勝手に僻地散歩



カテゴリ:パラオ共和国( 11 )


天皇皇后両陛下のパラオ国御訪問

f0008679_7637100.jpg

天皇皇后両陛下が、4月8日から9日にかけてパラオ共和国を訪問される。硫黄島(1994年)、サイパン(2005年)と続く太平洋の激戦地の慰霊の一環で、戦後70周年にあたる今回は玉砕の島ペリリューに散った英霊の慰霊が主たる目的と理解している。両陛下はミクロネシア地域の他の島嶼の訪問も希望していたに相違ないが、諸々の理由でパラオのみの訪問となったようだ。そのため旧南洋群島のマーシャル諸島、ミクロネシア連邦の大統領も両陛下の訪問に合わせてパラオ入りされている。

本ブログでもパラオについて取り上げたエントリーが10本ほどある。残念ながら私自身はペリリュー島の訪問はしていないが、戦前の南洋統治に思いを馳せながら史跡を訪ねている。ご関心があればこちらからどうぞ。

パラオ共和国訪問についての記事はこちらから
[PR]
by iyasaca | 2015-04-04 00:00 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その9 南洋庁の諸施策

f0008679_127298.jpg
f0008679_1265470.jpg
<写真:コロールの整備された町並み>
日本を母語としない子弟に対する初等教育の担い手としての公学校は1915年に最初の一校が建設されている。その後、コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュー、アンガウル、ガラスマオに計6校建設された。公学校には3年間の義務教育課程である本科と優秀な成績を修めた者が進学できる補習科があった。1915年から1935年までの21年間に2,242人が本科を卒業し、654人が補習科を卒業している。1931年当時のパラオの就学率は93%。この数字は南洋群島全体の平均57%を大きく上回るものである。本科、補習科ともに日本語の教育時間が長く、また厳しかったという。カリキュラムの半分が日本語で、その他算数や実用科目も教えられていた。学校でパラオ語が話せるのは1年生だけ。2年生からは学校は日本語のみしか使用が許されなかったほどの徹底した日本語教育が行われた。

f0008679_22134061.jpg
<写真:コロール公学校の生徒と教師、1941年3月>
校内でパラオ語が使われていないかどうかは、5年生に看護当番と書いた赤いたすきをさせて見回りをさせていた。看護当番は、「違反者」の名前をノートにつけて、先生に報告していた。違反者は、一時間立たされていたそうである。

遠方からの生徒のために寄宿舎もあった。コロールにあった寄宿舎での生活は厳しく律せられており、毎朝6時に朝食、その後寄宿舎の掃除をしてから登校した。夕食は6時半からで、その後宿題をして8時には就寝。寮には当直の先生もいたという。

f0008679_22204820.jpg
<写真:木工徒弟養成の授業風景>
補習科の中で特に優秀な者は、1926年に設立された木工徒弟養成所への進学という道も開かれていた。この養成所は、建築技能を修得するための男子校で、毎年30人ほどが全南洋群島から選抜されたエリートたちであった。後に建築課程のほか土木課や機械課が設置され、少数ながら内地への留学を果たした者もいた。

一方日本人に対しては、尋常小学校および高等小学校がパラオ全土に設置された。後に中学校、高等女学校も設置。内地と同じ教育科目が提供された。

f0008679_22251922.jpg
<写真:内地観光参加者の集合写真。着物姿が印象的だ>
さらに南洋群島における親日感情醸成のために、「内地観光」と呼ばれた日本訪問ツアーが企画された。今もパラオ語で旅行、旅行者を意味する「カンコウダン」として残るこの内地観光は1915年から1940年まで毎年行われ、のべ600人が参加した。当初は酋長やその子弟などの有力者が主であり、その後は財界の有力者や優秀な成績を修めた学生なども参加した。ここパラオからは第一回内地観光に4名、その後も計200名が参加した。ほとんどが男子だったという。

参加者は日本風に髪形と服装を整えて、皇居遥拝、神社参拝、軍関係施設の訪問、工場、学校の見学に加え、上野、浅草、銀座の見物など、2、3週間かけて東京、京都、大阪を回った。帰国した参加者の中には感銘を受けたあまり、マルキョクやオギワル村に銀座通りそっくりの街路を作ろうとしたりする人もいたらしい。
f0008679_22271414.jpg
<写真:郵便局の外観。当時はコロール島とアンガウル島に郵便局があった>
f0008679_22233190.jpg
<写真:当時使われていた郵便ポスト>
南洋庁は、すでに触れた小学校、公学校、実業学校、法院のほかにも、病院、採鉱所、産業試験場、水産試験所、物産陳列所、郵便局、観測所などの公的機関を次々に導入していった。同時に道路、橋梁、港湾、飛行場などのインフラ整備も推進していった。しかし現在ではこれらのうち試験場や観測所などの研究機関はほぼ姿を消し、教育、医療などの水準もソフト、ハード両面ともに大幅に低下してしまった。一例を挙げれば、現在パラオでは郵便局からでしか郵便物を出せないが、当時は郵便ポストに投函すればこと足りた。そのサービスのきめ細かさは失われた。残念なことである。

パラオはまだまだ写真もあるが、パラオの連続エントリーはここで一区切り。今年は8月から12月まで約4ヶ月エントリーが滞った。来年はもう少し頑張ります。
[PR]
by iyasaca | 2009-12-12 22:15 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その8 コロールの町並み

f0008679_1262422.jpg
<写真:マダライン通り周辺>
日本は南洋群島施政の中心をパラオに置き、ヤルート、ポナペ、トラック、サイパン、ヤップには出先機関としての支庁が置かれた。行政の担い手たる南洋庁の行政職員は日本人であったが、補佐的なポジションには現地人も採用され、官房、内務部、財務部、拓殖部、交通部などの各部署に配置されていた。

立法機関は存在せず、原則として日本の法律が適用され、また必要に応じて勅令によって法律が施行されていた。司法機関としては、地方法院がパラオ、サイパン、ポナペに、そして南洋群島唯一の高等法院がここパラオに設置された。ただし軽微な刑事事件については支庁長が即決処分する権限を持っていた。島民間の民事事件については、慣習に従い、パラオの伝統酋長が裁くこととなっていた。当時の資料によると違法行為の大半は国際連盟の委任統治領規定で禁止されていた飲酒(酒類取締り規則違反)であった。禁酒法の理想主義が国際連盟のこの規約にも反映されていたのだろうか。背景は知らないが、興味深い規定である。
f0008679_1264328.jpg

f0008679_2515125.jpg
<写真:魚網を前にした男性たち(日本統治前)、1912年頃、この上下の写真と比べてみれば、パラオの町並みを整備するのに日本がどれだけのリソースをつぎ込んだかが分かるであろう>
南洋庁は設立と同時に以下の4種類の租税を導入した。

1)人頭税(*1)
2)出港税
3)関税
4)鉱区税

(*1)16歳以上の男子に課せられた税で、パラオ人に対しては一律年額5円、離島民は2円、子供が5人以上いる場合は免除。日本人に対しては収入に応じ2円から50円まで11の区分があった。

この税制は1938年に改正される。人頭税が廃止され、新たに所得税、法人営業収益税、鉱業税
利益配当税、関税、出港税、臨時通行税、タバコ税が導入され、南洋群島の税制は8区分となった。税制改正の背景には南洋群島の産業振興の成功がある。会社や住民がを利益を上げていなければ所得税や法人営業収益税を導入しないだろう。実際に1930年代中頃には、内地からの産業助成金が必要ないほどの状況になっていたことは以前のエントリーで触れた通りである。
[PR]
by iyasaca | 2009-12-05 22:31 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その7 パラオ熱帯生物研究所

f0008679_21302196.jpg
かつて岩山湾と呼ばれた海を臨む小高い丘の斜面に、パラオ熱帯生物研究所の入口跡が残っている。入口は海に続く緩い坂道の途上にあり、入口からさらに階段を下りた場所に研究所の施設が建っていた。

この研究所の設立にあたっては、東北帝国大学の畑井新喜司教授(1876-1963)が大きな役割を果たした。畑井教授は若き日にシカゴ大学で動物学と神経生理学を学び、ペンシルバニア大学ウィスター研究所、東北帝国大学動物生理学講座などで教鞭をとっていた。1925年には「白鼠(しろねず)に関する研究」で帝国学士院賞を受賞している。何でも白ネズミが動物実験材料に使われるようになったのは、この研究の成果なのだそうだ。
f0008679_213138100.jpg
f0008679_23213962.jpg
<写真:パラオ南洋生物研究所正門の今昔>
研究者としても円熟期を迎えていた畑井教授は、当時東北大学に、水産生物の飼育、観察を目的とした浅虫臨海実験所の創設に力を注いでいた。1924年に実験所を立ち上げると、教授の関心は熱帯生物へと向けられていった。1928年には珊瑚礁の動物蒐集や生理学的研究を行うため、弟子二人を連れてパラオを訪れている。このパラオ訪問を契機に畑井は
「日本が熱帯生物研究所を開設して世界の学界に貢献することは、第一次世界大戦の結果、国際連盟委任統治の受任国として南洋群島を統治している我が国の責任である」
と朝野に強く働きかけ、1934年、日本学術振興会第7 常置委員会特別委員会(第11 小委員会)にてパラオ熱帯生物研究所の設置が決定したのである。

f0008679_2131525.jpg
<写真:敷地に建つ建物、研究所とは無関係>
設立当初は南洋庁水産試験場の一室を間借りしていたが、1934年8月敷地貸下げの許可を受けた後、1935年3月に木造平屋建て一棟(80m2)の建物が竣工した。1938年頃までには、かなり研究環境が整っていたようだ。1938年6月発行の雑誌「科学南洋」によると、当時のパラオ熱帯生物研究所の設備は以下の通りである。

実験室        1棟(平屋木造家屋一棟7m×11m、内部に大実験室、暗室、部屋番室)
海水タンク      1個 容量5トン
淡水タンク      4個 容量9.8トン(5トン1個、1.6トン3個)
物置及び便所    1棟 (5.5m×3.6m)
電動機室及び物置 1棟
採取船パパヤ号  1艇(石油発動機2馬力半装備)
採集船マンゴー号 1艇
図書
珊瑚標本陳列室
宿舎

科学南洋の記載に「図書」の寄贈者についての情報はないが、畑井教授の蔵書がかなり寄贈されていたらしい。
f0008679_22551716.jpg
<写真:1938年当時の配置図、科学南洋1-3 pp162>
さらに1939年12月には畑井の退職記念会からの寄付1,962円を元手に、木造平屋建ての畑井記念図書館が建設されている。
f0008679_2224346.jpg
<写真:1942年当時の配置図、日本学術振興会編・発行「特別及ビ小委員会ニヨル総合研究ノ概 第7回」 p265>
1940年10-11月頃には南洋真珠株式会社の寄付により、正門の右側に木造平屋建ての新実験室も建設された。内部には暗室、薬品戸棚、標本棚、応接室まであったという。

ただ配置図を見ると1938年にはなかったはずの記念図書館の建つ場所に、すでに何らかの建物が建っているのがやや気になる。また2003年8月に行われた調査によると、まだ図書室の基礎、玄関ポーチ、門柱、海水タンク、淡水タンクの基礎が残っているとのことである。敷地内にはすでに住居が建っており、私有地であると思われたので、自ら敷地に立ち入ることはしなかった。
f0008679_23253732.jpg
<写真:パラオ熱帯生物研究所の研究者たち>
1934年6月に最初の研究者が派遣されてから、研究所が閉鎖される1943年までの間にのべ27名の研究者が派遣され、珊瑚礁をはじめとする海洋生物の研究が行われたのである。派遣された研究者は数名を除き、20代から30代の大学の助手(無給福手)か大学院の学生であった。常勤の研究員も置かず、所属の大学に在籍したまま、常時3名ほどの研究員が入れ替わり立ち替わり派遣されている。任期も不定期で短い人は数ヶ月、長い人は4年以上にも及んだ。事務の取り扱いは南洋庁水産課の職員が委嘱され、研究をサポートした。

研究テーマは、岩山湾の測量をはじめ、造礁サンゴの分類、生態、代謝機能、生殖と発生、骨格造成、湾内の海水の物理化学、プランクトン、サンゴ礁の構成、破壊に関係する動物、造礁作用と外囲条件などで、主に研究所の目の前に広がる湾で調査研究が行われた。畑井が命名したという「岩山湾」は、大小40余りの隆起珊瑚島が散らばり、研究には絶好の環境であった。

研究所として稼動していたのは10年に満たなかったが、若い研究員らは、世界最初の珊瑚礁研究所として、後世にまで残る多くの業績を残している。当時は熱帯における長期間の観察データをもとにした海洋生物の研究はほとんどなく、先駆的な研究テーマに取り組む世界にもまれな研究機関であった。


当時の研究成果は、主に英文のパラオ熱帯生物研究所研究報告(Palau Tropical Biological Station Studies)の創刊号(1937 年3 月)から最終号(1944年5 月)までに刊行された8 号、66 篇の論文や和文の雑誌「南洋科学」収蔵の116 編の論文に発表されている。発表論文は、その他の雑誌、著書を合わせると280 に及ぶ。

記録から拾える限りにおいて、在籍した研究員の研究テーマは以下の通り
江口元起:岩山湾から43 属116 種の造礁サンゴを報告
阿部襄:サンゴや無脊椎動物の分布調査
内海富士夫:サンゴや無脊椎動物の分布調査、蔓脚類の分類学的研究
元田茂:造礁サンゴの成長と環境要因研究
林一正:サンゴの骨格形成の組織学的研究
阿部襄:造礁サンゴの摂食習性
川口四郎:サンゴ虫や褐虫藻の色素や代謝研究
羽根田弥太:発光生物
山口年彦:造礁サンゴとナマコ類調査
阿刀田研二:サンゴ類の生殖及び幼生の発達研究
川上泉:サンゴ類の生殖及び幼生の発達研究
時岡隆:ホヤ類の分類学的研究
三宅貞祥:十脚甲殻類の分類学的研究
林良二:ヒトデ類の分類学的研究
村上四郎:蛇尾類の分類学的研究
高橋敬三:多毛類の分類学的研究
阿部宗明:魚類の分類学的研究

この中でも川口四郎氏の研究は、特に高く評価された。川口博士は、造礁サンゴが体内に住まわせている褐虫藻の分離培養に世界で初めて成功し、さらにそれが渦鞭毛藻の一種で、プランクトン生活(サンゴが褐虫藻の光合成から栄養を得ていることを意味する)をするという発見をした。これは「サンゴは動物を食べることによってのみ栄養を摂取している」とされた当時の学説を根底から覆す研究成果であった。

しかし研究所は、戦争の激化によって、1943 年3 月日本海軍によってセレベス島マカッサルに建設された海軍総合科学研究所の環境科学部に編入されることが決まり、コロールの研究所は閉鎖された。そしてマカッセルに遷された研究機材と図書文献は終戦の混乱と共に散逸した。

しかしパラオ熱帯生物研究所が育んだ若き研究者らは、戦後の珊瑚礁研究の大黒柱へと成長していった。初代所長として、自らも現地に幾度も出向き、将来の泰斗を育成した畑井教授の精神を端的に表す言葉が浅虫臨海実験所の一画に刻まれた石碑に残っている。

「それは 君大変おもしろい。君 ひとつ やってみたまえ」

[PR]
by iyasaca | 2009-08-29 21:29 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その6 南方航路と九七式飛行艇

f0008679_2104073.jpg
<写真:パラオ松島>
当時、海上を飛ぶ長距離空路に就航していたのはほとんどが大型旅客飛行艇であった。しかしとりわけ、パラオ線を含む南方航路に飛行艇が重宝されたのは、多くの南洋の島々には水上飛行場として利用できる、環礁内の外海の波の影響を受けない内海があったからである。
f0008679_211263.jpg


さてパラオに話を戻す。216機製造された九七式飛行艇のうち18機が大日本航空に卸されたことは先に触れた。これらの飛行艇はそれぞれに「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」「巻雲」などの愛称がつけられ、商業飛行が行われた。南洋への航路は二つ。横浜(40年までは富岡飛行場、以降は根岸飛行場)―サイパンーパラオ(後にポルトガル領チモールまで延びた)とサイゴンートラック(現チューク)-ポナペーヤルート(現ジャルート)であった。綾波は新航路開拓に先立つ調査飛行にもよく使われた。1939年10月22日には、パラオからはるか南のチモールへ調査飛行を行っているほか、同年11月22日から27日にかけては、横浜―サイパンーパラオー淡水(台湾)-横浜という9,237キロの航路を37時間12分で航行したとの記録が残っている。

サイパンまでの運賃は235円。当時の大学の初任給が50円だったから、現代で言うと100万円くらいの感覚だろう。ちなみに同時期に飛行機で東京ー大阪を移動すると30円、東京ー大阪ー福岡、福岡-蔚山(うるさん)―京城―平壌―大連という満州方面のルートの運賃は145円だったという。

f0008679_2124184.jpg
<写真:南洋庁が島を切り開いてつくった水道、「新水道」の文字が見える>
サイパン経由南洋群島への定期便は1939年に就航する。午前05:30発でサイパンには15:30着。その先は翌日07:30発の便に乗り、パラオ到着は14:00であった。横浜からは飛行時間だけで17時間である。1940年3月には根岸飛行場の拡張工事が完了したことを受け、サイパン航路の出発空港が富岡飛行場より移転する。併せて月2便から4便にと増便されている。

f0008679_215699.jpg
1945年ポツダム宣言受諾を受けて、即日武装解除が始まりまた民間航空についても航空機の所有、運用の一切が禁じられ、関連組織は全て廃止、解散することとなった。大日本航空もその一つ。戦後処理のため運行していた緑十字飛行も10月17日に終了
11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止された。日本の航空産業は未だにこの敗戦の痛手から立ち直っていない。
[PR]
by iyasaca | 2009-08-22 02:06 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その6 旧南洋庁長官官邸跡

f0008679_6112472.jpg
<写真:旧南洋庁長官官邸の門柱、なぜか右の門柱だけ赤く塗られている>
コロール島中心部から南に広がる小高い丘に移動した。この周辺は高級住宅地であり、写真にある南洋庁長官の官邸のほか、大日本航空株式会社の社宅などがあったそうだ。

さて、この大日本航空株式会社の九七式飛行艇とも呼ばれた川西式四発型輸送飛行艇についてである。

海軍は1933年3月に大型哨戒飛行艇の基礎研究を、すでに英国ショート社の技術協力によって90式飛行艇の製造を通じてノウハウを蓄積していた川西航空機に発注する。川西の技術者は9ヶ月もの間、80種類もの模型を製作し、長さ90メートルの研究用水槽を使って実験を繰り返し、また長い航続距離を確保するための主翼構造などの研究に努めた。

f0008679_6113633.jpg
f0008679_6115175.jpg
<写真:長官官邸横に残るトーチカ跡>
この成果を受けて海軍は、翌34年11月に、「(当時最先端の)米国のシコルスキー、英国のショート社の四発飛行艇を凌ぐ世界最高水準の四発単葉の大型飛行艇を製造せよ」と川西航空機に命ずる。川西は菊原静男技師を設計主務者に任じ、1936年7月14日、新型飛行艇の初飛行(海軍きっての名パイロット近藤勝次に操縦を依頼)を成功させ、さらに2年の月日をかけて課題であった発動機の馬力不足(中島飛行機製の光二型710馬力×4から三菱製の金星43型=900馬力×4へ換装した)を解消し、4機の試作機を完成させた。その後改良が重ねられ、発動機については、さらに新式の金星53型を採用し、最高速度を試作機332キロから385キロまで向上させている。ちなみに設計を総覧した菊原技師は、後の二式大艇(鹿屋に一機残存)やPS-1の設計も担当した。

1938年1月に海軍に制式採用され、九七式飛行艇と命名されたこの新飛行艇の性能は、海軍の要求通りであった。次世代飛行艇の二式大艇(乗客だけで最大64名搭乗可能)が開発されるまでの6年間に215機が製造され、38機が兵装を解き海軍の輸送機として使用され、その中で18機が大日本航空に卸された。戦争に突入すると大日本航空は、人員及び機材の一切を陸海軍(陸軍は特設第13輸送飛行隊、後に南方航空輸送部に改組、と海軍横須賀鎮守府第七輸送機体)に徴用され、九七式は敗戦までの間、西南太平洋全域にわたり偵察、哨戒、爆撃、輸送の各方面で重宝された。また空を舞うその優美な姿は、映画「南海の花束(1942年)」にも収められるほどであった。しかし欠点は飛行速度の遅さと装甲の弱さで、哨戒飛行中に敵機に遭遇した場合、撃墜を免れるのは困難であった。終戦時には5機しか残存しなかった。

f0008679_242079.jpg
f0008679_24111.jpg
<写真:飛行艇発着場跡>

戦後はジェット機の開発が進み、大型化・高速化が進んだことで、飛行艇は民間航空路から退場し、現在飛行艇を量産しているのは新明和工業だけとなった。このニーズは川西から引き継いだ飛行艇生産技術を戦後も追求し続け、波高3メートルほどの荒い外海でも離着陸を可能とする飛行艇が開発されたことで作り出されたものである。医療支援や緊急支援物資の輸送などにニーズがある。つい先ごろドクターヘリを扱ったテレビドラマ(Code Blueのこと)があったが、ヘリコプターの航続距離は850キロ、スピードも時速260キロほどだが、新明和の最新鋭のドクター飛行艇は、航続距離4500キロ、スピードは時速470キロである。

<九七式飛行艇のスペック>
全長25.6メートル
全幅 40.0メートル
総重量17.5トン
エンジン出力1,080馬力(金星43または22型が4基)
最高速度(時速) 340キロ
航続距離6,080キロ
乗員    8名(機長、正操縦士、副操縦士、通信士2名、機関士2名、給仕1名)
乗客    最大18名、10席のソファーシートと折りたたみ式の二段ベッド(二段ベッドは上段をたたむと6名から10名が座れるシートとなった)
[PR]
by iyasaca | 2009-08-08 11:03 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その5 旧南洋ホテル

f0008679_0482457.jpg
<写真:旧南洋ホテル車寄せ>
コロール島の東部、国道沿いに建つTree-D Motel横の小道を少し北に入った場所に旧南洋ホテル跡がある。ホテルは建物が失われ現在も残るのは、この車寄せだけである。国道沿いにホテルの入口跡である門柱が残っていることから、現在は住宅がびっしりと建っているこの一画はすべて南洋ホテルの敷地であったことが推測できる。現在もこの辺りは地元の人たちに「ホテル」と呼ばれている。国道に面した門柱から車寄せまで歩くと結構かかる。
f0008679_055142.jpg
<写真:時節柄、トリが恐ろしい>
南洋ホテルについての情報は少なく、詳細については分からないが、この広大な敷地を考えると相当数の宿泊客をさばくことが可能であったのではないかと考えられる。しかし果たして、戦前・戦中の日本統治時代に南洋の離れ島にそれほどの来客があったのであろうか。
f0008679_5462512.jpg
<写真:このような石灯籠がコロール島のあちこちにある>
結論から先に言うと、あったのである。パラオへの当時の足は船がメインであったが、大日本航空株式会社による定期路線も就航していた。大日本航空とは、1938年に日本航空輸送株式会社と満州航空全額出資の国際航空株式会社とが合併して誕生した国策会社であった。いま経営危機に沈む日本航空(JAL)とは直接の関係はない。

翌1939年にはパラオに至る定期路線便が運航を開始している。当初は定期路線便といっても月に2便程度であった。使われた機体は川西航空機製造(現新明和工業株式会社)の川西式四発型輸送飛行艇であった。川西航空機製造は、関西出身の財閥で日本毛織の社長、川西清兵衛が中島知久平との経営方針を巡る確執の後、1923年に中島飛行機への支援を打ち切って出資して設立した新しい会社であった。中島飛行機は富士重工として今にそのDNAをつないでいるが、川西航空機製造は、新明和工業株式会社として飛行艇の製造を続けている。パラオまでは、2日がかりの旅程であったというが、後に週一に増便しているところを見ると利用者が結構いたということになる。
[PR]
by iyasaca | 2009-08-01 00:47 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その4 コロール海軍墓地

f0008679_2356294.jpg

コロールを東西に貫く唯一の幹線道路を東に走るとほんの10数分で島の東部に到達する。南洋神社にいたる南に折れる脇道を過ぎて、さらに東に走り、北に折れると、海岸へと続く簡易舗装されたなだらかな下り坂が現れる。坂を下ってすぐ左手にコロール海軍墓地がある。

道路と墓地の間は、低い石垣と植樹されたと思われる木々と隔てられている。この土地は、コロールのアイバドル大酋長から日本が無償で提供を受けたものであるという。1917年に現地で亡くなった海軍下士官を埋葬したことを契機に斜面が段々に整地された。現在では海軍士官・下士官・軍属、パラオで開拓・漁業に関連する民間慰霊碑や墓碑が並んでいる。墓地の正面に立つこの海軍の碑はどこかに転がっていたものを持ってきたのだそうだ。
f0008679_2332232.jpg
f0008679_0291866.jpg
<写真:小さくて見えないが、「白蝶貝取扱業者の碑」とある>
戦後も日系人の墓地や多くの部隊、学校等の慰霊碑が建立されている。多くの碑は斜面の向こうに広がる海を向いて建てられている。この海の遥か北に日本列島がある。この地で斃れ、日本の土を踏むことができなかった英霊に思いを来してのことであろう。
f0008679_23563975.jpg
日本が引き揚げて以降、墓地の管理は日系人のアソシエーションであるパラオ・サクラ会が行っている。南洋に特徴的な生育の早い雑草狩りや清掃作業を年に4回ほど行うなどの維持管理がなされてきた。近年は会の高齢化が進み、また日本からの訪問頻度も高齢のため少なくなってしまい、現在ではコロールの名士に管理を委託しているという。ご覧の通り、墓地は綺麗に管理されている。その好意は大変ありがたいが、日本大使館はいったい何をしているのだろうか。以前にコヒマを訪問した際も、英印軍の墓地は立派に整備されている一方、彼の地に散った日本の英霊は激戦地にほど近いロトパチン村の好意に頼りきりで、日本大使館はほとんどやるべきことをやっていなかった。パラオの老人は「日本人は武士道精神を失った。親や祖先を大切にしない」と嘆くというが、自分も含めて過去とのつながりに淡白になっている。

f0008679_23581047.jpg
f0008679_23582594.jpg
f0008679_23583687.jpg
遥か日本を臨む斜面に広がるそれほど広くない敷地に無数の碑が立っている。中にはキリスト教式に葬られている墓やハングルで書かれた碑もある。朝鮮から渡ってきた労働者のお墓だろうか。
[PR]
by iyasaca | 2009-07-25 23:31 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その3 アイライ州の通信所跡

f0008679_23154148.jpg

コロールから北東に向かい、橋を渡るとパラオで一番大きな島バベルダオブ島である。橋を渡ってすぐのアイライ州に通信所跡がある。少し先に行けば、パラオの国際空港、さらに北に向かうと新しいパラオの新しい首都、メルキョクである。
f0008679_21241781.jpg

詳しくは分からないが、この通信所はパラオだけでなく、南洋庁において中心的な役割を担っていたらしい。廃墟と化した建物の周辺には戦車や高射砲が錆びついたままになっている。この戦車と高射砲は、1968年公開の映画"Hell in the Pacific"の撮影の際に、あちこちに転がっていたものを集めたらしく、元々通信所に配備されていたわけではないそうだ。ちなみに英国人のジョン・ブアマンが監督したこの映画には三船敏郎が出演している。
f0008679_2331650.jpg

コロールの南にある東洋最大といわれたペリリューの空港が攻略され、制空権を完全に失ったことで、コロール周辺も空襲にさらされた。空襲は数次にわたって行われたが、1944年3月末に行われた最初の空襲で地上施設はもちろん、停泊中の艦船も大損害を受けた。食料も弾薬も失い、また輸送能力も失ったことで、ペリリューの守備隊はその後玉砕の道を辿ることになるのである。
f0008679_23312087.jpg
廃墟と呼んでよいくらいの荒れようであるが、T字型の建物の外形だけは往時を偲ばせる。いかに堅牢なつくりであったかを現在に伝えている。建物は二階建てで、かなり大きい。相当の人間が働けるスペースがある。内部はご覧の通り、破壊され尽くされ、部屋割りなどをうかがい知ることはできない。
f0008679_23313391.jpg
この通信基地がいつの空襲で破壊されたのかは分からないが、上の写真に見られるように、明らかに爆撃を受けたと思われる箇所がある。
f0008679_2337631.jpg
f0008679_23372021.jpg
f0008679_23394157.jpg

コロールでは、大規模な地上戦は行われておらず、空襲を受け、散り散りになった日本軍は、パラオ本島のジャングルに移動して、散発的な抵抗を続けたそうである。おそらくこの戦車の出番もなかったであろう。
[PR]
by iyasaca | 2009-07-18 21:23 | パラオ共和国 | Comments(0)

パラオにいってみた その2 南洋庁パラオ支庁庁舎と南洋神社

パラオは南洋群島の中でも日本に地理的に近かったこともあって、日本の影響が最も色濃く残っている。1995年のパラオ共和国の独立式典の際にパラオ国歌に続いて君が代が流れたことは日本ではあまり知られていない。

日本とパラオが交差した最初記録は江戸時代にまで遡る。1821年、岩手県宮古市を出港した神社丸の船員12名が漂流、うち10名が上陸し、パラオに4年間滞在した後にマニラ経由で帰国している。帰国したときには8名になっていた。

ドイツに代わって日本が支配を始めるのは1914年のことである。軍政を経て、民政移管を果たした際に、コロールに南洋庁を置いている。南洋庁は大変な資金を投入し、コロール島を中心に、パラオのインフラを整えていった。

f0008679_116388.jpg
f0008679_1174540.jpg
<写真上:南洋庁パラオ支庁庁舎、写真下:現在の姿、今はパラオ最高裁判所>

日本が短い統治期間中に整備したインフラは、敗戦後米国によって、徹底的に破壊されてしまった。「日本色を完全に払拭する」ため、商店は取り壊され、畑は掘り起こされ、道路までもブルドーザーで掘り返されてしまったという。例えば、かつてコロール島の中心部は、東西に複数の道路が走っていたが、現在綺麗に舗装されているのは、幹線道路一本だけで、あとの道路は舗装こそされているが、がたがたである。

さて今回の目的地は南洋神社である。コロール島の東にあるアルミズという高台に南洋神社跡が残っているのである。1938年頃の建築と言われている南洋庁パラオ支庁庁舎周辺に広がるコロールの中心街を抜けて、東へ約15分。そこから幹線道路をはずれて、南に入り、舗装の質がぐんと低下した道をしばらく走ると旧参道入口に到達する。右側に石灯籠が見える。

f0008679_9473776.jpg
<写真:南洋神社の参道入口>
f0008679_950053.jpg
<写真:南洋神社本殿へ続く参道>

f0008679_10131796.jpg
天照大神をご神体とする官幣大社、南洋神社は1940年に創建された。1945年5月17日の米軍の空襲により本殿は大破するが、すぐに日本軍が修復した。1945年9月11日、コロールの社殿が奉焼され、11月17日日本政府が南洋神社廃止を決定、1946年1月5日仮本殿で昇神の儀、仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ1月19日御奉遷の手続きが行われた。9万6,248坪といわれる広大な境内は私有地となり、住宅が建てられた。
f0008679_10275164.jpg
1997年に住吉会系日本青年社の幹部が組織した清流社によって再建がなされ、また「日本—パラオ心を結ぶ会」によって石碑も設置された。
f0008679_10443412.jpg
f0008679_10425648.jpg
<写真:かつての南洋神社の様子>
さて南洋神社は日本とパラオの祖先神と大東亜戦争の戦死者が合祀されている官幣大社であった。近代社格制度は少し複雑であるが、簡単に説明を試みる。まず神社は、大きく官社と諸社の二つに分けられ、さらに「神宮」がこれらの神社の上に位置づけられている。神宮とは要するに、伊勢神宮を構成する16の神社のことである。

官社(官国幣社)はさらに官幣社と国幣社に分かれており、それぞれに大・中・小の格が定められている。格の順序としては、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社(別格官幣社)>国幣小社となっている。別格官幣社は、国体に特に貢献をした人物を祀る神社を指す。

諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分類されている。社格の順序としては、府社=県社=藩社>郷社>村社>無格社となっている。

社格の違いは延喜式に定められたものに倣っている。例祭などの際に、神に捧げる布帛、衣服、武具、神酒など供え物の出し手も社格によって異なる。官幣大社は、宮内省(皇室)から、国幣大社は国庫から、府県社は府県から奉幣を受け、郷社は府県または市から奉幣を受けた。

f0008679_115419.jpg
<写真:南洋神社のみこし行列>
幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀の際に神に捧げる供え物のことで、上にも触れたとおり、布帛、衣服、武具、神酒を指す。神饌(しんせん)は含まない。神饌とは、米、塩、水、野菜、鯛、鰹節(干鰹)、海藻、果物、清酒など、食べ物の供え物のことである。ちなみに、天皇陛下の命により幣帛を奉献することを奉幣(ほうべい、ほうへい)と言う。

官幣大社である南洋神社は、いわば神社の中では最高の社格であったのである。
[PR]
by iyasaca | 2009-07-11 00:18 | パラオ共和国 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル