勝手に僻地散歩



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アフガニスタン・カブールにいってみた その1

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パキスタンの首都イスラマバード経由でカブールに向かう。
イスラマバード空港は、セキュリティが厳しく、全ての搭乗客の荷物は係官によって開けられ、危険物がないかどうかチェックされる。チェックにあたる係官もそれほどの数がいないのにかかわらず、突然休憩に入ったのか、いなくなったりする。しかし係官のいなくなった列に並ぶ搭乗客は別に怒りの声を上げるわけでもなく、係官のいる横の列に当たり前のように割り込んでいく。私の並んでいた列も突然乱れ始めたが、日本的ルールに従っていては到底搭乗時間に間に合わないので、郷に入れば郷に従えとばかりに隣の列に自分の場所を確保した。それでもセキュリティを抜けて、搭乗手続、出国手続まで終えるのに2時間以上かかり、すでに搭乗予定便は最終案内をしていた。
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アフガニスタンは約65万平方メートルの国土の3分の2が標高1,500メートル以上であり、また国土の9割が山岳・高原地帯の内陸国家である。日本の1.7倍の国土にパシュトゥーン人(38%)、タジク人(25%)、ハザラ人(19%)、ウズベク人(6%)ら多くの民族が生活を営んでいる。起伏に富む高原地帯ゆえに、農耕には不適の土地柄であるなか、多くのアフガン人が農業で生計を立てている。

ちなみに多数派を占めるイラン系遊牧民族であるパシュトゥーン(Pashtūn)は、パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(Afghān)とも呼ばれる。つまり、アフガニスタンはパシュトゥーン人の国という意味なのである。パシュトゥーン人には、カンダハール、ヘラート、ファラー州に居住するドゥラニ部族連合とガズニー州等に居住するギルザイ部族連合という二つの有力部族がある。2004年10月9日アフガニスタン初代大統領に当選したカルザイ大統領は18世紀以降5人もの国王を輩出したドゥラニ部族系のポパルザイ部族出身である。

現在アフガニスタンと呼ばれる地域に最初に国家らしきものが成立したのは、18世紀のことである。1747年パシュトゥーン系のアハマッド・カーン・サドザイが部族会議にて王に選出され、アフマッド・シャー・ドゥラニとして初代王に即位し、サドザイ朝(ドゥラニ朝とも言う)が成立する。

19世紀に入ると英国が数度にわたって、英領インドの権益確保とロシアの南進を食い止めるためにアフガニスタンに進出する。この英国とロシアの勢力争いはグレート・ゲームと呼ばれるが、この土地に進軍した軍隊は厳しい気候条件と飢え、そして神出鬼没の現地の武装勢力による攻撃に撤退を余儀なくされるということを繰り返すことになる。

このアフガニスタンの性質を決定付ける基礎要因は現在まで変わっていない。グレート・ゲームが終焉した後も、アフガニスタン社会を近代化しようとした歴代の国王、冷戦後期におけるソ連、9・11後にタリバンを放逐したアメリカなどは軒並み、アフガニスタンに根ざす強い保守性に拒否され続けている。
<写真:アフガン・パキスタン国境あたり(多分)>
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このアフガニスタン社会の特質について、ある歴史家はこう書き残している。

「アフガン人の最も顕著な特徴の一つは、独立への強い愛情である。アフガン人は、忍耐強く、不幸や貧困を甘受するが、外国統治に屈することだけはできない。・・・アフガニスタンを大規模な軍隊で侵略する者は、飢餓によって破壊される。アフガニスタンを小規模な軍隊で侵略する者は、敵対する人々によって圧倒されるだろう。」

現在進行形の無謀とも言えるアフガニスタンの国づくりと日本の役割について、今後何回かに分けて考えてみようと思う。

<写真:カブール空港>
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by iyasaca | 2007-11-24 08:51 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(5)

屋久島にいってみた その9

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大王杉を過ぎ、細かな上りと下りが繰り返す山道を歩き続けると、忽然と目の前に木組みの展望台が現れる。5時間に及ぶ縄文杉を目指す旅が終わったのである。


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展望台の階段を登り終えると、目の前には厳かに縄文杉が立っている。うねるように渦巻く縄文杉の幹は、道中に見たどの屋久杉とも異なる。

素人目には確認することはできないが、縄文杉には、江戸時代の試し切りの跡が残っているという。胸高周囲16.4メートル、樹高25.3メートルという巨木であるにもかかわらず、伐採を免れたのは、幹があまりにいびつであったからであろう。その後数百年、縄文杉の存在は人々の記憶から忘れ去られていたのである。

しかし昭和の時代に入って
「ハッジョヤマには十三人で抱えるような太か杉がある」
という言い伝えを信じ、山を歩き続けた男がいた。屋久町役場の岩川貞次氏である。そして7年の後、伝説の巨大杉は「発見」された。1966年5月のことである。岩川氏はこの異形な屋久杉に「大岩杉」と名づけた。

大岩杉が世間に広く知られるきっかけとなったのは、1967年元日のことである。南日本新聞一面に「生き続ける”縄文の春“、推定樹齢3000年以上、芽を出したのは縄文時代」と写真つきで紹介された。この後、大岩杉は「縄文杉」 として知られることになる。

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南日本新聞で樹齢3,000年と報道された縄文杉であるが、その樹齢については諸説ある。

最初に科学的な調査が試みられたのは1976年のことである。九州大学工学部真鍋大覚助教授が過去に伐採された屋久杉のデータと気候データなどをもとに算出したところによると、その樹齢は7,200年とされた。

1984年には林野庁の委託を受け、学習院大学理学部木越教授が樹齢調査を行っている。腐食している内部の木材を放射性炭素年代測定法を用いて測定したところによると、木材の年齢は1920±150年であるとの結果が出た。しかし縄文杉は内部が腐食し、空洞となっており、採取したサンプルの年齢をもって杉全体の樹齢とは言えない。あくまでも、少なくとも1,770年以上であるということしか言えないのである。

最近では、2005年12月に高さ10メートルほどのところから折れた縄文杉の枝を放射性炭素年代測定法と成長錐年代測定で調査している。枝といっても長さ4.2メートル、太さ80センチ、重さ1.2トンという巨大なサイズである。調査結果によると折れた根元の部分の年齢は900年前後であると判明した。しかしこの調査をもってしても、縄文杉の樹齢を確定的に指し示すことはできない。

樹齢の推定にあたって、もう一つ留意すべきは、6300年前に、現在の鹿児島湾あたりで発生した鬼界カルデラの噴火である。その際に鹿児島県の南半分は約10センチから1メートルの火山灰で覆われている。したがって、屋久島の杉はどんなに古くても6,300年を越えることはないと考えるのが自然であろう。


さらに杉の寿命は一般には500年であると言われている。屋久島に樹齢1,000年を越える杉が珍しくないのは、島の組成に理由がある。屋久島は花崗岩が隆起した島である。その岩盤の上に薄い膜のように花崗岩の風化土が覆っている。貧栄養状態にあり、かつ薄い表土に根ざすことになった屋久杉は、通常の杉よりも成長に時間がかかる。よって年輪が詰まり、硬質になるのである。加えて通常の杉の6倍もの量の樹脂が、屋久杉に腐敗に強く、虫のつかない特性を与え、通常の杉よりも長いいのちを与えているのである。

屋久島が6,300年前に火砕流に見舞われていること、採取しうる最も古いサンプルが1770年前のものであること、そして植物としての杉の寿命が元々は500年であるということを総合すると、実際の樹齢は2,000年を少し越えたくらいであると考えるのが妥当だろう。

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縄文杉の前面斜面は観光用に150坪にわたって伐採されている。しかしこの伐採によって、縄文杉が根を張る地面が直接風雨に洗われることになり、表土の流出が急速に進んだ。表土の流出を防ぐため、今では写真にあるような造作が整えられ、幹に近づくことはできなくなっている。にもかかわらず、2005年5月に縄文杉の樹皮が12箇所にわたって剥ぎ取られるという事件が発生している。


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雨に見舞われないことはないという縄文杉への道。今回は往復8時間、一滴も雨に降られることはなかった。雨が降って、道がぬかるめば、これだけの山道を往復したときの疲労は何倍にもなっただろう。

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by iyasaca | 2007-11-17 15:51 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その8

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ウィルソン株を過ぎ、さらに110分。大王杉が現れる。ここウィルソン株と縄文杉の中間地点である。推定樹齢3、000年、樹高24.7メートル、胸高周囲11.1メートルの大王杉は、1965年に縄文杉が発見されるまでは、屋久島最大の杉と言われていた。急斜面に立っている大王過ぎの根元は3箇所にわたってひび割れしており、数人が入ることができる空洞まである。しかし以前に登山客が根元の空洞の中で焚き火をしたことがあり、今では近づくことはできない。幹には江戸時代に試し切りされた跡が残っている。現在に残っているところを見ると用材として不適格ということなのだろう。

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大王杉からしばらく歩くと、今度は左手に夫婦杉が姿を現す。右に立つのは夫で、左には妻が立つ。樹高は妻が25.5メートル、夫が22.9メートルで妻のほうが高い。しかし、妻の根元は夫の約3メートルほど下にあり、頂上部の樹高はほぼ同じである。しかし胸高周囲は夫は10.9メートルに対し、妻は5.8メートルである。二つの木は3メートルほど離れているが、10メートルのほどの高さで枝がつながっており、手をつないでいるように見えることから夫婦杉を呼ばれるようになった。

屋久島の杉は強風に耐えるため、周辺と突出して高く成長しない。したがって、樹高は周辺環境に影響を受けているが、有名な屋久杉のデータを見ると、面白い傾向が読み取れる。幹が太いとあまり高く成長せず、逆に30メートルを越える樹高の屋久杉は幹が細いのである。例えば30メートルを越える樹高の屋久杉は5本あるが、そのうち4本が胸高10メール未満である。逆に胸高10メートルを越える屋久杉も5本あるが(ウィルソン除く)その樹高は、おおむね22-25メートルにとどまる。(もちろん例外もあるが)

胸高周囲が10メートル以上の屋久杉
1位 縄文杉    16.4m (樹高25.3m)
2位 翁杉     12.6m (23.7m)
3位 大王杉    11.1m (24.7m)
4位 夫婦杉(夫) 10.9m (22.9m)
5位 大和杉 10.2m (34.9m)

樹高30メートル以上の屋久杉
1位 三代杉    38.4m (胸高周囲4.4m)
2位 大和杉    34.9m (10.2m)
3位 天柱杉    33.8m (8.2m)
4位 ひげ長老  32.0m (9.5m)
5位 母子杉(母) 31.1m (9.0m)

太ければ低く、細ければ高い。杉の生命力に限りがあるとすれば、縦に伸びるか横に広がるかの二者択一ということは当たり前なのかもしれない。
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by iyasaca | 2007-11-10 13:18 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その7

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縄文杉へと先を急ぐ。

険しい山道に入ってから40分、突然前が開け、巨大な切り株が目の前に現れる。ウィルソン株である。

この巨大な切り株の名称は、アメリカ人の植物学者アーネスト・ウィルソンの名前からとられている。ウィルソンは、針葉樹研究のため、日本を二度訪れており、屋久島へは、1914年(大正3年)最初の訪日時に立ち寄っている。そのときに、この巨大な切り株を発見したのである。ウィルソンはその調査結果を「日本の針葉樹林」という論文にまとめ、学会で発表した。その一節を引用する。

「至るところに濃密な原初の森が続き、空き地がない。広大な常用樹の天蓋の下に、潅木の低い茂みを伴った、全くすばらしい陰花植物の王国である。最も注目すべき森林は、杉がそこに南の故郷を持っているこの屋久島の森林である。」

切り株の高さは約4メートル、胸の高さの外周は13.8メートルある。樹齢は推定2,000年~3000年、中は空洞で人が入ることができる。かなり広い空間である。内部には、小さな祠があり、その脇からは水が湧いている。そして切り株の周りからは樹齢300年ほどの杉が3本切り株更新している。

さて、ウィルソン株の伐採された部分は一説によると豊臣秀吉が造営を命じた京都東山の方広寺大仏殿の用材として使うため、楠川の牧五郎七ら6名が櫓を組み斧で倒して京都まで運ばれたと言われている。方広寺と言えば、現在では大仏よりも、豊臣家滅亡のきっかけとなった鐘がある寺と言った方が分かりやすいだろう。言うまでもなく、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘が家康の名前を引き裂くものであると言いがかりをつけられたあの事件である。しかし、江戸期においては「京の大仏」の寺として名高く、18世紀に火災で焼失したときには、市中で大仏を惜しむわらべ歌が歌われ、また周辺の地名には大仏やそれにまつわる名が今でも残っている。

1586年(天正14年)、秀吉の命により造営が始まった方広寺大仏殿は、完成間近となった1596年(慶長元年)、慶長大地震に見舞われ、崩壊する。秀吉の死後、秀頼が大仏殿の再建を命じ、1612年(慶長17年)完成するが、1798年(寛政10年)、落雷による火災によって焼失してしまう。その後、方広寺は規模を大幅に縮小し、現在の場所(京都府京都市東山区大和大路通七条)に再興される。寛政年間に焼失した後、大仏殿が再建されることはなかったため、現在の方広寺に行っても、当時の面影はなく、また当時の様子を伝える資料も少ないため、長い間、大仏殿が建っていた場所すら正確に分からないままであった。

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<写真:ケンペル「日本誌」 1729年版>
しかし、資料が全くないわけではない。当時の様子をうかがい知ることのできる資料の一つは、ドイツ人医師のケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651-1716)が残した旅行記「日本誌」である。ケンペルは五代将軍徳川綱吉の時代である1690年に日本各地を訪れ、ドイツ語で「今日の日本」という原稿をまとめている。その中に方広寺の大仏殿を描いた挿絵がある。判読しにくいが、右上にDAJBODS(ダイボツ≠ダイブツ=大仏), Tempel even buyten de stad, MIACO(ミアコ≠ミヤコ=都)との但し書きがある。

ちなみに、ケンペルの死から11年、「今日の日本」の原稿はショイヒツェル(J.C. Scheuchzer)によって英語翻訳され、「The History of Japan(日本誌)」として世に出た。この本はすぐにベストセラーとなり、1729年にはフランス語(Histoire naturelle, civile, et eccl'esiastique de I'empire du Japon)とオランダ語(De Beschryving van Japan)に翻訳された。オランダ語版は1733年にも再刊されている。オリジナルは現在大英博物館に所蔵されており、現在でも江戸期の日本を研究する者の必読書となっている。

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<写真:都名所図会(1786年再版本) 巻之三 左青龍再刻 十四ページ、国際日本文化センター所蔵 >
さて当時の様子を伝えるもう一つの資料は、1780年に京都の書林吉野家が刊行した「都名所図会」である。焼失するのは1798年であるので、直前と言ってもよい時期である。この中にある俳諧師秋里籬島の説明書きによると、大仏殿は西向きに建てられており、東西27間(約49メートル)、南北45間(81メートル)の大伽藍であった。さらに、東西に100間(180メートル)、南北に120間(約216メートル)の回廊に囲まれていたと言う。そして大仏殿には、六丈三尺(約19メートル)の盧舎那仏の坐像が鎮座していた。楼門には一丈四尺(約4.2メートル)の金剛力士の大像が置かれ、門の内側には金色に輝く長さ七尺(2.1メートル)の高麗犬が、堂前には列国諸侯の名が刻まれた石灯籠が立ち並び、大仏殿の敷石と正面の石垣には諸侯の紋や名前が刻まれていたと言う。都名所図会には大坂の絵師竹原春朝斎の手による挿絵も残っている。

2000年8月に行われた発掘調査により、方広寺大仏殿の基壇と台座が発見され、大仏殿の建っていた場所と規模が明らかになった。調査結果によると方広寺の境内は、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含む広大な敷地にまたがり、大仏殿は都名所図会にある記述にほぼ等しく、東西55メートル、南北90メートルであったことが判明した。まさに奈良の東大寺を凌駕する規模であったのである。

ただ、この巨大な建造物に屋久杉が使われたのかについては疑問が残る。確かに1586年(天正14年)4月、秀吉が方広寺大仏殿の建築用材を諸国に求めたという記録はある。そして屋久島を治めていた島津義久が秀吉の軍門に降ってからちょうど二年後の1589年5月に
「羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ方広寺大仏殿用の柱及び島津分領中で刀狩した刀、脇差30,000腰の進上を賞す。」
との記述が島津家文書(2-780)に残っている。

しかしここにある「方広寺大仏殿用柱」が屋久島から届けられたかどうかの記述はない。またウィルソン株横の立て看板によると「伐採年代は18世紀末ごろと伝えられ・・・」とある。つまり伐採時期は今から200年ほど前ということになる。さらに言えば、ウィルソン株に根付いている3本の小杉の樹齢は、300年だと言われている。この巨大な切り株に新しい杉が着生するまで100年もかかったことは考えづらい。したがって伐採時期は300年ほど前と考えるのが妥当だろう。どれをとっても420年前の秀吉の時代とは合わない。

結局のところ、方広寺大仏殿とウィルソン株は関係ないのだろう。
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by iyasaca | 2007-11-03 17:50 | 鹿児島 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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