(1531~1623年頃)までに編纂された沖縄最古の歌集「おもろさうし」の中にも怕尼芝が王になる経緯が詠われているらしい。あちこちに「怕尼芝は従兄弟の子で山北王である今帰仁按司を討ち、自らが山北王となった」とおもろさうしの中で詠われているとあるが、おもろさうし全文データベースでは確認できなかった。該当箇所をご存じの方がいたら教えていただけると幸いである。

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<写真:沖縄戦により灰燼と化した首里城 首里振興会のサイトより>
ところで、おもろさうしの原本は1709年の首里城火災の際に焼失した。火災の翌年に再編纂され、尚家に納められた尚家版も20世紀の沖縄戦で焼失したと考えられていたが、米国に持ち去られていたことが戦後判明、1953年に返還され、現在は沖縄県立博物館に収蔵されている。

いずれにしても、おそらく怕尼芝は、この辺りの地域の覇権を争った末に、天然の要害でグスク建造の適地である今帰仁を居城としたと考えられる。統治期間は1322年から1395年とされているが、73年は一人の王の統治期間としては長すぎる。代々「怕尼芝」を王名として使用していたのであろう。言ってみれば、エリザベスとかチャールズと言わずに、英国王と表記されているという感じだろう。明実録によると1383年から90年の7年間に6回朝貢したと記録がある。

珉は、先代怕尼芝の後継として登場する。1395年に珉の事績として明へ朝貢したとの記録があるが、それ以外の記述はなく、在位は短かったと思われる。珉王の後を継ぐのが攀安知、北山の三代目で最後の王となる人物である。
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by iyasaca | 2013-01-12 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その1

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今帰仁(なきじん)城址に来ている。今から700年ほど前の三山分立時代、三代で潰えた北山王の居城である。
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<写真:外郭。城壁の上面に攻撃・防御用の胸壁が見える>
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今帰仁城は、沖縄本島北部、親泊の海岸から南へ1.5キロほどの場所にある標高100メートルほどの丘にある。西から東の方面に、せり上がるように盛り上がった丘の斜面には、石灰岩を積み上げた10メートルほどの高さの城壁が曲線を描くように築かれている。外周は1,500メートルに及ぶ。
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北、東、南側は断崖絶壁で、天然の要害となっている。1972年5月15日に「今帰仁城跡」として国の史跡に指定されたときには、丘の頂きの主郭しか確認されていなかったが、その後、西の斜面に二の丸、北殿跡、大庭(うみやー)、御内原(おうちばる)、最後部の低地の曲輪、そして外郭と遺構が次々と確認され、2010年2月22日には今帰仁城跡附シイナ城跡として再指定された。今帰仁城は、南北に350メートル、東西800メートル、総面積3万7000平方メートルの広大な敷地に7つの郭が連なる、首里城に匹敵する大グスクだったのである。

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<写真:戦前の今帰仁城、田辺泰撮影、1934年>
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by iyasaca | 2013-01-05 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

癸巳

謹賀新年

本年の干支は癸巳(みずのと・み)である。

癸(き)は十干(じっかん)の最後にあたる。五行では木は春、火は夏、金は秋、水は冬とされることから、水の陰干である癸(みずのと)は、季節としては晩冬である。古字では☓であり、これは草が枯れ、木々の葉も落ち、遮るものがない景色の中に、それまで隠れていた地表を走る水が四方から集まり、地中に凍みていくさまがはっきりと見えるようになった情景を象っている。

見通しが立ち、測量に適していることから、癸には「はかる」との意味もある。「はかる」には、人の手が必要なことから、手偏をつけて揆という字も生まれた。また「はかる」からには、基準、法則、道筋といったものが必要となる。

このことは、孟子・離婁(りろう)篇の
「先聖後聖、其の揆一(きいつ)なり」
-聖人の立てる道筋はいつの世も一つである

後漢時代の歴史家、班彪の「王命論」の
「天に応じ、民に順うに至ればその揆一なり」
-天の命ずるところ、民の望むところに従えば、自ずと天下を治める道は一つに収束する

にも触れられている。いずれも「基準や法則はいつの世も、誰にとっても同じである、もしくは同じでなくてはならない=揆一」との意である。

さて巳の方は、説文解字によれば、「巳は巳なり、四月陽気すでに出て、陰気すでに隠れ、万物現れ、彣彰(ぶんしょう、美しい彩り)をなす。故に巳、它となる。象形なり」との説明がなされている。つまり啓蟄(けいちつ)という時期を迎え、地中に眠っていた動物が外に出てきて活動をはじめる様子を象った文字ということである。春先に活動を開始する動物の典型例として、蛇を指す言葉となったが、本来は蛇に限らないとの説もある。転じて、従来の因習的な生活に終わりを告げるとの意味も担うようになった。

そこで癸巳である。前年(壬辰)までは、私利私欲を貪る壬人、佞人、奸人、野心家が多く現れ、時局を揺さぶるものの、問題は内在したままであったが、次第にそれらが活発な行動として現れ、従来の因習的生活に区切りをつけ、新しい方向に進んでいくという年である。その際には、諸事、原理原則を踏まえ、方針を立て(はかる)、実行していかなければならないが、注意を怠ると揆が揆でなくなり、道を外れ、世は乱れ、その結果大きな災厄をもたらす年にもなり得る。筋道を失えば、一揆(動乱、打ち壊し運動)が起きるというわけである。

このような転換期に重要なのは、指導者である。「揆」という文字には百事を取り扱う役職、つまり大臣・宰相という意味もあるのである。人の上に立つものは、まずは自らを省み、次に世間の情勢と人間をよく観察し、適切な政策を選択し、誤りのないようにしなければならない。

前回の癸巳は1953年(昭和28年)である。この年の2月にはNHKが開局、その後も民放各社が続々と立ち上がり、放送を開始した。ラジオの時代からテレビの時代への幕開けの年でもあった。

またこの年の4月には衆議院選挙があり、第四次吉田内閣が成立した。院内構成を見ると、保守陣営が自由党(199議席)と鳩山自由党(35議席)、改進党(76議席)と林立し、革新も右派社会党(66議席)、左派社会党(72議席)と並立した。この年の選挙は、2年後の保守合同、55年体制に向けた流れの前段階として、吉田茂が敷いた戦後体制からの転換の端緒となったのである。

さて昨年末の総選挙では自民党が圧勝し、民主党は大敗した。われわれは、高度成長を前提とした社会構造から安定成長型社会に適合した社会保障制度、税制への転換、中央と地方の関係の再構築、そして国家意識の高まりに伴う憲法改正論議など、いずれも長きにわたって内在していたとも言える課題に対し、本格的な取り組みを始めなければならない局面に立ち至っている。干支が示す通り、来るべく新しい時代に向けて、動き出す年となるのだろうか。政党の乱立という現象の向こう側に、その気配が透けて見える。

皆様にとって良い年でありますように。
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by iyasaca | 2013-01-01 00:00 | 新年のご挨拶 | Comments(0)


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