勝手に僻地散歩



カテゴリ:マーシャル諸島共和国( 7 )


マーシャル諸島にいってみた その7 マジュロ環礁

f0008679_144928.jpg
マーシャル群島の中心は、長い間ジャルートであったが、現在は人口の半分がここマジュロに居住している。

マジュロは57の島が100キロにわたって、三日月状に連なっている環礁である。そのうち人が住んでいるのは、あわせて全長17キロほどの大きな3つの島のみで、特に賑やかなのは、北東部から住宅地となっているダリット(Darrit、リタとも言う)、ホテルやレストランが林立する最も賑やかなウリガ(Uliga)、官庁街のデラップ(Delap)の三つの地区である。これらの地区は、それぞれの頭文字をとってD.U.Dと呼ばれている。D.U.Dの西にあるマーシャル唯一の橋梁マジュロ橋を超えると、日本、米国、台湾などの大使館のあるロング・アイランド地区があり、さらにその先には空港がある。西への道は空港の先にあるローラ村まで続いている。

マーシャルの離島を回るには、デラップ港が起点となる。デラップの港湾施設は、貨物船や客船が入港できるキャパシティがある。ウリガにも少し小規模ではあるが港がある。この港には外国からのマグロ漁船が入る。 入漁料は、現在のマーシャルにとって貴重な収入源となっている。

さてその後のマーシャルである。1978年にミクロネシア憲法草案を拒絶し、翌79年5月独自の憲法を制定し、ミクロネシア連邦を脱退した。さらに1986年10月21日、防衛と安全保障を米国に依存する自由連合盟約(Compact Of Free Association)を締結し、発効と同時に独立を果たした。1991年9月には国連加盟を果たし、1998年には中華人民共和国と断交し、台湾と外交関係を樹立した。2004年には米国とのCOMPACTIIを締結している。

f0008679_135531.jpg
<写真:マジュロ環礁のスーパー。缶詰だらけ>
現在のマーシャル諸島の政府歳入の62%が米国をはじめとする海外からの援助である。貿易収支は、5,610万ドルの赤字というひどい状態にある。(輸出2,160万ドル、輸入7,770万ドル)輸出の内訳は、ディーゼル車の燃料、石けん、家畜の餌などに加工できるコプラの生産、ダイビングなど観光業、そして水産業(入漁料収入)である。 マーシャルに限らないが、米国はこの自由連合盟約に基づく多額の財政援助によって、戦前は自立していた南洋群島の経済圏を完全に援助漬けに仕立て上げた。そして島民の生活の場を核実験場とするなど利用するだけ利用したのである。島民の食生活も大きく変わった。スーパーに並ぶのは缶詰ばかり。人口増により、タロイモなど伝統的な食品だけでは、食糧が足りなくなってしまったのである。輸入物の缶詰やジャンクフードなどを食べざるを得ない島民の間では、糖尿病をはじめとする生活習慣病が深刻化しているという。

マーシャルの旅はこれにて終了。日本からはかなり遠いが、ダイバー客用に期間限定でJALが直行便を飛ばすこともあるらしい。成田からの直行でいける都市は、インチョンに比べてかなり少ない。ハブ空港競争に敗れつつある日本はこのまま一直線に没落するのだろうか。
f0008679_23292891.jpg
<写真:午後9時にもならないのに店が閉まる成田空港。ハブ空港どころか、競争力以前の問題だ>
[PR]
by iyasaca | 2009-06-27 00:56 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた その6

f0008679_144117.jpg
<写真:太平洋核実験場における核実験、Library of Congress, Public Domain>
戦後、南洋群島(現在の北マリアナ連邦、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島)は、米国による占領統治の後、1947年からは国連の信託統治領「太平洋諸島国連信託統治領」に移行した。米国は、占領統治時代の1946年7月に最初の核実験「クロスロード作戦」を実施し、47年7月には、2,000あまりの島々が点在するマーシャル諸島を中心とする780万平方キロの海域を正式に「太平洋核実験場(Pacific Proving Ground)」と宣言した。その後米国は1962年までの16年間で、166回もの核実験を行うのである。

米国は、これら核実験の実施に際して、島民の強制移住を行った。
46年03月 ビキニ環礁の住民→ロンゲリック環礁
46年05月 エニウェトク環礁の住民→クェゼリン環礁メック島
ロンゲラップ環礁とウォト環礁の住民→ラエ環礁
47年12月 エニウェトク環礁の住民→ウジェラング環礁
48年01月 クェゼリンの米軍基地労働者のマーシャル人→イバイ島
48年03月 ロンゲリックで飢餓状態に陥っていたビキニ住民→クェゼリン基地に収容
48年11月 クェゼリン基地のビキニ住民→キリ島(ラグーンなし)

無計画といってもよいこの強制移住自体もひどい話だが、爆心地から525キロ離れたアイルック環礁の住民に至っては、放射性降下物が米軍によって把握されていたにもかかわらず、住民の避難は計画段階で中止されていた。結果として、アイルックの島民は異常出産、先天性障害、コブ、癌・甲状腺異常などの被害に苦しむことになった。

f0008679_1448245.jpg

f0008679_14483819.jpg
<写真上:実験前のエニウェトク環礁の航空写真、写真下:実験後の航空写真、エルゲラブ島は蒸発した。US government DOD and/or DOE photograph, Public Domain>
珊瑚礁も甚大な被害を被っている。2008年4月にオーストラリア研究会議が発表した海洋環境調査の結果によると、ビキニ環礁の珊瑚礁は8割がた回復しているものの、28種類の珊瑚が絶滅したことが明らかとなった。さらにエネウェタク環礁では、1954年の水爆実験で、珊瑚礁どころか、島が一つ吹き飛んでいる。実験場のビキニ、エニウェタク環礁はようやく最近、放射線レベルが低下し、ダイビング目的の短期滞在者が戻り始めたという状態で、島民の帰還は実現していない。


f0008679_1455099.jpg
f0008679_1433674.jpg
<写真:こんなに美しい環礁を核実験場に>
この一連の核実験で日本国民も被害を受けている。1954年、第五福竜丸の乗組員が、マーシャル諸島の海域で操業中、水爆実験ブラボーに巻き込まれ、死の灰を浴びたあの事件である。ブラボーの実験では、核出力6メガトンを予定していたにもかかわらず、実際には2.5倍の15メガトンを出力したために、設定していた警戒水域外にまで被害が及んでしまったのである。

核実験が終了しても米国はマーシャル諸島を手放さなかった。1961年からは迎撃ミサイルの実験場となっているのである。また米国は島の緑化という名目で、タガンタガンの種子を空中散布した。その結果、在来種が駆逐され、島の生態系と農業は壊滅的な打撃を受けている。

1963年に部分的核実験条約が調印され、大気圏内核実験と水中核実験が禁止されたことをもって、PPGでの核実験は終了した。後の米国による核実験はネバダ核実験場で行われることになった。ネバダでの核実験も1992年を最後に行われていない。


<資料:太平洋核実験場における核実験一覧>
太平洋核実験場では、9回の作戦が行われた。
1) 1946年 クロスロード作戦(ビキニ環礁、2回)
f0008679_145656100.jpg
7月1日に広島・長崎以降行われた最初の核実験。エイブル(Able)は地上158メートルで行われた大気圏内核実験であった。
f0008679_1523573.jpg
7月25日に行われた水中核実験。ベーカー(Baker)は水深27メートで爆発。核出力はそれぞれ21キロトン。長崎型(Fatman 21kt)とほぼ等しい破壊力である。

  
2) 1948年 サンドストーン作戦(エニウェトク環礁、3回)
f0008679_15203696.jpg
4月14日、20日、5月14日に、それぞれX-ray(37キロトン)、Yoke(49キロトン)、Zebra(18キロトン)を実施。今まで使用された核爆弾はウラン235を使った広島の爆弾をのぞき、すべてプルトニウム型であったため、超高濃縮ウランを使った核の実験として実施された。


3) 1951年 グリーンハウス作戦(エニウェトク環礁、4回)
f0008679_1527131.jpg
Dog:4月8日、70キロトン
Easy:4月21日、47キロトン
George:5月9日、225キロトン
Item:5月25日、45.5キロトン
水爆製造に向けての準備として位置づけられた実験。

f0008679_15281377.jpg

<写真上:George。長崎型の10倍の威力。写真下:Easy かItemとされている核実験>
4) 1952年 アイビー作戦(エニウェトク環礁、2回)
f0008679_15534534.jpg
Mike:11月1日、10.4-12メガトン(最初の水爆実験、長崎型の500倍、広島型の700倍の威力。常温では気体であるcryogenic liquid Deuterium(Hydrogen-2)を使用したため、3階建て、82トンと大きすぎて兵器たり得なかったが、核融合を用いた爆発がいかに大きな破壊力を持つかを知らしめることが目的。実験場のElugelab島は吹き飛び、深さ50メートル、直径1,9キロのクレーターが残った)
f0008679_15541917.jpg
King:11月16日、500キロトン(純粋な核分裂型爆弾としては最大)


6) 1954年キャッスル作戦(エニウェトク環礁で行われたEchoを除き、ビキニ環礁、7回)
f0008679_1604723.jpg
Bravo:3月1日、6メガトン予定が15メガトン(第五福竜丸事件、15.3milの賠償)
Romeo:3月27日、4メガトン予定が11メガトン
Koon:4月7日、1メガトン予定が110キロトン(失敗)
Union:4月26日、3-4メガトン予定が6.9メガトン
Yankee:5月5日、8メガトン予定が13.5メガトン
Nectar:5月14日、1.8メガトン予定が1.69メガトン

三重水素による水爆実験は2回実施。4回は、巨大な冷却装置が必要な三重水素に代わり、重水素化リチウム(LiD: Lithium Deuterium)を利用した水爆実験を行った。写真はロメオ。

7) 1956年レッドウィング作戦(エニウェトク環礁、ビキニ環礁、17回)
f0008679_1653723.jpg
飛行機に搭載可能な水爆開発
f0008679_1655417.jpg



8) 1958年 ハードタックI作戦(エニウェトク環礁、ビキニ、ジョンストン諸島。35回)
f0008679_1683366.jpg
部分核実験禁止条約調印が見えてきたので、駆け込み的に行われた。


9) 1962年ドミニクI作戦(クリスマス諸島、ジョンストン諸島、96回)ドミニクI作戦自体は全105回実験を行っている。うち9回はネバダ実験場で実施されたものである。B-52からの投下実験が主。新規開発した弾頭実験、既存弾頭の信頼性を確かめる実験、兵器効果を確認する実験などが実施。米国が大気圏内実験をしたのはこれが最後。
[PR]
by iyasaca | 2009-06-13 14:05 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた その5

f0008679_0384584.jpg
<写真:かつて南洋櫻と呼ばれたフレームツリー>
-戦争から敗戦と撤退-
1933年3月に日本は「日本軍の満州撤退勧告案」の採択に反対し、国際連盟を脱退する。米国との対立も深まるなか、クェゼリン、ウォッジェ、マロエラップ、ジャルートの要塞化を始めた。要塞化は、その後ミリ(Mili)、エニウェトクの環礁にも及んだ。ハワイ、ウェークなどへの攻勢を念頭に置いた動きであった。

米国の太平洋諸島への反転攻勢は1942年6月5日のミッドウェー海戦を機に始まる。1942年2月1日の米国機動部隊の攻撃は何とかしのいだものの、反転攻勢が本格化した43年12月5日のマーシャル諸島沖航空戦以降は、一方的にことが進む。

すでに43年にアッツ、タラワ、マキンを失っていた日本は、マーシャル防衛のため、マロエラップ、ウォッゼに重点的に守備隊を配置した。しかし、米軍はマロエラップ、ウォッゼには目もくれずに、防備の手薄なクエゼリンを攻撃目標に定めた。

マーシャルには44年の段階で、日本陸軍海上機動第一旅団第二大隊1,020名を中心に、海軍所属の第6根拠地隊付属陸戦隊と第61警備隊所属など軍人軍属合わせて5,210名が守備についていた。だいたいの内訳は以下の通り
第6根拠地隊本隊 80名(第6根拠地隊司令官 秋山門造少将)
第61警備隊1,500名(第61警備隊司令 山形政二大佐)
第6通信隊400名 
第6潜水艦基地隊200名 
海上機動第1旅団第2大隊基幹 1,020名(海機第1旅団 第2大隊長 阿蘇太郎吉大佐)
また司令部には来島中の海機第1旅団参謀の伊藤豊臣少佐がいた。 

43年11月に第6根拠地隊司令官に着任した秋山門造海軍少将は、海岸沿いにトーチカや戦車壕の構築を命じたが、珊瑚礁であるクエゼリンで地下陣地を構築できるわけもなく、椰子の木で掩蔽壕を作るのが精一杯であった。その他の防御用陣地も米軍攻撃開始までにはほとんど完成できなかった。

f0008679_1283458.jpg
<写真:クエゼリン環礁全図。米軍は環礁の西端より上陸。中央部に飛行場、その北東には司令部があった、Wiki Commons, Public Domain>
リッチモンド・ターナー中将の指揮によるクェゼリン攻略が始まったのは、1944年1月30日のことであった。米軍はこの作戦に、戦艦4隻を背後に、輸送船20隻を配置、水陸両用兵員輸送車240両、水陸両用戦車74両、上陸攻撃部隊5万3000人、守備部隊3万1000人を投入した。上陸作戦は、B-24爆撃機による空爆で始まった。第一波は午前3時25分。B-24爆撃機15機、第二波は午前4時45分にB-24 60機、そして午前9時には120機による三次にわたる空襲が加えられた。

翌31日も三波にわたる空爆が行われた。完全に制空権を握っていた米軍はまともな反撃も受けることなく、一方的に爆撃を加えた。日本は環礁内に停泊していた輸送船を全て失い、地上の施設もほぼ全て無能力化された。空からの攻撃が一段落すると艦砲射撃も本格的に行われた。3000メートルほどの距離から40センチ砲を撃ちこむため、「命中しないのがどうにかしている」というほどの精度で地上施設が破壊され、守備隊の5分の1が死傷した。この段階で第6根拠地隊は暗号文書などの焼却を始めている。勝ち目がないことは分かっていたのである。米軍はこの間にクエゼリンに最も近いエヌブ島に48門の火砲を陸揚げしている。

f0008679_16584888.jpg
<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン上陸作戦、National Park Service, US Dept of the Interior, Public Domain>
f0008679_17342012.jpg
<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン攻略、archives.com, Public Domain>
2月1日早暁、ついに上陸作戦が始まる。艦船の支援射撃を受けながら、戦車を先頭に西海岸の上陸地点に到達した米軍は、日本守備隊の決死の防戦に苦戦する。秋山門造司令官より「各隊は一兵となるまで陣地を固守し本島を死守すべし」との指令を受けていた守備隊は健闘し、米軍は正午近くになっても500メートルほどしか前進できないほどであった。

しかしこの日の夜、秋山司令官は前線視察のため、司令部壕を出た瞬間、艦砲弾の破片を被弾、即死する。にもかかわらず、守備隊の士気は下がらず、その日の夜半、阿蘇太郎吉陸軍大佐麾下の機動大隊と第61警備隊は、夜襲をかけ、一時期は米軍を水際近くまで撃退する。しかし前日にエヌブ島に陸揚げされていた火砲と艦船からの集中攻撃を浴び、陣地確保はならず、ほどなく退却を余儀なくされた。

f0008679_17251033.jpg
<写真:クエゼリンで降伏する二人の日本兵、2月2日頃、RWP>
2月2日には飛行場の東側の陣地をめぐる戦闘が続き、日本守備隊による戦車への体当たり攻撃など玉砕攻撃も始まる。守備隊による抵抗は翌3日も続いたが、圧倒的な戦力を前に死傷者の数は増えるばかりであった。4日の夜明けあたりから日本軍の陣地が戦車に突破されるようになり、ついに2月4日午前10時、海軍首脳部は司令部作戦壕で自決した。その後、阿蘇大佐率いる残存兵も敵中に突撃し、玉砕した。米軍はその後残存兵の掃討作戦に入り、翌5日午前零時30分、米軍が島の北岸に到達したことをもって、米第7師団長コーレット少将は組織的抵抗が終了したことを宣言した。日本側の戦死者は4,800名あまり、その中には臣籍降下していた朝香宮鳩彦王の次男、音羽正彦少佐も含まれる。生存者はわずか263名であった。そのほとんどは設営労務者であった。対する米軍の死者は177名、死傷者まで含めると1,214名、死傷者の比較で言えば一方的であったが、激戦であった。

f0008679_17464629.jpg
<写真:クエゼリン環礁で手榴弾を投げ、進軍する米軍4th Division, RWP>
f0008679_1747647.gif
<写真:クエゼリン、2月2日頃、 National Archives、Public Domain>
一方マジュロは守備隊が配置されておらず、2月1日にハリー・ヒル少将指揮の部隊に上陸され、あっさり占領されている。 米軍は、クェゼリンを空軍基地とし、そしてマジュロを航空母艦基地として整備し、カロリン諸島攻略の重要な起点とした。その後44年7月にはサイパン、44年9月にはグアム、テニアン島、45年3月には硫黄島と日本の玉砕が続くことになるのである。グアム・サイパンは日本の本土空襲の拠点となり、そしてテニアン島は、広島・長崎の原爆搭載機が飛び立つ基地となるのである。

クエゼリンの戦闘の帰結が内地に伝えられるのは戦闘終了から約3週間後の2月25日である。大本営は午後4時に、こう国民に伝えた。
「クェゼリン島竝(ならび)にルオット島を守備せし約四千五百名の帝国陸海軍部隊は一月三十日以降来襲せる敵大機動部隊の熾烈なる砲爆撃下之と激戦を交え二月一日敵約二ヶ師団の上陸を見るや之を激撃し勇戦奮闘敵に多大の損害を与えたる後二月六日最後の突撃を敢行、全員壮烈なる戦死を遂げたり。ルオット島守備部隊指揮官は海軍少将山田道行にしてクェゼリン島守備部隊指揮官は海軍少将秋山門造なり。尚両島に於て軍属約二千名も亦(また)守備部隊に協力奮戦し全員其の運命を共にせり」

[PR]
by iyasaca | 2009-06-06 12:42 | マーシャル諸島共和国 | Comments(9)

マーシャル諸島にいってみた その4

f0008679_2023170.gif
<写真:日本統治時代の南洋群島における行政区分、旧南洋群島地図、神奈川大学21世紀COEプログラム、海外神社(跡地)に関するデータベースより>

-日本による統治ー1914-1945年-
南洋群島とは、現在で言うとパラオ、北マリアナ諸島(サイパン島、テニアン島、ロタ島)、ミクロネシア連邦(ポナペ、コスラエ、チューク)とマーシャル諸島(マジュロ、クエゼリン、ジャルート)のことである。独領南洋群島を日本が占領したのは1914年10月のことである。同年12月28日には、トラック島(現チューク島)に臨時南洋軍防備隊司令部を置き、軍政を敷く。さらに1918年5月7日のパリ講和会議において、日本の委任統治領となったことを受けて、1918年7月1日には、防備隊司令官の下に民政部が設置されている。

1922年には国際連盟(国際連盟規約第22条の規定と、C式委任統治条項に基く措置)よりC式委任統治(Class C Mandate)を受託したことを受けて、日本は臨時南洋群島防備隊を廃止し、パラオ諸島コロールに南洋庁が設置され、海軍軍政から民政に移行する。1922年4月1日のことである。

f0008679_2133163.jpg
<写真:リン鉱石貯蔵庫、BNM Collection, 1910年頃>
民政移行とほぼ時を同じくして、日本は南洋群島の地場産業の育成を図り、経済的自立を目指すため、ドイツ統治時代から行われていた椰子(コプラ)栽培に加え、製糖業(サトウキビの栽培と加工)、鰹節生産など農水産業の振興を図る。椰子からは、コプラだけでなく、ヤシ殻も加工原料として使われた。ヤシ殻からつくられる炭は、普通の木炭よりも硬く、持久力が長いとされ、当時供給過小であった毒ガスマスク用の防毒炭の材料として期待されていた。さらに1938年から44年にかけては、マーシャル諸島エボン環礁でリン鉱石の採掘が行われ、7万トンを産出、莫大な利益をもたらした。このあたりで産出したリン鉱石は鳥の糞が堆積してできたグアノと呼ばれるもので、高級肥料として高く売れたのである。しかしあっという間に枯渇した。

これら南洋群島の新興産業は主に東北や沖縄、朝鮮半島からの労働者が支えていた。1939年には群島全体の人口は13万人に届くところまで増えるが、そのうち8万人が日本人だった(さらにそのうち4万8000人が南興関係者、南興については後に触れる)。しかしこの産業育成は当初、害虫、胴枯れ病などの天災、未熟練労働者の多さと戦後恐慌による砂糖価格の下落が重なり、なかなか成果を出すことができなかった。進出した多くの企業は経営難により、吸収合併、時に閉鎖に追い込まれ、多くの失業者が町に溢れ、「真に饑餓線を彷徨ふ」とも表現されるほどの状況であった。苦境にあえぐ朝鮮半島からの労働者によるストライキの記録も残っている。政府はやがて、自らが委任統治をしている南洋群島が、食料にすら事欠く状況にあるということが国際世論の注目を浴びることに懸念を持つようになる。

ここに民間主導による産業振興は、方向転換が決定され、政府の強い関与のもと、製糖会社の整理統合を図られる。東洋拓殖株式会社を母体にして西村拓殖株式会社と南洋殖産株式会社の権利を買取り、1921年11月、南洋興発株式会社が設立されるのである。南洋興発の設立にあたり、必要資金と経営人材は東洋拓殖が提供し、本店はコロール、支店は東京に置いた。

しかし南洋興発株式会社も前途は多難と思われた。南洋興発が内地向けに最初に移出した砂糖は出荷先の横浜港で関東大震災に見舞われ、倉庫が全焼し、大損失を出している。当初は政府からの補助金なしには立ち行かない状況だったのである。1922年から1931年にかけての産業別の国庫補充額は以下の通りである。

使途内訳(主たる産業助成金)
農業(うち製糖補助金が6割) 656万円
漁業             86万円
商業            137万8000円
コブラ製造         255万8000円
南洋貿易会社補助      371万9000円
補充金総額         2099万2622円
『東京朝日新聞』 1933年3月4日「目覚しく勃興する南洋と満州の産業」

f0008679_21521769.jpg
<写真:マジュロで今も稼動するコプラ加工工場>
しかし補助金に支えられた製糖業、コプラ生産はやがて軌道に乗る。最盛期には、サイパン、テニアン、ロタに製糖工場(ロタ工場は後に酒精工場に転換)、ポナペに酒精工場、ロタ、ペリリューには燐鉱工場を設置したほか、10箇所以上の事業所や出張所を設置、20社以上の関係会社を設立するに至った。さらに、極上のでんぷんとされたアロルート(クズウコン)でんぷんの製造(ポナペ)、日本内地で生産されなくなった製紙原料のコウゾ栽培(ヤップ)、年生産額1万個とも言われた真珠貝の人工養殖(コロール、ポナペ)、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペの各島におけるナマコ漁業、高級貝ボタンの材料となる高瀬貝漁業(パラオ、ヤップ)など新規事業開拓も熱心に行った。

とりわけ実質的にゼロからの産業振興であった製糖業に関しては、手厚い政府の保護施策により、30年代の後半には南洋庁の主たる財源となる。1922年4月に南洋庁が設置されて以降、1922年制定の糖業規則により、製糖業への新規参入が許可制となり、実質的に南洋興発が製糖業を独占する形となる。さらに同じく1922年に制定された糖業奨励規則に基づく補助金の交付がなされ、また土地の確保に際しては、西村拓殖、南洋殖産から継承した900町歩以外の土地に加え、南洋庁の保有する官有地を廉価で借り受けた。加えて1938年までは営業税、所得税が免除(出港税は対象外)されるなど、数々の優遇措置が与えられた。ちなみに出港税とは、日本内地及び植民地で消費税が課される酒精、砂糖を南洋群島から移輸出する際に徴収するもので、南洋群島内で消費されるものや外国へ輸出するものについては、課税されなかった。それでもこの出港税は南洋庁を財政的に支える大財源(南洋庁の年間予算は約600万円、現在価値で約150億円であったが、これを自己調達できるようになった)となった。

1938年当時の統計資料によると移輸出は4,700万円(砂糖、コプラ、燐鉱、貝殻、鰹節、酒精等々)、移輸入は3,166万円(米穀、飲食物、煙草、車両船舶及び機械類、布帛及び布帛製品、木材及び木材製品等々)で出超額(貿易黒字)は1,534万円となっている。ちなみに現在のマーシャル諸島の政府歳入の62%が米国をはじめとする海外からの援助である。貿易収支は、5,610万ドルの赤字というひどい状態にある。(輸出2,160万ドル、輸入7,770万ドル)

f0008679_21424233.jpg
<写真:公学校での授業の様子、南洋群島協会、1938年>
南洋庁設置からわずか17年あまりのこの段階において南洋群島は、国庫による補助を受けずに完全なる独立会計の下で施政されていたのである。南洋群島の経済的自立を達成した南興は、「北の満鉄、南の南興」と並び称されるほどであった。また同時に、先住の民に対して教育を施し、学業優秀者には内地へ奨学金つきの留学ができるシステムも作った。保健医療の充実、公衆衛生向上にも尽力している。アリガトウ、ダイコン、ワサビ、アミモノ、アメダマ、オボンなどは現在でもマーシャルでそのまま使われている単語である。
[PR]
by iyasaca | 2009-05-30 22:36 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた その3

f0008679_16363085.jpg
<写真:マジュロの環礁内に打ち捨てられた廃船>

-ドイツによる保護領化-
資源も特にないマーシャルは「発見」からしばらく放置されたが、当時サモアに交易の拠点を持っていたドイツが統治に乗り出した。ハノーバー出身のドイツ人商人アドルフ・カペル(Adolph Capelle)は、ポルトガル人商人ホセ・デブラム(Jose deBrum)と共同で1859年にマーシャルのジャルート(ヤルート)環礁に初めて交易拠点を設けた。(最初の上陸地はエボン環礁)1873年にはドイツ系商社ゴッドフロイ商会(ゴーデフフロイ商会)、1876年にはヘルンスハイム商会(Hernsheim&Co)などドイツ系商社が次々にジャルートに拠点を設け、ココヤシとコプラ生産の貿易業務に本格的に取り組みを始める。しかしゴッドフロイは1879年に早々に倒産、代わってドイツ南洋貿易植樹会社が設立されるが、残ったヘルンスハイム商会ともども、時を同じくして進出していたバーンズ・フィリップ社(Burns Philp)などイギリス系商社に圧倒される始末であった。

そのような中、ドイツはマーシャルの保護領化の動きを見せる。貿易業務で優位な立場にあった英国はこの動きに当初難色を示した。しかし英国は、ドイツの保護領宣言と引き換えに、マーシャルにおける交易の自由の保障を得たことで最終的にドイツによるマーシャルの保護領化に同意、1885年10月15日、ドイツはマーシャルを保護領とすることを宣言し、首都をジャルート環礁のジャボールに置いた。

さっそくドイツは、東インド会社に倣い、ヘルンスハイム商会とドイツ南洋貿易植樹会社を合併させ、ヤルート会社(Jaluit Company)を設立、植民地統治にあたらせた。ヤルート会社は、政府派遣の監督官がヤルート会社に事前に諮問した上でマーシャルの法律を制定し、また関税や営業税のほか、酋長から住民の人頭税を一括徴収するなどして、植民地経営を行ったのである。

当時、ヤルート会社の船はシドニーを起点にラバウル、ナウル、ヤルート(現ジャルート)、クサイ(現コスラエ)、ポナペ、トラック(現チューク)、サイパン、ウリアイ、ヤップ、パラオ、香港というルートを3ヵ月半かけて回っていた。島民は1年に3-4回回航するこのヤルート会社の船にコプラを売り、現金収入を得ていた。島民はこの収入の半分ほどを酋長に上納していた。酋長はこの収入で人頭税を払っていたのである。ちなみに酋長は、島民がカヌーを作る際の費用を一部助成したり、島民の医療費を肩代わりしたりするなどの義務を負っており、一見高いと思われるこの「税率」は島民に受け入れられていたようである。

f0008679_17275645.jpg
ヤルート会社の植民地経営は早々に終わりを告げる。1906年、ヤルート会社がドイツの保護領宣言の承認の条件であった交易の自由を保障するとの約束を反故にし、バーンズ・フィリップ社の船の入港に際して営業税を大幅に引き上げたからである。商いが立ち行かなくなったバーンズ・フィリップ社は猛烈な抗議をし、この事件は国際問題となった。ドイツは結局、違約金を英国に支払う羽目になった。同時にドイツは、ヤルート会社との契約を打ち切り、1907年からは新たに設置した政庁が植民地経営にあたることとなった。

しかし植民地統治の任を解かれたヤルート会社はその後も順調に業績を伸ばしていく。軌道に乗りつつあったコプラ生産に加え、1906年から英国の太平洋諸島会社とともに手がけたナウルでのリン鉱石採掘で莫大な利益を上げた。さらに1912年にヤップに西カロリーネン会社、13年にサイパンに東カロリーネン会社を設立、取得した土地で大規模なコプラ生産に着手するなど、事業の拡大は続いたがヤルート会社の事業は、第一次世界大戦のドイツの敗戦で頓挫、撤退を余儀なくされた。ここにマーシャルのドイツ統治は終焉し、代わりに日本統治が始まるのである。1914年のことである。
[PR]
by iyasaca | 2009-05-23 16:43 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた その2

f0008679_22265898.jpg
マーシャル諸島共和国は、213.1万k㎡という広大な海域に点在する29の環礁(楕円または円形に広がる珊瑚礁)、1,225の珊瑚礁から構成され、東側の列島はラタック(日の出)、西側はラリック(日の入り)と呼ばれている。島の海抜は2-3mほど。最も高いところでも海抜10m(この最高地点はLikiepにある)でしかない。首都のあるマジュロ環礁の8割は海抜1メートル以下である。

わずか181.3k㎡しかない陸地に5万2338人(2007年マーシャル政府統計局)が住んでいる。この広さはよく霞ヶ浦とほぼ等しいとよく表現されるが、東京に住んでいる人にとっては、東京のベイエリアに東西に広がる江戸川区、江東区、中央区、港区、品川区、大田区を合わせた面積とほぼ等しいと言った方がイメージが沸きやすいだろう。意外と広い。人口の約半数にあたる2万4,000人あまりがマジュロに居住している。

f0008679_228227.jpg
1980年の人口が30,873人というから近年の人口増は著しいと言えるが、人口密度(1平方キロあたりの人口)で言えば1平方キロあたり288.6人にすぎない。これは千葉県君津市ほどの人口密度である。人口密度を倍にすると三重県伊勢市にほぼ等しく、3倍にしても北海道釧路市ほどである。先ほどの東京の例をここでも引けば、23区の人口密度は一番低い江東区でも1万1000人で中野区に至っては2万人を超えている。したがって、その40分の1ほどである288.6という人口密度は、かなりのどかであることが分かるだろう。ちなみに人口の4割が15歳以下である。

f0008679_9253382.jpg
-先史時代と身分制度-
考古学調査によると、マーシャルに人が渡ってきたのは、2,000年ほど前のことであると言われている。現在に伝わる外洋航海も可能であるマーシャル・カヌーを見れば、マーシャルの先人たちが、高い操船技術の担い手であったことが分かる。しかしマーシャル語には文字がなく、その歴史は深い闇に閉ざされている。その長い先史時代にマーシャルの小さな社会にも身分制度が形成された。そしてこの身分制度はマーシャルで稀少である土地の使用とも深く結びついている。

社会の最上級の階層には土地の所有、食物の分配、紛争解決に絶対の権限を持つイロウジ(酋長)が君臨し、その下に土地の管理、そのた日常業務を遂行するアラップ、そして最下層に農業、漁業、公共工事に勤しむ労働者たるリジェラバルがある。母系社会であり、身分と財産は母から娘へと受け継がれる。この古くからの社会秩序は、現在においても強い力を持っており、大統領といえども酋長の威光に逆らうことはできない。例えば島のどこかで建物を建てる場合、政府の認可はもちろん、その土地を使用しているリジェロバルの代表者の許諾、土地管理者であるアラップの承諾、そしてイロウジの承認が必要なのである。この枠組みを踏み外せば、学校でも商店でも教会でも閉鎖に追い込まれる。この伝統的な政治社会制度は、圧倒的な影響力を持つ酋長からなる枢密院のような大統領諮問機関という形で制度化されている。

f0008679_2224423.jpg

-マーシャル諸島の「発見」-
マーシャル諸島が初めて文献に登場するのは、スペイン人アルバロ・デ・サーベドラが上陸した1528年のことである。(マーシャル諸島政府観光局の資料によると、その2年前にも寄港の記録があるようだが)その後もスペイン船によるエニウェトク(Enewetak)、ビキニ(Bikini)、ウォッジェ(Wotje)、クェゼリン(Kwajalein)、ウジェラング(Ujelang)、リブ(Lib)、メジット(Mejit)などの環礁への上陸記録が残っている。最初の記録から16世紀の間に、少なくとも7隻のスペイン船がマーシャルに寄港している。これらは立ち寄りというに等しいほどの短い寄航であったようで、次の訪問は17世紀末に入るまで記録に残されていない。

<参考>スペイン船寄航の記録
1526年 サンタ・ヴィクトリア
1529年 フロリダ
1543年 サンティアゴ
1565年 サン・ペドロ
1566年 サン・チョロニモ
1568年 ロス・レヨス、トドス・サントス
(マーシャル諸島政府観光局日本事務局資料「マーシャル諸島紹介リーフレット」より)

-英国、ロシアによるマーシャルの調査-
スペインの次にマーシャルに登場するのは英国である。1788年東インド会社は、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ港に寄港していた英国のジョン・マーシャル大佐とトーマス・ギルバート大佐に対し、茶の輸送のため、広東への回航を指示するとともに、周辺海域の調査も依頼した。二人はスカーボロー号(Scarborough)、シャルロッテ号(Charlotte)でマーシャルの環礁周辺に広がる海域(アルノ(Arno)、マジュロ(Majuro)、アウル(Aur)、マロエラップ(Maloelap)、ウォッジェ、 エリクブ(Erikub)、アイルック(Ailuk.)の測量を行っている。名前を見れば分かるが、彼らは自分たちの名前を珊瑚礁の島々につけている。英国人の訪問はさらに続き、1797年には英国船ブリタニア(Brittania)によるナム(Namu)環礁への寄航が記録に残っている。また1803年にはロラッグ(Rollag)がアイリングラップ(Ailinlaplap)に、そして1809年にはエリザベス(Elizabeth)がジャルート(Jaluit)を訪問しているとの記録が残っている。

ロシアの登場は19世紀に入ってからであるがマーシャルに対する貴重な貢献をしている。1816年にオットー・フォン・コツビュー(Otto von Kotzebue)大佐(実際にはロシア皇帝の命を受けたエストニア系ドイツ人)がルーリック号(Rurik)で訪問した。コツビュー大佐はマーシャル(ウォッジェ、マロエラップ、アウル)で初めて民族学誌的調査を行った。ルーリック号には、芸術家のルドウィグ・コーリス(Ludwig Choris)、博物学者のアデルベルト・フォン・チャミッソ(Adelbert von Chammisso)が同乗していた。彼らは詳細な水路測量、植物学、民族誌の調査を行っている。マーシャルの伝統的生活を描いたコリスのリトグラフは現在ホノルルのビショップ゚博物館で目にすることができる。

f0008679_22203794.jpg

-米国の登場と宣教師による布教-
19世紀には米国も姿を現すようになる。最初の記録は、1828年における米国船グローブの寄航である。簡単に言うと船内で問題が発生し、米国人の船員がミリ環礁においてけぼりにされたのである。この二人は後に米国海軍に救出される。

しかしマーシャルの社会に大きな影響を及ぼすのは、1857年の宣教師上陸である。マーシャル諸島の南端であるエボン環礁(Ebon)に上陸した米国外国伝道教会(American Board of Commissioners for Foreign Missions;ABCFDM)の宣教師は、19世紀末までに人が住む環礁ほとんどに教会を建設した。現在のマーシャル人のほとんどがプロテスタント(会衆派教会制の信徒、神の議会、バプテスト、安息日再臨派)であるという歴史はここに始まっている。敬虔な信徒も多く、現在も日曜日は酒の販売が禁止されている。
[PR]
by iyasaca | 2009-05-09 22:27 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)

マーシャル諸島にいってみた 

f0008679_249196.jpg
今回の目的地は、太平洋の島国、マーシャル諸島である。首都のあるマジュロ環礁に到着したのは日も落ちた後のことだった。東京からのアクセスは良いとは言えない。まずグアムに出て、そこからアイランド・ホッパーと呼ばれるコンチネンタル航空の便に搭乗する。目的地のマジュロは、トラック、ポナペ、コスラエ、クワジェリンと4つの島に立ち寄って、ようやく到達できる太平洋の孤島である。

1986年に独立を果たし、1991年に国連にも加盟している主権国家であるが、防衛・安全保障については、米国が肩代わりする取り決めになっている。従ってマーシャル諸島には国軍が存在せず、ゆえに国防省も存在しない。米国が統治していた1946年から1954年にかけては、何と67回の核実験が行われた場でもある。核実験場として使われたビキニ環礁は、ようやく最近人が戻ってきたほどの状況である。第五福竜丸が水爆実験に遭遇したのもこの国の領海内の出来事である。

小説「宝島」を著した英国の児童文学作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンが「真珠の首飾り」と形容したマーシャルの島々。南国の楽園という言葉と裏腹に苦闘する島嶼国家の様子を何回かに分けて紹介したい。
[PR]
by iyasaca | 2009-05-02 21:16 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
記事ランキング
ブログジャンル