勝手に僻地散歩



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ナン・マトールにいってみた その3

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20世紀に入ると本格的な考古学的調査が入るようになり、口伝や伝承を補強する新たな知見が得られている。島の各所から採取された残留物を放射線炭素年代測定した結果、初期居住が始まったのは紀元前2世紀、ナン・マトールの人工島建造が始まったのが西暦500年頃、祭祀遂行の痕跡を辿ると王朝が成立したのは西暦1,000~1,200年頃とされている。

戦後は1963年にスミソニアン博物館のチームが、1970年代には米国政府による文化財保護行政の一環として数次の調査が入っており、最近は周辺島嶼、及び地域との比較研究が進み、複眼的な歴史の検証が進められている。ポンペイの東にあるコスラエ島にあるレロ(Lelu)遺跡よりも古いということも分かってきた。また発掘された遺物、食糧の残滓などの方面からの研究も進んでいる。とりわけ出土した土器は形象、機能両面に多様性があり、外部世界との取引が盛んであったことを示唆している。

さて入場料を払って環礁内の浅瀬をカヌーで進む。

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到達したのは、ナンタワス(Nan-Dauwas)である。「首領の口の中」を意味する。AD1100年代後期の建造と言われている。外界とを隔てる内外壁の二重構造が特徴的である。ここは観光客が必ず訪れる遺跡であり、観光局も定期的な草刈りなどの保全作業を行っているため、外形をよく確認できる。

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サウテロール王の代々の墓所であり、精霊ナニソーンサップの祈りの場、審判の場でもあったとされている。石室は少なくとも大小4つは確認できる。高さ1メートル、長さ7メートルの中央の墓所を二重の壁が取り囲んでおり、内側の壁は一番高い地点で8メートルある。石壁に絡まるようにガジュマルなどの植生が見られる。

中央石室の上部は6メートルほどの石柱が8本、蓋をするように並べられている。内部はハンブルック(Hambruch)、八幡ら多くが荒々しく発掘作業を行っており、残念ながら原型をとどめていない。内室からは、多量の貝製品、手斧、首輪、針、ペンダント、ブレスレット、真珠貝を使った釣り針などが発掘されている。1834年から40年にかけての記録によると、同じ場所から銀柄の短剣、金の十字架なども見つかっている。キリスト教関連の遺物が発見されていることから、記録には残っていないが、かなり前から西洋人が訪れていたことが考えられる。

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<写真:崩れ落ちた石柱>
ナン・マトール遺跡は広大であるが、保存状態が悪い。かなり崩壊が進んでもいる。それでも最近の研究により、それぞれの人工島の機能も明らかになりつつある。全てを紹介することは私の能力を超えるため、他文献を参照されたい。日本語文献としては、東京文化財研究所が発行している「ミクロネシア連邦ナンマドール遺跡現状調査報告書(2012)」がよくまとめられている。特に参考文献が網羅されているのが良い。

主要な島についてのまとめは以下の通り。

ダロン(Darong)
島中央の池を囲むように外壁が建造されている。中央の池は、王の儀式に用いるシャコ貝が養殖されていたとされ、11本の地下水路によって外海とつながっていた。残存する外壁、石敷跡から、かつて島には儀式用の建物、聖職者の住居があったと推定される。

デパフ(Depahu)
王のための厨房の島とされているが、多くの手斧の破片も発見されていることから、高位聖職者のカヌー建造の地であったとも推定されている。炭素年代測定法では西暦232年頃、オレゴン大学の調査では西暦227年頃より人類の痕跡があるとの結果が出ている。

イテート(Idehd)
内部に約1.8メートルの壁がある。毎年決められた時期に服従・祈願・償いの儀式「プング・エン・サプー」が行われた場所。この儀式の最後には聖なるウナギ(人間と神の間の存在と信じられていた)に亀を捧げ、そのときのウナギの様子を見て、その年の人間の行いを神が受け入れたかどうかの占いを行った。スミソニアン研究所の調査団が、島がいつまで祭礼に使われていたかについて炭素年代測定法で計測したところ、西暦1260-1380年との結果が出た。

カリアン(Kariahn)
ナンタワスと同じ構造であることから、王族または聖職者の住居・墓(2基確認できる)であったと推測されている。

ケレプウェル(Kelepwel)
コスラエから渡ってきたイソケレケルと333人の兵士が滞在したとされている島。構造から王の臣下または、客人を留め置く住居であったと推測されている。

コーンデレク(Khonderek)
葬儀の島であり、最も重要なサカオの儀式と踊りの場である。伝統的な葬儀では、遺体はココナッツ油、花、魚の骨で化粧が施される。遺品とともに包まれた遺体は、故人が生前生活した島々をカヌーで回り、最後のコーンデレクに戻り、葬礼が執り行われる。葬礼にあっては、聖職者の参加のもと、食べ物が分配され、サカオが供され、精霊との対話、歌唱と踊りをもって故人を送り出す。葬礼後は、故人の生前の地位に則したそれぞれの墓所に葬られる。

レメンカウ(Lemenkau)
サウテロール王朝時代の医療施設。治療を終えた患者は、隣にあるナムェンカウという池で水浴びをしたとされる。

マトルポウェ(Madol Powe)
司祭の住居であり、儀礼の際の食事が準備される場。

ナンウォルセイ(Nan Mwoluhsei)
「航海の終着地」を意味する外界からナンマドールを守る石垣。外壁には切れ目があり、水中にも石柱が立っている。そこがナンマドールの外洋からの水門であったと推測される。伝承ではこの門は二匹の鮫によって守られており、聖なる海底都市カーニムェイソ(Kahnimweiso)へと通じる道とされていた。聖なるウナギが生贄のウミガメを供される際の入り口であり、若者の肝試しの場でもあった。

パーンカティラ(Pahn Kadira)
「男の家」との意味を持つ。王が執務を行ったナーン・サプェ神を祀るナン・ケイル・マーオ寺院があった。高位者の住居跡も確認されている。最も詳しい口伝が残っている島であることから、かなり重要な位置づけにあった島であることが推測される。推定建造年代は西暦900-1000年頃。1300-1400年頃に拡張されている。

パーンウィ(Pahnwi)
「ウイの木の下」との意味がある。大きなカヌーが係留できる船着場跡が特徴的。墓か家屋の土台と思われる跡も残されているほか、高さ約8メートルの南西の壁面中央に妊婦が安産祈願に訪れる大きな岩もある。推定建造年代は西暦1250年頃。

ペイカプ(Peikapw)
生贄として儀式に使う海亀を養殖する大きな池「ナムエイアス」と、将来を見通すことができたとされる魔法の池「ペイロット」がある。島の北東部にはロペンゴ神にお供えを忘れた4名の女性が、2つの岩と2本の木にされたとの伝承がある。

ペイニオット(Peiniot)
本島から飲料水を一時貯蔵する場。水はここからUsennamw, Usendauへと運ばれていく。

ペイネリング(Peinering)
椰子の実の皮むきと等級別の仕分け、ココナッツオイルの精製と貯蔵の場。儀礼用、灯火用のオイルを全面的に供給していたと推定される。

ワサウ(Wasau)
王のための食料庫。全島から集められた供え物が貯蔵されていた。
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by iyasaca | 2015-01-10 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ナン・マトールにいってみた その2

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<写真:ナンタワス遺跡正面入り口>
捕鯨や宣教活動でポンペイに西洋人が出没し始めたのは19世紀初頭のことである。簡単な調査は最初期から始まっていたが、本格的な調査が入り始めたのは20世紀に入ってからである。初期における調査としては、Paul Hambruchの業績が目を引く。1910年にナン・マトールの全体地図の作製、遺物採集を行ったほか、住民への聞き取りを行い、島の名称を記録している。

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<写真:高く積み上げてはいるが、組み上げ方は結構雑>
とりわけ口伝の収集にはかなり苦労したようである。ポンペイの民には、知っていることの全てを話すと災いがもたらされるという信心が強く、ましてやそれを遠くから来た外国人に話すということに心理的抵抗があったことは想像に難くない。さらには19世紀前半、西洋人の来島に伴い断続的に発生した天然痘の流行によって、ポンペイの人口は1万人から2,000人へと5分の1にまで激減していた。おそらくこの時期に適切な口承ができず、多くの口伝が失われたことだろう。

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<写真:周辺の水路。深くとも大人の腰くらい>
そのような中で記録されたナン・マトールの由来にかかわる口伝が残っている。

その昔、オロソーパ(Olosohpa)とオリシーパ(Olisihpa)という兄弟がいた。二人は家来とともに日の沈む方角の島から大きなカヌーでポンペイにやってきた。新天地で政(まつりごと)の中心を建設しようと最初に島の北部地区のソケースを選ぶもうまくいかず、その後ネット(Nett)、ウ(U)と転々とする。最後にポンペイ島東部のマタレニアム(Madolenihmw)に新都市建設の適地をついに発見する。兄弟はウナニ(魔術、呪文)を唱え、空飛ぶ龍の助けを借りて巨石を運んだと伝えられている。兄のオロソーパは新都市の完成を見ずに世を去ったが、残った弟のオリシーパが初代ポンペイ王の座につき、自らをサウ・テロール(シャウテレウル、Sau Deleur、Lord of Deleur)と名乗り、サウ・テロール王朝の祖となった。

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<写真:比較的よく残っている壁面>
17世紀に入り、ポンペイは、サウ・テロール王朝第16代サウ・テモイ(Sau-Demwohi)王の治世下にあった。理由は明らかでないが、サウ・テモイ王は、ポンペイの神ナン・サプウェ(Nahn Sapwe)を幽閉する。ほどなくナン・サプウェは幽閉を逃れ、コスラエに渡る。

その後しばしの小康を経て、サウ・テロール王朝は一気に崩壊する。コスラエに逃れたナン・サプウェの息子、イソケレケル(イショケレケル、Isohkelekel)が決起したのである。1628年のある日、333名の手勢を連れたイソケレケルはコスラエを発ち、ポンペイに向かった。イソケレケルの一団は一気にナン・マトールに攻め込み、サウ・テモイ王はあっけなく敗れた。ここにサウ・テロール王朝は滅亡し、イソケレケルは、新王朝ナンマルキ(Nahnmwarki)を樹立したのである。

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<写真:ナンマルキの中のナンマルキ(マタレニアム)、Isipahu the High King of Nahnmwarki of Madolenihmw>
時代は下り、そのナンマルキ王朝も分裂し、現在ポンペイには5人のナンマルキがいる(まずマタレニアム、ウ、キチの3派に分裂、さらにドイツ統治時代にはソケース、ネットが加わる)がいる。その中でもマタレニアムのナンマルキはイソケレケルの直系とされ、5人のナンマルキの中で唯一、「ニンニンナンマルキ」と呼ばれる神器(貝製の首飾り)を身に付けることができ、イシバウ(Isipahus)と尊称されている。現在のナン・マトールを「私有」しているのもマタレニアムのナンマルキであり、我々がナン・マトールを訪れる際には必ず入場料を払わなければならない。ちなみに現第40代イシバウは、40年ほど前にJICAが日本に招聘し、数ヶ月の滞在の支援をしている。いい仕事をしている。
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by iyasaca | 2015-01-03 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ナン・マトールにいってみた その1

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<写真:Tenwenの艀から遺跡に向かう>
テンウェン(Tenwen)というポンペイ島南東部にある半島南部の沿岸一帯に巨石構造物群がある。ナン・マトール(Nan Madol、ナンマドール)である。

ナン・マトールは、巨大な黒褐色玄武岩を環礁の上に積み上げ形成された95の人工島が水路によって結ばれた古代都市である。正確な建造時期は不明だが、紀元500年頃から1,000年近くかけ、16世紀頃までに現在の姿になったというのが有力な学説である。その範囲は幅1.5キロ、奥行き0.7キロ、北東部と南西部の間に広めの水路があり、前者が司祭の居住区画や墓所であるMadol Powe、後者が礼拝所や王の住処、行政の区画であるMadol Pahに分かれており、それぞれの島に儀礼、埋葬、行政、食物倉庫など別々の機能と役割があった。湧水もなく、食糧も全て持ち込まなければならなかった。

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<写真:崩落した石材が無造作に並ぶ>
構造と大きさは島によって異なるが、多くは五角形、六角形に自然形成された柱状の石を、環礁の浅瀬の上に高さ1,2メートルほど積み上げ、低層の壁を形成し、その内部の空間には砕いたサンゴを敷き詰めている。この基礎の上に木造の構造物が建てられていたと推測されている。儀礼や墓地など格式の高い島の場合は、低層の外壁の内側にさらに壁が設けられた。壁は高いもので8メートルにも達する。使われた石材の重さは平均で5トン、最も大きなものでは25トンにも及ぶ。

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ナン・マトールには75万トンの石材が使われているが、採石場は近傍に存在しない。採石されたと思われる場所は、島の北部、西部などいくつか確認できるが、どこから採石されたものなのかは不明である。それだけでなく実際にこれだけの大きさの石材をどのように運搬したのかも分かっていない。というのも文字による記録が残されておらず、19世紀初頭に出没した西洋人が発見、調査を始めた時にはすでにナン・マトールは長く打ち捨てられた後だった。
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<写真:石材はかなり大きい。これはまだ小さい方>
1995年にはディスカバリーチャンネルが石材輸送の再現映像を撮ろうと、竹製の筏で運ばれたと仮説をたて、色々と試みたが結局どの方法も成功しなかった。当時の様子を知る術、手がかりはほとんどなく、頼るは考古学的手法を用いた知見と口伝された村人の記憶だけなのである。
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by iyasaca | 2014-12-29 12:35 | ミクロネシア連邦 | Comments(1)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その11 - 終戦とポナペ島の恵み

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<写真:ソケースマウンテン山頂に配備された四〇口径八九式十二糎七高角砲>
来襲が規則的(定期便とかサラリーマン出勤と呼ばれていた)だったことから、投下された爆弾の量に比べれば、人命被害は少なかった。この「定期便」に対し、時折激しく撃ち合いを演じる場面もあったそうだが、電探が機能し続けたこと、空港には必ず大穴を開けて帰るため、施設部隊の仕事は絶えることはなかった。

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<写真:ソケースマウンテン山頂に配備されている15糎水平砲>
しかしポナペは浅瀬に囲まれており、港に不適であったこと、ポナペに大部隊を確認したことから、米軍は上陸まではせずにそのまま西に進撃した。従ってポナペは東の島嶼のような玉砕には至らなかった。


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<写真:ソケースマウンテン山頂の遺構>
中部太平洋の日本の拠点であるトラック島へは2月17日に大爆撃を加えられ、即座に無能力化された。その後、ペリリュー、サイパン、沖縄と進撃した米軍は、そのまま日本を降伏に追い詰めていくのである。

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<写真:ポンペイ港で水揚げされるキハダマグロとその後。日本統治の名残で現地の人も刺し身を食す>
さて制海権を完全に失い、補給が途絶えたポナペの守備隊は終戦までひたすら自活に勤しむことになった。

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<写真:やしの実、使えない部分はない>
空爆前は、バナナ、パイナップル、パパイヤ、マンゴ、マンコスチン、ドリアン、シャシャツプ、椰子の実などがふんだんにあった。


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<写真:正体不明の魚とマングローブクラブ>
肉は野豚、野鶏、うさぎ、鹿、海亀、鮪、カツオ、伊勢えびなどが穫れた。コメなども空爆前は毎食出ていたというから食料は豊富だったと言ってよい。


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<写真:イモ類、上から吊り下がっているのもイモ>
しかし、補給が絶たれると次第に代用食の芋が一日1食、そして2食と増えていき、5月にはコメが完全に出なくなった。さつまいもが収穫できるまでの数ヶ月は、タピオカのすいとん、芋のつる、やがてはヒキガエル、野ねずみまで手を出すことになった。各部隊は自活班をつくり、その活動は、炊事、陣営具(備品のこと)消耗品、魚獲、製塩、製材、製薪、木炭、自主管理農園、廃物利用(工場のベルト等)の縫製工、煙草農園、酒の醸造、食用油、石鹸(椰子の実で造る)製造にまで及んだ。全ては戦闘準備と空爆の合間の作業であった。やがてさつまいもの収量は年産700トンにもなったというから優秀だったのである。

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<写真:ソケースマウンテン山腹にある無名戦士の碑>
そしてポナペの各部隊は1945年8月22日に停戦、25日に作戦任務が解除され、1946年までに復員が完了している。終戦時の歩兵第107聯隊の人員損耗表によるとポナペ島の戦死者は259名であった。
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by iyasaca | 2014-06-21 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その10 - 陣地構築に励むポナペ守備隊

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<写真:コロニアの南に残るナット村集会所門柱跡>
ポナペの増強が続く中、東方では悲劇が続いていた。日本軍の守備隊の全滅がこれだけ連続している。

1943年11月23日 タラワ玉砕、マキン玉砕
1944年 2月1日  マジュロ占領
1944年 2月2日   ルオット玉砕
1944年 2月3日  ナムル玉砕
1944年 2月5日  クエゼリン玉砕

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<写真:ミクロネシア短期大学ポンペイキャンパス内に残る日本軍の陣地と草に覆われた防空壕>
そして2月15日、ついにポナペの空襲が始まる。空襲は連日続き、最も激しい頃には常時滞空100機という規模であった。さらには5月にはホーランジア攻略を終了した米戦艦群による編隊艦砲射撃も加わり、日本軍の地上施設はもちろん、コロニアの町は灰燼に帰した。島民は爆撃が集中する町を離れ森に逃れた。その島民を追うように、山麓のジャングル地帯にも攻撃が加えられ、山肌は変形するほど焼きただれていたという。また空爆当初は蛸壺と言われた防空壕もなく、ただただ草むらに身を潜めていただけであったが、徐々に陣地構築が進み、44年末には中掩蓋陣地が完成、45年4月までに重掩蓋と水際障害物の設置が完了している。主に海軍は上陸が想定される地点への水際撃滅戦術を可能とするため進められた。
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by iyasaca | 2014-06-14 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その9 ポナペにおける軍の配備

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<写真:ソケースマウンテンよりポンペイ空港を望む>
1940年から44年にかけて、ポナペにおける軍の配置は度重なる編成の変更、偶然による増強が続く。その経緯は複雑で、軍歴のない私などには、追うのが大変である。

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<図:中部太平洋の地図。なぜ日本軍がトラックに基地を構えていたか分かる>
おおまかに言えば、ポナペは、中部太平洋の要衝であるトラック諸島の東の守りとして、その地政学的位置、そして島の大きさから重要な拠点となっていた。さらに増強の時期とポナペ以東の拠点が次々に陥落していく時期が重なったことで、もともとポナペの東への展開のために派遣された部隊が進軍できなかったことで、多くの兵力が滞留する結果となった。さらに皮肉なことに、米軍はポナペ島に空爆こそ加えたものの、上陸はせずに西進したため、ポナペ守備隊の被害は玉砕が相次いだ周辺島嶼と比べて軽かった。

以下はポナペ島守備隊の増強について、時系列に追ったものである。備忘録としての位置づけが強く、細かすぎて読みづらい。読み飛ばしていただいて結構である。

★★★★★★★★★★

1940年11月15日、日本海軍は第五根拠地隊をサイパンに編成した。この第五根拠地隊隷下にあった第四防備隊がポナペ(ポンペイは1984年までポナペと呼ばれていた)に最初に配備された日本軍の守備隊であった。

1941年8月11日にトラック島(現在のチューク)に第四根拠地隊が新設されると、ポナペに派遣された防備隊はサイパンの第五根拠地隊から第四根拠地隊の指揮下へと移った。翌年にはこの第四防備隊は第四ニ警備隊に再編成されている。

さて1942年6月のミッドウェーでの敗戦以降、ますます戦況が日本不利に傾く中、戦局打開のため南洋方面へ一層の戦力投入が求められていた。そこで満州に駐屯していた陸軍第五ニ師団所属連隊のなかの一つ、歩兵一〇七連隊(徴兵区金沢、山中萬次郎大佐)が実質的な海上機動旅団(正式な旅団ではなかった)、甲支隊として再編成された。1943年9月1日の連合軍による南鳥島空襲対応のためであった。

しかしその後、南鳥島の情勢が安定したため、中部太平洋へと戦力を振り向けることとなり、いよいよ動員の下令があったのが1943年9月2日(大本営 動第二四号)、9月6日に甲支隊の編成・派遣(大陸命第八三七号)が決定、翌日には編成が完了、出陣は11日だった。

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<写真:軽巡洋艦木曾、三笠保存会所蔵、1942年>

-甲支隊:宇品からポナペへ-
甲支隊は、トラック島経由でポナペに輸送された。第一陣は以下の通り。
1)歩兵連隊本部
2)歩兵第一大隊
3)歩兵砲中隊
4)独立山砲兵第一六連隊第三大隊
5)工兵第五ニ連隊第二中隊
甲支隊第一陣は、軽巡洋艦「木曾」、「多摩」、特設巡洋艦「栗田丸」、駆逐艦「大波」、「谷風」、空母「隼鷹」にて輸送された(丁一号輸送作戦)。ポナペには各艦船が、9月27日までに到着している。

また10月には、海軍第一通信隊を主体とする部隊で、陸兵と機材を戦艦「山城」、「伊勢」、空母「隼鷹」、「雲鷹」に搭載、第十一水雷戦隊(十一水戦)の「龍田」と第二水雷戦隊第32駆逐隊の「早波」、「涼波」、「藤波」に護衛され、10月13日に宇品を出港、15日に佐伯を出て、20日にトラック島着、10月27日にポナペに到着した。(15から20日が丁三号輸送作戦)当初予定されていた船舶工兵、十五榴大隊の配属は見送られた。

丁一号と三号があって、二号はどうなったのかと思ったが、丁二号輸送作戦は、ラバウルに第17師団を輸送する作戦であった。

ポナペに配備された甲支隊の編成は以下の通りである。
歩兵第一〇七連隊
   歩兵大隊(四歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊)3
   歩兵砲中隊(聯隊砲2、速射砲2)
   通信中隊(有線小隊2)
山砲兵第一六聯隊第三大隊
   山砲小隊(山砲4)
   大隊段列
工兵第五二連隊第二中隊
この間にポナペから西に約500キロの場所にあるモートロック諸島タ環礁(Mortlock Islands、Ta Atoll)で飛行場の設営を終了(43年9月末より作業開始)した海軍第一一航空艦隊(1943年7月25日編成、北川玉一大尉)第ニニ一設営隊がブラウン環礁(現在のマーシャル諸島エネウェトク環礁、Enewetak Atoll)に転進中に海没(1944年1月)し、残員はポナペ島に上陸している。(1943年10月に第四ニ警備隊に編入されたの情報も。要確認)。

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<写真:ポンペイ島南東のナーレップ島(Nahlep)、浅瀬が続き軍事拠点に相応しくないことが分かる。>
-ポナペからクエゼリンへ-
ポナペに集結した甲支隊は、1943年10月20日の大陸命第八七四号により、第五ニ師団に復帰した。同日に発令された軍令陸甲第九五号により、第五ニ師団は、海洋編成師団に改変され、歩兵一◯七連隊はB連隊に再編されている。その編成は以下の通りである。見ると分かる通り、占領された島嶼の逆上陸、海上機動反撃にあたる連隊である。今で言う海兵隊のような機能が期待されていたことが分かる。

またこの改変に伴い、甲支隊のうち以下はそれぞれ歩兵連隊の基幹に充用、復員している。
1)山砲兵第一六聯隊は、歩兵連隊砲兵大隊の基幹に充用し、復員
2)工兵第五ニ連隊は、歩兵連隊工作中隊の基幹に充用し、復員

従って、歩兵連隊Bの編成は以下の通りとなっている。

連隊本部(160名):水陸両用自動車9輛、自動貸車2輛

第一大隊(950名)
 大隊本部(91名)
 第一中隊(181名):5個小隊
 第二中隊(181名):5個小隊
 第三中隊(181名):5個小隊
 第一迫撃中隊(142名):指揮小隊、3個小隊
 第一砲兵中隊(113名):3個小隊
 第一作業小隊(61名):4個小隊
第二大隊(950名)
 大隊本部
 第四中隊
 第五中隊
 第六中隊
 第二迫撃中隊
 第二砲兵中隊
 第二作業小隊
第三大隊(950名)
 大隊本部
 第七中隊
 第八中隊
 第九中隊
 第三迫撃中隊
 第三砲兵中隊
 第三作業小隊
機関砲中隊(68名):3個小隊
戦車中隊(60名):3個小隊(各軽戦車3輛)、整備分隊、
工兵中隊(219名):4個小隊
通信中隊(124名)2個小隊(有線及び、無線)
衛生隊(176名):2個担架小隊、医療班(46名)

総員3,657名

<歩兵聯隊B 編成表要約、陸軍航空隊-戦闘序列と編制-第五二師団編制より>

新設された海洋編成師団は、ブーゲンビル島タロキナ岬(現在のパプアニューギニア、Cape Trokina)への出撃に向け準備をしていたが、11月末に連合軍のタラワ、マキン両島への上陸作戦が展開されたこともあり、急遽、山中萬次郎大佐以下が逆上陸部隊として、クエゼリンに進出した。クエゼリンに進出した部隊の編成は以下の通りである。
1)歩兵連隊本部
  第一大隊
  第三大隊
  通信中隊
  砲兵大隊(元独立山砲兵第一六連隊第三大隊)
  工兵中隊(元工兵第五ニ連隊第二中隊)
2)海軍第一通信隊
部隊は第二艦隊の重巡・駆逐隊を護衛につけ、十四戦隊の軽巡 「那珂」「五十鈴」にてポナペを発った。

-クエゼリンからクサイ、ミリ(ミレー)へ-
しかしタラワ、マキンはわずか数日(ともに11月23日)で玉砕に至ったため、歩兵連隊本部と歩兵連隊第一大隊をクサイ島(現在のコスラエ)に、歩兵連隊第三大隊と歩兵連隊砲兵大隊、歩兵連隊工兵中隊をミリ島に展開することとした。ポナペに残ったのは第二大隊を主体とする部隊のみとなった。

-続くポナペの戦力増強ー南洋第三支隊-
この時期以降、島嶼守備隊が次々と玉砕し、日本は制海権をどんどん喪失していった。その結果、逆上陸作戦に派遣した部隊が出撃できず、皮肉な形でポナペの戦力が増強されることになった。

まず増強されたのは満州に展開していた3個の守備大隊を主体として編成された南洋第三支隊である。動員が下令されたのは1943年11月15日、ポナペには翌44年1月10日に到着している。

南洋第三支隊は到着と同時に、ポナペにいた歩兵連隊第二大隊(大隊長、伊藤皓少佐、総員1,205名、他の連隊残員248名など)を指揮下に入れた。他に海軍第42警備隊(警備隊司令内藤淳大佐)をはじめとする海軍部隊(総員約2,000名)もポナペに展開中であった。

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<写真:コロニア市内に放置してある九五式軽戦車、装甲はぺらぺら>
-クサイ、ミリ島方面展開部隊の合流-
1944年2月にはクサイ、ミリ島方面への展開部隊として以下がポナペに輸送された。
1)迫撃砲第一連隊(第一中隊148名、第ニ中隊153名、第三中隊149名。各中隊には九七式(二式)中迫撃砲12門装備)
2)機関銃第一大隊機関銃中隊(総員71名。九八式高射機関砲6門装備)
3)戦車第ニ連隊戦車中隊(総員63名。九五式軽戦車9両装備)
4)衛生隊(総員186名)

いずれもポナペより先の輸送ができなくなっていたことから、これら全てが南洋第三支隊第二大隊の指揮下に入った。

-独立歩兵第五連隊の合流と第三一軍独立混成第五ニ旅団の編成-
さらにウェーク島へ展開する予定であった独立歩兵第五連隊総員1,757名もクエゼリンの戦闘が始まり、2月6日に玉砕したことにより、ポナペより先に展開せずにそのまま南洋第三支隊の指揮下に入った。
独立歩兵第五連隊の構成は以下の通り。
1)第二大隊(大隊長、才津彌三郎大尉、3個歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、装備は37ミリ速射砲(2)、九二式歩兵砲(2))
2)砲兵大隊(大隊長、田口多徳少佐、野砲2個中隊編成、各中隊3門装備)
3)工兵中隊(詳細不明)
4)衛生隊(詳細不明)

1944年2月18日に第三一軍が新設、第五ニ師団は編入された。さらに5月27日における再編成で、独立混成第五ニ旅団が編成された。その指揮下には、
1)南洋第三支隊の独立守備歩兵大隊3個大隊(独立歩兵三四ニ、三四三、三四四大隊)総員1,565名
2)独立歩兵第五連隊の第二大隊(独立歩兵三四五大隊)と砲兵大隊(総員1,757名)
3)歩兵第一◯七連隊の第二大隊はじめとする旧甲支隊の残部隊(総員2,223名)

この混成旅団の編成により、指揮命令系統が旅団長のもとに統一された。

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<写真:ポナペ島地図、今西錦司 ポナペ島ー生態学的研究、彰考書院、1944年>
この5個大隊は、ポナペ島の北、東北、東南の3地区に一個大隊ずつ、飛行場のある西地区には2個大隊が配置された。

全くの偶然ながら、ポナペは大部隊を擁する一大拠点となっていったのである。
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by iyasaca | 2014-06-07 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(6)

ミクロネシア連邦 ポンペイ州にいってみた その8 ポナペ国民学校横の奉安殿

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ポンペイ市内に奉安殿が残っているとの話を聞いて、案内してもらった。民家の敷地の奥手にあり、通りからはもちろん見えない。

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住人に許可をもらい敷地に入るも、植物に覆われていて、目の前まで案内してもらわないと見つけることができない。

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奉安殿は、御真影(天皇・皇后両陛下の写真)と教育勅語が納める建物のことである。戦前、戦中に皇民教育の一環として設置が始まったもので、当初は校舎内、後に独立した建物が作られるようになった。この奉安殿は明らかに独立型である。

高温多雨の気候に対応するためか、高床式になっている。扉は下部が腐食しているが、きれいに朱色に塗られている。おそらく塗り直されたのだろう。壁面にも一部に同じ色調の朱色が残っている。屋根には草木が伝い、ぱっと見ると茅葺の屋根のようにも見える。

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観音開きの朱色の扉を開けてくれた。中にはもちろん御真影も教育勅語もなく、ガランとしていた。倉庫のように使われていなかったことに少しホッとした。

かつては、前を通る際に教職員ともども、最敬礼が求められたという奉安殿。日本国内に建てられたものでさえGHQの神道指令に基づき多くが撤去され、ほとんど残っていない。にもかかわらず、この南洋の地に未だにひっそりと残っているとは。
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by iyasaca | 2014-05-31 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その7 ポナペ島物故者慰霊像 

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スペイン砦の周辺で、もう一つ目につくのは上部に観音像が鎮座しているポナペ島物故者慰霊像である。こちらは裏に来歴が書かれた石碑がある。1979年5月と刻まれた碑文には、
この慰霊像は日本の委任統治時代にポナペ島の開発と文化の向上に力を尽くして、この島で物故された人、及び先の太平洋戦争で、亡くなられた人々の冥福を祈り、再び戦争の起こらないよう、永遠の平和を祈願するため、日本ポナペ会において発起し、この島に関係のあった人々の協力と、ポナペ支庁及び、コロニア町の協賛を得て作り上げたものであります。
とある。

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碑文の最後には日本ポナペ会の会長、ポナペ支庁長、コロニア町長が名前が連なって刻まれているが、なぜかポナペ支庁長、コロニア町長の名前の部分は和英の碑文ともにきれいに削り取られている。日本ポナペ会の会長の名前はそのままである。単なるイタズラではないように見える。当地の複雑な対日感情を垣間見る思いである。

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これも何かの跡。砦の構築物の一部だろうか。
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by iyasaca | 2014-05-24 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その6 鳥獣魚類之碑とポナペ国民学校

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ポンペイ島のそぞろ歩きは続く。

スペイン砦を後にし、周辺に点在する、と言われている日本統治時代の痕跡を探し、歩く。

日本のミクロネシア統治は31年に及び、終戦時には沖縄、朝鮮出身者を中心に1万4,000人もの日本人が居住していた。うち軍属はおよそ半分の7,000名ほどで、ポンペイ島民は6,000名ほどだった。ゆえに経済活動も活発であった。

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<写真:南洋庁ポナペ国民学校門柱>
ポンペイ島は791メートルのナナラウト山、630メートルのカプソン山という二つの大きな山がある起伏が激しい島だが、水量豊かであることもあり、周辺島嶼に比べ農耕に適している。日本人は熱心に田畑を開墾し、コメや野菜の栽培を始めた。1931年にはコロニアとパリキールの間の辺りに実験農場も拓かれている。さらに裁判所、警察署、病院、国民学校、公学校、郵便局などの公共施設だけでなく、市場、雑貨店、トラックの修理工場、映画館、玉突き屋、寿司屋、女郎屋などが軒を連ね、活況を呈していた。

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<写真:のどかな大通り>
当時並木通りと呼ばれていた目抜き通りのKaselehie Streetは、軒先を辿れば、雨に濡れることなく、端から端まで歩くことができたという。

さてまず目についたのは、スペイン砦公園のあちこちに点在するオブジェのような石碑である。

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これは鳥獣魚類之碑である。朽ち果てた感はあるが、碑の中央に白地に黒の文字で鳥獣魚類之碑と縦に書かれている文字ははっきりと読める。おそらく後で書き直したのだろう。碑文の上部左右にそれぞれ鶏と豚の彫像が形どられている。さらに上部に構造物があったようだが、失われている。

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<写真:鳥獣魚類之碑の背面>
由来などが分からないものかと裏に回りこんで色々と見てみるも何もない。いつできたのか、誰がどういう経緯で建てたのかは不明のままである。

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これも由来不明。何の台座だったのだろう。
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by iyasaca | 2014-05-17 00:00 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)

ミクロネシア連邦ポンペイ州にいってみた その5 スペイン砦 / アルフォンソ13世砦 後編

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引き続きスペイン砦のあたりをうろうろしている。

1887年、総督に就任したポサディージョが最初に行ったことは、ポンペイの村々を治めるナンマルキ(酋長、Nahnmwarki)たちを集め、スペインの紋章入りの旗と王笏を手渡し、「これから君たちはGobernadorcillo(知事)だ」と言い渡したことである。突然やってきた新参者の通告に対する酋長らの態度は推して知るべしである。

続けて、メセニエンでの新コロニー建設に着手するにあたり、ポンペイの各地区を治める酋長に対し、それぞれ30名の人夫を供出することを命令した。集められた労働者は、近傍に居住させ、コロニー建設に当たらせた。
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上陸したスペイン人は上から下まで、ポンペイの民を人間としては見ていなかったようだ。食事も出さないという労働条件に反発し、強制徴収に応じなかったマタラニウム村については、酋長を呼びつけ、命令に従わない場合は、地位を剥奪し、土地も強制収用すると恐喝した。現地で深く崇敬される酋長へのこのような行為は、住民を大いに刺激したことだろう。

さらにはコロニー建設の現場でも、現地労働者の給料を盗む、少女をフィリピン人兵士の売春宿に送り込むなど、住民感情を逆撫でするような行為が広く知られるようになった。緊張が高まっていたことは感じ取っていたのか、スペイン当局は突如「刀狩り」を行い、400丁ほどの銃器を没収した。しかし応じたのはほんの一部であったことはこの後の事件で明らかとなる。

その後も不可思議な施策が次々と打ち出された。コロニー建設が終了するまで学校を閉鎖すること、伝統的な宗教行事も中止、総督に対し酋長が週に2回食べ物などの貢物をすること、島内の犬を全て殺すこと、女性の刺青を禁止すること、酋長のタイトルであるナンマルキを廃止するなどである。
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堪忍袋の緒が切れたポンペイの民は1887年6月末、一斉ストを敢行する。労働者を全て引き揚げさせたのである。このような措置はスペイン人上陸からわずか3ヶ月しか経っていない時期にとられている。いかに現地住民の感情が強かったかが分かる。

しかしポサディージョは強気であった。すぐに全酋長に召集をかけたのである。酋長らはこの命令に従わなかった。とりわけ反抗的として目をつけられていたネットとソケースの酋長は召集に応じれば、口を縫われ、村の中心部で絞首刑に処されるとの噂が流れていたこともあり、兵と武器を集め始めたのである。

命令に応じない反抗的な酋長に対し、ポサディージョは兵を差し向けた。自主的に召集に応じなければ、拘束せよと命令を出していたのである。しかし再度召集に応じないと通達されるとフィリピン人を主体とするスペイン兵団は行動に出た。しかし、すでに酋長側は準備を整えていた。猛烈な反撃を加えられたスペイン側は兵士17名、兵長2名を失い、敗走した。スペイン側で生き残ったのは10名ほどであった。

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<写真:1880年代のポンペイにおけるスペイン人コロニー、Mircronesian Area Research Center Guam>
翌朝には総督らが住むメセニエンは、ポンペイ兵に包囲されていた。多くの非戦闘員は、カプチン・フランシスコ修道会の仲介により行われた和平交渉の間に、包囲網をかいくぐり、環礁内に係留していた平底船マリア・デ・モリナ(Maria de Molina)に逃げ延びることができた。しかし7月3日夜、わずかな側近とともに逃亡をはかったポサディージョ総督は、環礁に浮かぶ船にあと少しの浅瀬地帯で、追手に追いつかれ、その場で殺害された。そしてスペイン人らが陣取っていたメセニエンは、徹底的に破壊、解体された。

平底船に逃げ延びたスペイン人らとの和平は、米国人のプロテスタント宣教師フランク・ランドによって仲介され、成立したが、生き残った約90名のスペイン人が再上陸を果たすには、3ヶ月後に700名の兵士とともに到着した3隻のスペイン艦船を待たなければならなかった。それまではカヌーで運ばれてきた水と食料で生きていたとのことである。

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<写真:建造当初のスペイン砦、Mircronesian Area Research Center Guam>
新たに総督となったカダルソ(Cadarso)は、この植民統治の失敗を受け、自らを守るために堅牢な砦を張り巡らせ、その中にカフェ、病院、兵舎、英国風の総督公邸などを建設した。現在はほとんど残っていないが、砦の周縁には堀が張り巡らされていた。西の端には木造の構造物が、海に面した場所には、二つの木造の要塞状の小屋が建てられていた。ここから海岸と海岸に至る斜面に向け砲撃できるようになっていた。この砦は、1886年5月17日に即位したばかりのスペインの新王にちなんで、アルフォンソ13世砦(Fort Alfonso XIII)と名付けられた。

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<写真:スペイン総督府前、Mircronesian Area Research Center Guam、1899年頃>
スペインは、1899年にドイツに売却するまでの13年間、この地を統治した。ポンペイ島を含むカロリン諸島全体の売却価格はたったの2,500万ペセタだった。

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時は流れて、現在ではポンペイ島民の憩いの場となっている。

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by iyasaca | 2014-05-10 07:15 | ミクロネシア連邦 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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