勝手に僻地散歩



カテゴリ:マレーシア( 6 )


コタキナバルにいってみた-ポーリン温泉からキナバル公園へ

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ポーリン温泉である。ここは温泉といっても、日本で言う、いわゆる温泉とは異なる。露天では水着着用をしなければならないこともあり、温水プールと言ったほうがイメージに近いだろう。お金を払えば、個室で風呂に入ることもできる。11部屋あるとのことである。硫化水素系の緑がかったお湯の源泉温度は55度であるとのことだが、湯船のお湯はかなりぬるい。

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ポーリン温泉は、旧日本軍によって発見された。地元には温泉習慣がないのか、日本軍が撤退した後は放置されていたが、70年代から少しずつ整備が進められ、90年代までにはキャノピー・ウォーク(ジャングルの木々、地上40メートルに渡してある吊り橋)やバタフライ・ファームなどを併設する国立公園となった。現在では年間15万人の観光客が訪れているという。

地上41メートルの高さに架けられた吊り橋も名物であるというので、出かけてみる。この日は体調が悪く38度近い熱があったのだが、20分近くかけて山道を登った。

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ようやくたどり着いた吊り橋は、一度に6名しか渡れず、またかなり狭い。発熱のため歩くのが精一杯で、スリルを感じる余裕はなかった。カメラの持ち込みは5リンギット、ビデオカメラの持ち込みは30リンギットとなっているが、お金を払う余裕もなかった。

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ポーリン温泉からキナバル山公園本部に移動した。キナバルとは中国人の未亡人との意味である。周辺には中国の王子とその未亡人の伝説も残っている。語源としてはもう一つ、キナバル アキ・ナバル(祖先の霊る山)が訛ったものだとする説もある。世界自然遺産のキナバル山の頂きは、厚い雲に遮られて見ることができなかった。
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このあたりは標高も1,600メートルほどで、空気もひんやりしている。
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植物園には熱帯特有の植物が群生している。植物に詳しい人間ならば、楽しめる場所だろう。
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かえる。
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by iyasaca | 2009-04-18 22:40 | マレーシア | Comments(0)

コタキナバルにいってみた-世界最大の花ラフレシア

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キナバル山登山の玄関口であるキナバル公園本部からさらに北に行ったところにあるというポーリン(Poring)温泉に向かう。ポーリンとは、この辺りに居住する少数民族、カタザン・ドゥスン族の言葉で「竹」を意味する。山道が徐々に高度を上げていく。

f0008679_12474124.jpg山道の途中で突然車が止まる。ガイドが言うには、近くに世界最大の花、ラフレシアが咲いているという。「見たいか?」というので、滅多に見られるものではないので、「見たい」と答えると、「一人20ドルだ」と言う。何でも、ラフレシアが咲いている土地の地権者に払わなければならないらしい。おそらく地権者からいくらかキックバックをもらっているのだろうと思ったが、開花するのは3日間という幻の花である、という誘い文句に負けて、お代を支払い、さっそくラフレシアが咲いていると言う場所に向かった。
<写真:ラフレシアの花:理想形(Wikipedia)より>
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<写真:ラフレシアに向かう20ドルを支払った仲間たち、と支払っていないイヌ>
ラフレシアの花は直径90センチにも達し、花は腐敗臭に似た臭いを発するのだという。その臭いでハエなどをおびき寄せ、花粉を運ばせる。見た目のグロテスクさから、人食い花との迷信もたつほどであったという。

すぐ近くに咲いていると言われた割には、山の中を15分ほど歩かされる。そしてついに実物のラフレシアの咲く場所に到着した。
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「これがそうだ」とガイドが指差す先にあったのは、確かにラフレシアだ。しかし想像していたものとはだいぶ違う。枯れかけの花弁はどす黒い赤で、大きさも50センチほど。ラフレシアにしては小振りである。
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微妙。
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by iyasaca | 2009-04-11 12:20 | マレーシア | Comments(0)

コタキナバルにいってみた-アトキンソン時計台

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さて、コタキナバル市内をうろうろしてみる。
まずは丘の上に聳えるアトキンソン時計台に向かう。1902年に着工したこの時計台は3年の歳月の後完成する。元々は1902年に28歳でマラリア(ボルネオ熱)にて夭折したジェッセルトン初代地域総監のフランシス・ジョージ・アトキンソンを偲んで建設されたものである。市民の募金によって建てられたこの時計台は、当時はミラボー材で建てられていた。

時計台が動き始めたのは1905年4月19日のことである。建設当初は高さ15.7メートルの時計台であったということだが、市庁によって修理・改修が繰り返されるなかで外観は大きく変貌し、1959年のコタキナバル市60周年式典の際の改修を経て、現在の形となった。アトキンソン総監の母の寄贈による二面時計も1964年の改修作業の際に取り替えられ、1979年には保守点検作業の管轄がサバ博物館に移管されている。コタキナバルに残る最も古い建物の一つであるということで、1983年8月に文化財(government reserve)に登録、1998年には文化遺産(Heritage site)に、現在も近傍の船舶の航行をナビゲートする灯台としても機能している。
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次回は市内を抜けて世界遺産のキナバル山(の麓)に向かう。
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by iyasaca | 2009-04-04 12:01 | マレーシア | Comments(0)

コタキナバルにいってみた その3

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日本軍がボルネオに上陸したのは、1941年12月16日のことである。約2,500名からなる南方総軍直轄部隊歩兵124連隊川口支隊が戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻に援護され、ミリ(Miri、現在のブルネイの南西の国境から南20キロほど)海岸に上陸した。

上陸後、川口支隊は北上し、沿岸の町を次々に攻略する。1週間後の23日にはラブアン島、24日クチン、26日にはコタキナバルが攻略され、翌42年1月3日クダット、19日サンダカン、29日には、オランダ領ポンチャナックとほぼ6週間で主要都市は日本軍の手に落ちた。

ボルネオ作戦後、川口支隊はガダルカナルに転進し、攻略後の北ボルネオの治安維持には、南方総軍直轄独立混成第四連隊歩兵第三大隊がその任に当たった。42年3月には南方総軍独立守備歩兵第40大隊800名がボルネオ守備隊として再編成されている。

その2ヵ月後の42年5月、前田利為中将が着任、軍政が敷かれる。ボルネオ軍政は、1941年11月20日に大本営・政府連絡会議が決定した「南洋方面占領地域行政指導要領」に基づいて行われた。この指導要領の抜粋を紹介する。

1)軍政実施にあたりては、権力残存統治機構を利用するものとし、従来の組織及び民族的慣行を尊重する。
2)華僑に対しては、中国政権より離反させ、我が施策に協力せしむるものとする。現地土民に対しては、皇軍に対する忠誠観念を助長せしめる如く指導し、その独立運動を誘発せしめることを避くるものとする
3)作戦に支障なき限り、占領軍は重要国防資源の獲得及び開発を促進すべき措置を講ずるものとする

この指導要領という文書自体は、華僑云々の表現部分がpolitically correctかどうか(及び実際の適用ぶり)は別として、その意味するところは至極常識的であり、現在にも適用できる。
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いずれにせよ、この指導要領に基づき、ボルネオの5つの州(西海州、東海州、シブ州、クチン州、ミリ州)にそれぞれに司政官を配置し、州の下の県にも県知事が配置された。

しかし日本が敷いた軍政は地域住民、特に華僑との関係構築に失敗したようである。というのも軍政を敷いてからわずか一ヶ月の42年6月13日付で、ボルネオ守備軍司令官から以下の布告が出ている。長いが引用する。

「ボルネオ在住華僑に告ぐ。日支事件が勃発してから過去5カ年間、在外華僑は重慶政府の募金に応じてきているが、同時に華僑は在外日本人を差別し、圧迫を加え、また追放している。このよう反日行動は日本国民にとって耐え難いことであった。またボルネオ在住華僑は日支事変が勃発してからこの地域において、英国及びオランダと行動を共にして日本に抗してきた。ボルネオ在住華僑が日本の敵国人を助けてきたことは、敵対行為をとってきたことを意味するに他ならないが、日本軍がボルネオを占領し、英・米・オランダを追放すると、華僑は態度を変えて過去に何事もなかったかの如き振りをしている。華僑は日本軍司令部の決断一つで死と面していることを忘れてはならない。華僑は今は自由を許されているが、それは華僑の行動次第である。華僑は更なる布告の発出をしないで済むように深く反省し、深慮を望むものである。」


反日行動に走る華僑に手を焼いている様子が垣間見える。尤も、42年1月12日付にてシンガポールや英領マラヤにて実施された華僑に対する措置は、華僑の不興を買うに十分であった。まず現地通貨を軍票に切り替え、手持ちの現金をわずか30ドルに制限し、残額は銀行に寄託することを義務付け、さらに一人当たり500万ドルの寄付を強制するなどした。北ボルネオ在住の華僑に対しても、これに準ずる措置として60万ドルの寄付の強制が行われている。果たして、これらの施策がどれほど徹底されたのかどうかは不明だが、軍政による華僑のコントロールの失敗は1943年10月10日にコタキナバル(アピ)で起きた事件によって決定的となった。アピ事件である。
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双十節(辛亥革命の記念日、十が二つ重なるので「双十」)にあたる10月10日早暁、約300名の抗日ゲリラ((神山遊撃隊、キナバル・ゲリラ)によって、アピの日本人居住区の日本人50名が殺害されたとされるこの事件は、その経過を見ると分かるとおり、周到に用意された作戦であり、それを察知できなかったボルネオ守備隊に衝撃を与えた。

標的は軍政機関と邦人企業で、二つの部隊が編成されている。華僑中心に編成された部隊はコタキナバルの北東にあったゲリラ本部のあるイナナム(Inanam)から陸路で中心部に向かい、バジャウなど少数民族からなるもう一つの部隊は、小船を使って海路にてアピ港に上陸している。

華僑部隊は市内に到達するとトラック2台を強奪し、そのままアピ警察署に向かい、制圧し、小銃50丁と弾薬600個を押収した。武器を得た華僑部隊はさらに、アピ刑務所を襲撃し、囚人全員が逃亡した。

少数民族部隊は、アピ港上陸後、近傍の日本軍の軍用倉庫に火を放ち、炎上させている。

二つの部隊は作戦遂行後、本拠地に無事帰還していることから分かる通り、当時アピ市内は、治安要員が手薄であった。アピ市の中心を貫くトアラン街道(Jalan Tuaran)に憲兵分隊が6名、飛行場に分遣隊6名がいたに過ぎなかった。アピの軍政当局の日本人職員は西海州長官以下30名ほどの規模だった。

日本軍政部はかなりの動揺であったようで、事件の収拾に動き出したのは10月20日、事件から10日も経ってからである。しかし動き始めた日本軍の行動は徹底していた。潜伏地の疑いがある村落はすべて焼き討ちされ、不審人物は脅迫や拷問で供述を引き出し、事件参加者の絞込みを図り、413名を逮捕している。

逮捕拘禁者に対する取調べにかかわる資料は残っていない。しかし証言は残っている。
処罰にかかわる方針については、西海州警備課長である大穂益夫氏が
「確か12月初旬であったかと思う。軍司令部でアピ事件処理についての打ち合わせがあったので、私も州長官と共に出席した。席上、司令部側は日本人が50名くらい殺害されたので、少なくとも500名は処罰しなければ軍の威信を保たれない、と厳罰論を主張した」
と手記に残している。

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事件の首謀者の処刑現場跡を整備してつくった慰霊公園にある慰霊碑裏面の碑文によると、日本軍は逮捕した413名すべてを処刑したとある。うち96名は1月21日以前にバテュ・ティガ(Batu Tiga)にあるアピ刑務所で拘禁中に処刑され、176名がアピ空港近くの砂浜ペタガスにて銃殺刑にあった。141名が21日以降にラブアン島に移送され、後に全員餓死したとある。

逮捕され、処刑された413名がどのような経緯で事件の責任者とされたのかについての詳細は分かっていない。また413名という数字も、慰霊公園の慰霊碑の裏面に書かれている碑文にあるのみで、他のソースでは確認できない。

いずれにしても、現地の華僑を中心とした反軍政のグループが決起し、日本人を殺害し、その後に首謀者と目された者は、日本軍によって処刑されたということは事実であろう。このことが軍政とボルネオ島民の間に決定的な溝が生じたことも確かであろうし、その後は両者が信頼で結ばれるということはなく、日本側のボルネオ住民に対する圧力も加えられたことは容易に想像できる。

現在もサバ州では、毎年1月23日に政府主催の慰霊祭が行われている。そこで語られる歴史とは、50名が殺害した決起運動に関連して、逮捕監禁された413名全てが処刑されたということである。

アピ事件をめぐる研究はそれほど進んでいるようには見えない。事実というよりも情報戦に使われたと思われる極端で感情に訴えるストーリーしか残っていない。しかしここで重要なのは、北ボルネオの人々が、上に述べたストーリーを通じて、歴史を学び、日本観を醸成しているということである。

コタキナバルを訪れる日本人は、少なくとも北ボルネオにおいて、そのような「歴史」が語られているということを知っておかなければならないだろう。

<参考>
「日本軍政期における北ボルネオにおけるアピ事件について」上東輝夫元コタキナバル総領事による研究ノート(名古屋商科大学)

「英領(北)ボルネオの軍政 アピ事件」kakek氏のブログ。アピ事件の経緯が詳しく書かれている。
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by iyasaca | 2009-02-09 00:37 | マレーシア | Comments(0)

コタキナバルにいってみた その2

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日本がボルネオを占領するのは、太平洋戦争が始まってからであるが、ボルネオ島西海岸には、明治期からすでに日本人は移民としてボルネオに渡っている。タワオ(Tawau)など、ボルネオ東海岸への本格的な入植は昭和に入ってからである。また1947年まで北ボルネオの首都であったサンダカンには、日本から多くのからゆきさんが渡ってきていた。からゆきさんとは、「唐行き」(海外に行く人)を語源とする日本人の妻妾のことである。当時の様子については、山崎朋子の手によるノンフィクション作品「サンダカン八番娼館- 底辺女性史序章」に詳しい。

さてボルネオで最大の産業は30-40年代を通じて、天然ゴム栽培であり、輸出額ベースでは他産業の2倍以上を占めていた。他には材木、ヤシから採れるコプラ油生産(マーガリンや石鹸、ロウソクの原料。搾りかすには豊富なビタミンと油脂を含むことから最近ではブランド和牛の飼料としても使われている)、そして1930年代からはマニラ麻の栽培なども盛んであった。マニラ麻は一年半ほどで直径25センチ、高さ6メートルに成長する。植物繊維としてはもっとも強靭な部類に属し、当時は軍艦用のロープとして世界中に需要があった。ただ、ボルネオではロープ加工まではできず、皮をはいで繊維にする工程(麻引き)の工程までを行い、日本に輸出していた。

北ボルネオへの日本人の入植は、軍が入るよりも前に始まっている。入植者の使ったルートの一つである神戸発の船は、途中燃料補給のため長崎、釜山、サイパン、テニアン、ロタ、パラオを経て、タワオに入るルートを辿った。16日間の行程であった。

入植地の一つであった北ボルネオ東海岸のモステンを例に、入植の仕組みについて触れる。

モステンは日産農林が拓務省の委嘱を受け、英領北ボルネオのモステンにマニラ麻自営農家を入植させる目的で拓いた農村である。真偽のほどは不明だが、マニラ麻栽培に適するアルカリ性の土地がなかなか見つからず、苦労の末見つけた場所だけに、「もう棄てん」という日本語が語源であるとの話もある。入植者は、まずタワオの日産農林麻園で麻栽培の指導を受けた後、モステンに入植した。入植が始まったのは、戦争が始まる直前の1941年3月からであった。

モステン入りした入植者はまず仮住まいに入る。仮住まいにいられる期間は限られているので、その間に自分の農園を拓き、自らが住む住居を建設する。
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<写真:こんなジャングルを開墾したのだろう>住居に用いる材木はモステンにある製材所から調達できた。住居が完成し、仮住まいが空くと新たな家族が移り住んできた。本宅はだいたい40坪ほどの広さで、敷地内には苦力が起居する小屋も建てた。苦力は福建からの中国人、マレー人、船上生活者であるバジャオ人などが主であった。中国人はよく働くため、人気だったようである。入植者には、一家族あたり100反歩(25エーカー)の土地が割り当てられた。土地は、日産農林が北ボルネオ会社から99年の期限で借り上げ、入植者に提供した。この土地は実際にはジャングルであり、農地とするにはまさに切り開く必要があった。入植者は、伐採した木材のうち、売却できるものは売却し、そうでないものは燃やし、肥料とした。
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開墾した農園では多くはマニラ麻が栽培されたが、収穫の時期になると、資金的に余裕のあるものは自前で麻引き工場や麻干し場を設えた。新たな設備投資をするほどの余裕がない入植者に対しては、日産農林が持つ共同作業場で麻引きをし、持ち帰って乾燥させた後、梱包をして、ロープなどへの加工をするため、シンガポール経由で日本に輸出された。

5家族の入植を契機に始まったモステンへの入植は、徐々に増え、最盛期には自営農73家族、病院や関連会社など関係者を合わせると90家族、450人にまで達した。入植者の出身地として多かったのは熊本県(20家族)、山形、宮城、福島など東北地方からの入植者も多かった。

もちろん麻だけでなく、タピオカ、サツマイモ、かぼちゃ、カンコン、ナス、きゅうり、糸瓜、ニガウリ、トマト、インゲン、サトイモなどが取れる土地柄で、肉は野生の豚や鹿はもちろん、象やサル、熊、トカゲ、ワニ、蛇なども食べていた。また陸稲は4ヶ月で収穫ができたこともあり、三毛作が可能であったが、土地が悪く、一反歩(300坪=990平方キロ)から5,6俵(300キロ)程度しか収穫できなかった。単純比較はできないが、現在の日本で豊作であれば、同じ面積で600キロほど収穫できる。三毛作をしても年間収量が半分だったということである。

しかし入植者にとって、モステンでの生活には苦労が絶えなかったようである。元々何もなかったところであっただけに、水道や電気などの基礎的な公共サービスが存在せず、電灯や調理用の火としては石油やヤシ油を使っていた。水は雨水を溜め、軽石などで濾過器を作って、飲料用としていたようである。

入植してから作物を育て、収入を得るまでの間の資金(苦力に払う賃金)や食糧については、日産が貸付を行っていた。主にマニラ麻を栽培していた入植者は収穫した麻で日産に返済した。

戦後、荒廃した都市と農園の復興が自力では困難であると判断した北ボルネオ会社は統治権を英国政府に返上し、1963年にマラヤ連邦と合併し、マレーシアに編入されるまで間、英国の直轄植民地となった。同時に先人たちの努力によって開墾された農園は、マニラ麻からゴム農園になり、その後油やし農園と姿を変え、現在に至る。
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by iyasaca | 2008-11-30 11:08 | マレーシア | Comments(0)

コタキナバルへいってみた

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ここは東マレーシアの景勝地、コタキナバル。

東シナ海に浮かぶ熱帯雨林に覆われたこの大きな島はマレーシア、インドネシア、そしてブルネイという3つの国の領土となっている。島の北部は世界自然遺産にも登録されている標高4,000メートルを超えるキナバル山が聳え、中央部は深いジャングルに閉ざされている。バンジェルマシン、バリックパパン、サマリンダ、モステン、タワオ、サンダカン、クチンなど大きな町はすべて沿岸部か川のそばに位置している。

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サバ州の州都でもあるコタキナバルは、背後に丘が迫り、町は海岸に沿って細長く延びている。沖合いには美しい珊瑚礁で知られるガヤ島を臨む。中心部から少し離れると海水浴ができる砂浜もあり、リゾート系のホテルも多い。太平洋戦争で徹底的に破壊されたこともあり、町並みから歴史は消え失せ、すっかり近代的な佇まいとなっている。

ボルネオ島は17世紀から18世紀にかけて進出してきたオランダと英国によって勢力争いが繰り広げられてきたが、1824年に両国は、北部を英国、南部をオランダが支配することで合意し、英蘭条約(Anglo-Dutch Treaty)を締結した。

北ボルネオを確保した英国は、やがて特許会社に経営を委託する。1877年に設立された英国北ボルネオ会社(後に英国北ボルネオ特許会社、British North Borneo Chartered Company、特許会社となったのは、1881年。)は、スルタンとの間に年賦賃借料を基礎とした永久賃借権を締結して以降、領有地の拡大を進めた。特許会社とは、英国枢密院の諮問を受け、イギリス国王が発行するRoyal Charterが付与された会社のことで、外交安保を除く、あらゆる統治権が与えられていた。株式会社と聞くと私などは、トヨタやソニーを思い浮かべてしまうが、北ボルネオ特許会社は、国家(正確には植民地)経営の主体であり、軍隊こそ持たないものの、警察機能を持つ巡憲隊、通貨(海峡ドル、Sraits Dollars)を発行する国立銀行、郵便局などの公共サービスなどを提供できる総督府のような強大な権限を持っていたのである。英国は1898年9月にはさらにブルネイ王国、サラワク王国を保護領とし、植民地経営に邁進するのである。
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by iyasaca | 2008-11-15 21:58 | マレーシア | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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