勝手に僻地散歩



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カブールにいってみた その4

タリバンは、内政面においては、アフガニスタンにおける過去の為政者が成しえなかった治安の回復を成し遂げた。いまだに根強いタリバンに対する支持は、この点によるものが大きいだろう。しかし、タリバン政権の崩壊とともにアフガニスタンは再び無法地帯に逆戻りし、治安状態は大幅に悪化した。治安悪化だけでない。タリバン政権崩壊によってアヘン生産が野放しになったのである。

タリバン政権下では3,000トン前後で推移してきたアヘン生産量が、政権が崩壊した2002年以降急激に生産を増やしている。ケシの栽培地は2005年から2006年にかけて59%増加し、世界シェアは65%から82%に上昇した。2007年の生産量は推定8,200トン、世界シェアは何と93%、タリバン政権崩壊直前の2000年の生産量の2.5倍である。

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<Afghanistan Opium Survey 2007, United Nations Office on Drugs and Crime, p15>
アフガニスタンでは人口10%に相当する35万世帯がケシの生産で生計を立てているといわれている。ケシ畑は19万3,000ヘクタール(47万エーカー、2007年時点)に及ぶ。アフガニスタンのケシ畑は1ヘクタール当たり約40キロの収量がある。乾燥アヘンの農家直売価格は、一時期は200ドルを越えていた時期もあったが、一貫して下落傾向にあり、現在は1キロ当たり105ドルである。(2007年7月現在)である(生アヘンは2007年現在1キロ当たり86ドル)。

(データはいずれも国連薬物犯罪事務所(United Nations Office on Drugs and Crime, UNODC)アフガニスタン・アヘン調査2007(PDFです)より)

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<Afghanistan Opium Survey 2007, UNODC, p16>
最も生産量が多いのは、アフガニスタンの中でも最も肥沃で裕福な州の一つであるヒルマンド州である。州人口は250万人ながらアフガニスタンが生産するアヘンの7割がこの小さな州で生産されている。5,000トンを超えるヒルマンド州の生産量はコロンビア、モロッコ、ミャンマーという3つの麻薬生産地の総生産量を凌駕する。一方で貧しいアフガニスタンの中・北部の州ではアヘン生産量は減少している。これだけ見るとアヘン生産と貧困とは、直接関係がないようにも見えるが、アヘン生産を行っている農家に対する聞き取り調査によるとケシ栽培を続ける理由として、28.7%が貧困緩和、24.9%がアヘンの値段が高いためなど経済的理由が上位を占めている(複数回答)。実際に農家の平均収入を見てみるとアヘン生産農家が2,747ドルであるのに対しアヘン以外で生計を立てている農家の年間収入は1,754ドルと1,000ドルも低い。にもかかわらず、アヘン生産をあきらめる農家が存在するのは「イスラムの教えに背くから」との回答が圧倒的に多い。しかし、中・北部のアフガン人だけが信心深く、南部が不信心であるとは到底思えない。もっと複雑な背景があるのであろう。
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<写真:雪のカブール>
世界のアヘン生産の93%を占めるに至ったという絶望的な状況を見るに、ケシ栽培を止めさせるために、信仰心だけでなく、経済的なインセンティブを与えることしか方策がないわけだが、世界のどこでも麻薬撲滅を目的とした代替作物の導入には成功していない。ミャンマーでは麻薬撲滅を目的に蕎麦を代替作物として栽培させたが、元々ミャンマー人に蕎麦を食べる習慣がないこと、輸出できるほどのクオリティが確保できないこと、輸送コストが高いことなどを理由に成功していない。

いずれにしても、上のグラフを見るとタリバンが政権の座についた1996年から最初の4年は、アフガニスタンのアヘン生産量は増加し続けている。その生産量は1996年に2,248トンであったが、1999年には4,565トンにまで増加した。しかし2000年にタリバンはアフガニスタンの歴史上初めてケシ栽培を全面的に禁止し、生産量は3,276トンに減少する。さらにタリバンは2001年2月ケシ栽培禁止のお触れを出す。その結果2001年には、ケシ畑の面積が12,600エーカーから17エーカーにまで縮小し、生産量も185tにまで減少している。

2001年はタリバンが米国の攻撃を受けて、崩壊した年でもある。政権崩壊後、再び無政府状態になった地で取られた数字がどの程度信頼できるかは分からない。数字が取れなかったのか、タリバンの麻薬撲滅作戦が驚くほど効果的だったのか分からないが、事実としてはタリバンが崩壊した翌2002年にはアヘン生産量は2000年の水準にほぼ等しい3,400トンにまで回復し、その後増加の一途を辿っているということである。2,000-4,500トンの範囲で推移していたタリバン時代に比べると現在の生産量は当時の2-4倍の水準にあり、対策も進んでいないというのが現状である。

イラクの例を見ると分かりやすいが、人は功罪の罪の面に強く引きずられる傾向がある。功の側面は多くの場合「うまくいっている=何も起きない」ため、気づきにくいのである。例えば、フセイン元大統領は北部のクルドや南部のシーア派をときに非人道的とも言われる方法を用いて暴力的に抑え込んできた。フセインによる統治は、その部分だけ見れば、秘密警察による監視、化学兵器使用による住民虐殺など到底正当化できるものではない。しかし、そのおかげでイラク全土に治安が保たれ、宗派、民族の対立は顕在化しなかったのである。

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<写真:カブール雪景色>
しかし「顕在化しなかった=何も起きなかった」ため、国際社会はその功の部分に気づかず、目に見える暴力的治世にのみ目を奪われ、結局は存在しなかった大量破壊兵器の開発計画があることを理由に政権を転覆させてしまった。米国はナイーブにも諸悪の根源たるフセインを排除すれば、バラ色の将来が待っていると意気揚々と占領統治に入ったが、罪と共に功まで排除してしまったことに最後まで気づかなかった。政権崩壊後、イラクの平穏な日常はあっという間に宗派と民族の対立によって失われ、さらにイスラム過激派に活動の場まで与えてしまったことで、イラク国民は買い物や学校に行くのにすら命を賭けなければならなくなってしまった。

身近なことを例に引いても同じことが言えるのではないか。例えば自分の職場で、とんでもない上司がいたとする。その上司がようやく異動となり、新しい上司がやってくる。職場環境が良くなると思いきや、新しい上司の下では、前の上司がいたときには問題とならなかったことが次々と発生する。前の上司がいかに多くのトラブルを未然に防いでくれていたか、いなくなって初めて気づく、ということを経験したことはないだろうか。

タリバンももちろん完璧な統治者ではなかった。とりわけ女性に対する抑圧などは現代社会において、受け入れられるものではないということは百も承知である。しかしそれでも過去にアフガニスタンの統治を志した多くの為政者が成しえなかったことを実現してきた政権でもあった。果たして、米国はタリバン放逐にあたって、一つの統治機構を排除するということは罪だけでなく功の部分も同時に排除してしまうということをどこまで理解していたのであろうか。Lesser Evil(より小さな悪)のため、「清濁併せ呑む」という覚悟がなければ、世界を動かす政治家にはなれないのだろう。
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by iyasaca | 2008-01-19 11:06 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(0)

カブールにいってみた その3

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オマル師とタリバンについてもう少し続ける。

土地を持たない貧しい農家に生まれたオマル師は、幼い頃(1965年)に父を亡くし、叔父のマドラサで学びつつ、家族を支えてきたとされている。長ずるとネク・モハメッド率いるムジャヒディーンの一派(Harakat-i Inqilab-i Islami派)に参加し、ソ連軍と戦った。1989年のジャララバードの戦いでは額と顎など4度も重傷を負い、右目を失った。負傷したオマル師はパキスタン国境近くの赤十字の施設で目の手術を行ったとの話もある。

その後オマル師の足取りは確かではないが、パキスタン・クエッタの宗教学校で教鞭をとりつつ、イスラム教の研究を行ったとされている。その後故郷のカンダハール近くの小さな宗教学校でイスラム宗教指導者となったとされている。多くのムジャヒディーンと異なり、オマル師はそこそこのアラビア語を話す。彼の経歴を考えると、アラビア語を学んだのはこの空白の時期のことなのだろう。


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タリバンとしての最初の活動は1994年7月と言われている。約30名のタリバン兵が16丁のライフル銃を手に地元を牛耳る軍閥の基地を襲撃し二人の少女を救出する。見返りを求めない姿勢が住民の共感を呼び、次第に支持を広げていく。その後タリバンの思想と行動に賛同したパキスタンの宗教学校の生徒、元ムジャヒディン、アラブ・イスラム諸国からの義勇兵などが加わり、1994年11月にはカンダハール、1995年9月にはヘラート、1996年9月26日にカブールを、そして1998年にはアフガニスタンの国土の9割を勢力下に置くほどにまでなった。この全土掌握作戦に対し、タリバンは、パキスタン情報機関やオサマ・ビン・ラディンの支援を受けていたとも言われている。またタリバンは否定しているが、ビン・ラディンの長女をオマル師が妻として迎え、またオマル師の娘の一人がビンラディンの4人目の妻となっているとも言われている。

政権を取ってからもオマル師は、カンダハールの邸宅を離れることはなく、外国人と会うことはほとんどなかった。非イスラム教徒と会ったのは、1998年8月のケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件の首謀者とされたビンラディン引渡しのために交渉に訪れた国連のアフガニスタン担当特別代表(1998年10月)と国連による制裁回避を工作するため2000年12月12日にLu Shulin駐パキスタン中国大使と会っただけである。

タリバン政権が次々と打ち出したコーランの教えに忠実な政策は、少なくとも国際社会には受け入れられなかった。そのことは5年間も政権の座にあったにもかかわらず、国交を樹立できたのはパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3カ国だけであったという点に象徴的であろう。

・女性は、教育の機会が制限され、大多数の女性は初等教育を受けることすら困難となった
・女性は就労が禁止された。政府のポストで唯一女性が就くことができたのは医療・薬学関係のみ。女性の医師は、他の女性を診ることが許されなかった
・外出の際にはブルカの着用が義務付けられた
・男性は髭を生やすことが義務付けられ、イスラム教徒らしからぬ髪型や服装は禁止
・映画館は閉鎖され、音楽、ダンス、写真撮影、テレビ、ラジオ、スポーツ、凧揚げも禁止
・窃盗・強盗を行った者は手を切り落とされる
・同性愛者はレンガの下敷きの刑
・不倫は石で撲殺
・改宗者は死刑
・強姦・殺人は被害者家族によって、毎週金曜日に行われていた公開処刑に処された

さらに、多神教的とみなされる文化遺産は破壊された。
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<上左:UNICEF, Public Domain, 1963年、上右:CNN, 2001/3/21,大仏爆発の瞬間、下:Wikipedia, 2005年現在の姿>

このバーミヤンの仏教遺跡の破壊は有名である。

タリバンは、治世中サウジアラビアを追放されたオサマ・ビン・ラディンを受け入れ、9・11後の米国による身柄引き渡しの要求を拒否したことで、政権の座から追われることになった。現在所在不明の最高指導者オマル師拘束につながる情報提供者には、米国政府によって1,000万ドル(約11億円)の報奨金が用意されている。
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by iyasaca | 2008-01-12 07:53 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(2)

カブールにいってみた その2

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<写真:カブール市内の様子>

現在アフガニスタンと呼ばれるこの地域は、歴史的にイラン、インド、中央アジアなど周辺で勃興した王朝によって、一部が、ときには全土がその版図に加えられたり、失ったりする場所であった。王朝の支配が及ばない時代には、地方の有力者が部族をまとめ上げ、共同体を維持してきた。おそらくは王朝の支配が及んでいた時代でも、地方の有力者には相当の自治が認められていたのではないだろうか。

中央集権国家建設の試みは何度も行われているが、ベースが部族社会であるということはアフガニスタンの歴史を見ていくと分かるような気がする。現在行われている国づくりは国際社会による中央集権国家建設の試みの一つであるが、これは9・11を受けての米国によるタリバン政権放逐の延長線上にある政治プロセスである。
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<写真:カブール市内の様子>

2001年12月に米国によって追放されたタリバンは、1979年ソ連のアフガン侵攻が契機となって結成された宗教集団である。もともとは、ソビエトの侵攻によって住む場所を追われた多くのアフガン人が居住していた避難民用のキャンプに併設されたモスクと宗教学校出身の神学校生が中心であった。ちなみジャマアティ・ウレマ・イスラーム(Jamiat Ulema-e-Islam,JUI)にサウジアラビアの支援で建設された避難民キャンプのモスクと宗教学校ではの宗教聖職者が教鞭をとっていた。JUIは、シーア派の異端視、一切の偶像崇拝の禁止、女性の社会的役割の極度の限定などコーランを厳格に解釈するデオバンディ学派(スンニ派ハナフィ学派系)に属する。この思想が後にタリバンが政権を奪取したときの政策の基本となる。

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タリバンは1994年、後のタリバン最高指導者ムハンマド・オマル(Mullah Mohammed Omar)がこのJUI出身の神学生を集め、「祖国アフガニスタンの乱れを正すイスラム戦士の集団」として結成した。指導者のオマル師については、ほとんどよく分かっていないが、カンダハール近郊のカクレズ(Khakrez)地区にて貧しい土地を持たない農民で村々を回る巡回布教師でもあったムラビ・グラム・ナビ(Moulavi Ghulam Nabi Akhund)の長男として生まれたと言われている。また出身部族はホタク(Hotak Tribe)のトムツイ派(Tomzi Clan)である(タリバン公式サイトより)
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<いずれもオマル師と言われている写真> 
タリバン公式サイトShahamatに2015年4月に掲載されたオマル師の略歴によると生年は1960年。偶像崇拝を禁じていたためか、公式にオマル師とされている写真は一枚もない。写真がないのはパキスタンの情報機関ISIが神秘性を演出するため、情報統制をかけたからとも言われている。



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by iyasaca | 2008-01-05 13:49 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(0)

2008年

謹賀新年

「物を書く」という習慣づけをしようと始めたこの書き物も3回目の新年を迎えました。しかし、いまだに習慣づけには至らず、実質的には25ヶ月目に入ったこのブログの記事は全部で84件。2007年は31本しか書いていません。むしろ習慣づいたのは、でかけるあちこちで写真を撮ること。遅い更新の間にもあちこちに出かけており、写真のストックだけはたまる一方です。徐々に貯金を吐き出していきますが、その頻度は昨年よりは高めたいと思います。つまりもっと勉強します。本年もよろしくお願いします。

平成二十年 元旦

初詣はすでにすませました。吉でした。

願事 : 遅かれど思う通りになるべし
待人 : 待つこともあれど必ず来る
失物 : 少し遅れるがやがて出る
旅立 : あまり急ぐは宜しからず
商売 : 買物は良し 売物は悪し
学問 : 過信せず行えば成果現る
争事 : 心強く持ちて進めばよし
転居 : 早期に決断してよし
病気 : 重し 医師を選べ
縁談 : 多くて戸惑う恐れあり 静かに心を定めよ
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by iyasaca | 2008-01-01 09:12 | 新年のご挨拶 | Comments(2)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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