勝手に僻地散歩



カテゴリ:大阪( 5 )


茶臼山 堀越神社にいってみた その5

587年8月2日に即位した崇峻天皇は倉梯に宮殿を構え、翌年3月に大伴糠手連の娘である小手子(こてこ)を妃に娶った。すぐに皇子と皇女をもうけている。

皇位継承をめぐる争いの直後であり、安定性と継続性を重視したのか、崇峻天皇は用明天皇の側近をそのまま引き継いでいる。

崇峻天皇は、仏法の振興(僧侶の招聘と留学、寺院の建立)と国境(東海道:うみつみち、北陸道:くるがのみち、蝦夷)の監視強化を行い、朝鮮半島に対しては、新羅に滅ぼされた任那の宮家復興を目指すことを掲げた。

仏法の振興とは、僧侶を連れてきて説法や布教をさせるといった単純なものではなく、寺院建築工や瓦葺など最先端の技術をもった専門家を朝鮮半島から受け入れるための国策であった。また同じ目的で百済に日本の僧侶(善信尼)を留学させている。590年10月には新しく身に着けた技術と半島から渡来した熟練工らを使って、自らの求心力も高まるであろう新しい寺院(法興寺)建設にも着手している。

しばらく続いた混乱を収めたことに自信を持ったのか591年8月、崇峻天皇は新羅に滅ぼされた任那における宮家の再建の可能性について群臣らと諮り、11月には2万余りの軍勢をまずは筑紫に向けて出兵させると同時に吉士金(きしのかね)を使者として新羅に送っている。軍事行動と話し合いを織り交ぜた、なかなかしたたかな外交である。

ここまでの崇峻天皇の治世は手堅く、決して愚かな指導者ではなかったことをうかがい知ることができる。わずか4年前には、群臣らが内乱を繰り返し、朝鮮半島どころではなかったことを考えると、ここまでの安定をもたらした崇峻天皇の手腕は評価されるべきものである。

しかし翌592年10月4日、献上された猪を前に発した一言をきっかけに崇峻天皇の運命は暗転する。日本書紀にその発言はこう記述されている。

「何時如断此猪之頸。断朕所嫌之人。」
(いつの日かこの猪の頸を斬るように自分が嫌いな奴を斬りたいものだ)

日本書紀はさらに続く。
「多設兵仗、有異於常」
(兵仗=武器を多く集めたことが、いつもと違うところであった)

このことは崇峻天皇は以前から用明天皇からそのまま引き継いだ群臣、特に大臣蘇我馬子に対する不満を抱いていたことを示唆している。しかしその不満を行動に移したのはこのときが初めてであった。

ところで、日本書紀のこの部分には「或る本によると(或本云)」と注が挿入されている。
妃の小手子が崇峻天皇の寵愛が衰えたことを恨み、使いを馬子のもとに送って崇峻天皇の発言を告げ口した。馬子はそれを聞いて驚いた、とある。

武力で自分を排除しようとするほど自分が天皇に嫌われているという事実に驚き、恐れた馬子は群臣を集め、先手を打って天皇を排除することを決意する。11月3日、馬子は、東の国から使者を迎えると嘘をついて崇峻天皇を誘き出し、その場で天皇を殺した。下手人は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)であった。その日のうちに崇峻天皇は、倉梯岡陵に葬られた。

天皇ほどの高位にある人物が殯(もがり)もなく葬られるのは異例のことである。殯は、「本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認する(Wikipediaより)」儀式のことであり、この時代には重要視されていた儀式である。例えば先代の用明天皇の本葬は死後4年経ってから、つまり殯は4年間にも及んだのである。

天皇を排除した後の馬子の動きに抜かりはない。わずか2日後の11月5日には、早馬を筑紫の将軍に送り、「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」と命じている。

この巻の最後に東漢直駒のその後について書かれている。東漢直駒は馬子の娘である河上娘をひそかに妻とした。馬子は姿を見せない娘を死んだものと思っていたが、ある日それが露見し、東漢直駒は馬子によって殺されたという。おそらくは、非が自らに及ぶことを避けるために消されたと考えるのが妥当だろう。実際に馬子は天皇暗殺という大罪が身に及ぶことはなく、626年に死ぬまで大臣という地位にとどまり続けるのである。

崇峻天皇暗殺のほぼ一ヵ月後、天皇に即位したのは炊屋姫であった。女性が天皇に即位するのはこれが初めてである。欽明天皇の皇子らがすべて世を去り、次の世代がいまだ幼少であったため、リリーフ的に即位したのであろうが、炊屋姫改め推古天皇の治世は35年に及ぶ。この後の時代は推古天皇の兄である用明天皇の皇子、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が両輪となって展開していくことになるのである。

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さて堀越神社である。この神社は推古天皇の時代に、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父にあたる崇峻天皇の徳を偲んで創建したとされている。しかし今までの経緯と歴史を考えると、本当に厩戸皇子にそのようなことができたのだろうかと不思議さが残る。さらに日本書紀の記述が正しいとすれば、告げ口をして身の破滅を招いた張本人の小手子妃が崇峻天皇とともに御祭神となっているのも不思議である。

厩戸皇子にとって馬子は20年以上も年長であり、また厩戸皇子は馬子よりも先に世を去っている。厩戸皇子にとって馬子は、おそらく生涯を通じて恐ろしい存在であったに違いない。

厩戸皇子は当時権力争いのただなかにあり、全てを見聞してきたはずであり、馬子が叔父殺しの黒幕であったこともうすうす分かっていたことだろう。すでに推古天皇の摂政としてキャリアを重ねてきた厩戸皇子に、崇峻天皇を祀る神社を創建するというあえて馬子を刺激するようなリスクを犯すメリットがあるとも思えない。ひょっとしたら馬子が「自分は天皇暗殺とは関係ない」ということをアピールするために、厩戸皇子にあえて、崇峻天皇を祀る神社創建を勧めたのかもしれない。

このように素人がああでもない、こうでもないと、いろいろ考えることができるのも楽しいことである。

いずれにしても現在の堀越神社は、「日本一オモロイ神社」を目指している愉快な神社である。ライトアップや落語会、ブルース演奏のライブまで行っているという。こじんまりとした境内も美しい。四天王寺訪問の際に、立ち寄るに値する神社である。
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by iyasaca | 2008-08-30 20:44 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その4


それでは日本書紀に崇峻天皇(泊瀬部皇子)は、どのように記述されているのだろうか。皇位に就いた経緯、治世中の業績、そして非業の最期について掘り起こしてみたい。

6世紀後半の日本は、皇子、群臣らを交えた皇位をめぐる権力争い、任那を介した朝鮮半島における影響力維持、神道と仏法の主導権争いという三つの動きが、ない交ぜになって進んだ時代であった。

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ここからは登場人物が多いので系図を見ながら話を進めよう。
崇峻天皇の父で、統治が32年にも及んだ欽明天皇から息子の敏達天皇への皇位継承は、敏達天皇が欽明天皇が崩じる3年も前に皇太子となっていたこともあり、争いは生じなかったようである。しかし敏達天皇が585年(在位13年)に崩じると、第一皇子である押坂彦人皇子への皇位継承はなされず、敏達天皇の異母弟である用明天皇へと皇位継承がなされた。用明天皇の母は蘇我稲目の娘の堅塩姫である。押坂彦人皇子へとすんなりと皇位が継承されなかったのは、用明天皇が崩じた時点でも他の欽明天皇の皇子が壮年期にあったことがその理由だろう。その用明天皇も在位わずか2年で崩御するのである。

この時代の不幸は欽明天皇の皇子があまりに多かったことである。日本書紀に記載が残っている欽明天皇の子供たちは多い。リストの長さでその多さを味わってほしい。

1)石姫皇女(いしひめのひめみこ。宣化天皇の皇女)
 o箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ、八田王)、?- 552年4月没
 o渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)、538?-585年9月14日没
  後の第30代敏達天皇で押坂彦人皇子、難波皇子、春日皇子の父
 o 笠縫皇女(かさぬいのひめみこ、狭田毛皇女)
2)稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ、『古事記』に小石比賣命。宣化天皇の皇女。)
 o石上皇子(いそのかみのみこ、上王)
3)日影皇女(ひかげのひめみこ、『古事記』になし。宣化天皇の皇女?)
 o倉皇子(くらのみこ。『古事記』に宗賀之倉王として、母は糠子郎女)
4)堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目宿禰の女)
 o大兄皇子(おおえのみこ)、?-587年5月没
  後の第31代用明天皇で厩戸皇子の父、
 o磐隈皇女(いわくまのひめみこ、夢皇女) 伊勢斎宮
 o臘嘴鳥皇子(あとりのみこ、足取王)
 o額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、炊屋姫) 、554年ー628年4月15日没
  後の第33代推古天皇、竹田皇子、菟道貝蛸皇女(厩戸皇子の后) の母
 o椀子皇子(まろこのみこ、麻呂古王)
 o大宅皇女(おおやけのひめみこ)
 o石上部皇子(いそのかみべのみこ、伊美賀古王)
 o山背皇子(やましろのみこ、山代王)
 o大伴皇女(おおとものひめみこ)
 o桜井皇子(さくらいのみこ、桜井之玄王)
 o肩野皇女(かたののひめみこ、麻奴王)
 o橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)
 o舎人皇女(とねりのひめみこ、泥杼王) 当麻皇子の妃
5)小姉君(おあねのきみ。蘇我稲目宿禰の女)
 o茨城皇子(うまらきのみこ、馬木王)
 o葛城皇子(かずらきのみこ)
 o穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) 用明天皇の皇后、厩戸皇子の母
 o穴穂部皇子(あなほべのみこ、須賣伊呂杼・天香子皇子・住迹皇子)?-587年7月17日没
 o(宅部皇子)→宣化天皇の皇子か、 ?-587年7月18日没
 o泊瀬部皇子(はつせべのみこ、古事記では長谷部若雀命)
  後の第32代崇峻天皇、 ?-592年12月12日没
6)糠子(ぬかこ。春日日抓臣の女)
 o春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)
 o橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ、麻呂古王)

欽明天皇から敏達天皇の治世下にあった45年間は、皇位継承もすんなりといき、争いは物部、大伴、蘇我といった群臣の間の主導権争いに過ぎなかったが、敏達天皇が崩じると、皇位をめぐり欽明天皇の子らが激烈に争い、群臣らもその権力争いに加わった。深まる対立を象徴的にあらわす一節が日本書紀の中にある。敏達天皇の葬儀の際の話である。

「馬子宿禰大臣佩刀而誄。物部弓削守屋大連听然而咲曰。如中獵箭之雀烏焉。次弓削守屋大連手脚搖震而誄。〈搖震戰慄也。〉馬子宿禰大臣咲曰。可懸鈴矣。由是二臣微生怨恨。」

大刀を帯びて弔辞(誄(しのびごと))を読む小柄な馬子を指して「矢の刺さった雀のようだ」とあざ笑う物部守屋、それに対し馬子は、手足を震わせながら弔辞を読む守屋に対し、「鈴を懸けるがいい」と返したと記述されている。日本書記は「由是二臣微生怨恨。(それ以降二人の臣は恨みを抱き合うようになった。)」と続けている。

敏達天皇の後継にあからさまな野心を見せたのは穴穂部皇子である。敏達天皇の殯の際に穴穂部皇子は「なぜ死んだ王の庭に仕えて、生きている王(自分のこと)に仕えないのか」との記述が書記に残っているが、後継問題は3週間で決着、大兄皇子が第31代用明天皇として即位した。ちなみに大兄皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の父である。

穴穂部皇子は用明天皇即位後、物部守屋大連と連携を取るようになる。これはつまり、蘇我馬子と対立する道を選んだことを意味する。物部守屋も用明天皇後を見据えて、穴穂部皇子に賭けたのかもしれない。586年5月には炊屋姫皇后(後の推古天皇)を犯そうと殯宮に忍び込もうとして阻止されたと言いがかりをつけ、殯宮に入ることを阻止した馬子の側近三輪君逆(みわのきみさかえ)を攻め滅ぼしてしまう。この事件は蘇我系の皇子である穴穂部を蘇我馬子から引き離し、物部陣営に引き込むための守屋の策略だったのかもしれない。穴穂部皇子の母は、蘇我稲目の娘の小姉君である。

いずれにしても、この一件で馬子と炊屋姫は完全に反穴穂部となる。そのような状況の中、治世わずか2年目の用明天皇は天然痘にかかり、587年4月9日に崩御する。ここに皇位継承をめぐる権力闘争が再燃することになるのである。

用明天皇崩御の際に後継として可能性のあった皇子は以下の通りである。
欽明天皇の子の世代(おおよそ30代後半)
1)堅塩媛系:炊屋姫尊(かしやきひめ、後の推古天皇)
2)小姉君系:穴穂部皇子、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)
*石姫皇女系からは敏達天皇が出ている。

欽明天皇の孫の世代(おおよそ10代後半)
1)石姫皇女系:敏達天皇の皇子である押坂彦人皇子、難波皇子、春日皇子(欽明天皇の孫にあたり、年齢的に若年、蘇我氏との血縁関係が薄い)
2)堅塩媛系:推古天皇の皇子である竹田皇子、菟道貝蛸皇女ら

その他の皇子らは記述がないので何とも言えない。幼少のうちに死んだか、皇位に関心がなかったか、そのほかの理由で注目されなかったかのいずれかであろう。 年齢を見ると用明天皇の後は、引き続き欽明天皇の子供の世代が即位するというのが年齢的にも妥当であっただろう。この時代には過去に女性が皇位に就いたことはなかったことから、女性である炊屋姫は皇位継承者として考えられてはいなかっただろうから、実質的には皇位継承の候補は、穴穂部皇子か泊瀬部皇子かのどちらかであっただろう。

穴穂部皇子としては自分の地位を固めるために馬子側にたつ皇子らを排除しなければならないとの思いもあったのかもしれない。馬子の影響力を削ぐということは、物部守屋の思惑とも一致している。

皇位をめぐる皇子らの争いと蘇我と物部の群臣同士の権力争いが一つの舞台で展開されるという構図が透けて見える。

最初に動きを見せたのは穴穂部皇子である。587年6月、穴穂部皇子は、物部守屋の後ろ盾を得て兵を挙げる意思表示をする。しかし穴穂部皇子の意思を伝え聞いた蘇我馬子の動きは早かった。おそらく馬子は穴穂部周辺に自分の息のかかった誰かを仕込ませておいたのだろう。

馬子は間髪入れずに穴穂部皇子、物部守屋勢に対抗して、炊屋姫尊を立てて、佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)、土師連磐村(はじのむらじいわむら)、的臣真噛 (いくはのおみまくい)らを集め、穴穂部皇子と宅部皇子の討伐命令を出す。日本書紀によると、その日の夜半には。佐伯連らは穴穂部の邸宅を取り囲む。攻勢を受けた穴穂部皇子は肩を射られて楼の下に落ち、そばの部屋に逃げ込んだが、燭を灯した兵士に見つかり、誅殺されたという。さらに穴穂部皇子と親しかったという宅部皇子は、翌日討たれている。

587年7月、蘇我馬子は物部守屋と最後の決戦に挑む。蘇我側の軍勢は泊瀬部皇子、炊屋姫姫の息子である竹田皇子、用明天皇の息子である廐戸皇子、敏達天皇の息子である難波皇子と春日皇子、紀男麻呂宿禰(きのおまろすくね)、巨勢臣比良夫(こせのおみひらぶ)、膳臣賀施夫(かしわでのおみかたぶ)、葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)から成る。物部側はよく奮戦し、皇子らを幾度も打ち破り退却させたものの、ついには力尽きる。最後は迹見首赤檮(とみのおびといちい)が物部守屋を木の股から射落として、その一族を打ち倒したのである。物部の軍勢は大将を失い総崩れとなり、軍勢はちりぢりになって逃げ去ってしまった。物部一族はこれを最後に歴史の表舞台から姿を消す。

物部守屋大連との決戦についての記述の中で、厩戸皇子と蘇我馬子の仏法に対する信仰が劣勢だった戦局の転換をもたらしたというくだりが多くの行数を割いて記述されている点が目を引く。

そして587年8月、炊屋姫と大臣蘇我馬子に推挙され、泊瀬部皇子が天皇に即位するのである。
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by iyasaca | 2008-08-23 19:48 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その3

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<写真:崇峻天皇 倉梯岡陵(宮内庁HPより)>

数少ない古代日本の様子を今に伝える文献の中で、崇峻天皇に関する記述があるのは古事記、日本書紀、そして先代旧事本紀(せんだいくじほんき)のみである。その中で崇峻天皇にかかわる記述が最も詳しく残っているのは日本書紀である。先代旧事本紀にある記述は日本書紀の引き写しであり、古事記に残る記述はごく短い。

例えば古事記に残る記述は、この4行である。

【崇峻】
「弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歳。
【壬子年十一月十三日崩也。】
御陵在倉椅岡上也。」

(弟の長谷部若雀(はっせべのわかさぎ)は倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)において天下を治めること四年であった。壬子年(みづのえねのとし)十一月十三日に亡くなられた。御陵(みはか)は倉椅岡(くらはしのおか)の辺りにある。)

「長谷部若雀」とあるのは、日本書紀では泊瀬部皇子(はつせべ)と表記される崇峻天皇のことである。

このほか日本書紀以外の文献に目を向けるとなると時代をはるかに下らなければならない。例えば、陵戸(陵墓の管理、山陵管理を行う出先機関)の管理・喪葬・皇族喪儀の儀礼運営について書かれている「延喜式」(927年編纂、巻21、治部省・諸陵寮(しょりょうりょう))の中には、

「倉梯岡陵/倉梯宮御宇崇峻天皇。在大和/國十市郡。無陵地并陵戶。」
(倉梯岡陵:(埋葬者は)倉梯宮にて天下を治めた崇峻天皇。大和国十市郡にあり、陵地及び陵戸なし)

という記述が残っているが情報量としては多くない。

文献を読み解く以外に、古い時代の様子をうかがい知る方法として、考古学的手法というアプローチがある。しかし、残念なことに天皇陵墓は宮内庁によって厳重に管理され、調査が許されていない。陵墓に関する政府の今の立場については、国会答弁を通じて知ることができる。

平成16年3月24日の参議院内閣委員会で宮内庁書陵部長田林均氏は日本共産党吉川議員からの陵墓の公開に関わる質問を受け、

「陵墓及び陵墓参考地でありますが、これが現に皇室において祭祀が継続して行われているところでありまして、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっております。静安と尊厳の保持が最も重要なことであり、従って部外者に陵墓を発掘させたり立ち入らせたりすることは厳に慎むべきことと考えております。」

と答弁し、宮内庁の陵墓及び陵墓参考地の公開について、「立ち入り調査を許さない」という立場に変更がないということが再確認されている。 しかし、現在宮内庁によって崇峻天皇陵(倉梯岡陵、くらはしのおかのみささぎ)として比定されている陵墓は、研究者の間では疑問視されている。そもそも明治の中頃に急いで陵墓確定の作業を急いだ宮内庁の調査はそれほど精密に行われていなかったたようで、現在のところ崇峻天皇陵として研究者の間で有力視されているのは赤坂天王山古墳の方である。いずれにしても陵墓の調査が許されていない以上、考古学的アプローチには期待が持てない。やはり最も詳細に記述されている日本書紀をつぶさに読み解いていくしか方法はないようである。
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by iyasaca | 2008-08-16 18:06 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その2

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堀越神社に来ている。

堀越神社のご祭神、崇峻天皇とはどのような人物であったのか、そしてなぜこの神社に祀られているのだろうか。

この問いに答えるのは容易ではない。何しろ資料が少ないのである。崇峻天皇が生きた6世紀当時に書かれた歴史書は残っていない。最も古いのは712年に完成したとされる古事記、そして720年に編まれたとされる日本書紀で、いずれも592年に没した崇峻天皇の時代とは100年以上の隔たりがある。つまり、現存する最古の文書はすでに崇峻天皇を直接知る者がいなくなった時代に編まれたものなのである。文献の研究はかなり進んではいるが、記述の乱れもあり、6世紀日本の風景は時の流れの彼方に霞んでいる。

文献資料がどれだけ少ないかということは、現在にまで伝わる日本の古文書の一覧を見るのが一番いいだろう。

f0008679_22121871.jpg712年:古事記
太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻。現存する最古の写本は14世紀(1371-2年)に宝生院の僧賢瑜(けんゆ)が書写した古事記賢瑜筆(真福寺本)。3帖のみ現存。1951年(昭和26年)に国宝に指定されている。
<写真:古事記 賢瑜筆(宝生院蔵)、愛知県HPより>

f0008679_001817.jpg720年:日本書紀
伝存最古の正史。舎人(とねり)親王らの撰。神代から持統(じとう)天皇の時代まで全30巻、系図1巻。系図は失われた。現存する最古の写本は9世紀のもの、奈良博物館所蔵。
<写真:日本書紀 巻第十残巻、奈良国立博物館蔵、奈良国立博物館HPより>

733年:出雲国風土記
現存する風土記の中で一番完本に近い。記紀神話とは異なる伝承が残されている。元明天皇が編纂を命じ、聖武天皇に奏上されたとされる。最古の写本「細川本」は16世紀(1597年)のもの。

f0008679_23221973.jpg759年:万葉集
日本に現存する最古の歌集。編者は大伴家持との説が有力である。全20巻。最古の写本「桂本」は11世紀中頃のもので巻4しか残っていない。
<写真:桂本万葉集巻第四断簡(栂尾切)、MIHO Museum所蔵、MIHO Museum HPより>

f0008679_23311562.jpg 797年:続日本紀
勅撰史書。編者は菅野真道。697年から791年まで95年間を扱っている。全40巻。最古の写本「駿河御譲本」は13世紀後半のものと推定されているが巻11から40までしかない。名古屋市蓮左文庫所蔵。
<写真:続日本紀「駿河御譲本」、名古屋市蓮左文庫所蔵、名古屋市蓮左文庫HPより>

807年:古語拾遺
天地開闢から749年まで記されている。古斎部広成が編纂。記紀にも見られる古伝承のほか、斎部氏に伝わる伝承も含まれる。全1巻。最古の写本は、卜部兼直が嘉禄元年(一二二五年)に書写した嘉禄本(天理図書館蔵)。
815年:新撰姓氏録
各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類している氏族の名鑑。全国(五畿七道六十六ヶ国)にまたがっていたとされるが、現存するのは左京・右京と五畿内分のみ。本文も失われ、目録だけの抄記(抜き書き)のみ残存する。最古の写本は、室町初期の菊亭文庫本。
807-833年:先代旧事本紀
天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。全10巻。序文など信頼に欠ける記述が見られる。記紀、古語拾遺のつぎはぎであるが、独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用の可能性もある。資料的価値があるかどうかは論争有。編者不詳。

以上である。つまり、古代日本を描写する文献で、オリジナルの形で残っているものは皆無である。残っている最古の写本の時期も見れば、いかに古代日本が闇に閉ざされているかが分かる。
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by iyasaca | 2008-07-26 00:25 | 大阪 | Comments(0)

茶臼山 堀越神社にいってみた その1

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茶臼山の堀越神社にいってみた。近傍に聖徳太子を祀る四天王寺があり、お世辞にも目立つと言えないが、小さいながらも雰囲気のある空間を演出している神社である。明治中期まで境内の南にお堀があり、参詣するに当たっては堀を越えなければならなかったことが「堀越」の名前の由来である。

ご祭神は、第三十二代 崇峻(すしゅん)天皇
配祀 小手姫皇后(こてひめこうごう、大伴糠手連(おおとものむらじぬかて)の娘
蜂子皇子(波知乃子王はちこのおうじ)
錦代皇女(にしきでこうじょ)
聖徳太子が叔父の崇峻天皇天皇を偲び建立されたと伝えられている。
堀越神社のホームページには、神社の由来として以下の文章が掲載されている。

崇峻天皇と皇后・皇子の物語。
崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。折しも蘇我氏の全盛時代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こうとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
 天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷よりも、当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わんとされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。すなわち今日、日本三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。皇子は文字通り出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となられた。蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれている。
 小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指され、そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

さて堀越神社のご祭神、崇峻天皇とはどのような人物であったのか、そしてなぜこの神社に祀られているのだろうか。
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by iyasaca | 2008-07-19 21:00 | 大阪 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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