勝手に僻地散歩



カテゴリ:青森( 15 )


青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その6

新約聖書を構成する4つの福音書、パウロの書簡、公同書簡などを見てみると、多くの文書が誰が書いたものか分からない文書であることが分かった。特に福音書については、文書の名称にあるイエスの直弟子(使徒)の手によるものでないどころか、パレスチナに行ったことがない人物の手による文書も含まれている。キリスト教の創始者とも言えるパウロもイエスと面識がなかった。つまりイエスについての記述が最も豊富な新約聖書は、イエスを直接知っている人物によって書かれているわけではなかったのである。

しかしイエスは、後世にまで残る事績を残した聖人である。聖書以外にもイエスに関する記述が残っているはずである。次に聖書以外にイエス・キリストが記載されている文書を見てみる。

聖書以外でイエスに対する記述があるとされている文書は旧約聖書の解説書であるタルムード、イエスと同時代に生きたフラウィウス・ヨセフスによるユダヤ古代誌、ローマの歴史家である何とかの年代記などが挙げられることが多い。文献研究のさわりと結論だけ簡単にまとめてみる。

1)タルムード(Talmud)
旧約聖書の解説書。現代のユダヤ教の教派の多くは聖典として認めているが、全てではない。6部、63編から構成される。口伝律法をまとめる作業は2世紀末に始まり、現在の形になったのは6世紀ごろとされる。ヘブライ語で書かれている。

2) フラウィウス・ヨセフス(紀元37年?-100年) Testimonium Flavianum『ユダヤ古代誌』18:63-64 唯一フラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」にある、いわゆる「ヨセフス のキリスト証言」とよばれる一節である。

f0008679_013979.jpgまずタルムードである。

タルムードにはイエスへの言及が4ヶ所あると言われている。結論を先に言えば、イエスに言及されているとされる箇所の話は、いずれもイエスの生きた時代とずれており、内容も聖書に書かれている内容と一致しない。主語がイエスでない場合(ベン・スタダ、ベン・パンディラという人物をイエスと同一人物としている)もある。つまり無関係のエピソードを無理やりイエスに結びつけているように見える。またタルムードがイエスを冒涜しているという話もあるが、冒涜しているどころか言及すらされていないと理解するのが妥当だろう。(イエスについて触れているとされる該当箇所の分析については、ここに詳しい)また、タルムード自体が2世紀末から6世紀にかけて少しずつ編纂されて言った書物であり、イエスの生きた時代から時間的隔絶があることもイエスの実在を考える上では弱い点である。


f0008679_0155944.jpgもう一つはローマの歴史家タキトゥスの手による年代記である。年代記はティベリウス帝即位(AD14年)からネロ帝の死(AD68年)までを扱った全18巻の歴史書の15巻44章に以下の記述がある。

「そこでネロは、この(ローマに放火を命じたという)風評 をもみ消そうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の込んだ罰を加える。 それは日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」 と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、 ティベリウスの治世下(AD14-37)に、元首属史ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。」

タキトゥスはAD55年生まれで、ネロ帝の死が68年6月8日である。いずれにしてもイエスの死後に生まれており、その記述も伝聞にとどまっている。

f0008679_0181966.jpg最後にフラウィウス・ヨセフス(紀元37年?-100年) の手による「ユダヤ古代誌」がある。フラウィウスの最晩年の95年頃完成したと伝えられるもので、18巻63に以下の記述がある。

「このころ、イエスという賢人―実際、彼を人と呼ぶべきであるとすれば―が生きていた。驚くべき業を行い、喜んで真理を受け容れた人々の教師であり、多くのユダヤ人とまた多くのギリシャ人 を誘って帰依させた。彼はキリストであった。ピラトは彼が、われわれの間の高位の人びとによって告訴されると十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった人びとは彼を愛することをやめなかった。というのは三日目に彼は復活して彼らに現れたのは、神の預言者たちがこれらのことと彼についての、その他の無数の驚嘆すべきことがらを語っていたからであった。彼によってキリスト者と名づけられた族は今もなお消え失せてはいない。」

まずフラウィウスがイエスの死後に生まれている人物で、実際に上記を書いたのは95年というからイエスの生きた時代から一世代は離れている。加えて、当該部分は後世に書き加えられたものではないかという疑惑が16世紀頃からあった曰くつきの文書なのである。

結論的に言えば、イエスの生きた時代にイエスについて書かれた文書は一つも存在しないのである。イエスについて最も詳細な記述のある新約聖書についても、著者が高い蓋然性をもって確定できるパウロ書簡の一部を除いては、どこの誰が書いたものかを確定的に指し示すことができない文書群なのである。そのパウロもイエスとは面識がなかった。

聖書以外の文書についても、すべてイエスの死後50年後以降のものであり、他の資料を参照したか、伝聞によるものであると考えられる。したがってイエスの実在については、確実な一次史料を欠いているということになる。

しかし上記資料で一番信頼度の高いタキトゥスの年代記によれば、AD64年のローマ大火の際のスケープゴートにキリスト教徒が使われたという記載を考えると、イエスが実在したかしなかったかは別にして、西暦64年の段階ではすでに、キリストを信奉する集団が存在していたということは確実のようである。

私なりにイエス・キリストの姿を追ってみたが、イエス・キリストという人物は、その影までは見せるが、決してその姿を見せないのである。イエスが生きた時代は2000年も前、日本で言えば弥生時代の話である。日本で弥生時代に生きた人物の発言は一つとして残っていない。したがって痕跡だけでも残っていること自体、奇跡なのかも知れない。しかしそれでも、これだけ語られている人物の正体が知れないというのは不思議な話である。
[PR]
by iyasaca | 2011-12-10 22:38 | 青森 | Comments(0)

青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その5

聖書におけるイエスの記述は当然のことながら詳細であるが、一つとして誰によって書かれたかについてを確定的に指し示す証拠が残っていない。弟子が書いたという説は現在では主流ではないらしい。それでは一体誰が聖書を書いたのか。分かる範囲で聖書の著者の人物像に迫ってみたい。

すでに述べたように新約聖書は著書も成立時期も異なる27の文書から構成されている。誰々による福音書、パウロ書簡など、弟子が著者であるかのよう思わせる文書もあるが、弟子が書いたものでないと言う学説が主流を占めている。マタイ、ルカの福音書にマルコの福音書からの文言が多く引かれていることから、成立時期はマルコが一番早くAD70年前後ではないかと伝えられている。ちなみにマタイ、ルカにはマルコとは別のもう一つの共通資料(イエスの発言録的な資料)の存在があったとの説が有力である。ヨハネの福音書は最も新しく、3つの福音書とは記述が形式、文体ともに異なっており、別の成立過程を経たものと考えられる。

新約聖書はギリシャ語で記述されている。キリストが話していたとされるアラム語でもヘブライ語でもない理由は想像しかできない。しかも新約聖書は、教養人が用いる古典ギリシャ語(アチケー)ではなく、1世紀のローマ帝国内で用いられたコイネーと呼ばれる口語的なギリシャ語で書かれている。しかも全編を通じて、新約聖書のギリシャ語は洗練されていないと評されている。特にマルコによる福音書とヨハネ黙示録のギリシャ語は拙いらしい。ルカ、ヨハネの福音書、使徒言行録は同一筆者と見られ、用いられているギリシャ語の水準はマルコ、ヨハネより高い。

さて4福音書の特徴は以下の通りである。

マルコ:パレスチナ地方(ガリラヤ)の地理、ユダヤ人の習慣に疎く、誤りが散見される。ギリシア語が拙い。ラテン語的表現が見られる。ラテン語を母語とし、パレスチナに土地勘のない人物によって書かれたと思われる。

マタイ:旧約からの引用が多く見られることから、旧約聖書、ユダヤ教に詳しいが、反ユダヤ的色彩が見える。イスラエル王の末裔としてイエスを位置づけていること、文体などから、ユダヤ人キリスト教徒とまでは言える。

ルカ :パウロに同行した医師ルカではなく、使徒言行録と形式が似ており、同一著者が疑われる。ユダヤ教に詳しいキリスト教徒。イエスを見たことがないと記述している。ギリシャ語の水準は4福音書の中で最も高く、ヘレニズム世界で正規教育を受けた人物である可能性が高い。パレスチナの地理に疎く、ガリラヤ海を湖と変更するなど、パレスチナ以外の場所に住む人物と考えられる。

ヨハネ:ユダヤの地誌に詳しい。それ以上は分からない。著者は不明。

パウロ書簡、公同書簡など新約聖書を構成する文書は他にもあるが、真筆性が高いとされているパウロ書簡の一部を覗いては、新約聖書はどこの誰が書いたのか分からないというのが実態であった。

ただし残る写本はイエスの時代と一世代くらいしか離れておらず、また後世に伝わる他の写本とも合致する点が多いことから、内容については比較的原典に近いものが現代にまで伝わっていると推測ができる。 
[PR]
by iyasaca | 2011-12-03 00:37 | 青森 | Comments(0)

青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その4 - 文献からイエス・キリストの痕跡を探す

f0008679_214419.jpg
<写真:イエス・キリストを表す記号イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)、トルコ・エフェソス>
「救い主であるイエス」というとんでもない称号をもって呼ばれていたナザレ出身のパレスチナ人について文献資料の面から光をあててみる。

とりあえずイエスについて書かれた書物として思いつくのは、(新約)聖書がある。聖書とはいわゆるルカとかマタイとかいう名前がある文書群である。要するに身内である弟子が書いたもののようであるので、そこにいく前により客観的な一次資料がないかどうかを見てみる。

結論から言えば、イエス自身の手による著作は残っていない。何かを書き残したかどうかも不明である。やはり聖書から見ていくのが最良のようだ。

周知のとおり聖書は、ヘブライ語で書かれユダヤ教の聖典でもある旧約聖書とイエスの事績について書かれた新約聖書とがある。旧約聖書には天地創造やアダムとイブなどどこかで聞いたことがある話が展開されている書物である。旧約聖書はイエスと直接に関係しないので、これ以上踏み込まないことにする。

新約聖書は著者、成立時期の異なる福音書、使徒言行録、書簡など27の文書から構成されており、これらが「新約聖書」という一つのまとまった文書として認識されるようになったのは、紀元150-225年頃のこととされている。時代や教派の違いによって、他の文書が含まれることもある。

f0008679_21562499.jpgf0008679_21563442.jpg27の文書のオリジナルは残っていない。2,000年も前の話であるから致し方無いだろう。断片のみ残る最古の写本は、マンチェスターのジョン・ライランズ図書館で保管されているAD125年のものとされるライランズ・パピルス457(P52)である。
<写真:John Rylands Library Papyrus P52, verso&recto>

6.5センチ×7センチほどのパピルスの小片にはヨハネによる福音書18.31-32、37-38が記されている。記載は後世の写本の内容と一致するところが多く、聖書の写本が忠実になされてきたことを示唆している。

パピルスの写本はその他にも
f0008679_221375.jpg
<写真:Chester Beatty I (Gregory-Aland no. P45)>
チェスター・ビーティ・パピルス1号(P45)
・パピルスの冊子本で30葉が現存。(元は220葉?)
・四福音書、使徒言行録の一部が含まれる
・AD200年以降
f0008679_2231971.jpg
チェスター・ビーティ・パピルス2号(P46)
・86葉が現存(元は104葉?)
・AD200年以降
・パウロ書簡の一部(ローマ人への手紙、ヘブライ人への手紙,コリント人への手紙1,コリント人への手紙2,エフェソス人への手紙,ガラテア人への手紙,フィリピ人への手紙,コロサイ人への手紙,テサロニケ人への手紙1)
<写真:P. Chester Beatty II、 P46>
f0008679_2264239.jpg
チェスター・ビーティー・パピルス3号(P47)
・10葉
・AD200年以降
<写真:Chester Beatty III; Papyrus 47>
f0008679_2294855.jpg
ボドメル・パピルス2号(P66)
・ヨハネによる福音書の一部
・AD200年以降
<写真:P. Bodmer II、P66>
f0008679_2282314.gif
ボドメル。パピルス14号及び15(P75)
・ルカ、ヨハネによる福音書の一部
・バチカン写本1209号に近い
・AD200年以降
<写真:Papyrus Bodmer XV (p75)>

などがある。そのほかに新約聖書に連なる文書群の存在を間接的に示すものとしてはAD120年にスミルナの主教であったポリュカルポス(Polucarpus)が聖書の16の書物から引用している文書がある。

f0008679_22323331.jpg

完全体として現存する写本は4世紀中頃のものとされるシナイ写本(S01)がある。1844年にドイツの神学者ティッシェンドルフ(Constantine von Tischendorf)がシナイ山麓のギリシャ正教のサンタ・カタリナ修道院(St. Catherines Monastery)のゴミ箱から羊皮紙を発見したものである。旧約部分には欠損が見られたが、新約部分は完全であった。この写本は1862年にロシア建国1,000年の記念としてロシア皇帝に献上され、1933年に大英博物館に売却されている。この写本は献上される前にも一部が持ち出されていたようで、現在は大英博物館の他にサンタ・カタリナ修道院、ロシア国立博物館、ライプニッツ大学図書館の計4ヶ所に所蔵が確認されている。

f0008679_22333561.jpg
<写真:Codex Vaticanus>
シナイ写本とほぼ同時期のものとされる写本はもう一つある。バチカン写本(B03)である。この写本は、旧約聖書の一部(マカバイ記第1から第4及び、マナセの祈りを除く七十人訳聖書全巻=ギリシャ語訳旧約聖書)と、福音書、使徒言行録、パウロ書簡の一部、ヘブライ人への手紙の9章14節までが含まれている。ヘブライ人への手紙の9章14節以降と、公同書簡、フィレモンへの手紙、ヨハネの黙示録は失われている。この写本は、1475年のバチカン図書館の最古の目録にもあり、存在は知られていたが、1890年にようやく写真複製が許されたという文書である。

f0008679_22343788.jpg
<写真:Codex Alexandrinus>
5世紀前半にはアレクサンドリア写本が存在する。この写本はマタイによる福音書の大部分、創世記、詩篇、ヨハネによる福音書、コリントの信徒への手紙2の一部が欠損している。

以上、最も古い写本群について見てきたが、かなり古いものが残っているなという印象である。比較するのが適切でないかもしれないが、日本の場合、720年に編まれた日本書紀こそ9世紀の写本が残っているが、ほぼ同時期の古事記の最古の写本は14世紀のものであるし、733年に書かれた出雲国風土記に至っては1597年の細川本が最古である。それを考えると断片のみとはいえ、イエスの時代と100年ほどしか時間を隔てていない写本が残っているというのは、それだけ大切で重要なものとの認識が時代を超えて共有されてきたということなのだろう。
[PR]
by iyasaca | 2011-11-26 00:35 | 青森 | Comments(0)

青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その3 - イエス・キリストとは誰?

f0008679_20401787.jpg
<写真:La Bibbia di Borso d' Este, 15C、国立エステンセ図書館所蔵>
死後2,000年経った現在も20億人を超える信者に未だに影響力を保持し続けるイエス・キリストとはどのような人物であったのだろうか。少し順序立てて考えてみる。

キリスト教徒でない私のイエス・キリストについての知識は限られている。まとめてみるとこうだ。

1世紀初頭にパレスチナにあった人物で、母マリアが処女懐胎し、馬小屋で生まれた。長じて、キリスト教をあちこちで宣教し、奇跡を起こしたが、ユダに裏切られ、当局に捕らえられ、ゴルゴダの丘で磔の刑に処された後、復活した。髭面で痩せこけていた人物との印象がある。日本との関わりで言えば、信者そのものは少ないが、多くのカップルが教会で結婚式をあげ、クリスマス、バレンタイン、そして最近ではハローウィーンもイベントとして定着しつつある。

くらいであろうか。

f0008679_2101115.jpg
<写真:イエス・キリスト像、アヤソフィアのモザイク画>
まずイエス・キリストという名前から見てみる。

イエスは言語によって表記が大きく異なる。例えば、ギリシア語ではイエースース、イイスス、アラム語ではイエーシュア、ヘブライ語ではヨシュア、イエホーシューアなどである。英語ではジーザスであるし、イエズスなどの表記もある。いろいろあって分かりにくいので、ここでは全てイエスに統一する。

さてイエスという名前は、1世紀のパレスチナではありふれた名前であったようだ。日本で言えば、タローとかイチローとかいうようなイメージだろうか。キリストとはギリシャ語で「油を注がれた者」、転じて「救い主」を意味する。つまり、イエス・キリストは苗字と名前という組み合わせでなく、「救世主のイエス」という呼び名なのである。

ここで早速疑問が生じる。当時のパレスチナ人が日常で使っていたのはアラム語かヘブライ語であった。なぜパレスチナ人の呼び名にヘブライ語で救世主に相当する「メシア」という言葉でなく、ギリシャ語の「キリスト」という称号が用いられたのだろうか。

この点について、あちこちを参照してもなるほどと思える解説はない。イエスの事績を追った新約聖書がギリシャ語で書かれていることと関連している話であることは類推できる。要するに、ギリシャ語は当時のエリートが用いる言語で、現在で言えば英語のような位置づけにあった。(新約)聖書という形でイエスの教えを広めるにあたって、ヘブライ語やアラム語よりはギリシャ語の方が読者も多く、インパクトもあるという判断があったのだろう、という説である。深追いしても結論は「分からない」ということになりそうなので話を進めることにする。
[PR]
by iyasaca | 2011-11-19 00:34 | 青森 | Comments(0)

青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その2 - 竹内文書と神代文字の真偽

f0008679_66165.jpg

新郷村にあるキリストの墓にまつわる説明が典拠とする竹内文書は、一般に偽書とされているようだが、実際のところはどうなのだろうか。

まず竹内文書と言う場合は、以下の4つを指しているようだ。
1)神代文字で記された文書
2)平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳された写本群
 平群真鳥は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫。
 写本は武烈天皇(第25代天皇、489年-507年)の勅命による
3)文字の刻まれた石
4)鉄剣

f0008679_20241828.jpgこれらの存在は平群真鳥の末裔の武内家に婿入りした竹内巨麿氏によって公にされた。しかし武内氏はその後、新興宗教を立ち上げ、不敬罪で裁判にかけられた。神宝を含む4,000点あまりの文書は証拠資料として裁判所に提出され、その後東京大空襲によって焼失した。
<写真:竹内巨麿>
現在残っているのは、竹内巨麿と一部の研究家によって写筆された資料に基づく『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)という解説書と焼け残ったわずかな「神宝類」だけである。

f0008679_5342876.jpgつまり厳密な検証を可能とする文書はもはや現存しないのである。しかし消失する前の1935年、京都帝国大学文科大学の初代学長(現代の文学部長に相当)まで務め、当時書画や刀剣の鑑定を生業としていた狩野亨吉氏が、「日本医事新報」からの依頼を受けて、竹内文書の一部について、鑑定を行っている。
<写真:狩野亨吉氏、安藤昌益研究の大家>

鑑定のため持ち込まれたのは竹内文書そのものではなく、7枚の写真だけであった。実際に鑑定を行ったのは、提供された7枚のうち5枚、それぞれ長慶太神宮御由来、長慶天皇御真筆、後醍醐天皇御真筆、大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆、大日本国太古代上々代神代文字之巻を写したものであった。

狩野氏は、1936年6月に岩波書店の「思想」上で、書体、文体、内容の観点から竹内文書は偽書であるとの鑑定結果を寄稿した。鑑定結果の概要は以下の通りである。なお、全文は青空文庫で参照できる。

1)長慶太神宮御由来
→明治後期以後に書かれたもの
江戸期以降に特徴的な文体表現が見られ、文法的に誤りが多い。存在しない官位への言及もあり、典故について知識があるとは認められない。書体は幕末三筆の一人である書家・巻菱湖の影響が見られるが、それほど上手ではない。従って天保年間(1830-43)以降に素人によって書かれた書であると言える。

2)長慶天皇御真筆
→筆法が長慶太神宮御由來と同じ。明治後期以降の作。
わずか30字足らずの手紙であるが、第一行の第一字から「鳴」を「嗚」と間違えるなど誤字・当て字・衍字(誤った不要の字)・脱字が多い。書体は「長慶太神宮御由來」を書いた人のものと酷似している。同一人物による書と考えるのが妥当。

3)後醍醐天皇御真筆
→1,2と同一の筆者であり、書状の日付が後醍醐天皇崩御後となっている。
真筆とされる2枚の書状にある日付は1341年9月6日と9月12日となっている。しかし後醍醐天皇は1339年8月16日に崩御されている。

4)大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆
拙い文章で、発音上「シ」「ス」の区別がなされていない。シとスの区別がないのは、出雲か東北出身者であるが、平群真鳥はいずれでもない。文法上の誤りが1,2,3と共通するが、筆跡は異なる。いずれにしてもく、中央政府の要職である大臣の地位にあった人物の手による書とは考えにくい。

5)大日本国太古代上々代神代文字之巻
f0008679_5401913.jpg
数字に注目して、神代文字の解読に成功。平安期以降に確立した50音図に引きずられており、漢字渡来以前の文字形式とは考えにくい。

狩野氏の鑑定文は端々に天津教への反発をあらわにし、感情のほとばしりを強く感じる。加えて、文書の現物ではなく写真を通じても鑑定ではあるということを割り引いても、文体、文法、内容などの分析は説得的で、少なくとも鑑定対象となった文書は、江戸期以降に作られたものと判断せざるをえない。

竹内文書のほかにも象形文字のような神代文字が用いられている書はいくつかある。よく出てくるのは、「九鬼文書(くかみもんじょ)」、「宮下文書」、「上記(うえつふみ)」、「秀真伝(ほつまつたえ)」、「三笠紀」、「大友文書」、「神字日文伝」などであるが、いずれも信ずるに足る材料がない。

漢字以前に日本に文字がなかったとされる証拠は他にもある。
1)隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國伝
f0008679_5404681.jpg
<写真:隋書。以下の該当箇所はもっと後ろ。>

無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字
倭国には文字がなく、ただ木を刻んで印をつけたり、縄を結い、縄目をつける、それだけだったが、仏法を敬うようになり、百済に仏典を求め、得た頃から文字を使い始めた、とある。確かに縄に結び目をつけることで記録していたのは文字がなかったインカにも見られ、しっくりくる話だ。

2)二中歴
f0008679_5461845.jpg
<写真:二中歴。重要文化財、財団法人前田育徳会所有>

年始五百六十九年、内卅九年無号不記支干、其間結緙刻木、以成政
<中略>
明要十一年元辛酉文書始出来結縄刻木止畢
13帖からなる鎌倉時代の書。現存する際この写本、尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。重要文化財に指定されている。「古くは号もなく、干支も使われておらず、その間は縄を結び木を刻み、政治をしていた」とある。さらに、元年の干支は辛酉(541年)。初めて文書ができた、結縄刻木を終わらせた

3)、古語拾遺 一卷 加序
f0008679_604544.jpg

<写真:古語拾遺、龍門文庫写本(室町末期)、阪本龍門文庫所蔵。最古の写本は嘉禄本(1225年)>

蓋聞 上古之世未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行存而不忘
9世紀の書。最古の写本は卜部兼直の書写の嘉禄本(1225)とされている。

聞くところによると上古の時代には文字がなく、貴賎老少に至るまで口伝えで伝えられ、忘れることがなかった

書物に残されている象形文字が漢字渡来以前のものとする説には、さらに多くの疑問がある。神代文字とされる象形文字のほとんどが平安時代以降確立した50音図と同じであることである。例えば奈良時代の日本語は88音節あったことが分かっている。平安時代以前の上代日本語の痕跡が神代文字には見られないのである。

さらに決定的なのは、象形文字らしきものが刻まれた土器・金属器・木簡が、縄文、弥生時代の遺跡や古墳から一つも見つかっていないことである。

焼失した4,000点にも及ぶ竹内文書の一部には古い時代からの書物が含まれていた可能性までは否定できないが、サンプル調査による書体、書式、内容の分析、神代文字などが書きつけられているという事実などから、これらの文書群は後世、おそらく江戸期以降に作られたものである確率が極めて高いと言える。したがってその資料を典拠としたキリストの墓の説明もフィクションの世界に属するものと考えていいだろう。ロマンチックな結論に至らず、残念である。
[PR]
by iyasaca | 2011-11-12 23:12 | 青森 | Comments(0)

青森県三戸郡新郷村 キリストの墓にいってみた その1

f0008679_9432482.jpg
青森県三戸郡新郷村戸来に「キリストの墓」がある。
f0008679_9472388.jpg
県道沿いに入り口があり、丘の上にキリストの墓と資料館がある。

f0008679_9502649.jpg
キリストが生きた時代と言えば、日本では弥生時代中期にあたる。現存するこの時期の書物は日本にはなく、考古学的な痕跡を洗う以外に方法がないはずだが、園内の案内板や資料館内の説明は確信に満ちている。その内容をかいつまんで紹介する。
f0008679_9481657.jpg
<写真:奥がキリストの墓である十来塚、手前はイスキリの墓、十代墓>

説明によると根拠となっているのは、竹内文書(たけうちもんじょ)と呼ばれる古文書にある。神代文字と呼ばれる象形文字のようなもので書かれた竹内文書を解読した竹内巨麿氏は、1925年この地を訪れ、キリストの墓を捜索した。ほどなく、文書にある通り、新郷村でイエス・キリストの墓を発見した。

さらに竹内文書には衝撃的なことが書き連ねられている。イエスは21歳の時に初来日し、12年間神学について修業を重ね、33歳の時にパレスチナに戻り、神の教えについて伝道を行ったが、弟イスキリがゴルゴダの丘で身代わりに磔にされ、処刑されたことを機に再来日し、ここ新郷で106歳の生涯を閉じたのだという。

エルサレムから青森県新郷までは直線距離で約8,900キロ。経由したであろうユーラシアの地にはイエス・キリストが立ち寄ったという記録はすべて失われたようだ。弥生時代中期、アラム語かヘブライ語しか解さない人物が日本に到達するまでの道程はさぞ大変だったことだろう。聖者でなければ不可能である。

今でも新郷では、毎年6月第1日曜日のキリスト祭では神道式の慰霊祭が行われ、ナニャドヤラの唄と踊りが奉納されている。
[PR]
by iyasaca | 2011-11-05 09:43 | 青森 | Comments(0)

恐山にいってみた その3

f0008679_205024.jpg

山門を入ってすぐ左手にイタコマチ(イタコがテントを張って軒を連ねている場所)があった。訪れたのが大祭(7月20日)のちょうど前日で、イタコの数も3,4名ほどと少なかったが、口寄せを待つ人もそれほど多くなかった。おそらく翌日からは長蛇の列になるのだろう。

降ろしてもらう人の思い出の品らしきものを持って、深刻な顔をして順番を待っている姿を見ると、半信半疑でイタコと対座するのも失礼な気がして、列には加わらなかった。ただそのまま立ち去るのは惜しいので、近づいてイタコの口寄せを聞いてみようと思ったが、かなり小さな声であったので、テントの外からでは何を言っているのかは分からなかった。

話によれば、まず相談者と相対し、降ろしてほしい人についての会話を交わした後に、大きな数珠を手に祭文を唱え、しばらくすると霊が降りてくる。この一連の行為は、口寄せ(亡き人の意思を伝達する、仏降ろしとも言う)、神寄せ(神の言葉・意思を語る)とも言われている。また祭文は100以上あると言われている。

f0008679_205621.jpg
<写真:テントの中で口寄せをするイタコの平田アサさん>
イタコを志す少女の多くは、盲目、半盲目である。イタコに弟子入りし、数年間の苦行を経て一人前となる。すでに、むつ下北地方にイタコはいないとのことで、現在恐山に来ているイタコは津軽、八戸からなのだそうだ。写真に見えるイタコの平田アサさんは、1929年生まれ、鰺ケ沢町出身である。生まれつき全盲であった平田さんは、9歳の時に修行を始め、10代の前半からイタコとして生きてきた。

f0008679_23291.jpg

恐山は開山してから1,150年を超えるが、イタコが集まるようになったのは80年ほど前からである。恐山とイタコの結びつきにそれほど歴史があるわけではないのである。

もともとイタコは、どこの村にもいる存在で、オシラサマ遊ばせ(農業、馬、蚕の神を祀る祭事)の際に、その年の天候や収穫を占っていた。しかし、その霊力から遠くに住んでいて会えない人とのやり取りや縁談のとりもち、行方不明者の問い合わせ、あの世に旅立った死者を呼び出すなどの要請に応えていた。最盛期の昭和初期には青森県には100人を越えるイタコがいたが、後継者難から、現在のイタコの数は10名に満たない。多くが80歳以上である。

かつては一人おろすとへとへとになるほどのエネルギーが必要であったらしいが、今は一人当たり15分程度、話は一方通行で、会話はできない。恐山では、一人降ろすたびに3,000円から5,000円を支払うというのが相場らしい。ただ現地では一万円札を数枚持って並んでいる人もいたので、もっと払わなければならないのかもしれない。

イタコの風俗慣習は1979年に「津軽のイタコの習俗」として、国の無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)として登録されている。

<リンク>
文化遺産オンライン 津軽のイタコの習俗
[PR]
by iyasaca | 2011-10-15 02:08 | 青森 | Comments(0)

恐山にいってみた その2

f0008679_1513437.jpg

f0008679_1513116.jpg
f0008679_242388.jpg

f0008679_241384.jpg


恐山の境内は死後の世界を模している。順路に示されたルートを従い、湖の方に向かうと岩場は消え、白砂が広がっている。極楽浜と呼ばれているらしい。境内を流れる正津川に朱塗りの太鼓橋をかけて「三途の川」の看板を建てるなど少しやり過ぎ感がある。

f0008679_225782.jpg

f0008679_1593781.jpg


極楽浜の先に広がるカルデラ湖である宇曾利湖(うさりこ)の語源はアイヌ語で入り江、湾を意味する「ウショロ」であると言われている。恐山も、「ウショロザン」→「ウソリザン」と訛っていったものであると言われている。

毒々しい緑色に輝く酸性(ph3.5)の水を湛える宇曾利湖を取り巻くように釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰が並んでいる。水面の標高は214m、周囲は12.5 kmにほぼ円形の湖で、面積は2.5平方km、最大水深は20mほどある。噴気は湖の北側に多く噴出している。
[PR]
by iyasaca | 2011-10-08 02:05 | 青森 | Comments(0)

恐山にいってみた その1

f0008679_0513288.jpg

「人は死ねばお山さ行ぐ」

日本三大霊場の一つとして名高い恐山に伝わる伝承である。
f0008679_149657.jpg

f0008679_19431.jpg

下北半島を北上し、むつ市を抜け、鬱蒼とした森に通る長い坂道を抜けると白砂利が敷き詰められた駐車場として使われているスペースの向こう側に恐山菩提寺の山門が見える。

開山は862年。開祖は、下野国出身の僧侶で、第3代天台座主でもある慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)であると伝えられている。円仁は、44歳のときに最後の遣唐使として唐に渡っている。9年半にも及んだ滞在の記録を『入唐求法巡礼行記』として後世に残したことで知られている。ちなみに円仁が開山、再興したと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされている。唐から帰国した648年から没年の664年までの16年間の仕事としては凄まじい。1455-7年の蛎崎の乱の際に焼き払われたが、1530年に聚覚和尚によって再興している。

f0008679_1464586.jpg
恐山自体が火山であるため、境内には温泉が湧いている。古滝の湯(男湯)、冷抜の湯(女湯)、薬師の湯、花染め湯の4つの浴場があり、無料(参拝料は必要)である。

山門から中に入ると真っ白な岩場が目の前に広がる。噴火の記録はないが、地質などを見ると最後の噴火は1万年以上前ということが分かっている。強い硫黄臭を感じるとともに、生命の気配が消える。辺りは草木一本生えていない。亜硫酸ガス(SoX)が漂っているからであろう。
[PR]
by iyasaca | 2011-10-01 00:44 | 青森 | Comments(0)

六ヶ所村にいってみた その6

f0008679_22102743.jpg
<写真:地震翌日にメルトダウンしていた福島原発1号機>
六ヶ所村から話が大分脱線してしまったが、再生可能エネルギーの可能性について書くこのエントリーで原子力と再生エネルギーにかかわる続き物を終えることにする。

日本のエネルギー供給を再生可能エネルギーに転換していくという作業はそう簡単ではないが、不可能でもないことも分かった。現在動いている原子炉を突然廃炉にするのではなく、古い原子炉、天災への備えの薄い原子炉を段階的に止めていき、再生可能エネルギーで少しずつ埋めていく。それでも足りない分は化石燃料を燃やすしか方法論はないだろう。ただし再生可能エネルギーには、発電量の問題のほかにも電力の質をいかに安定させるかという視点も必要であるので、なかなか簡単にはいかなさそうだ。その再生可能エネルギーの中でも安定供給という観点から有望そうなのは地熱発電である。

f0008679_2211735.jpg
<写真:建屋から白煙を噴く2号機。メルトダウン>
しかし、気候に左右されない地熱にも課題とリスクがある。10年にも及ぶ開発期間と開発コストの高さ、開発有望地が国立公園内に多く、簡単に開発許可を得られないこと、地元住民の反対などの課題があることは前のエントリーで触れたとおりである。

リスクはほかにもある。2010年10月17日には宮城県の鬼首地熱発電所で水蒸気噴出事故が発生し、作業員1名が亡くなっている。地下の浅い部分に閉じ込められていた高圧の熱水が噴気口にができたことで、圧力が急激に低下、熱水が一気に沸騰して、爆発的な蒸気噴出が起きたのである。結果として9本あった発電所の井戸は5本が稼動停止、出力も1万5,000キロワットから4,000キロワットに低下した。その後3・11で6日間ほど停止していたが、その後再開している。

f0008679_22112610.jpg
<最も大きな爆発を起こした3号機。ここもメルトダウン>
地熱推進にあたっては、スイス・バーゼルの教訓も知っておくべきだろう。

バーゼルの地熱発電は、1996年にGeopower Basel Consortium(GPB)が開発を始めた。作業計画を着々と進め、2006年12月2日に深さ5キロの井戸への注水作業が開始された。注水後、想定していた通り、人体に感じない極小の地震が観測されたが、12月7日には地表で体感地震が観測された。様子をみるため、この段階で注水を停止したが、数時間後にM3.4の地震が発生した。

バーゼルで最後に観測された大きな地震は1356年、650年も前のことである。このときの地震はM6~7と推定されている。数百年ぶりの地震に地域住民は驚き、憤激した。電力事業者GPBは稼働を停止、第三者による地震リスク分析が行われ、その勧告に従い、施設は閉鎖された。2009年12月には開発企業のマーカス・ヘリング(Markus Hearing)社長は刑事告訴までされている。

一方で新しい技術も開発されている。もちろん主流は天然蒸気でタービンを直接回す「蒸気フラッシュ発電」方式であるが、その他にも、水より沸点の低い流体を使う「バイナリーサイクル発電」などがある。

f0008679_22114578.jpg
<写真:火災と水素爆発を起こした4号機>
その中でも特に期待が持てるのは「高温岩体地熱発電(Hot Dry Rock Geothermal Energy」である。火山がない地域でも地表から地下に向かって掘り進めると100m毎に約3度上昇する。地表温度が15度だとすると地下1000メートルで45度、3,000メートル掘れば、100度を超える。深さ3キロともなると今度は300-400度の熱を持った岩盤が存在する。高温岩体地熱発電では高温の岩盤まで穴を掘り、底に水を注入し、水圧をかけて岩盤に亀裂を生じさせ、人工的に熱水溜まりを造り、もう一方の井戸から蒸気を取り出して発電する方式である。この方式であれば、国内のどこでも開発可能性がある。掘削を国立公園や温泉地の近くで行わなくていいという点で幾つかの課題はクリアできるが、高いコストと人工地震発生のリスクは回避できない。現在は実証実験が始まったところで、実用化は早くて2020年代であるそうだが、リスクがあったとしても、実用化に向け追求すべき技術である。

* 上の写真はすべてYoutube防衛省動画Channel「福島原発状況(空撮)(3月27日)より
f0008679_20194559.jpg

六ヶ所村の平均収入は、1,300万円。付近の数倍なのだそうで、青森県では一番である。広告宣伝の必要のない地域独占の電力会社がCMをゴールデンの一番高い時間帯に流し続けていることなど、今まで特に気に留めていなかったことだったが、考えてみるとずいぶんとおかしな話がまかり通っていたわけだ。月並みの感想だが、自分の頭で考えてみることの重要さを改めて感じた旅であった。
[PR]
by iyasaca | 2011-06-04 23:36 | 青森 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル