勝手に僻地散歩



カテゴリ:奈良( 7 )


石舞台古墳にいってみた その4

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<図:飛鳥京絵地図、国営飛鳥歴史公園HP
最後に石舞台古墳の被葬者として最も有力な蘇我馬子の死にかかわる日本書紀の記述を確認してみる。該当する箇所は、推古天皇34年(626年)5月の条にある。そこには、以下のように記述されている。
卅四年春正月、桃李花之。三月、寒以霜降。夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。

意訳すると、34年春正月、桃、すもも(李)が花開いた。3月は寒く、霜が降った。
夏5月20日、大臣が薨れた。桃源墓に葬った。大臣は稲目宿禰の子である。性質として武略があり、また明察の才があった。三宝(仏教)を恭敬し、飛鳥川の傍らに家があった。庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋をつくった。それで当時の人から嶋大臣といわれていた。

とある。

飛鳥川の傍らにあった馬子が邸宅を構えていたという日本書紀の記述、石舞台周辺に今も残る島庄という地名、そして今は石舞台古墳の有料駐車場になっている島庄遺跡から検出された大型掘っ建て柱建物と方形池跡など日本書紀と符合する点などを総合的に考えると、石舞台古墳一帯は、蘇我氏に縁のある場所であったと推認することができる。

これらを踏まえて再度被葬者像に迫ってみたい。直接的証拠は見つかっておらず、全ては情況証拠である。

1) 築造の場所が島庄という蘇我氏ゆかりの土地である[近くに日本書紀の記述と符合する一辺42mの大型掘立柱建物と深さ2mの石張り方形池の遺構(島庄遺跡)が発掘されている]

2) 作られたばかりの古墳を削って、より大きな古墳として築造されている
 (ア) わざわざ古墳群があった場所にこだわって築造されている。
 (イ) 小規模古墳が削られていることから、元の被葬者より格上の影響力を持っていた人物
 (ウ) 一辺50メートルという当時では最大級となる古墳の大きさ。

ちなみに、6世紀末から7世紀中ごろの築造された一辺50m以上の方墳は、春日向山古墳(用明天皇陵66x60m)、山田高塚古墳(推古天皇陵、66x58m)、塚穴古墳(来目皇子墓、54x54m)、シシヨツカ古墳(大伴一族?、60x53m)だけである]。通常方墳は最大30歩(41.1m)という規格とされていたようだが、有力者にはそれを超える規格での築造が許されていたようである。石舞台は36歩と規格外の大きさである。

3) 早い時期に墓が暴かれ、墳丘が全て取り除かれるという激しい行為を受けていることから、大きな恨みを買っていた人物と推定される。

最後に喜田が「蘇我馬子桃源墓の推定―ケブの大石☓、島の庄の石舞台の研究」「歴史地理第19巻第4号に書いた文章を引用したい。
種々の事情を綜合して而して之に対して此の墓が斯く日本に一二を争ふ程の巨大なるものなりとの事実は桃源墓との此の石舞台とを接近せしむるに十分有力なる証拠となるべきものなりとす。
石舞台古墳の被葬者についての研究は、20世紀以降の調査の蓄積をもっても、1912年に喜田が到達した地点を補強する状況証拠が得られただけという水準にとどまっているようにみえる。
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by iyasaca | 2015-05-02 00:00 | 奈良 | Comments(0)

石舞台古墳にいってみた その3

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<写真:石舞台古墳の石室へと続く羨道>
石舞台古墳について、考古学調査から得られている知見を引き続き整理していく。

古墳の大きさ
墳丘規模は厳密に基準が設けられていたことから、墳丘の大きさは被葬者の推定するに重要な情報である。ここではメートルに加えて、当時の計測単位も用いながら考察する。

当時の計測単位
1尺=22.9cm(古墳尺)
6尺=1歩(1.37m)

30歩以上の大型規格は四分の一歩(34.3センチ)で調整が行われた。30歩未満とする場合は、 八分の一歩(17.1センチ)、直径で3歩(4.11メートル)を単位として調整された。

さてこれらの事を踏まえて、石舞台古墳の規模と形状、そしてそれが意味することについて整理する。石舞台古墳の下段は一辺約50メートルほどであった。このことから規格としては、36歩(49.3m)が採用されたと推定される。30歩が大型古墳の規格とされていた時代、36歩は規格外の大きさである。また古墳は、幅5.9メートルから8.4メートルの空濠に囲まれており、さらにその外には上面の幅が約7メートルの堤があった。

石棺の大きさ
古墳そのものの規模と同様に重要なのは、被葬者の納められた石棺の大きさである。ところが、残念なことに石棺そのものは残存していない。石棺がないケースは石舞台古墳に限らず多く見られるため、両袖式横穴式石室の場合、羨道の幅が石室全体の規格を指し示す基準であるとの研究の成果として明らかになっている。

この横穴式石室の石室規格(=羨道の幅)の編年観によると、最高の格式とされるのが天王山古墳(崇峻天皇陵)、牧野古墳(押坂彦人兄皇子墓と推定)の羨道幅に見られる1歩四分の一(1.71m)である。石舞台古墳の羨道の幅は1歩半(2.06メートル)とさらに大きい。

副葬品
石棺をはじめ、副葬品はほとんど残されていない。見つかったのは、6世紀末の土師器と須恵器や銅の金具、釘、石棺の一部と推定される凝灰岩の破片だけである。またなぜか後代の宋銭(12世紀後半)や寛永通宝(17-19世紀)も見つかっている。出土遺物の写真は京都大学のデジタルアーカイブ「石舞台古墳 発掘の記録」でみることができる。

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by iyasaca | 2015-04-25 00:00 | 奈良 | Comments(1)

石舞台古墳にいってみた その2

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<写真:石舞台古墳遠景>
前回のエントリーでは、石舞台古墳の被葬者を探るべく、古文献を見てきたが、有力な情報はほとんど得られなかったというのが結論であった。文献による示唆が得られないゆえ、考古学調査からの知見に頼るほかない。古墳の形状、副葬品、築造時期・場所などから得られている研究成果を整理してみることとしたい。

石舞台古墳は20世紀に入ってから、本格的な調査が数回行われている。その先鞭をつけたのは、1933年(昭和8)1月と1935年(昭和10)4月に、奈良県史蹟調査会と京都帝国大学考古学研究室による合同調査である。この調査の時の様子は、デジタル化され、だれでも閲覧することができる(リンクはここ)。その後も奈良県橿原考古学研究所などが発掘調査を行っている。これらの数次の調査から、何がどこまで分かっているのであろうか。

古墳築造の時期
古墳外堤の北西部より、石舞台古墳より古い時代の小規模古墳7基(一辺8メートルから18メートル)が発見されている。いずれも円形、方形古墳で横穴式石室である。須恵器、耳鐶(じかん)、釘などの出土遺物や横穴式石室の形態からこれら小規模古墳の築造時期は、6世紀後半から7世紀初めと推定できる。石舞台古墳はこれらの古墳の一部を削って、その上に築造されている。このことから、石舞台古墳は7世紀中頃の築造と推定される。
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<写真:築造時の石舞台古墳想像図、関西大学文学部考古学研究室、奈良県明日香村、石舞台古墳-巨大古墳築造の謎-解説書より>
築造時の古墳の形状
墳丘の下の段は方形を呈している。上段は失われているので不明だが、円形か方形の2つの可能性がある(上の絵図では上段も方形になっている)。より時代が下ると古墳は3段、4段、5段築成と発展していくが、築造の時期や古墳の規模から石舞台古墳は2段築成であったとする説が有力である。一段目と二段目の平坦な部分には通常埴輪などが並べられるが、墳丘が全て削られた石舞台古墳ではそれらの遺物は残っていない。

濠の斜面には30-80センチほどの花崗岩が平らな面を表面に揃えて敷き詰められていた。この貼石は築造当時、墳丘の全面に敷き詰められていたものと推定される。同じ時代に築造されたと推定される梅山古墳(欽明天皇陵と推定。発掘作業未実施のため、正確な築造時期は不明)、西宮古墳にも花崗岩の貼石が墳丘に施されている。
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by iyasaca | 2015-04-18 00:00 | 奈良 | Comments(0)

石舞台古墳にいってみた その1

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<写真:石舞台古墳、Wikipedia>
奈良県明日香村石舞台古墳に来ている。7世紀中葉の築造と伝えられている石舞台古墳は、墳丘が全て失われ、石室部分の巨石が露出するという荒々しい形状を呈している。いくつかの傍証から被葬者を蘇我馬子とする説が有力とされているが、めぼしい副葬品はほぼ失われており、被葬者を確定するだけの証拠は揃っていない。

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<写真:玄室内部から天井石を仰ぐ>
大小30数個の閃緑岩によって組み上げられた両袖式横穴式石室は、総重量2,300トン、西南部に開口している。2枚の天井石は特に大きく、それぞれ54トン、77トンある。

残存する遺構の大きさは以下の通り
  玄室 長さ 7.7メートル 幅 3.5メートル 高さ 4.7メートル


石室が露出する異様な形状は、古くから世間の耳目を集めたはずであるにもかかわらず、文献上の記録に古いものが残っていない。石舞台について書かれたとされる最も古い文献は1681年(延宝9年)の林宗甫「大和名所記 和州旧跡幽考」である。この中に
「その近き所に石太屋(いしふとや)とて陵(みささぎ)あり」
と記されている。「石太屋」は、大きな石で造った屋の意味で、これが「いしぶたい」へと転訛したのではないかとの説がある。

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<写真:菅笠日記、公益財団法人鈴屋遺跡保存会 本居宣長記念館所蔵、国重文>
次に石舞台について書かれている文献は、本居宣長が1772年(明和9年)に著した「管笠(すががさ)日記」である。菅笠日記は、宣長が43歳のときに、吉野と飛鳥を10日間にわたって見て回った際の記録である。その記録によると宣長自身は石舞台古墳を訪ねてはいないが、近くまで来た時に聞いた話として、以下のように書き残している。
さてこゝのいはやのつひでに。しるべするをのこが語りけるは。岡より五六丁たつみのかたに。嶋の庄といふ所には。推古天皇の御陵とて。つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。
意訳すると、「さてこの岩屋(艸墓古墳、くさはかこふん)を訪ねたついでに、土地に詳しい男に聞いた話として、岡寺より5、6丁(109.2mx6丁=655メートルほど)ほど東南の方角(たつみのかた、巽、辰巳)に島の庄というところがあり、そこに推古天皇の御陵がある。塚の上に岩屋があり、中は8畳ほどの広さだという」

とある(該当箇所はここ)。当時は推古天皇陵とされていたらしいことが分かる。

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<写真:西国三十三所名所図会、武庫川女子大学所蔵>
さらに時代を下って1848年(嘉永元年)には、暁鐘成(あかつきかねなり)の手による「西国三十三所名所図会」の中で、石舞台古墳の絵とともに、「高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、天武帝殯古址(てんむてい・もがり・こし、天武天皇を仮に葬り奉った場所)との添え書きが付されている。

絵図を見ると分かる通り、石室が露出した形状に描かれており、現在とほぼ同じ形である。

これらの文献によって分かることは、少なくとも江戸期には、墳丘は存在せず、ほぼ現在見られるような形となっていたこと。さらに確認できる伝承からは、時代によって天武天皇の殯の場所であるとされたり、推古天皇陵であるとされたりしていることからも分かる通り、確たることは言えないというのが結論である。


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by iyasaca | 2015-04-11 00:00 | 奈良 | Comments(0)

奈良ホテルにいってみた

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興福寺の南、小高い丘の上にある和洋折衷の木造建築、奈良ホテルを訪ねる。

奈良ホテルは、後藤新平が総裁を務めていた内閣鉄道院が35万円を拠出し、1909年(明治42)10月17日に竣工した。1883年(明治16)に建てられた鹿鳴館の総工費は18万円だったという。1883年から1909年の36年間に物価は2倍ほどに上昇していた。つまり奈良ホテル建築には、鹿鳴館と同程度の力が入っていたということになる。ちなみに1883年の18万円、1909年の35万円は現在では50億円ほどの価値になる。

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設計を手がけたのは、辰野片岡事務所である。辰野金吾は東京帝国大学工科大学退官後の1905年(明治38)、大阪で片岡安とともに事務所を立ち上げていた。辰野は1903年(明治36)に東京にも事務所を構えており、1919年(大正8)にスペイン風邪(今で言う新型インフルエンザ、H1N1型)に斃れるまで、これらの拠点から朝鮮を含む全国主要都市で多くの作品を残している。辰野の代表作とも言える中央停車場(東京駅)を手がけたのは1914年(大正3)だったので、奈良ホテルは辰野の全盛期の作品と言えるだろう。

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見えづらいが、屋根の上には東大寺大仏殿と同じ型の鴟尾を配置し、壁面を白漆喰で仕上げている。

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エントランスホール上方にあるシャンデリアは、春日大社の釣燈籠を模している。

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階段の手すりの節目についている擬宝珠は、戦時中金属類回収令に基づき、供出してしまっため、陶器で出来ている。手すりはヒノキの一本木、他にもあちこちに興福寺や東大寺など奈良の代表的建築物をモチーフとした装飾が施されている。辰野が単に「和」とではなく、「奈良の伝統」と、洋風でしか成立しえない「ホテル」との融合に心を砕いていたことが分かる。
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天井はエントランスホールだけでなく、客室廊下に至るまで格天井(ごうてんじょう)があしらわれている。ちなみに様式としては、折上(おりあげ)格天井がより格式が高い。最も格式が高い様式は二重折上格天井で二条城やかつての江戸城本丸大広間の上段の間(将軍の座するところ)に使われていた。
  
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当時は誰でも宿泊できたわけではない。原則として宿泊できたのは、「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」だけであった。海外からもアインシュタイン、リンドバーグ、チャップリン、ヘレン・ケラー、鄧小平、ヘップバーンなどが宿泊客帳簿に名を連ねている。
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奈良は、京都への観光客の一部が、日帰りで訪れるだけの場所となっているという。奈良は田園に広がる美しい古都としてだけでなく、奈良吉野山より熊野三山に至る修験道を有する味わい深い地である。和洋が高いレベルで融合した宿で時間を費やす客が少しでも増えてほしいものである。
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by iyasaca | 2015-01-17 00:00 | 奈良 | Comments(0)

藤ノ木古墳にいってみた その2

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さて被葬者の絞込みをするにあたっては古墳、石棺の形状、そして副葬品が手がかりとなる。まずは古墳の形状である。現在の姿は円墳に見えるが、1856年(安政3年)の「巡陵記事」には「此陵魚子ノ如ク形ニテ」とあり、前方後円墳を思わせる記述が残っている。このことは藤ノ木古墳が円墳以外の形であったという説に一つの根拠を与えている。

しかしながら、橿原考古学研究所の調査によると「建物遺構や前方部を示すような遺構は検出されなかった」とのことである。特に前方後円墳であった場合、前方部にあたるはずの部分から円筒埴輪の出土する幅3.5~5.5mの濠状凹地が検出されている。この古墳はどうやら最初から円墳として作られたと見てよさそうである。

陵墓の形は時代特定のヒントとなる。前方後円墳が作られていた時代(560年代まで)に作られた円墳は被葬者の格が落ちる。580年代であれば皇族クラスである。さらに50メートルを超えるという円墳の規模は、広陵町の牧野古墳、天理市の塚穴山古墳に次ぐ大きさである。墳墓の大きさも被葬者の身分を示す手がかりの一つである。

古墳の時代をさらに特定するために石棺と副葬品を見ていこう。

石室内に納められていた長さ2.35メートルの石棺は、二上山(ふたかみやま)の白色凝灰岩をくりぬいて作られたいわゆる「家型石棺」と呼ばれるものである。橿原考古学研究所の奥田尚氏によると、当時天皇・皇族クラスの石棺の大半は二上山凝灰岩の中でも特に上質な大阪府太子町鹿谷寺産のものが使われていたが、藤ノ木古墳の石棺は太子町牡丹洞産のものが使われていると言う。

また石棺は外面全体に水銀朱が塗られていた。古墳時代より朱は蘇りの色、そして防腐剤として遺骸に塗る風習があった。また石室内部に塗られている例もあるが、藤ノ木古墳に見られるように石棺の外壁全体に塗る例は珍しいとのことである。この水銀は、宇陀川流域の鉱山より採取された硫化水銀である可能性が高いと言われている。

ふたの縄欠け突起の形状(時代とともに丸い形から四角くなる)、ふたとの角度(時代とともに次第に下向きになる)、突起の数(4つから6つに変わる)、ふたの上部の形状(平坦な部分が広がっていく)、石材の色(古いものはピンク色で新しいものは白)などの特徴から藤ノ木古墳の石棺は、6世紀後半から7世紀前半にできた赤坂天王山古墳や牧野古墳に近いとされている。

藤ノ木古墳は、近世の灯明皿が出土していることから石室にまでは立ち入られた形跡があるものの、石棺は開かれず、盗掘を免れたことから、棺に納められた副葬品を埋葬時そのままに確認することができた。石室内から発掘された副葬品は総計1万6000点以上ある。主なものだけを箇条書きする。
1)土器46点:玄室の右袖部にまとめて配置されていた。須恵器の大型器台、高杯、壷など57点。土師器の壷、高杯12点などが出土。土器の特徴から6世紀後半の遅い時期(560-80年)であると言える。そして土器には百済の影響が見られる

f0008679_12362292.jpg2)金銅製の鞍金具:三日月形の鞍金具は幅57cm、高さ43cm、厚さ2ミリほどの銅板で、鬼面、象、ウサギ、鳳凰、獅子などの文様が透かし彫りされている。交差する位置にはガラス玉が、3本の把手の支柱には蓮華座、把手の横棒には金細工の施された半球形のガラスがはめこまれ、支柱の下には鬼神が半肉彫りされている。文様の意味は不明。仏教美術の影響が見られ、北魏の石窟装飾に源流を見る向きもある。高い技術が必要であるため、と来賓の可能性も指摘されている。


3)鐙(あぶみ)
f0008679_12283666.jpg4)棘葉形杏葉(きょくようけいぎょうよう)などの馬具:杏葉とは、馬の胸や尻に巻かれている帯革に取り付ける装飾用の馬具のこと。石棺からは、18点出土している。長さ13.8センチ、幅9.8センチほどの大きさ。
 
5)玉:巨峰サイズのコバルトの玉が足元、少し小ぶりの玉も頭の方にある。色もオレンジ、緑、黄色など。しかし、メノウや水晶などの石の玉飾りは発見されなかった。
6)筒型金銅製品:儀器?
7)円形金銅製品:直径3.3センチの金銅が石棺全体に散らばっていた。糸で通した跡がある。

f0008679_16365328.jpg8)玉纏大刀(たままきのたち):伊勢神宮の神宝(鮒型と言われる魚型の飾りがついている)に似た金銅製の魚佩(ぎょはい)が柄についている太刀。魚佩は平安時代の朝廷の神器大刀契(だいとけい、太刀と契のセットを意味し、百済伝来の宝刀と契は魚佩で平安期から南北朝時代まで神器として歴代の天皇家に伝えられたとの説も)とのつながりを指摘する声もある。朝鮮半島に出土例がなく、日本では古墳時代の有力豪族の墓から出土されていることから、被葬者に純日本的要素があったことがうかがえる。(写真は復元展示された玉纏大刀)


9)文様入り繊維:石棺を囲む6箇所に繊維の固着した鉄釘が打ち付けられていた。石棺と奥壁の間にも同様の文様入り繊維が落ちていた。死者を囲む帳との説もある。
10)花弁型歩揺付雲珠(ほようつきうず)
f0008679_12235727.jpg11)金銅製の冠:二つに折り、沓(くつ)と石棺の壁の僅かな隙間に突っ込まれていた(冠が身分を象徴するようになるのは冠位12階(603年)以降の話でこの時代はまだファッション程度ゆえ足元に置かれていてもおかしくないという説も???信頼できない)

12)銅製の大帯:腰ではなく足の方に丁寧にたたんでおいてある(通常の場所でない)
13)金銅製履:埋葬当時は金色に輝いていたf0008679_11415841.jpg


被葬者の遺骨も二体発見されている。
分析の結果、石棺北側に埋葬されていたのは、17-25歳の男性で、身長は164-6センチであることが分かった。この被葬者の下には1万4,000個の玉が敷かれており、頭には130個のガラス玉を編み込んだ帽子をかぶり(帽子は背中まで達する玉すだれ状の立派な装飾品である)、首飾りとして金メッキされた空玉(うつろだま)、耳には金の耳環、すぐはける状態にあった沓、鏡2枚、太刀2本とともに埋葬されていた。被葬者の髪を飾っていた金銅製勾玉(まがたま)の中には、鈴のように音を鳴らすための金か銀製の小さな玉「丸(がん)」が入っていたことも後の調査で判明している。一つの勾玉は長さ1・5センチ前後、直径4ミリ前後で、内部は空洞でいた。薄い銅板を勾玉の形に加工して金メッキを施し、先端は青色などのガラスで装飾した精巧な構造であった。また太刀と剣は一本を除き、国産で埋葬用に特別に作られたものであることも分かった。北側の被葬者については、全身骨格が残っていたので比較的分析は容易だったようである。年齢が若いにも関わらず副葬品が豪華なことが特徴である。身分が高かったことを表している。

南側に埋葬されていた人物は、膝から下の一部分しか残っていなかったが、男女差が現れやすい踵骨から採取した5項目の計測値を人類学で用いられている判別式に入れ、分析した結果、87.5%の確率で男性であると判定された。同時代の他の古墳から見つかった女性の遺骨との照合、女性被葬者に副葬品があった例は少ないこと、そして足下に置かれた沓の大きさも北側被葬者36センチより大きい43センチであることから南側の被葬者も男性であると考えていいだろう。

身長は左右の踵骨が長さ約5センチ、幅約3センチ、厚さ約3センチの分析の結果、全体の大きさが男性である北側被葬者とほぼ同じであること、踵骨全面の距骨と接する間接面も直径2センチ程度で北側被葬者とほぼ同じ大きさであることから、170センチ前後、年齢は20-40歳であったと見られている。

南側の被葬者も、玉1,000個が敷かれており、首飾り、沓(靴底が上に向いて置かれていた)、鏡2面、太刀2本が埋葬されている。

同じく石棺内で、金銅製首飾りと大帯も発掘されたが、誰に対する副葬品かは今後の分析を待たなければならない。

また橿原考古学研究所資料室長でもある前園美知雄奈良芸術短大教授の調査報告書「藤ノ木古墳から見た古代繊維製品の研究」によると、南側には折りたたんだ掛け布をかぶせ、北側の掛け布で全体を覆ったことが分かった。従って二人の埋葬は同時で、本来の被葬者は北側(装身具が多い)であったことが分かっている。石棺の中に二人は一部重なるように埋葬されており、おそらくは一人用として作られた棺に、事情によって二人埋葬したと考えられる。

また棺は追葬を想定して、玄室の奥まった場所に置かれていた。前方の空間からは何も発掘されなかった。追葬がなかったということは被葬者の一族が途絶えたという可能性も指摘されている。

さらに石棺内からは、骨よりも分解されにくい消化管内にある寄生虫の卵や食べ物の残りかすは確認されず、花粉(ベニバナ、アカガシ、イネ)と繊維片のみ確認できた。当時の衛生状態から寄生虫がいないことは考えにくいこと、そして遺体を傷つけると魂の帰る場所がなくなると考えられていた当時の風習から、内臓を取り除いて埋葬されたというよりも、別の場所で長く殯が行われ、内蔵が食べ尽くされたり、腐り落ちたかした後に埋葬されたということが考えられる。

天皇(大王)の墓が方墳に移る時期にもかかわらず円墳であること、天皇家や有力皇族が用いた家型石棺を用いていること、斑鳩は蘇我氏の墓所である点、さらに日本書紀にある没年との照合、副葬品に見られる仏教的要素と百済・伽耶系文化等を総合的に考えると被葬者は、6世紀後半にほぼ同時期に亡くなった蘇我氏に近い、若い有力皇族とするのが妥当ではなかろうか。

ここから先の被葬者の特定作業は、専門家でも意見の分かれるところである。もちろん石棺の石質や純金製の副葬品の少なさから被葬者を皇族とすることに懐疑的な学者も少なくない。また蘇我氏に近いという点についても、蘇我氏が斑鳩に進出したのが587年以降(それまでは物部氏が支配していた)であることから、570年前後(570年前後と断定する論拠は不明)とされる藤ノ木古墳の造営年とのずれを指摘する論もある。

しかし、石棺の石質や副葬品のグレードが一段落ちるので皇族とは考えにくいとする点については、被葬者が死に至った政治的情勢や年齢なども影響したであろうから、必ずしも皇族ではないと否定できないのではないかと思う。また物部氏が支配していたとされる587年以前の斑鳩に墓所が造営されているという点から蘇我系を被葬者として排除する説についても、蘇我系でありながら物部側に回り、蘇我馬子に攻め滅ぼされた二人の若き皇子の存在を考えると、やはり被葬者を「蘇我氏に近い若い皇族」とするのは悪い筋ではないと思う。

f0008679_13162416.jpg埋葬の時期については、石棺内で特に多量に残っていたベニバナの花粉の研究で少しずつ明らかになりつつある。ベニバナは、最初は鮮やかな黄色で徐々に赤みがかってくる花である。花を摘んで、水にさらして乾燥させると紅色の染料となる。古代においては高貴な色として珍重された。ここで議論となったのは、石棺内に残る花粉が、染料として使われたものなのか、それとも埋葬の際に生花として捧げられたものなのかである。生花であれば、ベニバナの開花時期である6-7月に埋葬時期を特定することができる。
f0008679_13174227.jpg金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究によると、ベニバナが染料として使われた場合、布地に花粉が残らないという。従って、石棺内に残る大量のベニバナの花粉は、生花として捧げられたものであることが分かった。同時に確認されたアカガシの開花時期が5月であることなどをあわせて考えると、埋葬時期が夏であった可能性が高いということが分かったのである。(*イネは種類によって開花時期が大きく異なる。石棺で発見されたイネ種の開花時期も同時期であれば、夏埋葬の可能性はさらに高まる)捧げられたベニバナが季節を越えて保存されていた可能性、そして依然として被葬者2人の殯がどのくらいの期間行われたかが分からないので、被葬者の死亡時期を特定するには至らないが、金原准教授による貴重な学問的貢献であると言えよう。

住宅地の中に位置する藤ノ木古墳は今でこそ、写真のごとく整備がなされている。しかし、少し前までは陵墓とは分かっていたにもかかわらず、柿の木などが陵の斜面に生えるがままになっており、ただの丘にしか見えない時期が長かった。ネットを検索すると当時の写真が掲載されているホームページもある。まさかここに未盗掘の棺が残っているということは想像していなかっただろう。

いまだ多くのなぞを残したままの藤ノ木古墳。周辺調査と被葬品のさらなる分析が待たれるところである。
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by iyasaca | 2008-09-13 11:17 | 奈良 | Comments(0)

藤ノ木古墳にいってみた

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藤ノ木古墳にいってみた。
訪問のタイミングが悪く、案内板は青いシートに包まれ、南東部にある石室入口には「立ち入り禁止」の看板も立っている。

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住宅地の中に鎮座する直径48メートル、高さ7.6メートルの墳丘は、江戸時代には「崇峻天皇御廟陵山」とも「陵山(みささぎやま)」とも言われ、地元に崇峻天皇陵との伝承も残っている。

藤ノ木古墳は1985年以降6回(1985年、1988年、2000年、2003年、2004年)にわたり調査が行われており、明らかになったことも多い。それでも被葬者が誰であるかはいまだに決着がついていない。考古学的手法とは別に、被葬者の実像に迫るには古文書を紐解くことである。藤ノ木古墳について触れられていると考えられる古い文書はいくつか残っている。

現在に伝わる文献から藤ノ木古墳とその被葬者についてどこまで迫ることができるのだろうか。藤ノ木古墳の東、直線距離にして僅か300メートルほどの場所にある法隆寺に残る文書が最大の手がかりである。

藤ノ木古墳について「触れられている」と考えられる文書は以下の通りである。

1)「法隆寺田畠配宛(でんばたはいえん)日記」
1265年5月26日付の項に、法隆寺に寄進された一町7反の畑内訳として、
「二反の畑は庚陵寺に属して、ミササキという名称がついており、寺で大工仕事を担当している刀祢が耕作、近くにお寺がある(原文では陵は変体字)」とある。
庚陵寺の庚は西という意味で、陵は天皇の墓の意であることから、法隆寺の西にある陵、つまり藤ノ木古墳のことではないかと解釈している。

2)「嘉元記」
14世紀の法隆寺文書。1347年5月に「西郷陵堂(にしのさとのみささぎどう)」の供養を行った」との記述あり。西郷陵堂が藤ノ木古墳の前にあったとされる陵堂ではないかという指摘である。

3)「寺要日記」
14世紀の法隆寺文書(全12冊)。
1366年の年紀の1月4日の項に1月3日の上宮王院(夢殿)での行事に続いて、4日陵堂御行事「免田餅百卌五枚結衆(参列した僧侶)立餅人別五枚宛」(めんでんもちが135枚必要で、参列した僧に一人当たり5個配分した)と2行にわたって墨書されている。この法要が上宮王院や金堂、西円堂など主要伽藍で法隆寺で営まれる行事と併記されていることから、寺の近傍の陵で主要な伽藍で行われていた同じレベルの重要性を持った法要が行われていたことは分かる。

4)法隆寺別当記(14世紀中ごろ)
「陵堂供養とし法要が営まれていた」との記述あり。

5)宗源寺文書(1679年)
1595年に崇峻天皇御廟 陵山(みささぎやま)と呼ばれていたとの記述あり。

6)18世紀始めに法隆寺が奉行所に提出した文書
崇峻天皇の名前が入った図面がある

ざっと見れば分かるように、多くの文書は供養・法要などの儀式が行われた場所として、藤ノ木古墳について「触れている」程度で、被葬者に結びつく情報を引き出すことはできない。かなり強引に藤ノ木古墳と結び付けている例も見られる。

それでもこれら文書から分かることは、法隆寺の近傍に陵と現在はすでに失われた陵堂が存在したらしいこと。さらにこの陵は江戸時代には崇峻天皇が葬られているとの記録が法隆寺に残っていることなどである。

しかし江戸期以前に藤ノ木古墳と崇峻天皇と関係付ける情報は文献の中にはなく、崇峻天皇陵だと同定した根拠も明らかでない。ちなみに陵とは、一般的には天皇及び三后の墓を意味し、それ以外の墓は「塚」と表現される。

しかし藤ノ木古墳と法隆寺の関係はありそうである。地理的な近さだけにとどまらず、その位置関係から法隆寺の一部として考えられていた可能性がある。というのは、藤ノ木古墳は、法隆寺西院伽藍から古代高麗尺で西に1,800尺の場所にある。古代斑鳩地方の地割はこ高麗尺(こまじゃく)300尺なので、6区画分に相当する。また法隆寺創建遺構とされる若草伽藍の寺域の北限線を西に延長するとちょうど古墳の真上を通る。古墳造営の方が若草伽藍創建より数十年古いとされている。これらのことから、法隆寺は藤ノ木古墳をかなり意識して建立されたとも考えられる。となると、藤ノ木古墳南側にあったとされる陵堂における法要などが法隆寺の儀式の一環として行われることはさほど不思議なことではない。

f0008679_11142554.jpgただ法隆寺に残る「宝積寺境内図(1709年)」によると藤ノ木古墳の南側には平安時代に建立されたと伝えられる宝積寺(ほうしゃくじ)とその境内が描かれたいる。橿原考古学研究所の5次に及ぶ調査では宝積寺の遺構を見つけることはできなかったものの、近世以降に墳丘南側の一部が造成され、平坦な面がつくられ、その盛土層には焼けたような痕跡が見つかっている。橿原考古学研究所の報告書によると、「この盛土層における焼けたような痕跡については、『宗源寺過去帳』にある安政元(1854)年の宝積寺焼失に関連する可能性がある」、としている。

結論的には、被葬者を特定するにあたって、有用な情報は文献からは得られないと言わざるを得ない。となると、被葬者の絞込みは発掘調査の結果を分析するしか方法がない。


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by iyasaca | 2008-09-06 00:03 | 奈良 | Comments(0)


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