勝手に僻地散歩



カテゴリ:沖縄( 13 )


名護市庁舎にいってみた

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那覇より国道58号線を北上し名護市に入ると、ほどなく右手に燻んだ紅色の格子が目を惹く建物が目に入る。名護市庁舎である。

行政地区としての名護市の歴史はさほど古くない。1970年に1町4村の合併で発足したのである。行政サービス提供の拠点たる市庁舎建設は、名護市発足当初からの念願であった。

建設にあたっては、敷地の選択から検討が行われた。名護市市庁舎建設委員会における慎重な審議の結果、市街地の中心部にあった教育委員会の敷地を活用すると決定した。

設計については公募することとなった。市庁舎設計の精神については、「名護市庁舎設計競技の趣旨」に見事に表現されているので、抜粋して紹介する。

主催者は、今回の競技において・・・「沖縄における建築とは何か」、「市庁舎はどうあるべきか」という問いかけに対し・・・、沖縄の風土を確実に把え返し、地域の自治を建築のなかに表現し、外にむかって「沖縄」を表明しうる建築をなしうる建築家とその案を求めるものである。

この公募には308件の応募があった。第一席入選者に選ばれたのは象設計集団である。この名護市庁舎は象設計集団の代表作となる。

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市庁舎の建設は、市制施行10周年の記念事業として1980年3月に着工、翌年4月に竣工した。朱色に塗られた柱は、琉球伝統の瓦の色を想起させる。格子状とすることで、自然の風を活かし、年間を通じ、空調を要さないよう意匠を凝らしている。柱の上には、56体のシーサーが鎮座している。この56という数字には、名護市内の55の集落の数と中心たる名護市役所の1を加えた数であると言われている。

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シーサーの数についての真相は、市庁舎建設当時に名護市教育長の座にあった比嘉太英氏が週刊レキオ1388号の島ネタCHOSA班にて語っている。
 「・・・シーサーね。当初はね、シーサー乗せる計画すらなかったんですよ。でも館(庁舎)ができたでしょ、沖縄では屋根にシーサー乗せるさー。だから、柱に乗せようと数えたら56本あって、構造上問題ないっていうし、せっかくだから全部に乗せようってね。シンプルな話よー」

ということらしい。おおらかな話である。

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名護市庁舎にあるシーサーには、さらなる効果もあったようである。比嘉氏によれば
「名護は戦前からヒートゥ(イルカ)が貴重なタンパク源でね。最盛期には一度に300頭もの群れが来ていたわけ。でも潮の関係とか法律が変わって、今は来なくなったさ。漁師さんたち困ってね、”56ものシーサーが海ににらみを利かせているからヒートゥが来なくなった“って抗議もあったりしてね」

風土を捉え、自治の精神を顕現し、外に沖縄を表明する名護市庁舎は、1981年、第33回日本建築学会作品賞を受賞している。
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by iyasaca | 2014-01-11 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

座喜味城にいってみた その2 - 護佐丸の最期と第一尚氏王統の終焉

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<写真:座喜味城正面>
1458年8月、泰久王は中城の護佐丸討伐を勝連の阿麻和利に命じた。この背景を中山世譜はこのように記述している。少し長いが引用する。

阿摩和利。巧言非之。王被讒惑。遣人窺看。果有 整兵之状。
王大驚。便命阿摩和利。爲大將。急發大軍。寅夜前往。圍得中城。水洩不通。
護佐丸。仰天嘆曰。吾何罪如此。其臣士等人大怒。皆要出戰。
護佐丸止之曰。王命也。豈可違也。自刎而亡。

(意訳:阿麻和利は言葉巧みに、護佐丸が謀反を企てていると王に伝えたところ、王は大いに驚き、阿麻和利を大将に任じ、大軍を中城に派遣した。阿麻和利軍は中城に水も漏らさぬ包囲網を敷いた。護佐丸は驚き、吾に何の罪があろうかと嘆いた。またその臣下も大いに怒り、全員で戦おうと呼びかけた。しかし護佐丸は怒る臣下を制し、これは王の命令であると自刃した。)

とある。

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<写真:正門に至るゆるやかな坂道>
さて中山世譜には阿麻和利のその後も記述されている。それによると護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、勢いに乗じて、その軍勢を首里に向けた。阿麻和利の目には王位簒奪の機会と写ったのだろう。しかし阿麻和利の正室で泰久の長女であった百度踏揚(ももとふみあがり)が大城賢雄(うふぐすくけんゆう)とともに、密かに勝連を逃れ、謀反の動きを王府に通報した。阿麻和利軍は、待ち受けていた泰久王の軍勢に接し、首里城を攻めきれず、勝連城に引き返し、籠城する。阿麻和利は奮戦したものの、最終的にはかつての家臣である大城賢雄の軍勢によって攻め滅ぼされた。

これが護佐丸・阿麻和利の乱とされている事件である。

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<写真:座喜味城外郭>
しかし興味深いことに、このあたりの記述は中山世鑑には見られない。おもろさうしにも勝連の阿麻和利の記述はあるが、護佐丸の記述はない。座喜味周辺の民話や伝承にも護佐丸は出てこない。異本毛氏由来記には、護佐丸という名前自体が死後に与えられたとされる可能性も語られている。

さらには乱の経緯も不可解である。中山王は警戒していたはずの阿麻和利の言葉を簡単に信じていること、護佐丸が申し開きもせずに戦わずして、自害していること、阿麻和利の終焉の地とされている勝連城に大規模な戦闘の考古学的痕跡がないことなど、謎は深まる。

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<写真:座喜味城、石垣は沖縄戦の際に一部破壊されていたが、その後復元>
しかし乱の結果として泰久王は、王府を脅かす武力を持っていた両按司を排除することに成功した。尚泰久は、護佐丸阿麻和利の乱平定の2年後に没し、その三男が尚徳王となる。その尚徳王の治世も長くはなかった。1469年、尚泰久時代の重臣で隠遁中であった金丸が尚徳の久高島参詣の最中にクーデターを起こしたのである。尚徳王は、異変を聞き、首里に戻る船で命を落としたと言われている。そして護佐丸の末裔は、第二尚氏王統初代の王となった金丸=尚円(在位1469-1476)に登用され、その子孫は五代姓として首里王府を支える名門として栄えていく。何とも皮肉なことだろう。

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<写真:座喜味城入口付近に展示されているサーターグルマ(砂糖車)>
最初の統一王朝も何処の馬の骨かも分からない羽地という弱小豪族から身を立てた青年によって樹立され、またその王朝も誰の子かも伝わっていない家臣によって葬られている。その後の時代においても、薩摩藩に併合され、米軍との戦いの舞台となった末に米国に支配され、そして現在でもその戦いの痕跡が色濃く残っている。この激しい歴史を知った上で、沖縄の青い海と白い砂浜を見れば、また違った景色に見えはしないだろうか。
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by iyasaca | 2013-04-13 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

座喜味城にいってみた その1

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1416年、北山攻略の軍勢を率いる武将の中に、一人の若者がいた。今帰仁按司を曽祖父に持つ護佐丸盛春(ごさまる・せいしゅん)である。今でも沖縄で高い人気を誇るこの人物の実像は謎に包まれている。護佐丸の拠点であった座喜味周辺の民話や伝承に護佐丸は登場しない。琉球の万葉集と言われる「おもろさうし」にも護佐丸の記述はない。それでも護佐丸は、琉球史に彩りを与える武将として、語られ続けているのである。

1322年、今帰仁按司であった護佐丸の曽祖父は、後の北山王、怕尼芝(はにじ)に攻められ、今帰仁を明け渡した。今帰仁按司の子である読谷山按司や伊波按司らは、近傍の有力按司のもとへ落ち延びた。

護佐丸は、伊波按司の次男の息子として1390年頃生を受けたと伝えられている。1416年、北山攻略第二軍の指揮官として800の軍勢を率いていたときの彼の年齢は20代前半ということになる。進軍する護佐丸の頭には曽祖父の無念を果たす時が来たとの思いがあったことであろう。

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<写真:座喜味城内部。赤土には見えない>
今帰仁城の攻防戦は、中山側の勝利に終わる。護佐丸は攻め落とした今帰仁城に北山守護職として入城し、未だ不安定な北山を監視するため、中山王より座喜味の地に城の建築が命じられる。護佐丸はかつての居城である山田城から石材を運び出し、赤土の軟弱な大地に座喜味城を築城する。

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<写真:座喜味城の石垣、保存状態が良い>
1422年の座喜味城の完成に伴い、巴志は今帰仁に二男尚忠を北山監守として据え、護佐丸を座喜味城に移した。護佐丸はこの城から18年間、尚氏王統を支えることになる

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<写真:第一尚氏王統の系図>
尚巴志の死後、統一王朝は王が目まぐるしく変わる時期を迎える。その後の琉球王の平均在位は5年未満で、いかに沖縄最初の統一王朝が不安定であったかを物語っている。尚巴志の死からわずか14年後、第5代琉球王尚金福が55歳で世を去ると、ついに跡目争いが武力抗争にエスカレートする。この王位をめぐる武力抗争は志魯布里(しろふり)の乱として史書に記録されている。

志魯布里というのは跡目争いの当事者二人の名前である。志魯は、亡き金福王の子、布里は金福王の弟であった。両者の力は拮抗していたがため、やがて消耗戦となり、その過程で首里城は焼失する。戦乱は両者が斃れたことで終結した。王位は結局志魯にも布里にも渡らず、布里の弟で尚巴志の七男の泰久が継いだ。泰久が大いなる策謀家であったのか、単なる漁夫の利だったのかは分からない。

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<写真:座喜味城内建物跡周辺>
尚氏の混乱ぶりを周辺の有力按司は、好機と見たに相違ない。この機会に乗じて勢力伸長を狙ったことであろう。しかし尚氏側も無策であったわけではない。有力按司らと姻戚関係を結ぶことで求心力を維持しようとしていた。尚巴志が没した翌年の1440年には中城に移っていた護佐丸の娘が泰久王の正室となっており、護佐丸の叔母は尚巴志の妃となった。また伸長著しい勝連城按司の阿麻和利(あまわり)の正室は、尚泰久の長女百度踏揚(ももとふみあがり)であった。姻戚関係を結び、政略を巡らせるのは古今東西同じである。
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by iyasaca | 2013-04-04 23:20 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その4

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<写真:テンチジアマチジ(カナヒヤブ)の御嶽 城中で最も神聖な場所 かつては男子禁制の神域>

攀安知の治世時(1401-1416)、中山はまだ乱れていた。1406年中山王の武寧王は、佐敷按司の巴志(はし)に攻め滅ぼされ、父思紹(ししょう)が新たに王位に就いていた。攀安知が行動を起こそうとしたこの時期は、 思紹父子が中山の王位を簒奪してから10年しか経っていないという時期である。すでに20年も王位にあった攀安知としても好機と見たのだろう。中山を南から脅かす南山も、1413年に王の暗殺があり、他魯毎(たるみい)が南山王に就いてから、それほど時間も経っていない時期でもあった。それゆえに攀安知には、一気に琉球統一ということも頭にあったのかもしれない。

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<写真:志慶真門郭(しじまじょう) 城内東部分 重臣の居住区画>
ところが攀安知の強権的な支配に日頃から不満を抱く国頭(くにがみ)、名護、羽地の諸按司が中山攻略に向けた軍の動きを中山王の思紹(ししょう)に伝え、機先を制し、山北を攻めよと進言した。

思紹は、その進言を容れ、息子の巴志(はし)に命じて山北に攻め入った。しかし今帰仁城の守りは固かった。膠着状態に陥ったのである。このことは、この城構えを見れば容易に想像できる。ましてや、北山王には勇猛な軍勢がついていたのである。そこで巴志は計略を巡らせる。城内に陣取る攀安知の腹心、本部平原を籠絡し、謀反を促したのである。本部はその話に乗る。

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<写真:金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸) 国宝 那覇歴史博物館所蔵>
本部は攀安知に言う。「王は表、私は裏から攻め、敵を挟み撃ちにしよう」。信頼していた臣下からの言葉を攀安知は行動に移す。攀安知は城外に出て、巴志への攻勢をかけたのである。ほどなく、背後の城中から火の手が上がった。裏切りを知った攀安知は直ちに引き返し、城内にて宝刀千代金丸(ちよがねまる)で本部を斬って捨てる。さらに自らの運命を呪った攀安知は、城の守護神イビガナシを祀るカナヒヤブの霊石(上に写真あり)を十文字に斬りつけた後に、千代金丸を志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で自害して果てた。3代北山王統はここに滅びたのである。投げ捨てられた千代金丸は、川から回収され、中山王に献上、その刀が現在にも伝わっている。

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<写真:おまけ。古そうな写真。撮影日時ほか不明>
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by iyasaca | 2013-01-26 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その3

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<写真:旧道 大庭(うーみやー)へと続く参道。敵兵襲来に備え、道幅が狭い>
攀安知は、珉の後継である。明実録には1396年から1416年の19年間に複数回の朝貢の記録が残る。この攀安知が北山最後の王となる。北山の滅亡と尚氏の統一王朝の成立までのここからの記述は、中山世鑑(ちゅうざんせかん)、中山世譜(ちゅうざんせいふ)に拠る。

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<写真:中山世鑑 沖縄県指定有形文化財 沖縄県立博物館・博物館所蔵>
中山世鑑とは、1650年に羽地朝秀が王命により編纂した琉球王国初めての正史である(全6巻。和文体)。

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<写真:中山世譜 蔡鐸本 沖縄県指定有形文化財 沖縄県立博物館・博物館所蔵>
中山世譜とは、1697年に蔡鐸によって編纂が始められ、1701年に成立した漢文の史書である。中山世鑑を主たる原典としており、中国との関係を中心にまとめた部分(正巻5)と、薩摩藩など日本との関係を中心にまとめた部分(附巻1)とに分かれている。その後、蔡鐸の子の蔡温が加筆修正を加え、正巻13、附巻7の構成となった。いずれも沖縄県立博物館に所蔵されている。

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<写真:大庭。政治・祭祀が行われた場所。正面に正殿、右に南殿、北に北殿があった>
さて短い在位に終わった先王珉の没後、不安定であったであろう北山を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評された攀安知が、堅牢な今帰仁城と自らの「勇剛驍健(ゆうごうぎょうけん)」な軍勢を背景に、有力諸按司を次々と支配下に置き、統治体制を強化していった。即位から20年を経た1416年、北山統治に一応の目処が立ったのだろう、腹心の本部平原(もとぶていばら)とともに、いよいよ中山へ進出しようと兵馬の準備に入ったのである。
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by iyasaca | 2013-01-19 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その2

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<写真:平郎門(へいろうもん)、現在の正門>
今帰仁城の来歴にかかわる一次資料は残っていない。発掘調査などの成果から、築城が始まったのは13世紀末頃との説が有力ではあるが、文献・資料にそれを示すものはない。これだけの威容を誇る大グスクであるにもかかわらず、この城が誰によって、いつ造られたのかすら正確には分からないのである。今帰仁城と北山に関して、確認できる最も古い記述は、「大明実録」(俗に明実録、皇明実録)にまで下らなければならない。

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<写真: 『皇明実録』 明・胡広等奉勅纂修及び、楊士奇等奉勅纂修 東北大学附属図書館蔵 残本 計四十巻 一帙七册 明末内府鈔本>
大明実録は、14世紀後半から17世紀後半の明太祖洪武帝から熹宗天啓帝に至る十三帝の実録で、通行本(日本に伝わる写本群)は2,999巻、紅格本(北平図書館旧清朝内閣大庫に所在)の抄本は3,058巻と残る写本によって多少のバリエーションがある。(写本の系統については、川勝賢亮九州大学名誉教授の研究に詳しい。

その大明実録に、琉球国山北王として、「怕尼芝(はにじ)」、「珉(みん)」、「攀安知(はんあんち)」の三王の名前が登場する。しかし歴代の王についての記述は短く、出生も統治期間も17世紀以降にようやく編纂され始める資料や口承、伝承に頼らなければならない状態である。やはり300年から400年という時間の隔たりは大きい。

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<写真:おもろさうし 尚家本 国指定重要文化財 沖縄県立博物館・美術館蔵
怕尼芝(はにじ)とは、羽地按司(はねじあじ)という音に似ていることから、もとは羽地を治める按司であったと推定される。17世紀初頭(1531~1623年頃)までに編纂された沖縄最古の歌集「おもろさうし」の中にも怕尼芝が王になる経緯が詠われているらしい。あちこちに「怕尼芝は従兄弟の子で山北王である今帰仁按司を討ち、自らが山北王となった」とおもろさうしの中で詠われているとあるが、おもろさうし全文データベースでは確認できなかった。該当箇所をご存じの方がいたら教えていただけると幸いである。

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<写真:沖縄戦により灰燼と化した首里城 首里振興会のサイトより>
ところで、おもろさうしの原本は1709年の首里城火災の際に焼失した。火災の翌年に再編纂され、尚家に納められた尚家版も20世紀の沖縄戦で焼失したと考えられていたが、米国に持ち去られていたことが戦後判明、1953年に返還され、現在は沖縄県立博物館に収蔵されている。

いずれにしても、おそらく怕尼芝は、この辺りの地域の覇権を争った末に、天然の要害でグスク建造の適地である今帰仁を居城としたと考えられる。統治期間は1322年から1395年とされているが、73年は一人の王の統治期間としては長すぎる。代々「怕尼芝」を王名として使用していたのであろう。言ってみれば、エリザベスとかチャールズと言わずに、英国王と表記されているという感じだろう。明実録によると1383年から90年の7年間に6回朝貢したと記録がある。

珉は、先代怕尼芝の後継として登場する。1395年に珉の事績として明へ朝貢したとの記録があるが、それ以外の記述はなく、在位は短かったと思われる。珉王の後を継ぐのが攀安知、北山の三代目で最後の王となる人物である。
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by iyasaca | 2013-01-12 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

今帰仁城址にいってみた その1

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今帰仁(なきじん)城址に来ている。今から700年ほど前の三山分立時代、三代で潰えた北山王の居城である。
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<写真:外郭。城壁の上面に攻撃・防御用の胸壁が見える>
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今帰仁城は、沖縄本島北部、親泊の海岸から南へ1.5キロほどの場所にある標高100メートルほどの丘にある。西から東の方面に、せり上がるように盛り上がった丘の斜面には、石灰岩を積み上げた10メートルほどの高さの城壁が曲線を描くように築かれている。外周は1,500メートルに及ぶ。
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北、東、南側は断崖絶壁で、天然の要害となっている。1972年5月15日に「今帰仁城跡」として国の史跡に指定されたときには、丘の頂きの主郭しか確認されていなかったが、その後、西の斜面に二の丸、北殿跡、大庭(うみやー)、御内原(おうちばる)、最後部の低地の曲輪、そして外郭と遺構が次々と確認され、2010年2月22日には今帰仁城跡附シイナ城跡として再指定された。今帰仁城は、南北に350メートル、東西800メートル、総面積3万7000平方メートルの広大な敷地に7つの郭が連なる、首里城に匹敵する大グスクだったのである。

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<写真:戦前の今帰仁城、田辺泰撮影、1934年>
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by iyasaca | 2013-01-05 00:00 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄に行ってみた その6 -ミトコンドリアDNAから探る日本人の起源

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日本人はどこから来たのかという問いに答えるべく、人骨や石器の痕跡を探ってきた。

日本の国土の大部分が酸性土壌であることから、旧石器時代の人骨はほとんど残っていない。沖縄を中心に発掘された旧石器時代の人骨は、多めに数えても9体のみである。このサンプル数では、どの集団がどこから来たのかというについて、推測を行うことすら困難である。

石器については、施されている製造技術から、石器を携え移動した思われる人間集団の大まかな流れを推測することができた。細石刃石器の分布状況から、2万年前以降にシベリアから北海道・東北地方へと入ってきたルート、剥片尖頭器の分布状況から2万7,000年前に朝鮮半島から九州へと入ってきたルート、そして東南アジア地域(スンダランド周辺)から1万8,000年前に入ってきたルートの3つが推測できる。

ここでは近年の分子生物学の挙げている成果を引くことで、今までの人骨や石器の研究成果と重ねあわせていく作業を行う。いくつかの方法論が存在するが、ここではミトコンドリアDNAを用いた分析を主に話を進めていく。

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さて現代日本人1,000人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの調査がある。その調査によると現代日本人には20種類のハプロタイプが存在することが分かった。その中で最も多いのはD4タイプで全体の32.61%を占める。二番目に多いタイプがBの13.26%であるので、D4の多さは突出している。D4タイプは日本国外では朝鮮半島や中国北東部に多い。このことから、日本人の3割は、高い確率で朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたグループであると推測できる。ただいつ頃渡ってきたのかはこれだけでは分からない。

ここにもう一つの調査がある。北海道縄文人、東北縄文人、関東縄文人のそれぞれのミトコンドリアDNAを調べたものである。この調査によると縄文時代(今から6,000年ほど前の時代)にはD4を含むDグループは多数派ではなかった。縄文関東人こそDグループの占める割合が25%であったが、東北では10%、北海道では13.6%しかいない。しかもこの時代に多く見られるのはD4ではなく、D10という異なるタイプであった。縄文時代にいなかったD4が、現代日本にこれだけ多いことを考えると、D4グループの大量流入は縄文時代以降であったということになる。

N9bの分布の変遷も興味深い。N9bは、現代日本人に2.13%しか見られないタイプだが、北海道縄文人に65.9%、東北縄文人に41.7%という高い割合で見られるタイプである。N9bは、現代のアムール川流域の先住民に多く見られるタイプであること、この先住民に見られる4つのハプロタイプと一致する集団は北海道アイヌだけであること、そして南方に痕跡がないことなどから、北方から渡来してきた集団であると推測できる。

縄文時代のミトコンドリアDNA調査でもう一つ特徴的なのは、東北縄文人に占めるM7aタイプの多さである。このハプロタイプは東北縄文人の50%を占めている一方、北海道縄文人に占める割合は6.8%、関東からは5%でしかなかった。

M7aタイプは現代日本人の7.47%でしかないが、現在でも海道では16%、沖縄には20%という高率で確認されている。日本国外ではフィリピンのルソン島など東南アジアの島嶼部、中国南部、チベットにも多く見られるタイプでもあることからM7aタイプの集団は南方から日本に渡ってきたと推測できる。しかしなぜ本州から消え失せ、北海道と沖縄に多く残っているのかは謎である。

そのほかにも現代日本人の13.26%を占め、ベトナム北部に分布が多いBタイプ、6.86%を占め、シベリア東部の先住民やアイヌに見られるG1bタイプ、5.34%を占め、タイ、中国南部、台湾に見られるFタイプなどが現代日本人に多く見られるハプロタイプで、それぞれ流入経路も推定できる。これら三つのタイプは縄文時代にも確認されている。

さてルートと流入の時期については縄文時代と弥生時代の境目を一つの基準に、ある程度仕分けることができるが、最後にそれぞれの流入ルートと流入量について考察を加えたい。

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<表:Shuzo Koyama, "Jomon Subsistence and Population", Senri Ethnological Studies no. 2, 1–65 (1978). (b) 小山修三, 『縄文時代』, 中央公論社, 1983>


この表を見ると縄文期においては、北方からの流入が圧倒的に多かったことが分かる。おそらく北方から渡ってきた集団は、より温暖で食料等も豊富で、広い平野である生活のしやすい関東まで南下を続け、そこで滞留したという推測ができる。抗争に敗れるか、天変地異以外の理由で、温かいところからわざわざ住みづらい寒冷地に移動することは考えづらい。寒冷地よりも温かい場所で生活したいというのが人間の感情として自然であるし、ましてや人口密度もさほど高くない当時の状況を考えると、北方から南方へという流入がメインであったという傾向は、縄文期以前も同様であったのではなかろうか。

この横長の表を眺めていると、縄文時代は一様に時間が流れていた平穏な時代ではなく、結構ダイナミックな時代であったことも分かる。縄文中期まで順調に増えていた人口が、その後弥生時代に入る直前までの2,000年間で4分の1に減っている。これだけの期間で人口が激減しているところを見ると、縄文時代に文化の連続性はさほどなく、流入した人間集団も、抗えない自然条件や戦乱などによって、吸収されたり、消滅したりするプロセスが繰り返されたのではないか。

弥生時代に入ると人口は劇的に増加する。雑穀と狩猟をメインとした生活様式から、稲作文化に切り替わったことが大きな要因であろう。このタイミングで稲作文化とともに、朝鮮半島から大量の人口流入があったことが考えられる。この人口流入の原因が自然環境の変化であるのか、朝鮮半島における戦乱の結果によるものなのかは不明であるが、弥生期以降はほぼ右肩あがりの人口増加がつい最近まで続いていたわけである。

要するに1,800年ほど前までは、日本列島へは北方、朝鮮半島・中国北東部、南方の3つのルートから、継続的に複数の集団が流入していた。主たる流入ルートは北方からであり、それは列島が大陸と陸続きでなくなった後も続いていた。縄文末期に何らかの理由で朝鮮半島経由で大量にD4グループが流入、おそらくこのグループが統一国家をつくっていったのであろう。強い武力と組織力なくして、全国に拡散することは考えにくいからである。

現在の日本人は、多くの民族集団が混淆して形成されていった。長い時間をかけて、あるときは中央集権的に、あるときは分権的に緩やかな統合体を構成していった我が国は、周辺地域とは異なるアイデンティティと文化を紡ぎだしていくことになったわけである。今回は取り上げなかった言語学の視点からも面白い知見が得られるだろう。これからも考古学、人類学、民俗学、分子生物学など諸分野の新しい成果の発表によって、より解像度の高い歴史が見えてくるようになるだろう。密やかにその成果を楽しみにしたい。
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by iyasaca | 2012-12-09 14:49 | 沖縄 | Comments(2)

沖縄に行ってみた その5 -遺伝子から探る日本人の起源

これまで、日本人がどこから来たのかを人骨、石器などの分析から見てきた。旧石器時代以前の人骨は、国土の多くが酸性土壌である日本にはサンプル数が著しく少なく、結論を導き出すことは困難であった。石器については、その形式・形態によって、大雑把な推測が成り立った。沿海州・樺太方面から入ってきたルート、朝鮮半島から渡ってきたルート、そして南方方面から島嶼を伝ってきたルートの3つである。旧石器時代の海水面の低さから、大陸と日本列島の一部が陸地で続いていた時代も長かったこともあり、十分に説得力がある。

f0008679_12324597.jpgこのエントリーでは、最新の分子生物学的分析から日本人がどこから来たのかについて迫ってみたいと思う。取り上げるのはミトコンドリアDNAの解析である。

理科の授業で習ったように、ミトコンドリアは、細胞内に存在する小器官で、直径は0.5μmである。1mmが1,000μmであるから、その大きさが分かるであろう。そのミトコンドリアの中にはDNAが存在する。
<写真:哺乳類の肺細胞のミトコンドリア、Public Domain>

このDNAは、細胞核のDNAとは異なるものである。人間のミトコンドリアDNAは概ね16kb前後で、37の遺伝子が含まれている。そして、この情報は母からのみ子に遺伝するという特性を持っている。

遺伝子の組み合わせから、ミトコンドリアDNAは80種類ほどに分類できる。それぞれをハプログループ(Haploの語源は「一つ」の意)と呼んでいる。

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<写真:Map of Human Migration, Wikipedia「ハプログループ」>
このミトコンドリアDNAの解析から、人類がどこで発生し、いつどこで分化し、どの大陸に移動していったのかというおおまかな動きが分かるのである。この手法を日本で発掘された縄文人の人骨に適用することで、日本人となる人間集団がどこからどのようなルートで入ってきたのかについて次回以降、詳らかにしようと思う。
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by iyasaca | 2012-11-03 12:33 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄に行ってみた その4 -石器の形態から探る日本人の起源

今まで日本人の起源について、発掘された人骨を通じて、書き連ねてきた。すでに述べたように、酸性土壌である日本には旧石器時代(1万6,000年以上前)の人骨はほとんど残っていない。骨片ですらサンプル数が少ない中、全身骨格は沖縄で発掘された港川人以外に例がない。一体のみの特徴をもって、他と比較し、当時の人間集団の動きを推測することは著しく困難である。その点、石器は酸性土壌に影響されず、数も多く残っている。そこで、石器の形式・形態などを通じて、旧石器時代の人間集団の動きを追ってみる。

出土した石器の年代測定方法は2種類しかない。
1)形態、形式からの推測
2)出土した地層の分析

f0008679_523284.jpg石器研究の現状について詳細を記述する能力はないが、旧石器時代にみられる石器の一つ、黒曜石(ガラス質の火山岩)でつくられた細石刃の伝播ルートの研究によれば、以下の図のような流入のルートがあったらしい。
<写真:細石刃、いせはら文化財サイトより>

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<写真:細石刃文化の拡散と分化、加藤晋平氏の研究より>
バイカルに起源を持つこの石器はシベリアを経て、約2万年前に北海道に流入している。その後5,000年をかけて、南に伝播していった。2万2,000年前は今より海水面が120メートルほど低く、シベリアと北海道は地続きであったことも付記しておく。(1万年前でも現在より海水面は70メートルほど低かった)


f0008679_5115831.jpgそのほか、朝鮮半島に見られる石器で、日本では九州にしか見られない剥片尖頭器などは、2万9,000年前の鹿児島湾あたりの噴火による火山灰の上から全てが出土している。このことから、朝鮮半島から剥片尖頭器を携えた集団はこの噴火後に渡ってきたとも推測できる。その時期は2万7,000年ほど前とされている。



<写真:剥片尖頭器>
一つ留意しなければならないのは、石器の研究では、いつの時代のものかを判定するにあたり、出土した地層の分析に依存するところが大きい。しかしながら、出土品が新しい時代に紛れ込んだ可能性は検証不能で、また意図せざるミスや捏造(誤ってか故意に古い地層に新しい時代の石器を落とす)の可能性を否定できない。これは致し方のないことである。

なお本稿では日本列島に人が渡ってきた時期を、4万年前としているが、近年岩手県金取遺跡から8万年前、島根県出雲の砂原遺跡から12万年前の石器が発見されたとの報道があった。さらなる分析が楽しみである。

<2014.1.3 追記>
2013年6月7日、砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)による調査結果が発表された。その結果、島根県砂原遺跡から出土した36点の石器は、約11-12万年前の国内最古のものであることが判明した。ただ「石器」が人為的に作成されたものか、自然成因のものかについては、研究者の間で議論があるようである。

<参考資料>
- 報道発表資料 島根県出雲市砂原遺跡学術調査(2009/9/29)
- 論文 成瀬敏郎(2010).島根県出雲市砂原遺跡から出土した旧石器の年代, 日本地理学会 e-journal Geo Vol. 4(2)47-51 2010.
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by iyasaca | 2012-10-27 05:41 | 沖縄 | Comments(0)


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