勝手に僻地散歩



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荒神谷遺跡にいってみた その4

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荒神谷での銅剣の出土から2年、1985年7月11日から地下レーダー、浅部電磁法探査装置、金属探知機を使って21日間にわたって追加調査が行われた。

この調査で銅剣が出土した場所から東に7メートルの場所から刃を起こし、峰の部分が互い違いにされて埋められた状態の銅矛が16本、銅鐸6口を納めた東西2メートル、南北1.2メートルの埋納壙が発見された。その埋納壙の西側にまとまって納められていた6口の銅鐸は、どれも高さが21.7~23.8センチのものであった。

f0008679_2113592.jpg銅鐸のルーツは中国四川省広漢の三星堆遺跡(BC2,000年頃)から出土した青銅器に求める説や、中国や朝鮮で牛馬の首につけられていた銅鈴であるとも考えられている。
<写真:三星堆遺跡から出土した銅鐸に似た青銅器、BC2600年~BC850年>
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<写真:北朝鮮平壌上里遺跡出土の銅鐸、BC500年頃>
朝鮮半島で出土している銅鐸の形状に類似した鈴は多くが5-6センチ程度で大きいものでも10センチに満たなかった。
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<写真:韓国大田市槐亭洞遺跡出土の銅鐸、BC300年頃>
しかしBC500-400年頃に日本に伝来して以降、鈴から祭具となるにつれ、次第に巨大化し、AD100年頃から観賞用と考えられる1メートルを超える銅鐸まで登場した後、AD300年頃までに鋳造されなくなった。

銅鐸の鋳造場所、年代を推定するための直接的方法はない。しかし手がかりとなりうる方法論はいくつか存在する。鉛同位体比を調べる方法である。青銅器に含まれる鉛の同位体の比率を測るこの方法では鉛の産地が分かるのである。しかし言うまでもなく鉛の産地の情報だけでは鋳造場所は分からない。土器や木管と共に発見された鋳型が見つかり、かつその青銅器が同笵であることが分かれば、場所と年代の情報は手に入るが、荒神谷の場合、それらの情報が存在しない。

とは言え荒神谷の青銅器の鉛同位体比の調査は行われている。東京国立文化財研究所の分析によると「B、C,D列の銅剣に含まれる鉛はその全てが中国の華北地方産出のものと推定できる。A列34本の内1本の銅剣のみが、朝鮮半島の鉛であった。A列の10本の銅剣はこのどちらにも入らない、即ち華北と朝鮮の鉛が混ざったもの」との結果が出た。

鋳造場所の特定については、同笵調査と呼ばれる同じ鋳型でつくられた他の銅鐸があるかどうかの調査が有用である。場所と言っても、九州北部か近畿か出雲かなど地方レベルの特定しかできない。

f0008679_18512515.jpg鋳造時期の推定には、銅鐸の形状、刻まれている文様と同時代の土器に描かれている文様との比較、大きさ、吊り手の形状などから鋳造年代を推定する銅鐸年代観という手法がある。国立民族学博物館の4代目館長であった佐原真名誉教授の業績であるこの銅鐸年代観によれば、銅鐸は時期によって4類型に分けることができるらしい。
<写真:佐原真名誉教授>

荒神谷から出土した6口の銅鐸にもこの手法を用いて分析がされている。6口の銅鐸にはそれぞれ1号から6号と名前がつけられている。

2、3、6号銅鐸については、形状・文様構成ともに典型的なII式4区袈裟襷文である。2号銅鐸は京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の4号銅鐸と同笵であることが判明しているほか、3号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが分かっている。この3つの銅鐸は、他のII式銅鐸や同笵の分布状況から近畿およびその周辺で製作され、出雲にもたらされたという説が有力である。銅鐸年代観に従えば、製作時期は、BC300-200年頃となる。

また出雲近辺には銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石(砂岩の一種、細かい細工がしやすく、勾玉などの製造に際して砥石として利用された)」が大量にあることから、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説(島根県立図書館・速水保孝館長)もある。

5号銅鐸はI式の最も古いタイプ

1、 4号銅鐸は、佐原氏の分類にない形である。
高さ23センチの1号銅鐸は、片面に三角形と斜線を組み合わせた文様 、もう一方が重弧文に斜線を組み合わせた文様が刻まれていた。鐸身を4区に分けた袈裟襷文の中の文様が表裏で異なっていた。重弧文と市松文が刻まれた銅鐸は過去に見つかっておらず、また袈裟襷文の特徴も今までに発見された銅鐸との類似性が見られなかった。

その他の特徴として、他の銅鐸に全く見られない吊り手の断面が2段となっているという特徴が見られる。また鐸身の断面形が円形に近いこと、鐸身の反りが弱い点などを指摘されている。

かろうじて過去の銅鐸との類似面として、鰭(ひれ)部分に複合鋸歯文が見られるということである。この文様は福田型銅鐸と類似している。しかし上記に述べたとおりその他の要素とは大きな隔たりがある。鉛同位体比の値は荒神谷銅剣に近い。

内面の突帯の摩耗状態から、鋳造されてからかなり時間が経ってから埋納されたらしいことも分かっている。

4号は不明もII式の文様構成の流れに沿っている。
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by iyasaca | 2011-01-29 23:02 | 島根 | Comments(0)

荒神谷遺跡にいってみた その3

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荒神谷から出土した358本の銅剣について、もう少し続ける。

出土した銅剣で目につくのは柄の部分についている×印である。その形状から鋳造後に鏨(たがね)状の工具で刻まれたと考えられている。刻印が認められたのは358本のうち344本。両面に刻印されている剣は2本(C27、C67)、残りの14本のうち、確実に刻印がないとされるのは3本(B8、C26、C79)のみだった。刻印入りと刻印なしの銅剣はランダムに埋められており、並びからは規則性は見出せない。

×印は比較的単純な記号であるので、他にも同じような出土品があるのかと思ったが、青銅器に限って言えば、他には加茂岩倉遺跡で出土した銅鐸で確認されているのみであるらしい。青銅器ではなく、土器や骨角器であれば他の遺跡からの出土例はある。

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当然×は何を意味するのだろうかという疑問が生じる。結論から言えば確定的なことは分からない。しかし、×印について梅原猛氏(国際日本文化研究センター名誉教授)が、面白い解釈(梅原猛『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』(新潮社、2010年))をしている。

アイヌや琉球民族に残っているという縄文人などの古日本人の生活慣習から当時の出雲人の行動様式を推測するくだりで以下のような趣旨の記述があった(正確な引用ではない)。

(古日本人にとって)あの世とこの世はあまり変わりがないが、全てがあべこべであると考えられていた。例えばこの世の夏はあの世の冬、この世の夜はあの世の昼、着物の交差も右前、左前が逆、茶もお湯でなく、水で飲むとされている。この考えを敷衍すれば、この世で不完全なものはあの世では完全という考え方につながる。アイヌには、葬式の際に故人が持っていた茶碗を割る風習が残っているらしい。あの世で故人が完全な茶碗でお茶を飲めるようにとの配慮である。

f0008679_22571438.jpg梅原氏はさらに土偶が何であるかについて論を進めている。少し脱線するが面白い話だったのでここで紹介したい。

教科書や駅のポスターなどで目にするあの土偶に見られる奇妙な風体は「あの世とこの世はあべこべ」という視点で見ていくといろいろと説明がつくらしい。
<写真:左足が欠損した土偶>

土偶にはいろいろな形状があるが、共通しているのはどれも成人女性をモチーフとしており、子供や老婆の土偶はない。また多くはこの世のものとは思えないような顔をしており、一部が意図的に破壊された上埋葬されている。胎児を宿したかのような膨らみがある土偶もあり、また腹部に真一文字に引き裂いたような跡がある土偶もある。

これらは何を意味するか。

梅原氏は「土偶は腹を割かれて死んだ妊婦の像」と推測している。妊婦が胎児とともに葬られるとき、その妊婦が完全な人間として再生できるようにばらばらにして埋められる。あの世とこの世はあべこべであるがゆえに、死者に供えられるものは壊したり、焼かれたししなければならなかった。銅剣の×印もあの世で完全なものを手にしてもらうために、わざと傷つけられて埋納されたのではないかというのが梅原氏の見解である。

古出雲人とアイヌ・琉球とを単純に結び付けられるかという前提から、論の展開までは飛躍もあり、学問的には成立しづらいとは思うが、素人が当時の生活を想像する縁としてはいい材料とは言えよう。

少なくとも、当時間違いなく稀少品であった青銅器を生産する、生産できなかったとしてもそれを相当量集めることができるほどの力を持った勢力がこの出雲の地に存在したということは確かであろう。

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by iyasaca | 2011-01-22 22:02 | 島根 | Comments(0)

荒神谷遺跡にいってみた その2

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荒神谷は、ここに遺跡があると言われなければ、そのまま通りすぎてしまうほどのただの谷である。今では道路に面した入り口あたりに二千年ハスが一面に咲き誇る空間があるので、谷の奥に向かって開けているが、このハスが植えられたのはつい先ごろの話である。それまでは長きにわたって鬱蒼とした木々に覆われた谷間であっただろう。
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この蓮が咲く畑の横で古墳時代の須恵器が見つかったことを契機に県教育委員会が本格的に調査を行ったことは先に触れた。ハスの畑を右手に見ながら、緩やかな斜面を登って行くと突如左手の丘の斜面にむき出しになったままの発掘現場が目に飛び込んでくる。全体をよく見られるように向かい側の丘の斜面に遊歩道が作られており、発掘現場を上から眺めることができる趣向となっている。

1984年7月11日から21日間に及んだこの調査で、谷水田に面する標高22メートルほどのこの小尾根の南斜面中腹から弥生時代の銅剣358本が出土した。当時、弥生時代の銅剣の全国出土総数は300本ほど。それが1ヶ所から358本出土したというから大発見といってよいだろう。

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銅剣は、それぞれ底面に淡褐色の粘土を敷いて平坦にしてあった2段に加工された埋納壙に丁寧に納められていた。上段は6.9m、幅1.2mの平坦面となっており、3個の柱穴が1.5m間隔が見つかった。ただし上段からは青銅器は見つからなかった。

一方、下の段はすり鉢状に掘り込まれており、長さ4.6m、幅2.8mある。この底面に設けられた銅剣埋納坑(2.6×1.5m)に、刃を起こし密着した状態で、西側から34本、111本、120本、93本と4列に並べられていた。銅剣の並べ方は列ごとに微妙に異なっており、一番西側の列(A列)は方向が交互に、2列目(B列)は南端4口が鋒を西に向け、その他は全て交互、そして3、4列目(C、D列)は鋒が全て東に向いていた。並べ方が異なる理由は現在に至るまで不明である。

f0008679_21443274.jpg発見された銅剣は全て長さ50センチ前後、重さ500グラム程度の中細型c類の銅剣であった。同笵(どうはん:同じ鋳型でつくられたもの)も多く含まれていることから、一ヶ所でつくられたものと考えられる。また刃こぼれの形跡や摩耗も見られないことから、鋳造後武器や祭具として用いられることなく埋められていることは分かる。さらに、これらの銅剣が埋納後、掘り起こされた形跡が見つからなかったことから、いっぺんに埋められたものではあるようだが、その時期は特定できない。
<写真:発見当時の銅剣>

f0008679_21582946.jpg中細型銅剣には佐賀県に分布の中心があるa類、北九州と近畿の両方に分布のあるb類がある。荒神谷で出土したc類は、鳥取、香川、高知などでも出土しているが、数は少なく、出土地も点在している。そのこともあり、中細型C類は後に「出雲型銅剣とも呼ばれるようになった。

鋳造場所は、鋳型が発見されていないため決定的ではないが、その圧倒的な出土数から出雲であるという説のほか、近畿から搬入されたという説、または近畿の職人集団が出雲で作った可能性を唱える説などがある。

<写真:荒神谷から出土した中細形銅剣c型>
鋳造時期については、その形状から紀元前2-1世紀頃(弥生時代中期後葉~後期初葉)に鋳造されたと考えられている。なお鉛同位体比分析の結果、358本のうち347本が中国華北地方産の鉛、10本が中国と朝鮮産と混合、そして1本が朝鮮産の鉛が含まれていることが判明した。

銅剣の上には粒子の細かい粘土が撫でるように覆っており、さらにその上に土盛りがしてあった。また銅剣出土地の四隅に柱穴の跡があったことから、埋納時には木製の覆いも作られていたと考えられる。

淡褐色の粘土で整えられた埋納坑の底面、丁寧に並べられた銅剣、銅剣を覆う粒子の細かい粘土、そしてその上に木製の覆いまで作られていたことなどから、銅剣はかなり時間をかけて丁寧に埋納されていることが分かる。戦乱に紛れて一刻を争う状況の中で急いで隠された宝というわけではなさそうだ。

紀元前2-1世紀ごろ、青銅器が稀少品であったことは間違いない。さらにこの時期青銅器はすでに武具というよりも、祭具として扱われていたことを想起すると、神聖なものであったことも考えられる。そして埋められていたこの場所が神域であったであろうことは、神庭西谷という地名や神名火山、加茂岩倉遺跡との位置関係からも推察できる。

しかし銅剣には文字は一文字も刻まれておらず、そのほかの手がかりも全くない。358本の銅剣の所有者はだれであったのか、いつ埋められたのか、なぜ埋められたのか。なぜ埋められたのかについては諸説ある。

1) 敵の襲来から一族の宝を守るため埋めたという説
2) 宗教的儀式として神に捧げたという説
3) 地霊を鎮めるため埋納したという説(古代華南地方に見られる風習)
4) 後で掘り返す予定だったが何らかの事情で埋納されたままという説(ベトナムなどでは銅製祭具を普段は地中に埋めており、祭事の際に取り出して利用していた風習があった)

しかし文字が存在しないため、その理由を知る術はない。完全に想像に頼るしかないのが現状のようである。
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by iyasaca | 2011-01-15 20:34 | 島根 | Comments(0)

荒神谷遺跡にいってみた

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島根県簸川郡にある荒神谷遺跡に来ている。

この辺りは「神」のつく地名が多く残っている。荒神谷遺跡から南西2.9キロほどの場所には神名火山(かんなびやま)がある。

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<神名火山、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置関係が面白い>

出雲国風土記に
曽枳能夜社坐岐比佐加美高日命社。即在此山嶺。故云神名火山。
-神名火山は岐比佐加美高日命(きひさかみたかひこのみこと)を祀る曽枳能夜(そぎのや)神社が山嶺にあるがゆえに神名火山と呼ぶ-

という記載がある。岐比佐加美は出雲国造の粗であるが、出雲国風土記以外には登場しないカミである。神名火山は15世紀に出雲守護職尼子経久によって仏経山と改名され、今もその名で呼ばれている。神の坐す山であることには変わりはない。

この神名火山から東に4.8キロの場所には1996年に大量の青銅器が出土したことで有名となった加茂岩倉遺跡がある。その近くには神原という地名が残っている。神原について出雲風土記(大原郡神原郷の条)にその地名の由来が書かれている。

神原郷 郡家正北九里 古老傅云 所造天下大神之御財積置給處 則可謂「神財郷」 而今人猶誤云「神原郷」耳

-神原郷は郡役所の真北九里にある。古老が伝えるところによれば、天の下をお造りになった大いなる神のお宝を積み置いたところである。だから神財郷((かむたからのさと)と呼ぶべきだが、今の人は誤って神原郷(かむはらのさと)と呼んでいる-

加茂岩倉も「かもいわくら→かむくら(神座、神倉)」と読めるような気もする。これは個人の根拠なき推測である。しかし周辺には神守、神氷と神がつく地名は多い。一帯は神域であったのだろう。

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この荒神谷遺跡のあたりも神庭西谷(かんばさいたに)と呼ばれている。近くには三宝荒神が祀られており、古くからむやみに立ち入ってはならないとの伝承がある。しかしつい最近までめぼしい遺跡も古墳もなく、長い間ただの山谷に過ぎないと考えられていた。

しかし1983年に今では出雲ロマン街道と呼ばれる広域農道の建設に先立って行われた遺跡分布調査が行われた際に、現在は二千年蓮が広がる畑の畔道で古墳時代の須恵器が発見された。この発見を受け、島根県教育委員会は、翌84年7月11日から本格的な遺跡調査を行うことを決定したのである。
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by iyasaca | 2011-01-10 08:36 | 島根 | Comments(0)

辛卯

今年の干支は辛卯(かのと・う)である。

「辛」は今まで抑圧されていたエネルギーが、様々な矛盾、や圧力を排除し、上に発現する様子、新しい世代が生まれようとする産みの苦しみという状態であるという。

「卯」は「茂る」という意味で、草木が地面を覆う状態を表している。

前回の辛卯は1951年。前年に朝鮮戦争が勃発し、世界は東西冷戦構造へと移行し始めた年であり、日本はGHQの占領を脱し、米国と安全保障条約を締結し、経済復興に向けての第一歩を踏み出した年であった。

その前は1891年で、前年に設立され帝国議会が春先に全焼し、年末には衆議院が憲政史上初の解散を打った年である。1917年まで継続することになる露仏協商が締結されたのもこの年である。

矛盾と抑圧されたエネルギーが地中から噴出し、芽吹いた草木が地面を覆い始めるという辛卯。抑圧されたエネルギーや矛盾はあちこちにある。果たして草木が地面を覆うことになるのだろうか。

本年が皆様にとって、新しい時代の薫りを少しずつ感じることのできる、未来に希望を見出すことのできるような一年となることをお祈り申し上げます。

ところで今気づきましたが、このエントリーは5カ月ぶり。放置しているにもかかわらず、訪れる人がいるのにはただただ感謝します。
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by iyasaca | 2011-01-08 17:12 | 新年のご挨拶 | Comments(0)


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