勝手に僻地散歩



カテゴリ:ミャンマー連邦( 11 )


ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その4

南機関からネ・ウィンの時代、そしてタン・シュエの時代の功績を伝える写真のパネル展示を抜けると、今度は三軍の兵器の実物展示のコーナーがある。
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<写真:陸軍の装備、「大砲は戦いの神」と大書されているが、これはレーダーに見える>
大きなスペースにところ狭しと並べられる実物展示は圧巻である。特にミャンマーは海洋国家ではないため、陸軍の比重が大きいと考えられる。平定しなければならない勢力(主に少数民族)はいずれも内陸に点在している。

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<写真:壮麗なる空軍装備>
中央の写真にあるUB466とある破断した機体は、1961年2月15日に撃墜された機材の残骸。同型機はHawker Aircraft社から18機納入されている。納入時期は1957年12月から1958年5月にかけて。元々は英国空軍が第二次大戦後の1947年に運用を開始したHawker Sea Furyという艦上戦闘機である。主に朝鮮戦争で活躍したが英国空軍では1955年に退役している。ビルマはこの退役機体を買い取ったと思われる。

最下段のUB653とある機体は、DHC-Otterというデ・ハビランド・カナダ社が開発した輸送機である。1958年12月8日に納入。こちらも1958年から1961年にかけて9機を同型機を導入している。日本にもこの型の機材を日東航空という国内定期旅客便を飛ばしていた会社が1958年4月に購入していたが、1963年に大阪から徳島に向かう商用飛行中に濃霧のため墜落(日東航空つばめ号墜落事故)、乗客乗員9名全員が死亡するという事故を起こしている。

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<写真:華麗なる海軍装備>
こちらは何だか分からないが、大型船舶のスクリューが恭しく鎮座している。案内板も一部はビルマ語のみであり、聞きたいと思っても周りに誰もいないので致し方ない。

展示されているのは50年近く前の旧式のものばかりである。これ以降に納入したものはまだ現役なのかもしれない。

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さらに館内を歩くと、いよいよ軍事とは関係のない、ヤンゴン市内のホテルの模型や飛行場のジオラマなどが展示されているほか、各省庁の報告書や事績(写真は内務省のパネル)についてもパネル展示がされている。興味関心を維持し続けることは著しく困難だが、情報量としては多い。最上階には軍区ごとのコーナーがあり、そこに居住する少数民族の衣装なども展示されていた。その段になると写真を撮る気力もなく、立ち止まることなく見学を終了した。

ところで昨日2月13日はアウンサン将軍の誕生日。生きていればちょうど100歳である。
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by iyasaca | 2015-02-14 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その3

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<写真:館内の様子>
ビルマ独立義勇軍は初期に破竹の進撃を果たすが、そのあまりの成功が路線対立を引き起こす。結局は紆余曲折はあるものの、日本と袂を分かつことになる。

f0008679_1485628.jpg最終的に、南機関がビルマ独立を巡って大本営と対立し、鈴木が職を解かれた際に、鈴木はアウンサンにビルマ独立の道を説き、日本に反旗を翻すべき時期であることを示唆する。そして日本人である自分にはそれはできない、それをやるべきはビルマ人自身だと言い残し、内地に戻っていった。アウンサンはそのとき、どういう気持でその言葉を聞いたのか。ただ軍刀一振りと感謝状を鈴木に贈っている。
<写真:アウンサンが贈った感謝状、左端に孔雀が見つめるのが鈴木大佐、抱えられているビルマ兵は鉄鎖を解こうとしている>

f0008679_25281.jpgそしてアウンサンはビルマ人にしかできないという道を選ぶ。日本に反旗を翻したのである。この決断には4名の志士が従わなかった。その内の1人、ボミンオンは自決という道を選んでいる。アウンサンにとっては厳しい決断だったに相違ない。アウンサンはその後も、南機関高橋中尉に救命指示を出し、また戦後BC級戦犯として捕らえられた鈴木大佐の赦免に力を尽くしている。

そのアウンサンもビルマ独立の直前の1947年7月19日、6名の閣僚とともにに暗殺された。暗殺の背景は諸説あるが未だ判然としない。
<写真:最晩年のアウンサン>

f0008679_1659546.jpgミャンマー国軍と日本のつながりはその後も長く続く。30人の志士の1人、ネ・ウィンは自らの統治の後期、1981年1月4日にビルマ大統領として、国家の最高勲章である「アウンサン・タゴン(アウンサン勲章, Order of Aung San)」を7名の日本人に自らの手で授与している。
<写真:1962-1988年までビルマの最高権力者であったネ・ウィン>

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<写真:大統領官邸におけるアウンサン・タゴン授賞式>
7名とは、鈴木敬司氏未亡人、杉井満(興亜院)、川島威伸(陸軍大尉)、泉谷達郎(陸軍中野学校)、高橋八郎(陸軍中尉)、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄(満鉄調査部)である。いずれも南機関関係者である。ネ・ウィンは、1988年に権力の座を追われた後も、1990年代半ばまで、南機関関係者との旧交を温めていたという。

f0008679_1717840.jpgそのネ・ウィンも2002年12月5日に91歳でこの世を去った。しかし現在でもミャンマーの士官学校では、日本人が疾うの昔に忘れてしまった「海いかば」、「愛馬進軍歌」など日本の軍歌50曲がいまも歌い継がれており、国軍記念日の3月27日には軍艦マーチが演奏されている。どれだけの日本人がこのことを知っているのだろうか。
<写真:最晩年のネ・ウィン>
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by iyasaca | 2015-02-07 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その2 - 南機関と海南島での特訓

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<写真:地雷除去に勤しむミャンマー国軍兵士>
1941年2月1日の南機関の設立を受けて、ビルマ作戦が本格化する。アウンサンは南機関の一員としてビルマ米を積載する輸送船に乗船してビルマに渡り、30人の志士のリクルーティングの任を担った。指名手配中の隠密行動は命がけであった。アウンサンは、入れ歯を口に含み、黒メガネをかけた中国人に扮して活動していたという。

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<写真:訓練中の30人の志士>
数名ずつ選ばれた精鋭たちが30名の定員に達したのは6月であった。この30名の中には後のビルマ政治を支えるネ・ウィンらが名を連ねていた。30人の志士は、海南島三亜の海軍基地内の特殊訓練地(要するにジャングル)に送られ、厳しい軍事訓練が行われた。
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<写真:三亜の訓練所前での30人の志士と日本人教官>
三亜の訓練所は同年10月には閉鎖され、訓練は終了した。30名は台湾玉里に移動した後、12月28日に、バンコクのビルマ人歯科医の家で集まった。200名は集まったこの決起集会でビルマ独立義勇軍Burma Independence Armyは正式に発足した。

f0008679_1263012.jpg司令官はボ・モージョー(雷将軍の意)を名乗った鈴木大佐が務めた。ボ・モージョーとは、ビルマの古来からの言い伝えにある、白馬にまたがり東からやってくるビルマを解放する王子のことである。、鈴木は金モールの王冠に純白のロンジー(ビルマ伝統衣装)を着用し、白馬でビルマ入りしたのである。
<写真:ボ・モージョーを囲む30人の志士>

すぐに「日本人が変装しているだけではないか」とバレるリスクをどう考えたのか分からないが、実際にはビルマ民衆の反発を買ったどころか、あちこちで民衆の協力を得られたという。

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<写真:ほぼ貸切状態の館内>
アウンサンはじめとする30名の志士に加え、日本人74名を含む計140名が義勇軍に加わり、出陣式も31日と決まった。また義勇軍に参加とまではいかない者も、志願者探し、資金的支援、家族の支援などを約束した。この義勇軍がミャンマー国軍へと発展していくのである。
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by iyasaca | 2015-01-31 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

ヤンゴン 軍事博物館にいってみた その1- アウンサン将軍の日本滞在

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<写真:博物館入口、外国人入場料は3ドルとの掲示がある>
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「絶対に降伏しない精神」、「任務を遂行する断固たる決意」、「高貴なる国軍の伝統を守る犠牲の精神」。ミャンマー国軍(Tatmadaw)を支える戦陣訓である。

ミャンマー最大の都市ヤンゴンに、そのミャンマー国軍を顕彰する軍事博物館(Defence Services Museum)がある。博物館は国軍の歴史、装備、そして現在における国への貢献について、貴重な写真や実際に使われていた装備の展示を通じて、世に広く知らしめることを目指しているのだろう。

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入口で入場料を支払うと見学者用バッジを手渡される。特に見学者用に館内案内などは作成していないようである。

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館内は、電力節約のためか、電気は落とされており、全体として薄暗い。ところどころに博物館の職員らしき姿は見えるが、私の他に見物客はいない。

ところでミャンマー国軍創設には、日本が深く関わっていた。

f0008679_0491839.jpg話は、中国戦線が膠着状態に陥りつつあった1940年、蒋介石軍の物資調達ルートの一つである援蒋ルートを遮断する作戦の一環で、ビルマに独立を志向する集団を組織、支援することが望ましいとの認識のもと、大本営陸軍本部が鈴木敬司大佐を長にビルマ研究を命じたことに端を発する。この研究は後に特務機関である「南機関」発足へと展開していく。

ビルマ研究の内示を受け、鈴木大佐は興亜院、満鉄調査部、上海の特務機関などとの協力を得て情報収集を開始した。そして3ヶ月後の1940年6月には、読売新聞特派員「南益世」として現地に入ったのである。すぐにティモン博士より将来有望な独立運動家アウンサンの存在を知らされる。アウンサウンとは言うまでもなく、アウン・サン・スーチーの父である。

<写真:鈴木敬司陸軍大佐>

f0008679_0562370.jpgしかしアウンサンは、宗主国英国に対する激しい独立運動を展開していた秘密結社タキンの一員であったことから、当局より懸賞金付き指名手配がかけられ、厦門(アモイ)に逃れた直後であった。鈴木からの要請を受けた日本軍はすぐに潜伏中のアウンサンを厦門で発見、面田紋二という名前を与え、浅黒い彼らが怪しまれないようフィリピンとの混血児として、もう一人の独立の志士ラミヤン(糸田貞一)とともに日本に連れ出した。1940年11月のことである。
<写真:日本滞在中のアウンサン、珍しい和装の写真>

f0008679_185189.jpgちなみにアウンサンに与えられた面田という名前は、ビルマの漢字表記「緬甸」からとったものである。二人は鈴木の東京の宿舎、浜松の実家、そして浜松湖湖畔の旅館「小松屋」などを転々としていた。この間の心境はいかばかりであっただろう。しかしこの当時世話をしてくれた同年代の女性(エイコさん)にカタカナで恋文を書いてもいる。将軍も25歳の若者だったのである。

<写真:鈴木大佐の実家?アウンサンは右端>
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by iyasaca | 2015-01-24 00:00 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

サレー文化保護区にいってみた その4

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ヨーソー僧院を堪能したあまり、時間が無くなってしまった。バガンの宿まで戻る時間を考えると、そろそろ出発しなければならない旨ガイドから申し伝えられるも、もう一度訪問する機会は残された人生の時間を考えると、ほとんどないだろうと思い、もう少し周辺を歩いてみた。ガイドは早く帰りたいのか、ほとんど説明もせず、これらのパゴダの名前すら不明のままであった。
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バガンは赤土が目立つが、このあたりの地面は白っぽい。道は整備されているわけでもないが、遺跡、遺構は密集しており、見ごたえはある。
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何よりも、完全な歴史保存地区のバガンと異なり、サレーは民の生活と遺跡が重なっている。遺跡の階段に座って、食事をしたり、夕涼みをしたりという風景がそこかしらに見えるのである。
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このような風景はタイのアユタヤを思い出す。専門的に見ると多少違うのであろうが、よく対比されるアンコールワットやボロブドゥールは行ったことがないが、おそらくこのような感じなのだろう。
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菩提樹と思われる木。あってもおかしくない。
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仏塔の一部には比較的新しい鍵がかかっている。管理人に言えば内部に入れてくれるらしい。壁画なども結構残っているとのことであるが、今回はそこまでの時間がなかったのが残念である。
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by iyasaca | 2011-08-06 06:20 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

サレー文化保護区にいってみた その3

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ヨーソー僧院は90年代に2度改修されている。改修の際には、国宝級の木彫を保全するため、屋根が錫メッキの素材に葺き替えられている。しかし、その改修からすでに20年を経ており、100年を越える本体建築にうまく馴染んでいる。
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龍蛇を配した石造りの階段を上がり、建物内部に入る。木造の屋内に入ると、歩を進めるたびに、みしみしと音を立てる。建物は長屋のような構造で、23メートルもの長さがある。
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回廊の中央付近にはガラスケースが2列並んでおり、壁沿いにはバガン期の仏像や仏具などが無造作に配置されている。多くが17-19世紀のものである。
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<写真:Wooden Throne & Wooden Ornamental Backdrop of a Throne, バガン期、18世紀>
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<写真:Man Faced, Double Bodied Lions, Yandanaboun Period, 19th Century>
展示スペースは歩けば10分ほどで回れる広さである。展示物に関する情報は、製作時期と木像とか仏具という大まかな分類が書かれている説明板のみである。ガイドに説明を求めると、知識がないのか、早く帰りたいのか、「そろそろ日が暮れる」と時間が気になるようだ。
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<写真:高床式の寺院は154本のチーク材の柱によって支えられている>
僧院内で費やした時間は短かったためか、他に観光客の姿を見ることもなかった。
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by iyasaca | 2011-07-30 22:13 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

サレー文化保護区にいってみた その2

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サレーには大小50を越える僧院がある。その中でも最大の見所は、ヨーソー僧院(Yoke Sone Kyaung)である。1882年からおよそ10年かけて建立されたこの高床式の寺院はチーク材が使われており、外壁には釈尊の前世についての仏教説話「ジャータカ物語(Jatakas)」の場面が木彫りのレリーフで表現されている。
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近づいてレリーフを一つ一つ眺めてみると、その精巧さに驚嘆する。丸みを帯びた柔和な造形からは私のような素人であっても高い技巧を感じることができる。また特段の保全手段を施さず、雨風にさらされるであろう戸外にそのまま展示されているにもかかわらず、保存状態がかなり良い。
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釈迦の弟子の一人レーヴァタ(Revata-khadira-vaniya)の婚礼から戻る様子を表したもの。見事に表現された肉付きのよい馬と立体的な車輪が特徴的な馬車に揺れる二人(おそらくはレーヴァタの父母)の造形が美しい。経典によれば、レーヴァタは父母に伴われ婚約者の家に向かう途上、老いを感じて出家修行を欲し、その帰途、車から離れ精舎に走り仏弟子となったという。このレリーフは、レヴァタが仏弟子となることを望み、車を離れた直後の様子を表しているようである。
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<写真:Jotika and Atulakari>
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<写真:Mapada Kodasa Family from Padasayi Jataka>
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<写真:Upatissa and Kolita were Looking at Pwe Dancing on the Mountain>
ウパティッサ(優波帝沙)は釈迦の十大弟子の一人である舎利弗(しゃりほつ)の幼名である。般若心経では舎利子とも言われているようである。釈迦の弟子の中でも智慧第一であり、釈迦よりも年長で、釈迦に先立ち入滅した。Kolita(拘律多)は、舎利弗と共に釈迦に最も近い二大弟子の一人目連のことである。摩訶目犍連(まかもっけんれん) とも呼ばれる。

さてこのレリーフは、餓鬼界で逆さ吊りの責め苦に遭っていた実母青提女の姿に驚いた目連が、釈迦に教わった秘伝「亡者救済」(施餓鬼の秘法)を施した後に、救済された青提女が地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天する様子を見上げる舎利弗と目連の姿を表しているようである。盆踊りは青提女の舞が元になっているとも言われている。

ただ原始仏教には地獄や極楽の概念はない。この挿話は「盂蘭盆経」成立の際の創作であると考えられる。この挿話をわざわざ選んでレリーフにしているところが興味深い。
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<写真:Passion for Sensual Pleasures or Sensual Bondage>保全を考えれば、温度、湿度が管理できる博物館への収蔵が望ましいのだろうが、本来芸術品とは、場所と切り離して考えることはできない。大英博物館にある古代エジプトのオベリスクがどことなく拍子抜けなのは、その芸術品が本来あるべき場所から切り離されているからである。100年を経て、本来あるべき場所で観賞することのできる贅沢を噛み締める。
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彫刻はビルマ最後の王朝、コンバウン(Konbaung)王朝末期に典型的な様式を備えている。この高度な彫刻技術は後世に引き継がれなかった。
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by iyasaca | 2011-07-23 21:45 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

サレー文化保護区にいってみた その1

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ミャンマー中部、イラワジ川東岸で12-13世紀にかけて栄えたかつての仏教都市サレー(Salay)文化保護区に来ている。仏教遺跡として著名なバガンから南に36キロ、悪路のため車で1時間半ほどかかる。

サレーの歴史は、ミャンマーの外にはほとんど知られていない。103もの遺構の詳細は不明で、多くは番号が振られているだけである。一説によるとサレーの仏塔は王族の手によるものではないため、バガンほどの大きな規模のものがないのだという。

文化保護区に指定されてはいるものの、現在は人口7,000名ほどののどかな街である。観光客用の店や宿泊施設も存在しない。多くは日帰りしてしまうからであろう。案内板もビルマ語だけであり、ガイドによる説明が必須である。
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<写真:地図は多くあるもののビルマ語で分からない。番号までビルマ表記>
5年ぶりのミャンマーエントリー。情報のほとんどないサレー文化保護区を4回にわたって紹介したいと思う。
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by iyasaca | 2011-07-16 00:02 | ミャンマー連邦 | Comments(0)

カックー遺跡にいってみた sanpo

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<写真:パオ族(The Pa-O)>

タウンジーから南へ42km、インレー湖の東側の山を越えたところの高原にあるカックー遺跡にいってみた。この辺りは、パオ族が管理する地域。パオ族もまた他の多くの部族と同じく、遠く中国から移動を続け、11世紀にこの地に落ち着いた。今では60万人を数えるシャン州の一大勢力である。パオ族の女性はターバンを着用する。最近は色彩豊かなタオルで代用しているようだ。女性の民族衣装は龍を表しているという。

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赤土が露出する山道を抜けていく。


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忽然と姿を現す2,500あまりものパゴダ群は壮観である。
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<カックー遺跡(Kekku Pagodas)>
言い伝えが残っている。その昔、老夫婦がカックーの地に埋まる仏像を掘り出しなさいとの夢のお告げに従って、仏像を探したところ光を放つ藪を見つけた。しかし、埋まっているという仏像がどうしても見つからず途方にくれているところ、猪の群れが現れ、仏像を掘り出した。老夫婦が丁寧にその仏像を祀ったパゴダをつくったのが、そもそもの始まりだという。今でも遺跡の各所に猪の精霊の像が見られる。
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時代は下って12世紀。アラウンズィートゥー王が、パゴダの周りにステューパを寄進するよう周辺住民に命じた。これをきっかけに、カックーは、ステューパの寄進が重ねられ、今では中央に聳える白い漆喰で塗り固められたスーダウンピー・パゴダを中心に、300m×150mの敷地の中にシャン様式、パオ様式、ビルマ様式のステューパが所狭しと立ち並ぶ聖地となった。
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寄進は新たなステューパ建設だけではなく、修復にも使われている。修復の際には、元のステューパの風合いの維持には関心を払わないようだ。新と旧とが斑となって修復されているステューパを見上げると、枯れた渋い趣に味わいを感ずる日本的感覚とは違う世界がここにはある。


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数年前まで、政府軍との戦闘が繰り広げられていたこの地域は、1991年以降、17の武装集団と順次停戦合意が締結された。停戦に伴い自治権を得たパオ族は、この地域を管理地域とし、観光や鉱山権益(この辺りは翡翠を産出する)を囲い込んだ。カックー遺跡は、2000年9月に旅行者に開放され、外国人が入れるようになった。


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最近は仏像の盗難が相次いでいる。多くは日本や欧米の闇オークションで捌かれているとのこと。遺跡の保存状態は全体として決して良いとは言えない。崩れかかっているステューパも多い。

3月中旬には、祭りがあり、各地からの巡礼者で溢れる。訪問するのであれば、この期間を狙うのがよいだろう。入域料は$3。ガイド代$5。







<カックー遺跡関連リンク>
HOME★9(ほめく)別館さんのミャンマー紀行   ミャンマーについて12回もの連載が。勉強になります。
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by iyasaca | 2005-12-11 06:17 | ミャンマー連邦 | Comments(2)

タウンジーにいってみた

f0008679_21374178.gifヤンゴンから北東へ1時間15分。シャン州の州都タウンジー(Taunggyi)へいってみた。最寄の空港はヘーホー(Heho)。ヘーホーの飛行場は、戦時中、日本軍が建設した。エアマンダレーヤンゴンエアウェイズの2社が就航している。


シャン州(Shan States)はミャンマ-の北東に位置しており、中国、ラオス、タイと国境を接したミャンマ-最大の面積を持つ州である。ここは現在も多くの民族が、それぞれ異なる風習、文化、言語を持ちつつ、ともに暮らす世界である。

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シャン州に定住する多くの民族の中でも、シャン族は最も大きな勢力であるが、その民族の源流を求める作業は簡単ではなく、過去に何度か発生した中国南部の民族の「南への移動の波」の歴史から推測するしかない。シャン人の祖先は、もともと中国南部雲南省あたりからインド北東部アッサム、シャン高原、そして現在のタイの辺りまで移動していったと見られる。その説を支えるひとつの例証として、シャン人、タイ人の文化の中の多くの共通点があげられる。例えば、シャン人は自らを「タイ(Tai)」と呼び、自らの国を「モンタイ(タイの国)」と呼ぶ。タイ人の方でも、自らをタイ(Thai)、シャムと名乗り、また上座仏教をともに信仰している。


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シャン州は、1962年まで33の小藩に分かれていて、直系男子による世襲制の藩族(ソーボワ)が各小藩を支配していた。ちなみにソーボアは、シャン語で「天の支配者」を意味する「サオ バー(Sao Hpa)」を、イギリス人が「誤って」ソーボアと発音し、それが定着したということらしい。ソーボワを中心とするこの封建体制は、よくこの地を治めた。19世紀植民統治に入った英国人は賢明にも、歴史の知恵に抗わず、宗教、文化、歴史に根ざしたこの統治体制には手をつけなかった。

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前置きが長くなったが、英国植民地時代、33のソーボワが定期的に集まり、シャン州全体の政策を協議する評議会が開かれていたのが、ここ州都タウンジーである。イギリス人の避暑地として開発されたこの町は、1962年ネウィンによる軍事クーデターを機に、ソーボワによる支配体制は解体し、今ではこのようにのどかな一地方都市となっている。目立つ観光サイトはなく、「地球の歩き方」のタウンジーの説明もわずか8行だが、みどころは多い。
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by iyasaca | 2005-12-06 21:54 | ミャンマー連邦 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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