勝手に僻地散歩



カテゴリ:大韓民国( 4 )


ソウルにいってみた その4

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<写真:ソウル市庁前広場から見た徳寿宮>
金大中、盧武鉉と10年にわたって続いた進歩系政権が幕を閉じた韓国を再訪する。韓国は、周知のように昨年12月の大統領選挙と4月に行われた総選挙が実施されたことで、今後4、5年の政治の流れが規定されたと言ってよい。2007年12月19日に行われた韓国大統領選挙では、ハンナラ党(保守系)の李明博(Lee Myung-Bak)候補が次点に531万票以上の差をつけて圧勝し、2008年2月25日に就任した。任期は5年である。

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<写真:左から李明博候補、鄭東泳候補、李会昌候補>
                   得票数      得票率
李明博(ハンナラ党)     11,492,389票  48.7%  
鄭東泳(大統合民主新党)  6,174,681票  26.1%  
李会昌(無所属)        3,559,963票  15.1%   
<2007年大韓民国大統領選挙の結果(所属は当時)>


4月9日には、韓国議会(定数299、任期4年、解散なし)の総選挙が行われ、ここでも保守系のハンナラ党が単独過半数を確保している。結果は以下の通りである。

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<表:過去3回の韓国総選挙の結果とその推移>

<韓国国会における主要政党>
ハンナラ党は韓国最大の保守政党。李大統領が属する。
自由先進党は忠清道を基盤とする保守系政党。
親朴連帯は、ハンナラ党の公認に漏れた朴槿恵が作った政党
統合民主党は、盧武鉉前大統領の流れを引く革新系政党
f0008679_2375166.jpg任期5年の大統領、解散なしの任期4年の国会内勢力ともに保守勢力が勝利したということは、李新大統領の選挙公約「大韓民国747」(年7%経済成長で任期中に300万の雇用創出、10年以内に国民一人あたり所得を4万ドルに引き上げる、10年以内に経済規模を世界13位から7位にする)を敷衍した、国政運営方針「5大国政指標、21大戦略、192国政課題」を革新・進歩系野党の妨害を受けずに遂行できる道が開けたことを意味している。ただし総選挙にあたって、朴派をことごとく公認から外した李大統領のやり方に反発し、保守陣営内に生じた亀裂は思いのほか深い。ハンナラ党内外に散らばる親朴派との融和がなるかどうかが、今後の政権運営に大きく影響するだろう。
<写真:朴槿恵、暗殺された朴元大統領の娘である>

さて、2006年のエントリーで韓国における新しい政治の動きとして触れたニューライトの動きは、今回の大統領選挙、国会の総選挙にどのようなインパクトを与えたのであろうか。

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<図:『朝鮮日報日本語版』「ニューライト勢力の分化」2007年11月29日付>

図を見れば明快だが、先日の大統領選挙は独走していた李明博候補の向こうを張って、前回選挙で盧武鉉に惜敗した李会昌氏も名乗りを上げた。この保守陣営の分裂がニューライト系団体の足並みの乱れを誘発したのである。ニューライト陣営は、大きく分けるとハンナラ党と李明博候補を支持するグループと李会昌を支持するグループとの二つに分裂した。李明博候補への支持には団体ごとに温度差はあるが、大多数は選挙期間を通じて圧倒的な支持を維持した李明博候補という勝ち馬に乗る選択をしている。ニューライト系は単に団体として支持を表明するだけでなく、例えば自由主義連帯を率いるジンジホ教授は今回の選挙にハンナラ党から出馬し、元ウリ党議長の大物現職議員、金槿泰(キム・グンテ)を破り、政界に進出している。

かなり遅いタイミングで無所属で立候補した李会昌候補に対する反発は、政策的に異議があると言うよりも、保守票を分裂させ、革新系候補に漁夫の利を与えるようなことになりかねない「自分勝手な」立候補に対する憤りの方が強かった。実際に1998年の大統領選挙は保守系の有力候補が票を分け合い、金大中に政権をさらわれたという苦い経験がある。保守系政権での政権内ポストを10年間待ち続けた保守陣営の面々にとっては、李会昌の行動は理解を超えるものがあったのであろう。

さて、新政権が遂行する政策の中で対外政策、とりわけ対日政策について、どのように取り扱われていくかも注目すべきところである。日韓交流がどの程度実施されているかは、二国間関係の成熟度の指標でもある。以下に見るように、例えば日韓の国会議員交流という活動に絞ってみても、多くの団体によって実施されていることが分かる。継続的に行われているものだけでも、
1)日韓・韓日議員連盟が東京とソウルで相互開催している年次総会(1972年に日韓議員懇親会として発足)
2)同議員連盟21世紀委員会による若手国会議員交流(山本一太、河野太郎ら)
3)日本国際交流センターによる「日韓フォーラム」(1993年から2007年まで毎年実施)
4)韓国中央選挙管理委員会による「マニフェスト日韓交流」(2006年より年1回開催)
5)日韓の若手国会議員有志による「バクダンの会」
があり、
継続的に行われていたものの休止してしまった取り組みとしても、
6)社団法人アジアフォーラムジャパンが2002年まで実施していた「日韓アジア対話」
7)日韓産業技術協力財団が2003年まで実施していた「次世代リーダー交流」
がある。
アドホックに行われている交流はさらに多く、また一新塾(小沢一郎の政策学校)による「日韓草の根交流」や日韓学生会議を前身とする日韓青年フォーラムが実施している草の根交流まで含めると相当の人間が相互に訪問していることが分かる。
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<写真:李明博「ソウル市長」の功績の一つ、ソウル市内を流れる清渓川>

大統領の実兄で国会副議長も務めた長老議員である李相得(イ・サンドク)氏が日韓関係を取り仕切ることになるという報道もあった。李大統領は、盧武鉉政権で繰り返し問題として提起された歴史問題については、福田総理との合同記者会見の場で、「過去を忘れることはできないが、過去にとらわれて未来に支障が出てはならない」「(歴史についての)政治家の発言にいちいち反応する必要はない」との発言もしている。さっそく本日も竹島・独島の件で、一悶着あった。反日カードを引くのか、そうでないのか、この問題の対応を見れば、今後の二国間関係の行く末をある程度見通すことができそうだ。
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by iyasaca | 2008-05-19 00:40 | 大韓民国 | Comments(3)

ソウルにいってみた その3

ニューライト運動にとって、一つの節目となったのは、2004年11月22日の「自由主義連帯」の発足である。30-40代の研究者、弁護士、NGO関係者(脱北者支援など)ら計60名が集まって発足したこのグループは、盧武鉉大統領の対外姿勢を、「行きすぎた北朝鮮に対する融和的姿勢と反米・左傾化」と見て、危機感を募らせている。

自由主義連帯は、すでに保守回帰が見られる386世代の下の世代をターゲットに、北朝鮮の食糧事情、社会体制、人権問題、脱北状況など北朝鮮の現状を質疑応答形式で解説した「教科書が教えない北朝鮮」シリーズの出版を開始。また、韓国の歴史教育の再点検を目指す「教科書フォーラム」も発足し、ほぼ同じ歴史観に基づいて書かれている現在の6種類の国定教科書に対抗する「代替教科書」の出版を見込んでいる。

2006年2月、ウェブ上での発信やシンポジウムの開催、教科書の出版など地道な活動を続けてきたニューライト運動に、強い理論的よりどころを与えうる著作が世に出た。1979年に出版された「解放前後史の認識」(ハンギル社)に対抗する歴史観を提示する「解放前後史の再認識」(本の世界社)である。「解放前後史の認識」は読んで『血が逆流する思いだった』と盧武鉉大統領が述懐するなど、386世代の理論的支柱である。ニューライト運動の理論武装を図ろうとするこの書籍の出版は、注目すべきである。

両者の歴史観の違いは、朝鮮日報2006年2月11日付、日本語版、「[歴史]韓国左派修正主義史観に挑む」に詳しい。以下表を引用する。

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ニューライトは短期的には、次期大統領選挙にて、保守系候補による政権奪取を視野に入れている。そして長期的には、韓国を市場主義に基づく、自由を重んじ、家族の価値に重点を置き、より安全保障の確保にプライオリティを置いた社会へと転換することを企図している。しかし、韓国社会の転換はもちろん、短期的な目標である保守勢力の政権奪取ということですら、簡単ではない。

まず、ニューライト系の動きの中にも対立があり、結集がなかなか図れないことがある。ニューライトを標榜する組織は、いくつも存在する。思いつくまま挙げるだけでも、ニューライト・ネットワーク(自由主義連帯)、ニューライト・シンクネット、ニューライト財団(安乘直 ソウル大学名誉教授・落星台(ナクソンデ)経済研究所)、ニューライト全国連合(金鎮洪(キム・ジンホン)牧師(ドゥレ教会))、先進化国民会議(朴世逸(パク・セイル)ソウル大学教授、 徐京錫(ソ・ギョンソク)牧師)などである。しかし、これら多くのニューライト団体は現段階においてはあくまでも、それぞれ連動した動きを模索するわけでもなく、例えば光州事件への評価など一致しないところも多い。

しかり、反共主義などオールライト的色彩の濃いハンナラ党、386世代を支持層に持つウリ党という二つの選択肢しかない現在の韓国政治に、新しい選択肢を提供できる可能性があるという点において、ニューライト運動は大いなる可能性を持った動きであることは確かである。運動としてどのようにして凝集力を高め、政治力を確保するのかはまさに今後の課題である。いずれにしても、刮目すべき韓国政治の変化であろう。
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by iyasaca | 2006-09-04 23:27 | 大韓民国 | Comments(0)

ソウルにいってみた その2

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かつて総督府のあった景福宮南側の大漢門(テハンムン)前の広場では、王宮守門将の交代式が観覧できる。李氏朝鮮時代に王宮の警備にあたっていた「禁軍」が行っていた儀式を再現したものである。季節によって、儀式が見られる時間帯が異なる。場所と時間については、このホームページで確認されたい。

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日本の朝鮮統治については、「世界史上類を見ない圧制だった」、「韓国の戦後の発展は日本の植民統治のおかげだ」など多様な評価がなされている。私自身、恥ずかしながら、評価を語れるほど、この時代を整理できていない。しかし植民統治についての認識(の違い)というものが、現代の日韓関係に大きな影響を及ぼしているということは言えるだろう。

最近、韓国で興味深い政治の動きがある。いわゆる「ニューライト」と呼ばれる新保守主義運動である。かつて主体(チュチェ)思想、マルクス主義を信奉し、80年代には学生運動、民主化運動を主導したが、その後転向した現在40代の知識人が中心となっている。ニューライトとは、思想の自由を前面に掲げる保守思想であり、経済的には、自由主義をベースに国際協力のもと、先進化を図り、国家の基本的価値を守るという立場に立ち、386世代と見解を異にする。

f0008679_23385498.jpg盧武鉉を大統領の地位にまで押し上げた386世代(30代、80年代に大学教育を受けた60年代生まれの意味)は、帝国主義に対抗する自主・独立という価値観に基づき、新しい社会を建設し、最終的には統一を成し遂げなければならないということを基本的スタンスとしている。自主・独立のためには、日本の植民地支配そして、戦後の民主化と統一を求めた民衆を弾圧した軍部、警察、情報機関など軍事独裁政治の残滓を一掃しなければならない。その残滓とは、植民地支配、軍事独裁に加担した人物のみならず、社会に埋め込まれた思想、制度、観念、法令、慣例といった制度を指している。盧武鉉政権の目玉である4大改革はまさにこの基本認識の上の構築物である。




4大改革とは、
1) 国家保安法の廃止
2) 過去史基本法
3) 私立学校法改正
4) 言論改革法

の四法案の成立を意味する。すでに盧武鉉政権はそのうち3法案を成立させている。

一つ目の「国家保安法廃止」は、唯一の未成立法案である。大日本帝国の治安維持法を原型にしているとされ、過去の清算を目指すにあたって、必ず「克服」されなければならないとされている。

二つ目も過去の清算のため、過去の反民族行為を徹底的に洗い出すことを目的にしている。これはいくつかの段階で進められてきた。まず2004年12月に成立した「日帝強制占領下反民族行為の真相糾明に関する特別法」である。

① 調査対象が軍人の場合は旧日本軍中佐以上
② 憲兵と警察は階級で区分しない
③ 東洋拓殖会社及び殖産銀行の場合は中央幹部と地方幹部
④ 調査対象時期は 1904年露日戦争から 1945年の「解放」まで
⑤ 調査協力義務があり、参考人招致、同行命令に違反した場合は1,000万ウォンの罰金

を内容とする法律である。

2005年5月には、「過去史基本法」が成立した。調査対象時期を1905年の第二次日韓協約以降(約100年間)と広がり、それに伴い、対象者が日本関連だけでなく、韓国軍、北朝鮮人民軍、国連軍、米軍などが起こした人権侵害事件も含まれるようになった。2005年12月8日には新たに「親日反民族行為者財産帰属特別法」が成立した。この法律により、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収するできることになった。

三つ目は、2005年12月に可決成立した私立学校法改正である。日本の日教組に相当する全国教職員労働組合(全教組)が私学の理事として参画できる「開放理事制度」を導入することで、より開かれた学校経営を意図している。全教組は、日教組と同じく左翼的イデオロギー色の強い団体で、政治的意図が見え隠れするとの批判が存在する。

そして四つ目が、言論改革法(新聞法改正)である。4法案のうち最も早く2004年12月に可決した。一部新聞による市場寡占を規制し、新聞界全体の活性化を図るということを意図している。

四大改革を中心に進められてきた盧武鉉大統領の政権運営は韓国国民にどのように評価されてきたのか。任期中に行われた地方選挙、補欠選挙などの結果と大統領支持率の両面から簡単に振り返ってみたい。

盧武鉉大統領は、ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)大統領候補と大接戦の末当選し、2003年2月25日、第16代韓国大統領に就任した。盧武鉉大統領は、就任直後こそ7割近い支持率を保っていたが、イラク戦争支持と韓国軍派遣、大統領選挙をめぐるスキャンダル、そして経済運営にも行き詰まり、支持率が急落した。就任のわずか一年後、2004年3月には、大統領弾劾訴追案が圧倒的多数で可決され、大統領の職務が停止する状況にまで陥った。この緊急事態に対応するため、ウリ党議員の全員が辞職し、国民に信を問うため、総選挙に打って出た。ウリ党はその賭けに勝利する。2004年4月15日の総選挙では、ウリ党は152議席を獲得し(ハンナラ党は121議席)、盧武鉉大統領は職務に復帰した。

しかし、その後すぐに支持率は低迷する。そこへ発生したのが、「竹島問題」である。2005年2月23日に島根県議会が竹島の日制定条例案を提出し、3月16日条例が制定されると、青瓦台は翌17日、「対日新ドクトリン」を発表、日本を猛烈に非難、この一連の騒ぎで、低迷していた支持率が20%近くも上昇した。

対日強硬路線を打ち出し、支持率回復を図ったにもかかわらず、その直後に行われた2005年4月30日の補欠選挙(6選挙区)、地方議会選(10選挙区)、地方自治体首長選挙(7県)では、計23選挙区全てでウリ党候補は敗北する。その後も2005年10月26日補欠選挙でも4選挙区全てでウリ党候補敗北、2006年5月31日統一地方選挙(16の広域団体:1特別市、6広域市、9道)の首長選挙)でも、リベラル色の強いソウルを含む釜山、大田など7つの主要市長選で敗北。さらに、9つの道知事選でも全羅北道を除く、8つの道で敗北する。この統一地方選、得票率で見ると、ことはさらに深刻である。ウリ党の得票率は20.9%でハンナラ党の得票率(54.5%)の半分以下である。僅差ではなく、大差をつけられての敗北なのである。さらに2006年7月26日の補欠選挙でも、4選挙区で全敗している。

大統領の支持率も低迷している。世論調査の結果も軒並み10%台後半から20%前半にとどまっている。(韓国社会世論研究所の2006年6月15日の調査では、18.2%、朝鮮日報と韓国ギャラップ社の2006年6月3日調査でも20.2%)。

盧武鉉大統領に対する韓国国民の評価を見ると、386世代の中道派以外のグループが離反したということが言える。つまり、引き続き進歩的な思想信条を持っているグループは、盧武鉉大統領の政権運営について、守旧派に妥協しすぎているとし、もう一方は盧武鉉の政権運営の失敗の原因を、386世代の拠って立つ思想基盤に見出し、転向した。右旋回した転向グループ、これが「ニューライト」を標榜し、既存の保守勢力であるオールド・ライト、キリスト教保守勢力の陣営に新たに加わり、韓国政治の新しい流れとなりつつある。
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by iyasaca | 2006-08-28 23:14 | 大韓民国 | Comments(1)

ソウルにいってみた その1

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ソウルには主な王宮が5つあるが、その中でも景福宮(Gyeongbokgung)は最も規模が大きい。王宮の敷地内部には、いくつもの宮殿が風水思想に基づいて建てられている。1395年に李成桂(イ・ソンギュ)が開京(ケギョン、開城:ケソンの旧名)から首都を漢陽(ハニャン、ソウルの旧名)に遷した際に行政の中心として造営された。景福宮の附属建築として建てられた景武台は現在、大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)として使用されている

この写真は宮殿の一つ、慶會楼(GyongHoeru)である。1412年に創建された。慶會(出会いを楽しむ)を意味する蓮池の中に建てられたこの楼閣は、国王と臣下が外国からの使者を接待する宴会場であった。


f0008679_2315347.jpg景福宮は焼失後、しばらく放置されたが、1868年興宣大院君が再建した。その後も閔妃殺害事件など多くの政治事件の舞台となったが、李朝の終焉とともにその役割を終えた。


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1910年、「韓国併合ニ関スル条約」が寺内正毅統監と李完用首相との間で調印、締結される。朝鮮総督府は、朝鮮統治の行政の中心として、1926年、景福宮内勤政楼の南側正面に建てられた。この場所は、1915年に始政5周年記念の一環として開かれた博覧会「物進共進会」の会場跡地であった。

さて景福宮は先にも述べた通り、「川を塞ぎ、水を得るような地に王都を築けば、国運が長く続く」とされた風水思想を元に、北漢山を背に、漢江を臨む地に建てられていた。にもかかわらず、朝鮮総督府は、景福宮の軸本線とずれた形で建てられた。このことは風水上、気の流れを断ち切るという意味があるらしい。朝鮮統治時代、日本はかなり風水の研究を行っていたということであるから、おそらく、朝鮮の民衆を陋習から解放し、文明化させるという一連のマインドから意図的に行われたことであったのだろう。

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朝鮮総督府は、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデ(George de Lalande)の設計による西洋風の4階建て、高さ56メートルの重厚な建築であった。それがために、総督府の建物は、北京の紫禁城をモデルに建築された景福宮の宮殿群と明らかに調和していなかった。基本設計を行ったゲオルグ・デ・ラランデは、完成を待たずに世を去り、野村一郎、国枝博らがその後を引き継ぎ完成させる。ちなみにラランデの未亡人エディは、後に東郷茂徳外務大臣と再婚している。

総督府の建物は、終戦後米軍に接収され、しばらくは米軍庁舎として利用されてきた。その後も国立博物館として使用されてきたが、「光復50周年」にあたる1995年8月15日、景福宮復元工事の一環として、尖塔など一部を除いて、解体された。ちなみに尖塔は忠清南道天安市の独立記念館に保存されている。

風水思想を無視され、かつ李氏朝鮮の王宮のど真ん中に、周りと調和しない建築物を建てられたということでは、移築して保存せずにあえて解体したという結論も、やむを得ないだろう。
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by iyasaca | 2006-08-22 00:00 | 大韓民国 | Comments(3)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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