勝手に僻地散歩



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ナコーンシータマラートにいってみた その3

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<写真:ナコーンシータマラート市内に残る城壁跡>
ナコーンシータマラートがリゴールと呼ばれていたアユタヤ王朝時代、リゴールの太守がこの地で静かに人生を終えた。そのリゴール太守の名はオークヤー・セーナーピムック。日本名、山田長政である。

リゴールは、パタニ王国など南部のマレー系王朝との最前線基地でもあり、町の周辺に城壁をめぐらせた要塞都市でもあった。城壁は当初は、木の柵程度のものであったようだが、後にレンガで都市を囲った。現在でもそのレンガ造りの城壁跡を見ることができる。

f0008679_3205852.jpg山田長政は1590年に尾張で生まれた。幼いときに父は早逝し、母とともに実家の駿河国安倍郡藁科村の寺尾家に戻ったが、母は、長政が3歳のとき、伊勢神宮の御子(お札を旅をしながら配って歩く下級神官)で、浅間神社近くの馬場町で染工(紺屋)を営む山田九平次の養子、久左衛門友昭と再婚したと伝えられている。
<写真:山田仁左衛門肖像、Portrait of Yamada Nagamasa c.1630.Public Domain>

長政は、今川家の菩提寺で読み書きを習い、浅間神社前、宮ヶ崎の町道場で武芸に励んだが、その後、一時沼津藩で駕籠かきをした後、駿府から台湾行きの船、「富士丸」に乗り込み、台南でシャム行きの便船を待ち、長崎の豪商、木屋弥左右衛門の御朱印船に乗り込み、アユタヤの日本人町に乗り込んだ。1610年のことであると言われている。国外へ飛び出した動機は、駿府郊外で殺傷事件を起こし、警吏に追われていたためとの説もある。
長政を駿府と結ぶ手がかりがもう一つある。朱印状の発給実務を担当した禅僧たちの職務日記である「異国日記」には、以下の記述が残っている。
「大久保治右衛門六尺山田仁左衛門、シャムへ渡り有り付、今はシャムの仕置を仕候由也」
大久保治右衛門忠左は駿州沼津の城主で、1613年(慶長18年)に没している。六尺とは駕籠かきを意味する。つまり、山田仁左衛門なる者がいて、大久保治右衛門忠左の六尺を務めていたが、忠左存命中にタイに渡り、やがてその国の役人となったということを読み取ることができる。

さて、長政がシャムに渡ったこの時期は朱印船交易による日泰関係の最盛期であった。この時流に乗り、長政はアユタヤ郊外にあった日本人町(バーンイープン)の発展と軌を一にして、シャムの鹿皮、鮫皮、蘇木を買い集め、オランダ商館に納入する仲買商人として、また日本、交趾(ベトナム)、バタビヤ(ジャカルタ)などとの交易で莫大な財を築くのである。そしてついには最盛期に3,000人を越えたとも言われる日本人町の頭領にもなった。アユタヤの日本人町は現在でも地元の人たちに「ヤマダ」と呼ばれているのである。蛇足ではあるが、アユタヤの日本人町に住む日本人の多く(一説には400人)はキリシタンであったらしい。

長政はタイ物産の輸出促進の任を担った「在留日本人貿易業者代表」として、1621年、時の老中土井大炊助利勝宛に書状を送り、交易の斡旋を行っている。また自らの持ち船をバタビヤに派遣し、オランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンにも書簡と贈り物を呈上して交易を求め、これにタイ米を輸出している。1626年には、長政が静岡の浅間神社に自船の交易船の絵(長政奉納戦艦図絵馬)を奉納したとされている。

長政の活躍は交易のみにとどまらない。「外蕃通書」所収の漢訳分によると、長政はシャム国王より日本人の頭領として認められ、クン・チャイ(ヤ)スーンという日本人傭兵隊の官職を得ていたことが書かれている。800人もの日本人義勇兵を率い、各地の反乱を平定するなど、日本人傭兵隊長(クロム・アーサーイ(ジ)ープン)としても活躍した長政は、ソングタム王にも重用され、政権第3位の船大臣(チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を有する重職)を務めた。1628年にはアユタヤ王朝の「オークヤー・セーナーピムック」(オークヤーは大臣級の爵位、セーナピムックは欽賜名)にまで登りつめた。

ソングタム王の死後、チェーターティラーと故王の従弟シーウォーラウォン(オークヤー・カラーホームとも呼ばれる。後のプラーサートトーン王)の王位争いが始まった。長政はソングタム王の遺言に従い、シーウォーラウォンと共同でチェーターティラートを王に立てた。このことで王位争いは収束したように見えたが、王となったチェーターティラートはシーウォーラウォンを排除しようと動き出す。この動きに対抗し、チェーターティラートはシーウォーラウォンに暗殺され、両派の争いは激しさを増すこととなった。

その後チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォンが幼帝としてたてられたが、シーウォーラウォン待望論が官吏を中心に盛り上がった。この動きに断固反対したことが長政にとって、大きな転機となった。この対立に目をつけたのは、アユタヤ貿易を一方的に牛耳っていた日本人と対立関係にあった華僑勢力である。華僑グループはシーウォーラウォン待望論に傾く王宮を支持し、長政は支持基盤を失った。ここに機を見たシーウォーラウォンは即位後わずか15日の幼帝アテットヤウォンを殺害し、プラーサート・トーンとしてアユタヤ王朝27代目の王としてその地位に就くと、長政はリゴール防衛のためという名目で太守としてリゴールに赴くこととなった。事実上の左遷である。

1630年パタニ王国との交戦の後、長政は前リゴール長官の弟、オプラ・マリットによって脚に負った傷口に毒入り軟膏を塗られ暗殺される。長政の長子オークン(クン・セーナーピムック)がリゴール太守の座を継承するが、その直後に日本人傭兵によって殺害される。プラーサートトーン王の動きは早かった。長政の死と同じ年、「日本人は反乱の可能性がある」として、シャイフ・アフマドが率いたアラビア人、タイ族、華僑からなる兵によってアユタヤ日本人町は焼き払われた。1629年には、日本人町商人の大きな交易相手先であったアユタヤのオランダ商館が閉鎖した。その後、アユタヤの日本人町が以前の栄光を取り戻すことはなかった。

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長政の死から370年たった2001年、地元で日本庭園と呼ばれている美しい公園の一角に碑が建てられた。そこにある碑文は以下の通りである。
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碑文に向かう石段の右端には、ナコーンシータマラート市長のメッセージが刻み込まれている。その内容は以下の通り。(右上の写真)
「タイ南部ナコーシータマラート県」
「山田長政この地に眠る」
日本国前首相 森喜朗 直筆

平成十三年八月二十四日、タイ南部ナコーンシータマラート県にて、日本側から在タイ日本国大使、盤谷日本商工会議所会長、日本人会会長のほか日系企業の代表らのご参列をいただき、山田長政記念塔の除幕式が盛大に開催されました。

正法の都という意味をもつナコーンシータマラートは静岡県出身小山田長政が寛永七年(1630年)に没した地です。

この記念塔は、森前首相のご協力をいただき、また同県商工会議所が中心となって寄付金を募り完成しました。記念塔は、同県内の春日文化交流公園内(通称、トウタラート公園)に建てられています。記念塔の高さは三メートル、筆毫『山田長政この地に眠る』は森喜朗前首相の直筆です。公園内には、タイと日本友好の証として、ご来賓の手によって県木であるユーカリの木が記念植樹されております。

山田長政(駿河国、今の静岡県に生まれ、山田仁左衛門という。)は、タイ・アユタヤ王朝の傭兵隊長として活躍しました。当時、ナコーシータマラート県は、アユタヤ王朝の最南端の地であり、古代から貿易の盛んな所でした。仏教が伝来した地としては特に有名で、タイを代表する深い歴史ある国宝級の品々や名所が今でも多く残っております。ここは、タイ族最古の王朝であったスコータイ王朝の成立以前から存在していた東南アジア屈指の古都とも言われております。歴史を紐解くと、山田長政は権力のあった人物だけに、山田長政像について書かかれた(ママ)古典が多く残っております。

そして、この地は太平洋戦争で多くのタイの兵士もなくなっており、これまでの歴史上悲しい傷跡の多い場所でもありました。

新しい世代、過去の経緯をあまり知らない若者が多くなった今日、永遠なるタイ南部ナコーンシータマラートと日本の平和と友好を誓い、相互の理解でこれを維持していくことが私たちに与えられた使命であると考えております。

ナコーンシータマラート県は、バンコクからやく800キロ南、バンコクから飛行機で約一時間の距離にあります。

おかげさまで最近では多くの日本の方々にご来県いただいております。自然に囲まれたきれいな海、リゾートホテル、美味しい果物、タイを代表するヤンパリオ籠や影絵芝居などが自慢です。

皆様のお越しを心よりお待ち致しております。尚、市役所では、ナコーンシータマラートの日本語観光案内書をご用意いたしております。是非、お立ちより下さいませ。

平成十六年六月
ナコーンシータマラート市長 ソムヌック・ケチャラット

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碑の左側にタイ語、右側に日本語で、その由来が書き記されている。以下、その全文である。

「山田長政の碑建立について」
アユタヤは1350年から1767年の417年間シャム(タイ王国)の首都であった。
日本との交易も盛んで朱印船も多く日本人町もあり、全盛期三千人の日本人が居たと云う。
山田長政は(駿河・今の静岡県の出身と伝えられている)日本人町の首領となり活躍の後にリゴール(今のナコーンシータマラート)の太守となり寛永七年(1630)この地で客死したと伝えられている。山田長政については諸説があるが、日本との友好を願うタイの人たちの暖かい気持ちと広い心でここ終焉の地に記念碑が建立された。
この日は新しい世紀を迎え、両国の友好親善がさらに深まることを願い建立されたことを日本の多くの人たちに伝えたい。
平成十三年(2001)八月二十四日
日本国際ボランティア交付団体
石川県タイ友好協会
会長前田勝紀
森喜朗氏は平成12年から13年日本国総理大臣
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by iyasaca | 2006-05-14 03:20 | タイ王国 | Comments(4)

ナコーンシータマラートにいってみた その2

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ナコーン・シー・タマラートは、時期により、または言語により、さまざまな名前で呼ばれていた。この地域を示す最も古い名称はタンブラリンガ(Tambralinga)である。この名称は2世紀ごろから使用されてきた。同じく2世紀のものと伝えられるインドに残るパーリ経典ニデッサ(Niddesa、義釈)に、カマリング(Kamaling)との表記も見られる。さらに言うならば、タミル語では11世紀にマダマリンガム(Madamalingam)、シンハラ語ではタマリンカム(Tamalinkham)、宋王朝時代の中国ではTan-llie-mei、16世紀アユタヤ王朝時代にはポルトガル商人からリゴール(Ligor)と呼ばれ、現在のナコーンシータマラートという表記が初めて登場するのは、スコータイ王朝まで待たねばならなかった。しかし現在でもその英語表記は、Nakorn Sri ThammaratやNakhon Si Thammaratなど幾通りもあり、統一されていない。

さて、シュリビジャヤ王国の衰退にともないタンブラリンガはその版図から脱する。その後、ほどなくしてスコータイ王国の支配下に入るが、13世紀には12,000人もの僧侶を擁するマレー半島の上座部仏教の一大中心地へと成長し、繁栄の頂点に達する。その中心地で最高レベルの仏教教育の場を提供したのは、ワット・プラマハータート寺院(Wat Phra Mahathat Woramahawihan)である。そして、この寺院を通じて、スリランカ系の大寺派上座部仏教はスコータイへ伝えられたのである。

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寺院の歴史は2世紀にまでさかのぼる。
ある日、南インド地方の一都市タナタ・ブリ(Thanatha Buri)に仏陀の歯が持ち込まれた。その噂を聞きつけた周辺国の王は、その仏歯を分け与えて欲しいと申し出たが、タナタ・ブリのコシハラート(Khosiharat)王は、王権の象徴たる仏歯の分与の申し出を二度にわたり拒否した。 その対応に激怒した周辺国家は、タナタ・ブリ攻略のため兵を挙げ、攻め落としてしまう。陥落直前、コシハラート王は仏歯を自分の娘ヘムチャラ王女(Hemchala)と息子のタナタ・クマーン王子(Thanatha Kumarn)に譲り渡し、スリランカへ逃げることを命じた。

数名の召使を随行させ、一路南の小島スリランカを目指したヘムチャラ王女とタナタ・クマーン王子を乗せた平底帆船は、その途上、嵐に遭い沈没してしまう。王子と王女は帆船の木片につかまり、何とか現在のタイ南部、トラン(Trang)の浜辺に漂着した。たどり着いた浜辺がスリランカであると勘違いした二人は、そのまま半島を東に横切り、タイランド湾にたどり着いたところで、王女の髪の中に隠していた仏歯のかけらを浜辺に埋め、その上に小さなステューパを建立した。王子と王女はその功徳が認められ、ヒンドゥー三柱神の一人で創造神マーハ・ブラーマの祝福を得て、無事にスリランカに渡ったと伝えられている。

時代は下って12世紀、シー・タマ・ソカラート王(Si Thamma Sokarat)は、この地のどこかに仏歯を収めた仏塔があるとの話を聞きつけ、捜索の末、ついに見つけ出す。そして1176年、シー・タマ・ソカラート王はその小さな仏塔の跡地に、巨大な釣鐘状の仏塔を建て、周辺に多くの寺院を建立し、ワットプラマハート寺院と命名した。仏塔の建立にあたっては、スリランカから多くの職人を呼び寄せている。そのせいか、同時期に建立されたスリランカ・ポロンナルワのキリ・ヴェハラ仏塔との類似性が認められる。

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中心の仏塔の真下には、プラ・ソン・マー堂(Phra Song Ma Congregation Hall)が建てられている。内部は一面が漆喰で塗り固められ、馬上にあるシタッター王子(Prince Sithatttha)の彫像ほか、インドラ、ブラーマなど神々の像が静かに仏歯を護っている。お堂の中心には、仏塔へと続く階段がある。

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階段を上ると巨大な仏塔の真下に出てくる。修行僧が瞑想をしながら、仏塔の周りを歩けるスペースが広がっている。時計回りに歩かねばならないそうだ。

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中心の仏塔の周辺には、多くのお堂が建てられており、広大な寺院を形成している。そのひとつ、コット堂(Khot Congregation Hall)は、中心の仏塔を四方から囲むように建てられている。一辺には173体の仏像が鎮座している。 もともとこのお堂は、修行僧が説法の前にお経をあげる場として使用されていた。現在はごくたまに、宗教上の儀式が執り行われるだけである。

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寺院の中心に聳える55.78メートルのスリランカ様式の仏塔を擁するワット・プラマハータート寺院は、今でもタイの7大寺院(Maha Chedis)のひとつに数えられ、タイ南部で最も高い權威を誇る寺院として、町のシンボルであり続けている。
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by iyasaca | 2006-05-13 22:28 | タイ王国 | Comments(6)

ナコーン・シー・タマラートにいってみた その1

f0008679_3514544.jpgサンスクリット語で「正法王(ダルマラージャ)の治める都」(ナガラ・スリ・ダルマラージャ、Nagara Sri Dhammraja)との意味を持つマレー半島中部の古都ナコーン・シー・タマラート(Nakorn Si Thammarat)は、古くからインドと中国をつなぐ海洋交易の中継地であった。

7世紀当時、マレー半島、スマトラ島一帯は、大乗仏教を奉じるシュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝)の支配下にあったと言う。しかし、大いに栄えたと伝えられるこの仏教王国の歴史は、稀に見つかる碑文や中国に残る朝貢の記録など断片的な資料から推測するほかなく、その起源、滅亡の時期すら多くの説がある。何しろ、石碑に刻まれた「室利仏逝」という文字がシュリーヴィジャヤに対応するものだと分かったのが20世紀初頭のことでしかないのである。20世紀初頭に活躍したフランスの歴史学者ジョルジュ・セデス博士(George Coedès)の功績である。

当時をうかがい知る貴重な資料の一つとして、唐の時代の僧侶義浄(635~713)が書き残した紀行文がある。義浄は「室利仏逝」滞在中の689年(永昌1年)、以前に見聞したインドや東南アジア地域30か国の仏教徒の生活や規律などを40章にわたり書き記し、691年に「南海寄帰内法伝」:(なんかいききないほうでん)として長安に託送した。それによると、室利仏逝はインド仏教の総本山であるナーランダに匹敵する仏典研究の拠点で、1,000人にものぼる僧侶が日々、教義の研究、仏典の漢訳などに勤しんでいたと言う。学習科目、規則、儀式についてもインドと全く同じであり、義浄自身も室利仏逝で半年間にわたり、サンスクリット語を勉強している。

義浄は室利仏逝は城壁に囲まれた町であったとも書き残している。このことは室利仏逝が軍事的にも重要な都市であったことを示唆している。まさに室利仏逝は軍事、交易、学問の中心地であったわけである。義浄が立ち寄った「室利仏逝」はスマトラ島のパレンバン(Palembang)ともマレー半島のチャイヤー(Chaiya)とも言われているが、どちらの説にも決定的な証拠が残っていない。

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長安から交趾、チャイヤ、ナコーンシータマラート、パレンバン、ニコバル諸島、そしてインドへという道のりを視覚化するため、あえて大判の地図を載せてみた。マラッカ海峡に出没する海賊のリスクを避けるため、ナコーンシータマラート周辺が海上交易の経路として利用価値が大きかったと思うが、どうだろう。
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by iyasaca | 2006-05-03 03:31 | タイ王国 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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