勝手に僻地散歩



カテゴリ:東京千代田区( 14 )


ベルギー王国大使館にいってみた

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かつて下二番町(現在の千代田区二番町)と呼ばれていたこの区画は武家屋敷が立ち並んでいた。江戸時代から町の主は変わったが、現在に至るまで、通りの位置、方向は変わっておらず、往時の雰囲気を味わえる落ち着いた町である。

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<写真:左が加藤高明伯爵、右がジョサイア・コンドル>
ここにかつてジョサイア・コンドル設計による加藤高明邸があった。加藤高明は元外交官で、東京日日新聞の社長を務めた後、政界に転身、4度にわたって外務大臣の任につき、20世紀初頭の外交の舵取りを行った人物である。その後、1924年6月からは第24代日本国総理大臣まで務めた。しかし1926年1月、帝国議会内で肺炎で倒れ、そのまま亡くなった。66歳であった。激務が寿命を縮めたのだろうか。

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ジョサイア・コンドルは、25歳で日本政府より工部大学校造家学科の教師として招請され、43年に及ぶ日本での滞在中に、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計したほか、辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎など、その後の日本の建築界を支える人材を育成した。コンドルは夫人とともに日本で没している。

残念なことに、1911年に建てられたコンドル設計の邸宅(当時の写真はこちら)は、関東大震災は耐えたものの、空襲で焼けてしまった。その後1959年に、元の8,500平方メートルの敷地はそのままに、新たに3階建ての洋館が再築され、2007年までベルギー大使館として使われていた。

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邸宅の一階にはゲストを遇する広間が複数あり、二階へと続く特徴的な螺旋階段が絶妙の位置に配されている。調度品、壁にかけられた絵画なども味わいがある。

二階は寝室と思われる小部屋が5つほど並んでいる。プライベートスペースだろう。

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庭園も広い。芝生が全面に敷かれており、灯籠や池、プールまである。この庭園は邸内から広く見渡せるようになっていた。庭で展開される四季の変化はさぞ美しかったことであろう。

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時の流れは残酷で、すでにこの洋館も取り壊され、現在この場所には13階建て、8階建て2棟のビルが建っている。
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by iyasaca | 2013-10-19 00:32 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その13

淡々と(だらだらと)靖國神社境内にある施設や碑文や像について、見て回ったのは、遊就館の展示だけが、靖国の思想なのかという疑問があったからである。境内にある施設や碑を通じて、感じ取れるものがあればというのが、その趣旨であった。中には、政治的な色彩を感じる碑文もあれば、普遍的な価値観を体現している碑も存在する。鎮霊社など、靖国の思想から離れているかのような施設も存在する。マスコミで喧伝されているような単純な宗教施設ではないことが理解できたのが収穫であった。それらを踏まえて、靖國神社に総理大臣による参拝が適当であるか否か、という技術的かもしれないが、明快な答えを示すことのできなかった問いに対してとりあえずの回答をしてみようと思う。

総理大臣という行政の最高責任者による靖国神社への参拝というのは、国家と祭祀の問題であり、それはまさに霊爾簿に列せられている人物に対し、政府がどのような立場を取るかの問題である。採り得る立場というのは、大きく分けて、二通りあろう。

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<2006年(平成18)8月15日、小泉総理はこの到着殿より本殿に入り、参拝を行った>

一つは、法的状態を尊重する立場に立ち、もうA級戦犯を含む戦犯は法的に、国際的にも、国内的にも存在しないのだから、A級戦犯が合祀されているということをもって、参拝しない理由とすることはできないとする立場である。この立場では、分祀の必要もない。また天皇陛下の参拝にも道を開くことになる立場である。さらには『「A級戦犯」として裁かれた人々の法的地位を誤認し、また社会的誤解を放置している』(野田佳彦氏の意見書)ことから、現状は、「A級戦犯」ならびにその遺族に対する人権侵害状態にあるという主張も成り立つ。

もう一つは法的責任よりも高い、道義的な高みからの立場である。いくつか前のエントリーで、道義的責任を開戦責任、経過責任、結果責任と三つに分けて考えようと試みた。開戦責任については、歴史的経緯を見れば、日本だけが責めを負うべきものでないことは明らかである。また経過責任においても、作戦を立てたというところに責任があるというよりも、作戦が失敗したということにおいて道義的責任が問われていることを考えれば、結局、結果責任という枠に属する性質のものである。つまり、道義的責任として問われるべきは、日本を敗戦に導いた結果責任に集約される。

よって、二つ目の立場というのは、日本を敗戦に導き、200数十万人の犠牲を出し、国家を存亡の危機に陥れた戦争責任者が赤紙一枚で出征した兵士とを区別せずにともに祀っている神社に参拝するのは控えるべきであるというものになる。日本を壊滅的な状態に陥れ、国民に敗戦の苦渋を味わせる結果をもたらした戦争指導者は、国家による顕彰の対象としては相応しくない。すでに当事者が物故している以上、少なくとも他の戦没者と区別することでその責任を果たしてもらおうとする立場である。戦争指導者をA級戦犯と同一視するかしないかはまた別の議論であるが、靖国が選択的に英霊を祀る霊爾簿方式をとる限り、説得力がある議論を展開できる。

どちらの主張にも論理一貫性があり、政府がどちらの立場に立とうとも対外的に正当性のある主張を行うことは可能である。その意味において、政府がどの立場に立つかは自由であると言える。

政府が前者の立場に立つのであれば、総理大臣は堂々と靖国神社に参拝すればよい。後者の立場に立つのであれば、解決策は政府の代表が参拝しないか、分祀するかしかない。靖国神社は「分祀は教義上できない」という見解をとっている。分祀不可とする靖國の立場は神道の伝統的な価値観とは相容れないと批判することには意味がない。それが宗教法人である靖國神社の判断である以上、その判断について第三者が容喙する余地はない。当然のことながら、政府が、見解変更を強要することも、憲法上できない。よって、政府がこの立場に立つのであれば、靖国神社が自主的に見解を変更し、分祀をしない限り、政府の見解が異なることになる。政府の見解と靖国神社の見解が相違し、かつその見解の相違が許容できる範囲を超えるというのであれば、政府の代表は参拝しなければよい。アジア諸国への配慮という要素を入れずとも、靖国参拝を控えるという判断は国内のロジックだけで可能なのである。

さて、そろそろ結論めいたものを述べるために、二つ目の立場をもう少し掘り下げて考えてみる。一つ目の立場と二つ目の立場を分けるものは、つまりは敗戦に導いた戦争指導者に対する責任の取らせ方という点にある。日本が民主主義国家である以上、敗戦の結果責任について、日本国民が追及するのは当然である。その日本国民というのは誰のことなのか。現在の日本国民なのか、当時の日本国民であるのか。現在の日本国民は、世論調査の実施時期によって、変動が見られるものの、靖国を参拝すべきでないとする立場と靖国を参拝すべきだとする立場とでほぼ二分していると言ってよいだろう。それでは、当時の国民はどのような立場に立っていたのだろうか。

1950年代、多くがまだ服役中だった、いわゆる「戦犯」の仮出所、減刑、赦免の動きについては、1952年6月に日本弁護士連合会が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出しているほか、早期釈放を求める4,000万人もの署名を集める国民的な動きがあった。日本の人口が約8,500万人(うち15歳以上の労働者人口は5,744万人)の時代にである。そして、その国民世論を背景に、衆参両院で4回もの国会決議が出ている。この国会決議には、共産党、労農党以外の政党が賛成に回り、いずれも圧倒的多数で可決されている。

1952年6月9日 参議院本会議「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年12月9日衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年8月3日衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年7月19日衆議院本会議「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」


日本政府は、国会内外の日本国民の声を背景に、国際条約であるサンフランシスコ平和条約(第11条)に根拠を持つ、「平和条約第11条による刑の執行及び赦免等に関する法律」を制定し、それをもとに「戦犯」の仮出所、減刑、赦免の手続きが進められたのである。

この動きの背景には、経済的困窮にあえぐ「戦犯」の遺族に対する恩給支払いという側面があった。また、1950年代にかけて、フィリピン、インドネシア、ベトナムなどとの難航した賠償交渉の経緯を見れば、当時の日本国民には、アジアの人民に対する加害者意識よりも米国にやられたという被害者意識の方が強かったという側面も否定できない。例えば、フィリピンとの賠償交渉で、てっきり調印できると思った日本側は全権団を組織してフィリピンに出向いたが、結局折り合いがつかず、調印することなく帰国を余儀なくされるとの事態もあった。相手の反日感情が日本が思っていたもの以上であったという一つの事例である。

そのような状況を理解しつつも、日本という国家が民主的な手続きを経て、「戦犯」の仮出所、減刑、赦免の手続きを定めたこと、そしてその手続きを圧倒的多数の当時の日本国民が支持したという2つの事実を民主主義という日本の政治制度に則して考えなければならない。つまり、この事実が問いかけていることは、日本の戦争指導者の責任を追及できるのは、まさに戦争を経験し、敗戦の苦渋を直接的に味わった当時の国民にあるのか、戦争を知らない世代が大多数を占めるようになった現在の日本国民にあるのかということである。

当時の国民の判断を、戦争を知らない現在の世代が覆すということを行うのであれば、論理一貫性を保つため、当時の国民が下してきたさらに多くの判断をも覆す必要がある。例えば、4度にわたる戦犯釈放を求める国会決議の取り消し、「戦犯」遺族に対する遺族年金の全額返納、重光など叙勲された政治家に対する勲章剥奪などである。このような行為は、歴史に対する謙虚さを忘れた、生者の驕りがなせる業であろう。

当時の国民の戦争指導者に対する判断を、現在の国民の判断に優先するということであれば、「道義的立場に立って、敗戦の責任者を区別することで責任を果たしてもらう」という立場の前提が消滅する。

よって、結論としては日本政府はその立場を内外に明確にし、総理大臣は堂々と春秋の例大祭の折に靖国に参拝すればよいと思う。それは村山談話の精神から逸脱するものでは断じてない。戦後日本の歩みは、まさに村山談話の精神を体現するものである。また、このような説明であれば、何も東京裁判は不法かつ占領者の裁きであるから、その結果としてのA級戦犯も無効だというような乱暴なロジックを使う必要もなく、よって東京裁判の結果を受け入れるとか、judgmentsだから諸判決だという不毛な論議をする必要もない。東京裁判がいかに不法であり、国際法違反であったとしても、サンフランシスコ条約第11条においてその裁判(諸判決でもよい)を受け入れたからには、それを守るのは当然である。これは敗戦国として日本が背負わざるを得ないburdenであり、それ以外に選択肢はない。純粋な法理論の議論の材料として、東京裁判の不法性を議論するならば、意味があるかもしれないが、靖国の文脈で東京裁判の不法性を言い募ることは、全くもって無意味である。
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by iyasaca | 2006-10-22 14:58 | 東京千代田区 | Comments(5)

靖国神社にいってみた その12

f0008679_21154754.jpg霊爾簿奉安殿の裏手、境内の南西の端に憲兵を顕彰する碑がある。それにしても不思議なのは、このような碑の場所である。もちろん空いているスペースに設置するということは当たり前だが、境内のどの場所にということは、靖國神社側の専権事項なのだろうか。あまり人の訪れることの少ない場所に設置されている碑を見て、ふとそのようなことを思う。


<守護憲兵之碑>
憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。
又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖国の神域を襲うや神殿と挺身護持したのも憲兵であった。然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを忘れてはならない。
靖國神社御創立百年に当る昭和四十四年四月六日この功績を顕彰し後世に伝承するため全国憲友会連合会より当社に同碑が奉納され、更に同会創立四十周年の平成五年四月八日にはその記念事業として会員一同、建立当時を振り返り憲友幾万の心の碑であるこの碑が永久に護持されかつ靖國の御社頭の永遠なる御安泰を願って真心籠もる多額の基金が寄せられた。

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戦友会に献納されたベンチ。
「献納 満州第二六三二部隊 
  第十五野戦兵器廠戦友会一同
         平成九年五月二十七日」
の文字が読める。



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<幕末志士ゆかりの錬兵館跡>
この錬兵館は、神道無念流の剣客斉藤弥九郎により、それまで俎板橋付近にあった錬兵館が天保9年(1838年)の家事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。
 錬兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。
 なお、この錬兵館は千葉周作(北進一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の史学館とともに、幕末三道場といわれている。


f0008679_21162652.jpg本殿の南まで戻ってくると、鉄柵に囲まれた二つの祠が見える。ちょうど空色の袴を穿いている二人の神官が祈りを捧げているところだった。奥に見える祠が元宮、手前に見える祠が鎮霊社である。2006年10月から一般の立ち入りが可能となったが、1974年に鉄柵が設けられて以降、特段の申し入れをしない限り、祠に近づくことはできなかった。

<元宮(もとみや)>
幕末の国事に斃れた志士の霊を慰めるため、1863年国学者福羽美静らが京都祇園にひそかに建てた小さな祠が1931年に奉納された。靖国のルーツに当たることから「もとみや」と呼ばれている。
<鎮霊社(ちんれいしゃ)>
1965年7月に創建された。本殿に祀られていない1853年のペリー来航以降の日本の戦没者や国籍などを問わず世界で起きた全ての戦争で亡くなった人たちの例を祀る社。当時の筑波藤麿宮司の発案で創建した。高さ約3メートルの小さな祠(ほこら)。本殿には国に準じて亡くなった246万柱あまりの英霊を霊爾簿方式に祀っているが、鎮霊社は、それ以外を対象とする。つまり政府に対抗した賊軍にあたる西郷隆盛や白虎隊なども含まれるとされる。また靖國神社広報課によれば、鎮霊社の御祭神は奉慰の対象であり、本殿のご祭神は奉慰顕彰の対象であるとして、区別していると言う。

 
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by iyasaca | 2006-10-21 09:57 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その11

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靖國神社拝殿から右に折れ、遊就館前の広場に出る。手前に張り出したように、建っているガラス張りの建築物が遊就館新館である。遊就館旧館を右に見ながら、さらに北に向かう。
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遊就館の西側にはパール博士顕彰碑が立っている。写真の横には極東國際軍事裁判(東京裁判)の際に提出した意見書の結語の一部が、下には、碑建立の趣旨が書いてある。パール博士は、天皇のためにあのような論陣を張ったのではなく、極東國際軍事裁判唯一の国際法を専門とする判事であった自覚と法正義の実現のためにその論陣を張った。靖國で紹介されるならいざ知らず、顕彰されるとなると複雑な思いにならざるを得ない。

意見書の結語
時が熱狂と偏見とを やわらげた暁には また理性が虚偽から 
その仮面を剥ぎとった暁には その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを 要求するであろう
ラダ・ビノード・パール
(When time shall have softened passion and prejudice
When Reason shall have stripped the mask from misrepresentation,
then justice holding evenly her scales, will require
much of past censure and praise to change places
Radha binod Pal)




ラダ・ビノード・パール博士は
昭和二十一年(一九四六)年五月東京に開設された「極東国際軍事裁判所」法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月の結審・判決に至るまで、他事一切を省みる事なく専心この裁判に関する厖大な資料の調査と分析に没頭されました。博士はこの裁判を擔當した連合國十一箇國の裁判官の中で唯一人の國際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持ち主でありました。博士はこの通称「東京裁判」が勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦國日本に対する野蠻な復讐の儀式に過ぎないことを看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根據が全く欠けていることを論証し、被告團に對し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公けにされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の國際法學会における定説と認められたのです。私どもは茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本國民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に傳へんとするものであります。
平成十七年六月二十五日
靖國神社
宮司
南部利昭
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さらに西に向かって歩く。この辺りにまで足を延ばす参拝客は少ない。ベンチや木の多くは戦友らによって、寄付、植樹されたものである。それにしても、都心とは思えない静けさと風景である。
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境内の北西の端に相撲場がある。春の例大祭には、横綱含む全力士が奉納相撲を行う。行ったときは立ち入り禁止になっていたが、奉納相撲の際には1万人が詰め掛けると言う。
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相撲場の隣にある茶室「靖泉亭」は戦後の建築である。神池庭園を臨むように立てられている。毎週末には茶道教室も開かれている。

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by iyasaca | 2006-10-21 09:09 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖國神社にいってみた その10

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神門を抜けると拝殿が目の前に現れる。多くの参拝者はここでお祈りする。手続きをすれば、さらに奥の本殿にてお祓いを受けることができる。霊璽簿が納められている霊璽簿奉安殿は本殿の北側にある。霊璽簿には、戦没者の名前、戦没時期が和紙に綴じられている。いわゆるA級戦犯と呼ばれる14名の名前も霊璽簿にある。

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あの有名な遊就館(旧館)。明治15年に日本最初の国立軍事博物館として開館する。その名の由来は、中国戦国時代の儒者荀況の著「荀子」歓学篇「君子居必擇郷遊必就士」(高潔な人物に就いて交わり学ぶの意)にある。この文から遊と就の二字を撰んで命名した。

遊就館は、敗戦後に閉鎖されるも、1986年に再開する。再開されてから20年しかたっていないのは意外である。戦死者の遺書、遺品や大展示物(人間魚雷回天やロケット特攻機桜花十一型、艦上爆撃機彗星など10万点の収蔵品の中から展示されている。

展示を貫く歴史観は、「近代国家成立のため、わが国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館の使命であります。(パンフレット「靖國神社 遊就館」より引用)」に示されている。


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遊就館入り口前のスペースに鎮座する「特攻勇士之像」。平成17年6月28日に財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会により設置されたものである。像の横にあるレリーフには以下の文章が添えられている。

「特攻勇士を讃える
戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空西尾少佐以下千三百四十四名、
義列空挺隊奥山少佐以下八十八名、
戦車隊丹羽准尉以下九名、
海上挺身戦隊岡部少佐以下二百六十六名、
海軍航空関大尉以下二千五百十四名、
特殊潜航艇岩佐大尉以下四百三十六名、
回天上別府大尉以下百四名、
震洋石川大尉以下千八十二名、
計五八四三名の陸海軍人は敢然
として敵艦船等に突入散華され
今日の平和と繁栄の我が日本の
礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、
国民ひとしく敬仰追悼し、永久
に語り継ぐべきものである。」
とある。
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遊就館前の広場の向こうに見えるのは参集殿。団体参拝の際によく利用される。参集殿の東側にある回廊は、本殿に続いている。
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by iyasaca | 2006-10-16 23:52 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その9

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<大村益次郎像>
村医者の子供として生まれた良庵(後の益次郎)は、医学、蘭学を学び医者としての人生をスタートさせた。1853年(嘉永6年)、蘭学の能力を買われた益次郎は、伊予国宇和島藩の要請で出仕。妻と共に宇和島に移り、西洋兵学の翻訳と講義を手がけるようになる。これが医者良庵の兵学との出会いである。1865年(慶応元年)には、藩命により大村益次郎永敏と改名し、藩政改革における軍事体制の整備を担当。1866年(慶応2年)6月の第二次長州征伐においては石州口方面の指揮を執り、大いに成果を挙げる。明治政府でも、軍関係の要職に命じられ、兵部大輔にまで上り詰める。藩兵に依存せず、国家の軍隊を作るべく(農兵論)その構想を推し進めていたが、1869年(明治2年)9月4日、その急進開化主義に不満を抱く刺客に京都三条木屋町上ルの旅館で襲撃され、2ヵ月後の11月5日、大阪で死去する。46歳であった。

大村が1869年(明治2年)6月12日、東京招魂社の社地選定のため、九段を訪れたという記録が残っている。明治15年、山田顕義伯爵らにより、靖國神社創健者としての功績を称えるべく、銅像の建立が発議され、宮内省からの御下賜金を受けて製作された。この銅像は彫刻師大熊氏廣(工部美術学校彫刻科卒:首席)の手によるものである。

ちなみに大熊氏廣は銅像製作に11年もの月日をかけている。製作依頼を受けた大熊は、彫刻研究のためパリ美術学校(ファルギエルに師事)、ローマ美術学校(アレグレッティに師事)、さらに巨匠モンデウェルデに入門し、研究を続けた。日本初となる西洋式銅像である大村益次郎像が完成したのは明治26年のことであった。
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さらに本殿に向けて参道を歩んでいく。参道の両脇には、燈籠が立ち並ぶ。その先には青銅大鳥居(第二鳥居)が見える。この青銅大鳥居は1887年に完成した。高さ15メートル、幅10.4メートルである。

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これは1934年に建立された神門。靖國神社の正門である。高さ6メートルの扉には菊の紋章が据え付けられている。紋章の直径は1.5メートルである。
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by iyasaca | 2006-10-12 23:36 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その8

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さて、靖國神社である。もともとは、長州藩が、長岡藩との戦い、いわゆる上越戊辰戦争での死者を弔うために、つくった長岡招魂社にまで遡る。現在の靖國神社は、戊辰戦争に斃れた薩摩・長州藩の兵士を顕彰するために、1869年(明治二年)に明治政府により東京招魂社として、九段上に創建された。地下鉄九段下駅を出て、坂を上がっていくと大鳥居が見えてくる。

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大鳥居(第一鳥居)は、1921年(大正10年)に建立されたが、昭和18年に戦力増強のために撤去された。その跡に小さな檜の鳥居が立てられていたのだが、1974年(昭和49年)、現在見られる大鳥居が立てられた。新しい大鳥居は、旧鳥居よりも約4メートル高い25メートル。笠木(鳥居上段の横木)の幅が34.13メートル(旧鳥居は29.74メートル)で日本一の規模である。鉄(正確には耐候性高弾力鋼板)でできており、柱の内部は強度を増すため、コンクリートを充填している。
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参道を歩いていくと右手に記念碑があった。多くの参拝客は、本殿を見据えて、まっすぐに歩いていってしまうので、立ち止まってみる人は稀である。この記念碑は、「常陸丸受難記念碑」である。常陸丸は、日露戦争当時の兵員の輸送船であった。1904年(明治37年)6月15日玄界灘にて、敵艦の襲撃に遭い、第二大隊、第十師団の1,000名を超える兵員が亡くなった。この記念碑は、殉難82周年にあたる1986年(昭和61年)6月15日に慰霊祭が執り行われた際に設置されたものである。
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本殿へと続く参道に、もう一つ碑があった。「田中支隊忠魂碑」とある。1918年(大正7年)8月、第一次世界大戦当時、第12師団歩兵第72連隊は、跋扈するロシア革命派の掃討を図るため、ウラジオストクに上陸、ハバロフスクを経由し、現在の中国黒龍江省北部、アムール州方面に進出した。苦戦を強いられていたため、1919年(大正8年)2月、第三大隊長田中勝輔少佐は、砲兵などの配属を受けて、田中支隊を編成、敵の大軍の退路を断つべく、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近まで進軍した。斥候として派遣した44名から成る香田歩兵中尉の小隊は、敵に見つかり、負傷者3名、戦死者41名と大損害を受ける。斥候が見つかったことで、田中支隊の主力150名も包囲される。1919年2月26日、約20倍の敵軍を前に、田中支隊長は敵弾を受けた後自刃、支隊も全滅した。また包囲される田中支隊の救援に赴いた西川達次郎指揮する砲兵中隊、歩兵一小隊112名のうち107名が戦死した。この忠魂碑は、このときの数少ない生き残り、山崎千代五郎氏らが、昭和9年2月26日に九段坂下に建立したものである。その後平成8年9月3日、現在の場所に移設されたとのことである。
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これは「慰霊之泉」-戦没者に水を捧げる母の像-とある。これも大鳥居と大村益次郎像の間の参道にある。説明文を引用する。

戦没者の多くは 故国の母を想い 清い水を求めながら 息を引き取りました。
この彫刻は 清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を 抽象的に表現したものです
また この母の像の外壁には 日本古来の宮や社にある固有の 簡素なたたずまいを表します
そして背後には 第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して 展示しております

                            建設 昭和42年4月18日
                            改修 平成16年3月16日

                            奉納 社団法人東京キワニスクラブ


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慰霊の泉の背後にある戦跡の石。コレヒドール島、ブーゲンビル島、グアム島、沖縄など、いずれも激戦地の石である。
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by iyasaca | 2006-10-12 21:10 | 東京千代田区 | Comments(2)

靖国神社にいってみた その7

3.日本国民に対する道義的責任

法的責任の取り方については、法律に定められた刑罰に服することで償うことができる。しかし、道義的責任は、刑罰が規定されているわけでもなく、それがゆえに責任の取り方は多様でありうる。

例えば企業の不祥事についての企業トップ、もしくは担当責任者の道義的責任の取り方として、その職を辞するという形がある。または、謝罪を表明し、善処策を講ずることをもって、責任を取るという形もある。先の戦争にかかわる道義的責任について、厄介なのは、すでに当事者が亡くなっているがゆえに、職を辞したり、謝罪を表明するという形で責任を取ることができない点にある。それでは、すでに亡くなられている方々に対して、どのような責任追及ができるのか。責任追及すべき人の子供や孫から財産を没収したり、父や祖父が行ったことについて謝罪をさせたりすることが解決策なのであろうか。

結局、現在の世代が道義的責任を果たす方法と言うのは、過去の世代に個人攻撃を加えることではなく、歴史に学ぶということしかないのではないか。つまり、それは歴史研究を進め、また次の世代を教育しなければならないということであり、まさに歴史家と教育者の出番である。この問題を政策論議のアジェンダに乗せることで、別の政治目的を達成しようとする国内外の勢力が存在する限り、政治家は、道義的責任を果たす道は、歴史研究を進め、次の世代を教育することであるという方向性を示すことしかできないし、それ以上のことをすべきでない。繰り返しになるが、この問題は、手段として用いられるような軽い性質のものではない。歴史はもっと重いものである。

ところで、終戦直後に日本政府は、非常に分かりやすい形での戦争の総括を試みたことがある。敗戦の原因について徹底的な調査を行うために設置された「大東亜戦争調査会(後に戦争調査会に改称)」である。

f0008679_2104776.gif発端は、1945年9月、東久邇首相宮(内閣総理大臣 稔彦王、左の写真)が、連合国による裁判の前に「自主的裁判を行う決意がある」との声明を出したところに遡る。要するに、いわゆる戦争犯罪人の処置について、「日本の事情を知らぬ相手に委ねては、一方的な勝者の裁きをうけるかもしれず、また、日本側 で処罰しておけば、そのうえの裁判が行なわれても、苛酷な量刑は免れるだろう」という考えであった。これは天皇を戦争責任の追及から守るという側面もあったのであるが、昭和天皇は「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽くしたる人々なるに、之を天皇の名に於いて処断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや」と前向きではなかった。


その後着々と準備が進んでいく中で、
1)戦争敗北の原因及び実相を明らかにするため、政治、軍事、経済、思想、文化などあらゆる部門にわたり、徹底的な調査を行う。
2) 戦争犯罪者の責任を追及するような考えは持っていない。
という形式をとることで、戦争犯罪人を裁くという方向性から、戦争調査の方向へと動いていく。

同年10月30日の閣議では、
「大東亜戦争敗戦の原因及び実相を明らかにすることは、これに関し犯したる大なる過誤を、将来において繰り返さざりしむるがために必要なりと考えられるが故に、内閣に右戦争の原因及び実相調査に従事すべき部局を設置し、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門に渡り、徹底的調査に着手せんとす」と敗戦の原因及び実相調査の件を附議し、11月3日には「大東亜戦争調査会の趣旨」が声明され、5日には「戦争責任等に関する件」を閣議決定した。

この閣議決定は、戦争責任問題及び天皇のそれに対する政府の統一見解を定めたものである。要点は、
1)大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み、やむを得ざるに出でたもの
2)天皇はあくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことに心を砕いていたこと
3)天皇の関与は憲法運用上確立せられおる慣例に従われ、大本営、政府の決定事項を却下遊ばされざりしこと

であり、むしろ天皇の戦争責任追及への対処に焦点をあてたものであった。

11月20日の閣議で大東亜戦争調査会の存在は官制として公布、11月28日の施政方針演説にて、幣原総理は「・・・大東亜戦争敗績の原因及び実相を明らかに致しますることは、之に際して犯したる大いなる過ちを将来に於いて繰り返すことのない為に必要であると考えまするが故に、内閣部内に大東亜戦争調査会を設置致しまして、右の原因及び実相の調査に着手することと致しました」とその決意を内外に示した。

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<戦争調査会総裁就任を断った牧野伸顕伯爵(左)と総裁に就任した幣原喜重郎(右)>

翌1946年1月11日、大東亜戦争調査会は、戦争調査会と改称し、幣原総理自らが総裁に就任した。ところで幣原は、直前まで当時84歳の牧野伸顕伯爵(大久保利通の子で娘雪子が吉田茂に嫁いでいる。また曾孫に麻生太郎がいる。)に総裁就任を依頼していた。1945年12月8日付の幣原から牧野への書翰でも「今回設置ノ大東亜戦争調査会ハ小生ノ最重要視スルモノ 先日総裁就任辞退サレシモ是非再考下サレタシ」と一度断られた大東亜戦争調査会総裁への就任を要請している。

46年3月29日に第一回総会が執り行われた。
戦争調査会の構成員は以下の通り(肩書きは全て当時)
総裁     幣原喜重郎(内閣総理大臣)、(後に吉田茂)
委員     馬場恒吾(讀賣新聞社社長)
        大内兵衛(東京大学教授 マルクス経済学、財政学)
        和辻哲郎(東京大学教授 日本思想史、哲学、倫理学)
        斉藤隆夫(衆議院議員、日本進歩党総務委員)
        富塚清(東京大学教授、内燃機関の權威)
        高木八尺(東京大学教授 米国政治史)
        有沢広巳(東京大学教授 マルクス経済学、統計学)
        松村義一(元内務省、貴族院議員)
        中村孝也(東京大学教授 日本近世史)
        片山哲(日本社会党委員長)
        木村介次(藤倉電線)
        渡辺幾治郎(歴史家)
        小汀利得(日本産業経済新聞社社長、大日本言論報国会参与)
        阿部眞之助(東京日日新聞主筆)
        鈴木文四朗(大阪朝日)
        ら20名
臨時委員
        飯村、戸塚、宮崎周一、矢野志加三ら旧陸海軍の幕僚
        各省庁の次官
        ら18名

事務局長官は、青木得三(元大蔵省、報知新聞社論説委員、庶民金庫理事長、無尽統制会理事長、庶民金融統制会理事長)であった。

調査会総裁の幣原喜重郎首相は、総会の場で「後世、国民を反省せしめ納得せしむるに、十分、力のあるものに致したい」と述べ、調査期間を5年間と設定し、

1)「政治、外交」:部会長 斉藤隆夫(衆議院議員)、部会長代理 大河内輝耕(元大蔵省、貴族院議員)
2)「軍事」    :部会長 飯村穣(元陸軍中将)、代理 戸塚道太郎(元海軍大将)
3)「経済」    :部会長 山室宗文(元三菱財閥役員)、代理渡辺鎮蔵(元東大教授、日本米穀会、代議士)。
4)「思想、文化」:部会長 馬場恒吾(ジャーナリスト、元国民新聞)、 代理和辻哲郎。
5)「科学技術」 :部会長 八木秀次、 代理柴田雄次

の5つの部会が調査にあたる体制も整えた。ほどなく元駐米大使野村吉三郎や元陸軍省軍事課長岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)に聴取を行うなど活動を本格化しつつあったが、1946年7月対日理事会にて、調査会の活動が議論の遡上に上がる。ソ連代表は「日本政府は次の戦争には絶対負けないように、戦争計画を準備しているのだ」と即刻廃止を要求し、英連邦代表も同調した。特に元軍人が委員の中に入っていることが問題視され、対日理事会のアチソン議長からも暗に軍人出身者を調査会から外すよう示唆される。

「軍人をみな抜いてしまってやれば、どんな調査や結果ができるかね」と幣原は憤慨したと伝えられるが、廃止の要求は勢いを増すばかりであった。折りしも、ほぼ同時期の1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、4月29日には起訴が行われるなど、連合軍による裁判のプロセスが進展していた。調査会の性質に対する不信感、そして調査会の結論と連合軍による裁判の結果に齟齬が生じることを懸念した連合軍総司令部が吉田首相に対し勧告を行うという形で、46年9月30日、調査会は自発的に廃止された。その後も独自の戦犯裁判の必要性などを主張する識者もいたことはいたが、大勢を得ることなく、現在に至っている。
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by iyasaca | 2006-10-09 01:49 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その6

4 アジアの人民に対する道義的責任

昭和20年に負けたあの戦争は、二つの側面を持っていた。一つは、米英蘭などとの帝国主義国間の覇権争い。そして、二つ目は中国大陸に対する侵略的戦争である。前者については、日露戦争後、米国により仮想敵国化された日本が、米国による巧みな外交戦略に敗北し、英国との同盟関係を打ち捨て、資源供給などの分野で徐々に追い詰められ、最終的には「モナコ公国であろうとルクセンブルグ公国であろうと武器を持って立ち上がるだろう(パール判事)」と言われるほど過酷なハルノートを叩きつけられ、対米戦争に向かっていく一連の政治プロセスの側面である。「自存自衛の戦い」という表現は、この観点から見たものである。

その一方、中国大陸における軍事作戦は、徐々に侵略的要素が顕在化し、日本軍は抗日運動に直面することになる。その過程で、中国の各都市では戦闘が展開され、多くの一般市民も犠牲になったことは紛れもない事実である。

またさらに他のアジア諸国に対しては、東亜の解放を企図し、植民勢力を追放したことも事実である。もちろん「解放」後は、日本軍による不適切な統治もあり、現地住民の不興を買い、結局は敗戦により、看板倒れに終わった。

よって、先の大戦は侵略戦争だったか?自存自衛の戦いであったのか?という二分法的な問いかけは、歴史を単純化し、その複雑性、多面性を理解しないものであり、意味のない問いであると言えよう。

戦後、日本は国際法に基づき、賠償請求要求など戦後処理にあたってきた。多くの国は、賠償請求権を放棄したが、賠償請求権を放棄しなかった国々に対しては、サンフランシスコ条約または、個別の平和条約に基づいて、賠償を行ってきた。

また賠償請求を放棄した国々に対しても、サンフランシスコ平和条約に規定された義務を超えて、道義的にその責任を果たすことを選択した。そのひとつは賠償請求権を放棄した国々に対する経済協力である。

賠償請求権を放棄した国々とは、具体的にはラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ(インドネシア)、英国(ビルマ、マレーシア、シンガポール)、米国(ミクロネシア、フィリピン)である。

下の表に見られるように、戦後処理の一環として行われた経済協力(無償)の供与額は、約2,540億円。借款部分は、約3,400億円で、総額は5,930億円を超える。またこれとは別に、中華人民共和国に対しては3兆円近い経済協力を行っている。


(外務省HP「賠償並びに戦後処理の一環としてなされた経済協力及び支払い等」をもとに作成)

これに中間賠償、サンフランシスコ条約に基づく賠償(在外資産の放棄・戦前債務の支払い・捕虜に対する償い)、個別の平和条約に基づく賠償、私的請求権問題解決のための支払などを含めると総額は1兆3,500億円にものぼる。

表に見られるように、1960年代初頭、東アジア(インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、韓国、香港、台湾、シンガポール)とサブ・サハラ・アフリカの一人当たりGDPはほぼ同じ水準にあった。そして、戦後における日本のアジアに対するODAと欧州のアフリカに対するODA額はほぼ等しかった。にもかかわらず、天然資源その他でアジアより圧倒的に優位に立つアフリカは現在も相変わらず貧困にあえぐ一方、アジアはODAによって経済が大いに発展した。
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(ODA白書2004年度版より、クリックしないと見えませんね)


日本のODAは、借款が多いとの批判があるが、借款の9割が一般アンタイド(調達先をすべてのOECDメンバー国+DAC定義と一致するすべての発展途上国へと広げたODA資金)で供与されている。また借款であってもODAである限り、グラントエレメントは25%以上であり、少なく見積もっても借款金額の4分の1は、実質的に贈与として現地に供与されている。


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(ODA白書2004年度版より)


戦後すぐの時期におけるアフリカとアジアの一人当たりGDPはほぼ同水準であった。しかし、その後の推移を見れば明らかなように、欧米諸国による無償中心であった対アフリカODAと日本による対アジアODAの比較をすれば、明らかに日本の対アジアODAが効果を挙げたと言える。(もちろん発展のすべての要因を日本の援助のおかげとするつもりはないが)状況に応じて、無償援助と円借款、そして技術協力とを組み合わせて、被援助国の経済の基盤整備を支援し、その発展、自立を促したこの方式は成功モデルである。

戦後の日本の歩みは、先の大戦から来るトラウマと表現してもいいくらいの反省に基づくものである。戦後60年間、国際的な紛争の解決に一度も武力を用いず、自衛隊は敵に向かって一発の銃弾を放つことがなかった。このことは、中国も韓国もなし得なかったことである。この日本の戦後における平和的な歩みそのものが、先の大戦に対する反省を行動で示している。加えて、戦後の経済協力(しかも、欧米諸国が主に行ったアフリカに対する援助との比較において、天と地ほどの違いを残した経済協力)と併せて考えれば、日本は、十分にアジア諸国に対して、道義的な責任を果たしてきたと言えるし、現在も果たし続けていると言えないか。
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by iyasaca | 2006-10-03 00:57 | 東京千代田区 | Comments(0)

靖国神社にいってみた その5

2 日本軍に占領され被害を蒙った国々に対する法的責任f0008679_5501850.jpg
サンフランシスコ条約では第14条(a)にて「日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される」としており、連合国に対し、賠償請求権を認めている。具体的には、以下の2条件を満たす国家が日本に対して賠償請求権を有することになる。

1)平和条約によって賠償請求権をもつと規定された国(平和条約署名、批准国)
2)日本軍に占領されて被害を被った国

サンフランシスコ条約の批准国46カ国のうち、条件に当てはまるのはラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ、英国、米国、フィリピン、ベトナムの8カ国。そのうち、フィリピン、ベトナムを除く6カ国が賠償請求権を放棄している。

<サンフランシスコ平和条約で賠償請求権放棄を拒否した国への対応>
賠償請求権放棄を拒否したフィリピン及びベトナムに関しては、サンフランシスコ条約第14条a(1)に基づき、賠償協定を締結した。
フィリピンとは1956年に「日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定」を締結し、5億5,000万ドル(1,980億円)の日本国の生産物と日本人の役務の供与という形で賠償した。
ベトナムとは1958年に「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」に基づき、3,900万ドル(140億4,000万円)に相当する日本国の生産物及び日本人の役務を供与する形で賠償した。

<個別の平和条約にて対応を行った国への対応>
ビルマは、戦争時には英国施政下にあったが、1951年には独立を果たしていたため、サンフランシスコに招待されたが、署名を拒否したため、個別の平和条約(1955年4月発効の賠償・経済協力協定)に基づいて2億ドル(720億円)の賠償が行われた。

インドネシアについては署名をしたものの、批准をしなかったため、条約が発効せず、ビルマと同様に個別の平和条約(1958年4月発効の賠償協定)にて、2億2,308万ドル(803億880万円)の賠償が行われた。

<戦後日本と分離した地域に対する対応>
中国(中華民国、中華人民共和国)は署名国ではないが、サンフランシスコ条約第10条及び第14条(a)2に基づき、それぞれ手続きを進めた。中華民国(台湾)に対しては、日本国と中華民国との平和条約第三条で、賠償請求権について日本政府と中華民国政府の特別取極の主題とすることが定められたが、その後日本政府と中華人民共和国との国交樹立に伴い、条約そのものが破棄されたため、処理がなされていない状態にある。
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中華人民共和国については1972年9月29日に「日本国政府と中華人民共和国の共同声明」の五にて賠償請求(賠償請求権ではない)を放棄している。


朝鮮についても署名国ではないが、「戦後日本より分離した地域」として、サンフランシスコ条約第2条、第4条、第9条及び第12条に基づき、1965年6月22日に「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が結ばれ、第二条の1で賠償請求権を放棄している。
北朝鮮については、国交正常化交渉の際に賠償請求権を協議することとなっている。

<戦争時に他国の施政下にあったが、戦後独立した国への対応>
英国施政下にあったシンガポール、香港、マレーシア、米国の信託統治下にあったミクロネシア諸島は、旧宗主国が賠償請求権を放棄しているため、請求権を持たない。しかしながら、その後独立したシンガポール、マレーシア、ミクロネシアは二国間交渉の結果、賠償請求権を放棄している。(香港は1997年まで英国統治を受けた後、中華人民共和国に返還された)。

<その他の戦後処理>
さらに加えて、日本政府は、

中間賠償:軍需工場の機械など資本設備の移転、譲渡による賠償のことで、最初期に行われた戦争賠償である。1939年時の評価額で4,524万8,997万ドル(1億6,515万8,839円相当の工場機械43,919台が撤去され、中国(54.1%)、フィリピン(19%)、イギリス(ビルマ、マライ:15.4%)、オランダ(東インド:11.5%)などに譲渡された。サンフランシスコ平和条約の前段階における賠償である。

在外資産の処分(サンフランシスコ条約第14条(a)2に基づく):236億8,100万ドル(3,794億9,900万円)1945年8月15日時点における在外資産(GHQ覚書に基づく外務・大蔵両省の共管で設置された在外資産調査会の評価)

赤十字国際委員会を通じての捕虜に対する償い(サンフランシスコ条約第16条に基づく):1,261万4,125万ドル(45億4,108万5,000円)
を行っている。

よって、日本は賠償請求権については、北朝鮮と中華民国を除き、国際法上決着がついている(=賠償請求権を放棄しなかった国々に対して、すべて賠償を行っている)のである。法的観点から見れば、日本は国内、国外に対して責任を全うしているわけである。
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by iyasaca | 2006-09-16 08:45 | 東京千代田区 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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