勝手に僻地散歩



カテゴリ:インド( 18 )


インド・チャッティスガル州にいってみた その2 - ラジム寺院群

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チャッティスガルの州都ライプール(Raipur)から南東45キロ、マハナディ(Mahanadi)、パイリ(Pairi)、ソンドゥール(Sondur)の3つの川が交わる場所がある。聖地ラジムである。

ラジムはインド各地からオリッサ州のジャガンナート寺院に向かう巡礼の道の途上にあり、古くから栄えていた宗教都市である。

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<写真:寺院群入口付近>
入口の近くには小さな土産物屋があり、その先に寺院群の入口がある。昼過ぎの時間帯であったが、参拝客は多い。
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ラジムの寺院は、川に面する小さな土地にひしめくように並んでいる。祀られているのは、ヴィシュヌ神だけでなく、その異形神(ヴィシュヌの生まれ変わりの姿)の拝殿も多い。インドの文化遺産には指定されているようだが、保存状態はあまり良いとは言えない。ところどころ漆喰が剥がれ、中のレンガがむき出しになっているのみならず、崩れ始めている寺院も見られた。

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この寺院群の中心をなすのは、ヴィシュヌ神を祀るラジブ・ロチャン寺院(Shri Rajiv-Lochan Mandir)である。
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拝殿は、ヒンズー教寺院によく見られるマンダパと呼ばれる開放型の舞台に柱が立ち並ぶ形式である。この寺院では12の列柱が確認できる。内部は壁沿いにヒンズー教の神々の像が並んでいる。柱に施された装飾も見事である。屋根は少し新しく見える。後に修復されたのだろうか。
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参拝客は絶えることはなく、まっすぐに拝殿に入り、祈りを捧げてから出て行く。

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寺院の来歴ははっきりしない。手がかりの一つは、寺院の南北に1つずつ埋め込まれた石碑である。寺院北壁の石碑には、ナラ王朝(Nala)のヴィラサテュンガ王(Vilasatunga)の息子の死に際し、その業績を永遠に顕彰するため建立されたと刻まれていることから、AD700-725年頃のものと推定されている。南壁の碑には「ラマ寺院はジャガパラ王(Jagapaladeva)によってAD1145年に建設された」とある。ラマとヴィシュヌは、同じ神の異形ではあるが、不一致が気になるところである。

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北壁の碑と南壁の碑の時代にずれがあることから、南壁の碑は異なる寺院から持ってきたラジブ・ロチャンと無関係のものであるか、8世紀には創建されていたラジブ・ロチャン寺院の12世紀の増築の記録としての碑であるかのいずれかが考えられる。

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そのほかにも19世紀後半にこの地を訪れた英国人が当時聞いた話としての寺院の来歴を書き残しているものもあるが、それぞれに異なる話で、どこまで信用できるのか不明である。

来歴はともあれ、参拝客が絶えない風景は、今も昔も変わらないのだろう。
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by iyasaca | 2013-10-12 22:25 | インド | Comments(0)

インド・チャッティスガル州にいってみた その1

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インド中部に人口の約半分を先住民が占める州がある。マディヤ・プラデーシュ州東部の16の地域が分離して誕生したチャッティスガル州(Chhattisgarh)である。分離の動きは1920年代からあったが、その宿願を果たしたのは2000年11月1日というからそれほど古い話ではない。

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自然豊かな州であり、アルミニウム、鉄鋼、ボーキサイトなどの鉱物資源、大理石、ドロマイト(白雲石)などの石材やダイヤモンド、ガーネット、アレクサンドライトなどの宝石も産出する。しかしながら、毛沢東主義を掲げる反政府組織が活発に活動する地域でもあり、インドの中でも発展が遅れている州となっている。
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by iyasaca | 2013-08-03 21:49 | インド | Comments(0)

パビトラ野生生物保護区にいってみた

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アッサム州グワハティから南東へ52キロ。パビトラ野生生物保護区(Pabitora Wildlife Sanctuary)にいってみた。一部Pobitoraという表記もされているようだが、入り口の看板にはPabitoraとある。しかし、入り口で配布しているパンフレットはPobitoraだった。おそらくどちらも正しいのだろう。

実はこの野生生物保護区、カジランガ国立公園よりも一角サイの生息密度が高いのである。高茎のエレファント・グラスが生い茂る平原に、確認されているだけで81頭の一角サイが生息している。(2006年4月現在)保護区そのものは38.81平方キロあるのだが、一角サイが生活できる区域は16平方キロに過ぎない。この地勢が、この野生生物保護区を一角サイの生息密度世界一としているのである。また、グワハティからわずか1時間という距離にもかかわらず、認知度はグワハティから4時間かかるカジランガ国立公園ほどではなく、訪れる観光客の数は年間3,000名ほどということである。ちなみにカジランガを訪れる観光客の数は年間6万人である。世界自然遺産のブランドであろうか。




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パビトラは1971年に保安林に指定され、1998年に野生生物保護区として指定された。10月から3月が開園期間で、保護区内をカジランガと同様、象に乗って歩き回ることができる。象に乗れるのは、午前6時から9時の3時間のみ。保護区内を1時間ほどかけて回る。ジープに乗るコースもある。


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象の背にも届くくらいの高い草が生い茂る。草をかきわけるように進んでいく。途中、野生のイノシシが猛スピードで象の前を横切っていった。

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パビトラは、66.90%が高茎の草地、18.44%が林で14.66%が湿原である。生息する動物も多様である。哺乳類は、一角サイはじめ、野生のイノシシ、ハクビシン(civet cat)、ヒョウ(leopard)、センザンコウ(Pangolin)。鳥類もシロトキ、青サギ、ハイイロガン、ペリカン、シャコ、メジロガモ、コガモ、マラブーなど375種が生息している。うち14種が絶滅危惧種である。また蝶も80種類確認されている。多様であるのはいいが、私は一角サイとイノシシ以外は見分けがつかない。


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一角サイの生息密度世界一は伊達でなく、一時間くらいの間で10頭以上見ることができた。カジランガ国立公園では、これほどの頻度でサイを見ることはできなかった。

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パビトラ野生生物保護区は、生息密度の高いのみならず、生息数の増加率も高い。隣のマナス国立公園ではサイがいなくなってしまったにもかかわらず、ここパビトラでは、過去6年間で12%も増加している。保護活動が順調に進んでいることを示している。しかし最近、この順調さが新たな問題を引き起こしているという。簡単に言うと、増えすぎて困っているというのである。

パビトラは、生息密度があまりに高いために、近親交配の危険性が高まり、繁殖率が低下しているとの調査も出ている。また、食物確保のため、サイが保護区の外でも目撃されており、密猟者の格好のターゲットにもなっている。生息密度がこれ以上高くならないように、カジランガなど他の国立公園や野生保護区に振り分ける措置も検討しているとのことである。



<配布されていたパンフレット>

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by iyasaca | 2006-12-30 10:43 | インド | Comments(0)

マニプール州インパールにいってみた

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インパールにいってみた、といっても今回は事故のようなものである。つい最近、カルカッタ経由でグワハティを再訪する機会があった。インド国内線を飛ばす航空会社の中でも比較的信頼度の高いジェット・エアウェイズを利用したのだが、グワハティ上空に到達するかしないかという段になって機内アナウンスが流れた。非常に聞きづらいアナウンスであったが、要するにグワハティ空港がかなり混雑していたため、しばらく上空で周回飛行をしていたのだが、着陸の順番が7番目になっている。しかし、燃料の関係で順番を待つことができないということで、500キロ?離れたインパール空港に一度着陸するということになった。インパールをインファールと言っていたので、最初はよく聞き取れなかったが、表記は、Imphalだから素直に読めば、確かにインファールだ。



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インパール空港には到着したものの、そもそもマニプール州は査証とは別に特別の入境許可が必要であるらしく、機内から出ることが許されなかった。なので、写真はすべて機内から撮影したもの。上空から見るインパールは、思ったよりも起伏のない、平らな町であった。インパール作戦ではアラカン山脈を越えて・・・という表現やまた実際に訪問したコヒマが山間の町であったこともあり、山岳地帯というイメージがあったので、意外な感じであった。思いのほか平らであるインパールの感じを撮影しようと窓から外を撮ってみた。

さて、このような形でインパールに降り立ったことも何かの縁と思い、牟田口司令官の戦後について書いてみようと思う。しかしながら、思ったよりも信頼にたる情報が少ない。裏の取れていない情報の羅列のようになってしまうが、判明し次第おいおい加筆することにして、とりあえず分かっていることだけ書き連ねていくことにする。



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東条英機参謀総長が天皇陛下にインパール作戦の中止を上奏し、裁可を受けた日からおよそ2ヵ月後の1944年8月30日付で牟田口司令官は、参謀本部附となる。後任には、片村四八中将(第五十四師団長)が就任した。12月に予備役に編入されるが、翌1945年1月12日に陸軍予科士官学校長に就任する。終戦後の8月29日に任を解かれ、12月には戦犯容疑で逮捕される。1946年9月にBC級裁判を受けるため、シンガポールに移送され、その後1年半あまり拘留されている。1948年3月不起訴処分となり、帰国する。その後の動静は断片的にしか分からない。機に応じて講演を行ったり、ラジオやテレビ、雑誌などの取材にも応じていたようだ。また真偽のほどは不明だが、「ジンギスカン・ハウス」という中華料理店を経営していたとも言われる。

また、1963年4月と死の前年の1965年2月の2回にわたり、国立国会図書館政治史料調査事務局の要請に応じて、盧溝橋事件とインパール作戦について政治談話録音を残している。盧溝橋事件については2時間半、インパール作戦については、2時間にわたる証言が残されている。この政治談話録音は、国会図書館憲政資料館で公開されている。この政治談話は彼自身が冊子にして、周りによく配布していたとも言われている。1966年8月2日東京都調布市で没し、現在は多摩霊園で永遠の眠りについている。


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さて、私自身のインパール滞在はごくごく短いものだった。

インパール空港では、結局、給油を行い、乗客の搭乗を小一時間ほど待って、グワハティへはその日のうちに到着することができた。インドではこのようなことは日常茶飯事であるようだが、もっとタイトなスケジュールを組んでいたら、大変な目に遭うところだった。
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by iyasaca | 2006-12-23 22:24 | インド | Comments(0)

アッサム州グワハティにいってみた 番外編

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インド北東部には10日間ほど滞在したが、食事は文字通り三食カレーであった。もちろんカレーといっても、いろいろな種類があるので、飽きは来なかったが、それでも結構な量かつ、カロリー過多に陥りそうで、滞在中は何回か食事を抜いたり、スープだけにしたりした。

ところでカレーはもちろんインドが総本山であるが、南のスリランカにもカレーはある。東を見れば、ミャンマー(かなり脂っこいカレーで、インドのものとは異なる)、タイ(グリーンカレーなど、これもインドとは異なる)、カンボジア(どちらかというと、タイよりもミャンマーのカレーに近い)はカレーを自国料理に取り込んでいる。しかし、その東のベトナムにカレーはないし、中国にもカレーらしきものはない。

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朝鮮半島にもカレーはないが、日本にはご存知、インドの独立運動家のラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose)が新宿に今もある中村屋で1927年にインドカリーを紹介したのを契機として、国民食と言われるほど広く一般に浸透した。ボースが中村屋に潜伏した経緯は「中村屋のボースーインド独立運動と近代日本のアジア主義」(中島岳志著)に詳しい。良書なので、一読をお奨めする。


もう一つ、滞在中困ったのは、クレジットカードが使えなかったこと。正確に言えば、扱っているホテルやレストランがないわけではないが、コミッションをとられる関係で、店側がかなり嫌がるというのが現状。もちろん、都市部を離れれば、全く使えない。よって、多額の現金を持ち歩かなければならなかった。

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両替の瞬間は至福の時を味わえたが、これをずっと携帯しなければならないのは、少し煩わしかった。でも上の写真のときは、いまだかつて手にしたことのないほどの札束を手に、感動に浸っている最中。
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by iyasaca | 2006-09-05 20:21 | インド | Comments(0)

ナガランド州コヒマにいってみた その8

ギャリソンヒルの丘の上に立ち、ここでの戦いを理解したくて、8つものエントリーを長々と書いてしまった。コヒマとインパールの戦いについての記事はこれで最後。

牟田口司令官は1944年8月30日参謀本部付となり、内地に戻る。その際にラングーンでビルマ方面軍が主催した歓送会で、牟田口氏はこう発言している。

「自分は、インパール作戦は失敗したとは思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマを取られずに済んでいる。自分がもし、無理をしてもやらなかったら、今頃は大変なことになっておった。」その後、陸軍予科士官学校長となる。戦後は東京都調布市で余生を送り、1966年に77歳で亡くなった。

彼に対しては最後までインパールの責任を認めなかったという批判の声がある。
彼の戦績と戦後の行動、言動を見ると、ベトナム戦争時の国防長官でその後、世界銀行の総裁を務めたロバート・マクナマラ(Robert S. Macnamara)を思い出す。彼は、齢80に到達するかというところで、ベトナム戦争に対して反省めいた発言を始める。彼の回顧録("In Retrospect: The Tragedy and Lessons of Vietnam"1996)やFog of War(2003年製作)では、彼の苦悩が比較的正直に表現されている。70を超えて、自分の考え、特に自分の人生を否定することになりかねないほどの考えの変更を公にするその勇気は、素晴らしい。

さて一方、佐藤幸徳師団長である。牟田口のコヒマ死守命令を無視し、激烈な電文を打ちながらラングーンに向け撤退していった。下の引用は、師団長解任直前、ラングーンに向かう途中のカレワからの電文である。

「統帥もここに至っては完全にその尊厳を失い、全て部下に対する責任転嫁と上司に対する責任援助の耐え存在しあるに過ぎざるものと断ぜざるを得ず。実に前代未聞のことなり。彼ら(第15軍)には微塵も誠意なく責任感なく、ただ虚偽と、部下に対する威嚇あるのみ。小官はコヒマに在りし当時より、つとにこの深層をカンパし、警戒しつつ今日に至れるものなり。林(第15軍)司令部の最高首脳の心理状態については、速やかに医学的断定を下すべき時期なりと思考す。森(ビルマ方面軍)司令部もまた,第一線より遠く隔絶せるラングーンより、第一線の身体を指導せんとするがごとき、実に統帥の要諦を理解せざる結果と思考せざるを得ず。」

佐藤氏は、解任後、「急性精神過労症」との診断により、ジャワの第16軍司令部付となる。軍法会議では不起訴になっている。戦後インパール作戦について手記を残したとのことだが、出版はされていないようだ。

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さて現在、ギャリソンヒルは英印軍第二師団の墓地となっている。その麓には有名な碑が立っている。

When you go home
Tell them of us and say
For your tomorrow
We gave our today

この碑文は英印軍第二師団ジョン・エティー・リール(John Etty-Leal)少佐が第一次世界大戦のジョン・マックスウェル・エドモンズ(John Maxwell Edmonds)少佐による碑文、
When you go home, tell them of us and say
"For your to-morrows these gave their to-day."
に触発されて書かれたものであると伝えられている。

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さらにその横にある説明文の全文である。訳すのが面倒なので、英文のまま掲載する。(原文は全て大文字)

In February 1944, A Japanese Army of Invasion advanced across the hill of Manipur and Assam, Proclaiming as its mission the conquest of India.

By April the Japanese 31st Division had invested Kohima. Its vanguard were approaching Dimapur to meet the threat to the lifeline of our force in Imphal. The 2nd Division was called from southern India.

By land, sea and air, the Division moved to Dimapur. As fast as troops arrived, they advanced to the relief of the valiant Kohima Garrison, isolated on the top of Garrison Hill.

On 14 April, leading the advance, 5 Inf. Bde. Smashed foremost Japanese road block at Zubra, and on 18 April, 6 Inf. Bde. relieved the Kohima Garrison. Now almost at the limit of its endurance, the first task had been completed.

The second and heaviest task was to drive the enemy from the dominating heights of Kohima.

On this and the surrounding hills was fought. For one month the bloodiest and most desperate battle of the campaign, here and on the hills. Above, 6 Inf. Bde. endured and fought back till every Japanese soldier was killed or lay buried under his broken strong points. To the north the Kohima Naga village was carried by the night assault of 5 Inf. Bde and held against repeated counter attacks to the south. Over the steep jungle covered hills of Pulebadze, 4 Inf. Bde. marched for fourteen days to strike the enemy in the heart of his positions. By 15 May, all Kohima was ours, and the strength of the 31st Japanese Division broken. Without continuously loyal aid from Naga stretcher bearers, porters and guides, this victory could not have been won.

There renamed the final task of 2nd Division. To complete the rout of 31st Japanese Division, and open the road to the besieged Garrison at Imphal at Aradura, Viswema, Khuzama and Maram, victories were quickly won against deperate enemy rearguards. On 22 June 1944, contact was made at Mile 108 with the forces advancing from Imphal. The road was open and the three-month siege of Imphal raised.

A routed force, the once proud 31st Japanese Division was in heralding retreat eastwards, uttering the hill tracks with its dead and dying.




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ギャリソンヒルにある墓地は英印軍だけのもので、そこで命を落とした日本軍の英霊は葬られていない(と書いたが、後述するように、日本人らしき名前が刻まれた墓碑が並んでいる区画があった)。ひとつのひとつの墓石には、英印軍に参加した、英国人、インド人、ネパール人の名前が刻まれている。写真の墓石は1944年4月19日に25歳で亡くなったR.C.Raw上等兵のものである。ちなみにこの丘の頂上に、前回のエントリーで紹介したテニスコートがある。

日本軍の慰霊碑は、インパール近郊15キロのインド政府の協力を得たロトパチン村の村民と日本政府によって1994年になってようやく建立された。

ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えていこうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼を供養のため、慰霊祈念碑を建て、独立インドのシンボルとしたのです。」
ロトパチン村の好意はありがたいが、行き届いた管理がなされたギャリソンヒルの英印軍の墓地を見ると、この戦没者への姿勢の彼我の違いは何であろうかということを感じざるを得ない。

とはいえ、日本も遺骨収集は1978年まで粛々と行われていた。しかしながら、現地の治安悪化によって、長きにわたって中断していた。しかし2012年1月25日、グワハティに英軍墓地で、34年ぶりの遺骨収集が行われた。墓地の一角に日本人とみられる名前が刻まれた11の墓碑が一列に並んでいる区画があり、2012年の遺骨収集団は、そのうち9つの墓碑前面から遺骨を収容している。しかし、インパール作戦で犠牲になった3万人のうち、収容できた遺骨は2万人分に満たないのである。

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コヒマに残る戦跡は、ほかにもある。山腹に英国第二師団がコヒマ攻略のために使ったM3戦車が野外展示してある。あまりに普通のところにあるので、知らないでいたら、気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

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戦後、日本側とイギリス側の戦友会がお金を出し合い、カトリックの教会を建立している。平和を願って建てたものでキリスト教会にしたのはナガの多くがキリスト教徒であるからである。内部の様子を見れば分かる通り、かなり大きい教会である。

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入り口を入ってすぐ右側に日英両言語での碑文がある。コヒマのエントリーの締めくくりにこれ以上ふさわしい文章はないので、引用して、その結びとしたい。

奉納趣意書
一九四四年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて○千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。

“君、故郷に帰りなば伝えよ
  祖国の明日の為に死んで逝った
    われらのことを“

ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らが願った「祖国の明日」とは、平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。

しかしいまや世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私たちはお互に国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。

このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又、地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。

玆に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。

合掌

一九八九年一月吉日
  日本国
    コヒマ戦生存戦友
    同 戦友者遺族  一同
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by iyasaca | 2006-08-19 11:07 | インド | Comments(3)

ナガランド州コヒマにいってみた その7

局面が極端に悪化した5月末に厳しい雨期が始まった。すでに師団の食糧、弾薬は底を尽き、戦闘どころではない状況にあった。

「食えると思うものは、何でも食ったもんね。野草だろうとなんだろうと、バナナの幹だろうと何だろうと、辺り構わずあるものはみんな食ったもんね、ほかに何もないんだから、食うものが。」(第58連隊大越正意兵長の証言、シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

「敵の死体から糧秣を求める それが唯一だったね。だから敵襲が来るというと、『おっ今晩うまいものが食べられる』と言ってさ。」(第58連隊真貝秀広伍長の証言、同番組)

補給のない師団に戦いを強要される佐藤師団長の様子を山上博少尉が目撃している。
「(佐藤師団長が)兵器、弾薬、食糧をすぐに補給しろと。そういう要求をどんどん向こうの。参謀長が来るんですよ、軍司令部のね、それに対してね、補給がなければ戦ができないと、だから補給をしなさいと、それは当たり前のことなんですよね、何もないんだから、第一線の部隊ほど切実に感じている人たちはいないわけだから。(佐藤師団長は)怒ってますよ。自分の一身をかけてね、決心するつもりでやってるから」(山上博少尉の証言、同番組)
5月下旬、佐藤師団長は補給困難を理由に「6月1日までにコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に移動する」と打電する。しかし、第15軍司令部はそれを許さない。
「烈師団は、補給困難を理由として、コヒマを放棄するとは何事であるか。さらに十日間現体勢を確保せよ。そのときは軍はインパールを攻略し、軍主力を持って貴兵団に増援し、今日までの戦功に報いる考えである。一体師団長は英霊に対してなんと思うか、以上、命に依り」
佐藤師団長は、電文の中に、その後の作戦展開についての言及を見て、
「軍参謀長の電報、確かに了解した。烈兵団に自滅せよとの意味成りとは解しない。 コヒマ重要方面に参謀の派遣もないので、状況変化に応じて、独断で処理することを承知されたい」
と返電し、兵力温存のため後退を始めることを決断し、6月1日佐藤師団長は、第15軍に対して補給の受けられる地点まで独断で後退する旨通告し、コヒマを放棄した。コヒマ包囲戦は英印軍4,000名、烈師団5,000名あまりの犠牲者を出し、終了したのである。

翌2日烈師団は、ウクルルまで後退したものの、相変わらず補給を受けられない中、司令部より、
「烈は6月8日までに祭と交替し、サンジヤックの西方へ展開完了後インパールを攻撃せよ」
との命令が下る。佐藤師団長は、
「健康体でも20日はかかるのに餓死寸前の上、一週間で行けとは何事か。善戦敢闘六十日に及び人間に許されたる最大の忍耐を経て、しかも刀折れ矢尽きたり。いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」
と返電し、さらに確実に補給の受けられる国境地帯フミネにまで後退する旨、ビルマ方面軍宛に打電する。
「師団はウクルルで何らの補給をもうけることを得ず。久野村参謀長以下、幕僚の能力はまさに士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。したがって軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわせしめんとする軍命令たるや、まったく驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す。」

この状況に至り、軍司令部にやや迷いが見え始める。6月5日河辺中将はインタンギーにいた牟田口司令官を訪ね一時間にわたって話をしている。その内容は詳らかでないが、残っている記録の一つ、牟田口司令官の回想を引用する。
「河辺軍司令官は6月5日インタンギーに私を訪ね、戦況一般を聴取された。私は河辺中将の真を腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早作戦断念の時機であると咽喉ま出かかったが、どうしても将軍にこれを吐露する事は出来なかった。わたしはただ私の風貌によって察して貰いたかった。」(イムパール作戦回想録)

河辺中将の44年6月6日付日記にも同様の記述がある。
「牟田口司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも、予亦露骨に之を窮めんとはせずにして別る」(緬甸日記抄録)
しかし、この会談が作戦行動に変更を与えることはなかった。6月9日には、佐藤師団を解任し、コヒマ包囲網が完全に破られた後の27日にも烈師団に対して、インパール・コヒマ間の補給路を再び遮断するよう命令を出している。

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そして7月1日、日本側だけで6万人あまりの死者を出したインパール作戦の中止が決定された。しかし、この作戦を戦った兵士にとっては、これが終わりではなかった。撤退しなければならなかったのである。多くの将兵は、撤退の途上、飢えと病気で命を落とした。雨季に入って二ヶ月、どろどろのジャングルの中を撤退していった将兵の多くは行き倒れに近い形で力尽きていった。その数は英印軍による攻撃によって落命した者の数の比ではなかった。犠牲者の特に多かったチンドウィン川までの数十キロは白骨街道、靖国街道を呼ばれる悲惨さであった。そして、今度は敗走する日本軍兵士に対し、投降を呼びかけるビラが撒かれるようになった。

「一個中隊分の米が一合で一週間なんですよね。一個中隊なら20人から30人はいますよ。米一合で一週間過ごせなんて、とてもできるもんじゃないですね。(ひとりあたり)これくらいのものですね、もう三本指でつまんだくらいのもので」(第58連隊関口栄伍長の証言、同番組)

「草取り、もう競争だ。その草を食べられるのかと言えば、分からない。飯盒の中に入れて三回くらい煮こぼして、これなら毒もないだろうと。それで米を一掴み入れて、草にぼとぼとぼとっとお粥の米がくっついて、だから蛍草(ほたるぐさ)、誰が言ったのか知らないが 蛍草」(第58連隊泰伸之兵長の証言、同番組)

あまりの状況に、自決を選ぶ兵士も少なくなかった。
「手榴弾1発が10円までいったんですよ。売ってくれって。自分が死なんがために 自殺するために手榴弾がほしい。でそういうのは兵器も何も持っていないわけですよ。みんなぶん投げてちまって。だから小銃で自分を撃つって、その小銃もないわけ。だから結局手榴弾でもってやる。その手榴弾もないから金出して買ってそれでいっしょにやる。これはね、まあ口で言うのは簡単だけど、気持ちは複雑ですよ」(第58連隊牧岡善太軍曹の証言、同番組)

極限状態に追い詰められながらも生存した兵士は、究極の選択を迫られ、現在に至るまでその選択についての罪の意識を背負っている。
「私が今こうやって話しているのはつらいです。真実をお話しするということはつらいです。戦友同士だと言いながらも自分の身が危なくなった場合には、戦友を捨てて。(負傷していた兵隊を担いでいた4人の中で)誰となく言うことは、この兵隊を担いでいけば我々は死んじゃう。『この辺で一つ可哀想だけど置いてったらどうだ』ということをありました。そして手榴弾を一発置いて、『これを置いてくよ』と『お前万が一の場合はこれで自殺しろ』と。もし私が死んで冥土というところで会えたら、まず開口一番お前年取ったな。その次に俺をなぜビルマのあんなところに置いてきたんだと言うでしょうね、そう思います。そうなったら『悪かったな、勘弁してくれや』というより仕方がないでしょう、長々と言い訳なんてしたって・・・。申し訳なかった」(第58連隊塚田善四郎の証言、同番組)

わずか3ヶ月の作戦で、参加した第31師団(烈)、第15師団(祭)、第33師団(弓)の将兵6万6,000人、そしてインド国民軍2万人の計8万6,000人のうち、3万9,000人(うちインド国民軍3,000名)が戦死した。負傷者の数は、それをさらに上回る。どの師団も半分が戦死している。各所に引用した第58連隊に至っては、4,000名のうち3,000名が亡くなった。

にもかかわらず、コヒマもインパールも占領できなかったばかりでなく、膠着状態にあったビルマ・ベンガル戦線の崩壊をもたらし、翌45年には南機関が手塩にかけて育てたアウンサンにも裏切られ、ビルマをも失うきっかけとなったのである。大本営、南方総軍、ビルマ方面軍そして第15軍首脳は、この悲惨としか表現できない作戦の結果に対する責任から免れるものではない。
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by iyasaca | 2006-08-16 20:15 | インド | Comments(0)

ナガランド州コヒマにいってみた その6

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前のエントリーでも触れたとおり、ナガの民はモンゴロイド系である。突然現れた日本人が自分たちと姿形がそっくりであったこともあり、当初は日本人のことを親しみを込めて「アッパニーズ」と呼んでいた。しかし、補給の尽きた烈師団の将兵が、コヒマの村民の生活の糧である鶏はじめとする家畜を次々に奪ったことで、徐々に反発を買い、烈師団が撤退する頃には敬称がとれて、ただの「ジャパニーズ」になってしまったそうだ。

一方英印軍は、空路で潤沢な補給を受けていた。3ヶ月あまりの戦闘の期間を通じ、英印軍は1万9,000トンあまりの物資と1万2,000人の兵員を空路で運び込んだ。日本の優勢はあっという間に失われていった。

第58連隊の兵士の証言によると、
「(英印軍は)彼らの自由自在に好き勝手に爆撃されたわけだから、しまいにはね、もう連砲(連隊砲)撃たないでくれって。結局私らが撃つでしょう、一発撃つと、向こうは450門も揃えているから、一斉に撃つわけだから、ばーっと。もう撃たないでくれって言われちゃうんだから、小銃隊から。」(大越正意連隊砲中隊兵長の証言、シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

「ポンポンという音じゃないですよ。ただグワーといってくるだけですよ。だから何十か何百かそのくらいの砲撃がいっぺんにやってくるんですからね、それはもう絶え間なく撃ってくるくらいですよ。」(第58連隊山田義弘兵長の証言、同番組)

一方、佐藤師団長は、圧倒的な物量作戦が展開されるのを見て、第5飛行師団の田副師団長宛に
「弾一発、米一粒も補給なし。敵の弾、敵の糧秣を奪って攻撃を続行中。いまや頼みとするは空中よりの補給のみ。敵は糧秣弾薬はもとより、武装兵員まで空中輸送するを眼の前に見て、ただただ慨嘆す。」
との電文を打っている。


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この時期、兵士たちの間に一つの噂が流れる。天長節(天皇誕生日)である4月29日に一斉攻撃があり、作戦が完了するのだというものである。攻め込まれてはいたものの兵士たちの士気はある程度は保たれていたようであり、英印軍に投降を呼びかけるビラを撒くなどPsyOpも行っていた。

「絶対に日本軍は大丈夫だ、勝つんだ。負ける経験がないんだから、僕なんかも全然あとで、インパールもすぐ何日かたったら落ちるだろうと、インパールが落ちれば、占領したら物資がどんどん後方から来るからと、最初いくらやられても負けるという気持ちは10日や15日くらいは私の気持ちにはなかったような気がしますね。」(第58連隊山田義広兵長の証言、同番組)
しかし、状況は改善しない。
「29日に近い日になれば20日頃なら20日頃にね、本当だったら陥落間近だという情報が来るはずだけど、全然来ないでしょう。これはだめだなと感じがしましたね。」(山上博少尉の証言、同番組)

英印軍は徐々に盛り返し、5月13日にはコヒマの丘はほとんど英印軍に再奪取される。
完全に劣勢となった日本軍は、ついにはほぼ毎晩、突撃という強硬手段に訴えるようになる。
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突撃に討って出た兵士はほとんどが戦死したが、生き残りの兵士による証言も残っている。
「靴は音が出るんだから、靴脱いで、靴下だけになって、それから帯剣は布を巻いて、光らないように反射しないように。それで夜襲に出ていく準備なんですよ。
で、そこへ行かなければだめというのは本当に涙が出たね。これが最期の別れになるんだろうかなと」(第58連隊牧岡善太軍曹の証言、同番組)

「突撃するときは銃を持って、片方に手榴弾を持って飛んでって、安全栓は口でもってぐっと抜くんだけど、そんな暇なんかないですよ。もう抜いてあるから、ぱーんと靴の裏に当てて投げて、だからともすれば自爆覚悟でみんな行く。突撃するときは、人間そのものが狂乱になっちゃうんだね。前に敵がいれば殺すよりしょうがない。死ぬか生きるか、殺されるか生きるかの戦い
だから、何回やってもね、突撃する前、まあ我々は何回もやりましたけどね、やっぱし、友達5-6人で『じゃあよし、おいやるか』、『やろうと』、やっぱし、たばこを吸って、『もう一服吸うか』、それを吸うっていうのは、やっぱり、怖いんじゃないんだけれども、生きたいわけだ。」(第58連隊泰信之兵長の証言、同番組)
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戦闘は激烈を極めた。
「頭部は即死ですね 腹をやられるというのは一番気の毒ですね。腹とか手がもげた足がもげた、吹っ飛んでいても即死にならないから。向こうは暑いでしょう温度は40度もあるから、すぐに人間は化膿して腐ってくるわけですよ。だからもう一週間もいれば とても自分たちの壕の中にいても鼻をつままないとね。山の下から風が来るでしょ、そのにおいがね、前の方に死骸が累々としているわけだ。」(第58連隊真貝秀広伍長の証言、同番組)

前線の兵士たちが決死の突撃を繰り返している5月中旬、ビルマを視察した大本営の参謀は、「作戦は不成功と判断して間違いない」と首脳部に主張する。しかし首脳部が行った東条英機参謀総長への報告は「作戦は極めて困難」という言い回しに、修正され伝えられる。そして、東条参謀総長は昭和19年5月16日、「現下における作戦指導と致しましては、剛毅不屈、萬策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます。」と天皇陛下に上奏する。

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コヒマ包囲戦で、最後の、そして最も激烈な戦闘はギャリソンヒル、DCのバンガローとテニスコート周辺で行われた。戦闘は激烈で、ギャリソンヒルの北東方面のテニスコート〔ナガランド地区Charles Pawsey弁務官の邸宅〕では、両サイドから至近距離で手榴弾を投げ合うなど、死闘が続いた。今はすでにないが、当時はテニスコート脇に大きな桜の木が立っていた。その桜の木の上からは烈師団の狙撃手が攻め込んでくる英印軍の兵士を狙撃していたが、その狙撃手も最後は力尽きた。今はその跡に小さな桜の木が植林されている。

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今は博物館のあるギャリソンヒルの南の丘の上には、烈師団が残した歩兵砲が保存されている。昭和十三年に大阪で製造された九十二式歩兵砲との刻印が読み取れる。砲身だけで105キロあるらしい。飢えに苦しみながら、インドの奥地の山の上までこんなものを引っ張ってきたという事実に圧倒される。
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by iyasaca | 2006-08-16 19:36 | インド | Comments(0)

ナガランド州コヒマにいってみた その5

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コヒマは多くの丘からなる町である。それぞれの丘には、名前がついているが、ほぼ全てが、軍事用語を由来としている。例えば、FSD HillのFSDは、Field Supply Depot(兵站所)の略、ギャリソンヒル(Garrison Hill)はその名の通り、守備隊が駐屯していた丘である。その他にもJail HillやDetail Issue Hill(DISヒル)など、どれも名前を見れば軍事上どのような機能を担っていたかが分かる。一方、日本軍も作戦遂行上、それぞれの丘に名前をつけている。例えば、ギャリソンヒルは「イヌ」、その南にあるKuki Piquetは「サル」と呼んでいた。



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コヒマの攻略には佐藤師団長率いる第31師団(烈)師団があたった。第31師団は3ヶ月に渡る戦闘で、5,000名(英印軍側死者は4,000名)もの犠牲を出した末、コヒマを放棄することになる。そして、コヒマ放棄はインパール作戦ひいてはビルマ戦線崩壊の序曲となるのである。

インパール作戦の図(これを見ると作戦の全体像が分かりやすい)

1944年3月15日にホマリン(Homalin)近くのチンドウィン(Chindwin)川を渡河した第31師団〔烈〕は、三手に分かれて北西方面へ進軍していった。行軍は100キロにも及んだ。途中で、インパールの北側を守る英印軍(Indian 50 Parachute Brigade)とサンシャーク(Sangshak)付近で遭遇した烈師団左翼(最も南を進軍)、宮崎繁三郎率いる第58連隊以外はほぼ順調にコヒマへ進軍した。第58連隊は、第15師団(祭)の援護も受け、英印軍を一週間ほどで撃退し、4月3日にはコヒマに到着した。その行軍も苦難に満ちたものだった。陸軍歩兵第58連隊に従軍した泰伸之兵長によると
「全部が苦しいですよ、一週間寝た覚えがほとんどない。大休止のとき仮眠するだけであって、次もうあの山の中、2,000メートル級の山岳戦だからね、そこを突破して行ったんだから一週間あるいは10日ってものはは寝ず食べずで行ったわけだ。」、(シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

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本格的な包囲戦は4月6日に始まった。8日にはコヒマの北東部を攻略、ギャリソンヒル方面に進出、17日に占領した。その後も陣地を南に向け着々と広げていった。5月4日の時点では宮崎麾下の4大隊が、コヒマの尾根の東側を押え、主力の佐藤師団長率いる4大隊は、中心部のナガの村落を、右翼は北と東の村落を押えていた。しかし、すでに食糧も弾薬も尽きており、烈の師団としての能力には限界が近づいていた。
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by iyasaca | 2006-08-11 11:05 | インド | Comments(6)

ナガランド州コヒマにいってみた その4

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1944年3月8日。第33師団(弓)がチンドウィン川を渡河した。インパール作戦の開始である。3月15日には、遅れて到着した第15師団(祭)、第31師団(烈)が作戦行動を開始した。

第15師団〔祭〕は、北東方面からインパールに向かい、第33師団〔弓〕はトンザンを経て、南西からインパールに向かい、第33師団山本支隊はパレルからインパールへと向かい、第31師団〔烈〕はコヒマへと向かった。

2,000メートル級の山越えを含む、250キロにも及ぶ行軍を支える補給のために考案されたジンギスカン作戦(牛馬とともに行軍し、移動時には荷物を背負わせ、食糧不足時には牛を食糧とする)は、初動段階から困難に直面した。大量に徴発した牛は、最初の作戦行動であったチンドウィン川の渡河の際に多くが流された。 そもそも牛は、湿地帯を好み、長時間の歩行を得意としていない。密林地帯、山岳地帯では牛の食料である草の供給もままならず、行軍の障害ですらあったため、次々と放棄され、所期の目的を果たすことはなかった。

徴発した4,000頭の牛のうち、半分が流されたと言われているジンギスカン作戦の最初の作戦行動であるチンドウィン河渡河について、兵士の証言が残っている。少し長いが引用する。
「(牛は)半分以下になったの。まともに渡ったってのはいないんですよ。まず兵隊が船に乗って、そいで両脇に並ぶわけですよ。そしてみな牛の手綱を持って、でまあ後ろからケツはたいて、川の中に入れるわけですよ。そしたら牛は前に行くよりしょうがないから、どんどんどんどんまあ引っ張る。そのうちにぶるっちゃう(牛)のがいるわけですよ。そうすると押さえている兵隊も一緒にこう流されるような格好になるからね、まあ放すわけでしょ、そうすると牛は流されていくわけですよ。だから荷物積んだそのまんまで流れてっちゃうわけ。後はどうしてみようもないわけですよ。」
(新潟県高田陸軍歩兵第58連隊 牧岡善太軍曹の証言、(シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

また何とか渡河した牛についても、
「(牛の)ケツに火をつける、そうすると起きるわね そしてまあ歩ける、だでもそうなった場合はもうだめだね。それから尻尾を束ねてぎゅーっと握るとぽきんと音がする。そうすると痛いから結局動こうとしてもやっぱし動けない。だからもうそういう風になったらもう、動いてももう荷物するものはだめだね、牛にはつけられない。だからもう、引っ張る者と押す者とでもってで、やっても駄目な場合は駄目。背負えないものはそのまんまでしょう。誰だって構っていられない。そこにはいられないんだし、前線に行かなくちゃならん任務があるんだもん。だから牛駄目になれば、牛を置いていくし、糧秣はもうそれだけ持つだけ持って、残りは置いていくよりしょうがない」(泰伸之兵長の証言、同番組)

計画上、インパール作戦は3週間の電撃作戦であったため、3個師団が携行した食糧は20日分のみであった。弾薬についても同様で、足りなくなったら、英軍補給物資を奪うか現地で調達しろとの指示であった。それでも一人あたり40キロの食糧と弾薬を背持っての行軍だった。

新潟県高田陸軍歩兵第58連隊に従軍した山上博少尉は以下の通り証言している。
「食べれる草、有毒な草、それを見分けができるようなね、まあ訓練といえば訓練だわね。
食糧になる野草はこういう格好をしとってこういうものだ、まあそういうような簡単な資料が司令部から来るんですよ。でそれを現地で照らし合わせながら食べるわけです。ちょっと考えられないでしょう。ねえ」(山上博少尉の証言、同番組)

緒戦において、投入された3個師団は健闘を見せる。第15師団(祭)は3月19日には国境を越え、23日にはインパールの北東、サンジャック(Sangshak)に到達する。インド国民軍の支援を南〔チン高地のハカ、ファラム地区〕に受けながら、29日にはコヒマへの道路を遮断する。しかし、ここで英印軍の反撃にあい、足止めを食らうことになる。この段階で各師団は、すでに深刻な食糧・弾薬不足の状態にあった。作戦本部から、進撃の命令は下るが、攻撃しようにも弾薬がないという状態である一方、制空権を握る英印軍は、攻撃を受けるリスクにさらされることなく、補給を受け続けた。当初から、現地調達を旨とした補給計画ゆえ、4月末の段階で、第一線への補給が確保できていたのは第33師団〔弓〕のみであり、第15師団〔祭〕及び第31師団〔烈〕への補給路は途絶えていた。その弓への補給も十分ではなかった。

第33師団〔弓〕師団長柳田中将は、前途の危うさを見て、作戦中止を進言したが、以下の理由を並べ立てられ、5月15日、解任された。1)インパール作戦計画に始めから反対していた、2)準備作戦のチン山攻略を命じたが容易に従わなかった、3)トンザン=シンゲルの戦闘で敵を包囲しながら取り逃がした、4)作戦中止を意見具申し、前進を遅らせた。ゆえに、作戦の重要な時期にある中、臆病で戦意もなく、師団長として不適当。後任には田中信男少将があたることになった。同日、結核で指揮能力を喪失した第15師団(祭)山内師団長も更迭されている。山内中将はメイミョー兵站病院で肺結核・腸結核・喉頭結核性脳膜炎を併発し、インパール作戦中止の一ヵ月後の8月5日に52歳で亡くなっている。
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by iyasaca | 2006-08-09 18:05 | インド | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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