勝手に僻地散歩



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イルクーツクにいってみた

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文豪チェーホフが友人に宛てた手紙の中で「すばらしい町、知的な町」と賞賛したバイカル湖西岸の町イルクーツク。

古くからモンゴル系遊牧民族が割拠している地域であったが、1571年にシベリア進出を始めたコサックがこの地を治めていたブリヤート・モンゴル族との戦いの末、17世紀の中頃(1652年)ようやくこの地に宿営地を築き、町の礎を作った。ほどなくモスクワから市として認められたが、主に黒貂の毛皮供給元として、そして政治犯などの流刑先(1825年デカプリストの乱の反逆貴族の流刑先)として位置づけられてきた時期が続いた。


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1898年にはシベリア鉄道が敷設され、1904年にはウラジオストクにまで開通したことにより、中央アジア、清への中継都市として、そしてシベリア東進の前線基地としての産業都市の色彩が明確になった。同時にイルクーツクは、またシベリアへのキリスト教宣教の拠点として、ロシア正教会の大主教座も置かれている。現在は石造り建築と丸木作りの建造物が特徴的なのどかな地方都市である。

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そのようなイルクーツクにも日本とは深い関わりがある。
第二次世界大戦後、満州、北朝鮮、千島、南樺太にいた軍民合わせて272万余の日本人のうち約60万人がソ連軍に抑留され、シベリア各地での極東開発に従事させられた。その極東開発事業の一つである「バム鉄道計画」は、犠牲者が特に多かったと言う。バイカル湖の北を通り、アムール河からウラジオストクへと続く鉄道計画は、工事の中絶もあり、完成は1980年代まで待たなくてはならなかったが、鉄道建設のための労働力は、シベリアや北朝鮮などの収容所からかき集められた。イルクーツクには81ヶ所もの収容所があり、抑留者はイルクーツクの多くの建物の建設にも携わった。

ほぼ同じ時期、抑留中に一部の日本人将校は、ソ連の収容所に吹き荒れた「シベリア民主運動」という名の思想教育に踊らされ、同胞に対し反ソ分子の烙印を押すなどのつるし上げ大会も発生する。リンチ行為も発生したと言う。抑留者は激しい労働、厳しい気候だけでなく、理不尽な思想教育にも耐えなければならなかった。


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引揚援護局の発表(1975年)によるとイルクーツク州内の日本人墓地は33箇所。この美しいバイカル湖の周辺に6,000人が眠っている。ソ連全土の日本人墓地数は332箇所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままであるとのことである。
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by iyasaca | 2006-02-05 10:53 | ロシア連邦 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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