勝手に僻地散歩



カテゴリ:静岡( 14 )


修善寺温泉に行ってみた その3 源頼家の墓と指月殿

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修善寺のそぞろ歩きはまだ続く。
源範頼の墓所に次に目指したのは、二代将軍源頼家の墓である。権力闘争に敗れ去り、23歳の若さで散ったこの不運な若者の人生に思いをきたす。

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あまり詳細にこの時代を振り返るのは、私の能力を超える。表層をなぞるだけである。

1199年1月の父頼朝の死後、重しを失った幕府は権力闘争の場となっていく。すでに長子一幡をなしていたものの、まだ満17歳に過ぎなかった少年に、百戦練磨の御家人たちは手強すぎた。家督相続をして3ヶ月もたたないうちに、すぐに十三人合議制という集団指導体制を敷かれてしまった頼家は、それを無視して幼馴染らを周辺に配し、強権を振るおうと試みる。

20歳前の若者である。当時の様子を記す文書には、その独裁ぶりが並べ立てられていることから、おそらく行き過ぎ、やり過ぎもあったことであろう。それによって、頼家と御家人らの間に溝が広がったのは事実のようだ。北条時政を中心とする御家人らによる頼家包囲網が徐々に形成されていく。

しかしその後も1200年1月に頼家の後見人ともいえる梶原景時が謀殺され、またその一派城氏も討伐(建仁の乱)されるなど、時の執権北条時政らに追い詰められていく。北条時政は頼家に将軍職が移ってしまえば、比企氏など他の御家人に主導権を奪われてしまうことに危機感を抱いていたのである。

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<写真:300年前の見たこともない人を描けと言われて描いた源頼家像(江戸時代、建仁寺所蔵)>
頼家は、ついに1203年夏に急病にかかったところで足をすくわれてしまう。残されている古文書には、8月末には一時危篤状態になったとも伝えられているが、当時満21歳、かつ武芸に秀でていたとされた少年がめったなことでは意識不明に陥らないだろう。単に夏風邪か何かを引いただけだったのかもしれない。

しかしこの機に執権北条時政は、頼家は死んだからと京に使いを出し、実朝の将軍任命を要請している。実朝はすぐに征夷大将軍を宣下され、頼家は失脚し、修善寺に送られる。実朝はこのときまだ満年齢で11歳。元服前であった。その翌年1204年7月18日、22歳の頼家は時政の差し金によって入浴中に殺される。そのときの描写がすさまじい。

愚管抄(巻第六)によれば、
「元久元年(1204年)七月十八日ニ。修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。」
とある。
ようするに武芸達者な屈強なこの若猛者は、猛烈に抵抗した後に、首に緒を巻き付けられ、性器をえぐられて殺されたとある。この若者の22年11ヶ月の人生はあまりに壮絶であった。

その頼家の死を悼んで、母北条政子が建立したのがこの指月殿である。寺伝の古い絵地図によると、現在指月殿が建つ、周辺の緩斜面には大仏釈迦堂が建ち、その東に頼家公御廟所、西側には経堂らしい多層塔があったらしい。したがって現在の指月殿は、経堂と釈迦堂がいっしょになった建物のようであり、それがいつ一緒になったのかもよく分からない。さらに伊豆最古の木造建築と言われているこの小さな建物に政子は宋版大蔵経を寄進した。大半が散逸し、現代に伝わるのは8巻のみである。

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<写真:指月殿の丈六釈迦如来坐像>
堂内には高さ203センチ、膝割69センチの釈迦如来坐像が中央に配置され、両脇に金剛力士像が鎮座している。正面の禅宗式丈六釈迦如来像は、右手に蓮の花をかざし、左手を膝の上で掌を上に向けて置いている捻華微笑の古事に基づく鎌倉初期のものである。杉を主体に松などを材料にした寄木造りで大証2000個の木片からできている。通常使われる木片は50-60程度だというから相当丹念に作られたのであろう。

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<写真:指月殿 金剛力士阿形像>
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<写真:指月殿 金剛力士吽形象>

釈迦如来の左右両端を守る金剛力士像はもともと修禅寺を守護していたもので、かつて鎮座していた場所は横瀬大門との名前で地名が残っている。金剛力士とは、金剛杵を持って、寺を悪人から守り、非法の者を撃破し佛のそばにいて佛を護衛するのが任務である。鎌倉時代に活躍した慶派仏師による力士像と比べ、誇張も控えめで様式化されている点が特徴的である。昭和59年の解体修復の際の調査によれば、183センチの高さの一木彫りで釈迦如来像が作られた鎌倉時代より前、藤原時代のものであることが分かった。

これにて修禅寺の短いそぞろ歩きは終了。修禅寺への往路は在来線を使ったものの、復路は新宿駅南口まで2時間半で行く高速バスが修善寺温泉場のバス停から出ているとのことを聞き、バスで帰京した。休日だったことが災いし、2時間半のはずの移動時間が5時間になった。運が悪かっただけなのかもしれないが、多少余計のお金を払っても電車で帰った方がよかった。
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by iyasaca | 2010-05-22 04:59 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉に行ってみた その2 蒲冠者源範頼公の墓

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チェックアウト後、荷物だけを旅館に置かせてもらって修善寺の温泉街をそぞろ歩く。
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投宿していた花の棟から見える竹の小径である。ミシュラン・グリーンガイドで星2つを獲得したというこの竹林は、その向こう側に見える赤い橋と相俟って独特の空間を構成している。

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修善寺は源氏と所縁が深い土地である。一族が争いを重ねた末に、北条氏に実権を奪われていくといくという悲喜劇の舞台でもある。まず向かったのは源範頼の墓である。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の弟である範頼は、同じく兄弟の義経とともに源義仲を倒し、さらに平氏を一の谷の合戦で大いに軍功を上げた。

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しかしその後、義経討伐を命ずる兄頼朝には従わなかった。さらに1193年(建久4)曽我兄弟仇討の際に、頼朝討死の誤報に接し、悲嘆にくれる母北条政子に対して、「範頼ある限りにご安心を」と慰めたとのことが頼朝の耳に入り、範頼はここ修善寺に幽閉される。そしておそらくは頼朝の差し金による梶原景時の手によって、範頼は日枝神社下の信功院にて自害したと伝えられている。範頼の墓所は、桂川を臨む丘の上に建てられている。
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by iyasaca | 2010-05-15 03:24 | 静岡 | Comments(2)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その6

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<写真:振り返ると雪の棟>
新井旅館の文化財は他にもあり、そのひとつひとつを紹介していたらばきりがないのだが、新井旅館のエントリーの最後に、敷地の北西の端にある観音堂に足を運んでみた。

雪の棟の西端にある引き戸から名物の大欅を右手に見ながら石濤渓に出る。目当ての観音堂に向けては緩やかな坂道になっている。よく居酒屋にあるような底の丸いサンダルに履き替えなければならなかったので、バランスを取るのが難しい。足をくじきそうになるのに細心の注意を払いながら歩を進める。

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<写真:新井旅館 観音堂(昭和11年建築、登録有形文化財)>
天平大浴場と同じ台湾檜を用いたこの観音堂は1936年(昭和11)に建立されている。日本美術院初代理事長の安田靫彦画伯が、沐芳のために子々孫々の反映と旅館の繁栄の祈りを込めて設計したものである。そのつくりは同じく安田画伯が設計し、沐芳が資金援助した新潟県出雲崎の良寛堂(大正11)と似ているらしい。出雲崎は言うまでもなく、良寛生誕の地である。堂内には、安田靫彦画伯が選佛した1,200年前の木造聖観音菩薩像が安置されている。

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<写真:庭園内を見張る地蔵>
観音堂を後にし、旅館に戻る。
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<写真:大正ガラス。表面がやや波打っている。>
チェックアウトの直前に館内案内に参加した。500円である。新井旅館の文化財の維持補修に使われるとのことである。館内案内は新井旅館の歴史を写真パネルを使いながら、説明を受けるというスタイル。文豪が宿泊した部屋の中まで見せてくれれば、なお良かった。チェックアウト時には玄関に並べられた靴が温められているなど、細かな気遣いが見られるのは新井旅館ならではであろう。再訪するならば、やはり紅葉の季節かなと思いつつ、宿を後にした。
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by iyasaca | 2010-05-08 09:10 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その5

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修善寺温泉は、5つの源泉が桂川の河床に湧出している。かつてはさらに多くの源泉があり、各旅館がそれぞれに引いていたり、馬を洗うための源泉などもあったようだが、現在では観光用に開放している一つを除いては、全て集中センターに湯を集めてから各旅館に提供するという形をとっている。したがって修善寺温泉のどの湯宿に泊まっても、アルカリ性単純泉を楽しむことができる。ただし掛け流しにしているか、循環にしているかは宿によって異なる。

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<写真:野天風呂木漏れ日の湯>
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<写真:貸切風呂 琵琶湖の湯>
新井旅館には天平風呂、あやめの湯、貸切風呂である琵琶湖の湯、野天風呂の木漏れ日の湯の4種類の浴場がある。宿の案内には「源泉掛け流し」とあるが、源泉温度が61.2度と高いため、温度調整のため湯量の調整(加水)がされている。つまり厳密には「掛け流し」の温泉である。加水のためか、お湯は透明度が高く、臭いもなく、体への負担も大きくない。ぬめりも少し感じるという程度である。

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<写真:天平大浴場>
天平大浴場は岩盤の上に檜の丸柱がいくつも立てられた荒々しい湯殿である。当初はビザンチン様式の浴場が計画されていたが、安田靫彦画伯が

「菖蒲御前入湯の歴史のあるところだから天平様式がよいのでは」

と3代目に掛け合った。

三代目寛太郎はすでに基礎工事に取り掛かっていたにもかかわらず、9歳年少の安田画伯の提案を受け入れ、設計図までできていた浴場案を天平様式に変更した。

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細かいところまで見てみると、あちこちに趣向が凝らされているのが分かる。天井中央部には安田靫彦デザインの大燈籠が吊るされ、屋根の鬼瓦は保田画伯の原画をもとに清水焼の名工に焼かせたものであり、基本の柱は、現在では入手が極めて困難な台湾阿里山の檜を用いている。また柱は高い湿度の中でも腐らないように、一本の柱には4つの芯去材を用いている。変形しやすい芯の部分を取り去った芯去材26本を用いたこの工法により湿度によって生じる歪みが最小限に抑えられるという。建造時から70年もたつが、柱は建造当時のままであるとのことである。湯に浸かるとちょうど目の高さの壁面がガラス張りになっている。芥川龍之介は「温泉だより」の中で、「温泉に入っていると水族館にいるようだ」と書いているが、たしかに時折、鯉がすっと横切る姿が見える。ガラスは時間の経過とともにくすみ、またそれがよい景色となっているのであるが、完成直後はまさに水族館そのものであっただろう。

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これだけの趣向が凝らされているためであろう、この浴場建設には毎日大工20名、石工5名、、木曳5名が総がかりで、1931年(昭和6)3月の着工から1934年(昭和9)7月の落成式まで3年もの歳月が費やされている。

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着替えの場所から階段を下るとここにも玄関に見られるのと同じような大きな岩がある。手前の部分は元々この場所にあった岩で、柱の基礎となっている柱石は天城のあたりから持ってきたものである。この巨岩は人夫20名がかりで運ばれたもので、一日に5寸(15センチ)しか動かせなかった日もあったという。浴槽の淵には伊豆石が使われている。

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この浴場の何よりも最も味わい深いところはシャワーや蛇口がないことである。あるのはお湯と水が入った小さな槽である。ここでお湯と水を適量交ぜながら温度調整をして、上がり湯として使う。

一部の利用客のなかに、「シャワーがなくて困った。設置して欲しい」との声があると聞いた。シャワーが設置されたら、天平風呂は魅力が半減どころか、存在価値を失うと思う。丁寧に置いてある「水」、「湯」の小さな案内板も余計であると思っているくらいである。そのような無粋な声にはにこやかに対応していただきたい。
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by iyasaca | 2010-05-01 09:02 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その4 sanpo

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<写真:大きな欅が名物の石濤渓>
渡りの橋の北側には新井旅館の守り神と言われている大ケヤキが鎮座する石濤渓と呼ばれる中庭がある。秋には大ケヤキに寄生する植物が、それぞれ見事に色づくのだと言う。修善寺の町を歩いていたときにも、妙齢の女性に
「あなた紅葉の時期に来なきゃよ」
と話しかけられるほどであったので、やはり紅葉の季節に来なければ、本当に修善寺を知ることにはならないのだろう。

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<写真・雪の棟の廊下、奥の華の池を際だたせるため床を暗い配色にしている>
これもまた有形登録文化財である雪の棟の東側の長い廊下を抜けると、通路が左右二手に分かれている。右は桐の棟で、左に曲がれば花の棟である。

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<写真:池に浮かぶ桐の棟、大正5年建築、登録有形文化財>
正面には創業者の代に桂川の流れを邸内に引き込んで作庭された華の池に乙姫島が配された中庭がある。大正5年に建築された木造2階建ての桐の棟は赤杉が用いられた純特別室で、池の上に浮かぶ水上コテージのような構造になっている。奥の桐3の部屋は小津安二郎の映画や泉鏡花の小説にも登場している。

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写真:桂川から見た花の棟、昭和9年建築、登録有形文化財>
われわれはその桐の棟ではなく、左手に折れた場所にある花の棟2階の部屋に向かった。昭和9年建造の花の棟は窓から桂川、そして竹林の小径を眺めることができる客室である。この竹林の小径は2010年3月に発刊されたミシュランで2つ星を獲得している景観であるそうだ。確かに川の向こう岸に鬱蒼と茂る竹林は鑑賞に値する美しさである。

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<写真:花の棟から見た竹林の小径>
この花の棟も安田靫彦画伯の
「旅館の近代化が叫ばれる時代こそ、日本の伝統に根ざした木造建築の良さを大切にすべきである」
との言に従い、建築されたものである。安田画伯は、建物の監修にあたったと言われているが、実際には大工のカンナのかけ方まで世話を焼いたと言う。随所に見られる長押の釘隠し金具などの意匠は安田のこだわりである。

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<写真:部屋についている風呂、あまり触れられないが意外といい>
杉が建材として使われている数奇屋風建築は、数年前台風の被害に遭い、修繕が必要だったそうである。修繕後は一階の部屋には足湯が設置されるなど新たな趣向も凝らされたという。

今回は立ち入らなかった霞、あやめ、紅葉、吉野、山陽(横山大観のアトリエ)の各棟も全て有形文化財に登録されており、それぞれに格別の趣向が凝らされている。それぞれの美しさについては、新井旅館公式HPにて筆を尽くして紹介されているので、ご覧頂きたい。
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by iyasaca | 2010-04-24 08:57 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その3

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<写真:雪の棟から天平風呂方面を撮影>
このロビーがある瓦葺の真壁造りの木造三階建ての棟は、大正8年に建築されている。大正14年4月10日から5月6日にかけて神経衰弱の療養のため芥川龍之介が長逗留した際には、この棟で「温泉だより」を執筆している。また4月17日に室生犀星に宛てた書簡の中で「誰にも見せぬやう願上候」と但し書きがついていたこの詩はよく知られている。

欺きはよしやつきずとも
君につたへむすべもがな
越のやまかぜふき晴るる
あまつそらには雲もなし

また立ちかへる水無月の
欺きをたれにかたるべき
沙羅のみず枝に花さけば
かなしき人の目ぞ見ゆる

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<写真:ウェルカムサービスの抹茶と幸四郎>
すぐに宿の案内係に別室に案内され、チェックインの手続きをする。といっても名前と連絡先を書くだけであるが、鍵を持ってきてもらうまでの間に、抹茶と幸四郎という和菓子が供される。幸四郎は松本幸四郎が命名したという。

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<写真:記念写真の申込用紙>
チェックインにしては少し遅い時間帯であったためか、他に客の姿はなかった。しばらくすると記念写真を即日絵葉書にするというサービスがあるという。撮影場所は三ヶ所から選べる。玄関前、庭園、渡りの橋のいずれかであるというので、渡りの橋を選んだ。

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<写真:渡りの橋、明治32年建築、登録有形文化財>
フロントのある月の棟と雪の棟とを連絡するこの屋根付きの太鼓橋は、明治32年に掛けられた。橋の玄関側の勾配は滑り止めの横木が打たれているほどに、結構な角度であるが、手すりの高さを、手前が高く奥を低くする遠近法を取り入れたことにより、見た目には高低差を感じないような造りとなっている。当時東京から修善寺を訪れるにはまる一日がかりの行程であり、長い旅の末にたどり着いた宿泊客に少しでも疲れを感じないようにしてもらいたいという大工の心遣いのあらわれであるという。床は小福板が目透かしに貼ってあり、橋の下を流れる水流が見られる趣向になっている。この渡りの橋も有形文化財に登録されている。

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<写真:だんだん走りにもびくともしない渡りの橋>
朝方、渡りの橋が見えるロビーの一画で新聞を読んでいたら、配膳係の男の子がお膳を持って渡りの橋をだんだん音を立てて走って渡っていった。お膳もひとつだけではないから、「だんだん走り」は一度だけではない。
「おいおい文化財だぜ」
と思ったが、周りの旅館の人も何も言わない。たらたら配膳するよりも、素早い仕事を奨励しているのだろう。このように日常の中にある文化財は、それくらいおおらかに使ってもいいのだと思い直した。これも新井旅館の魅力だろう。
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by iyasaca | 2010-04-17 08:54 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その2

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<写真:新井旅館・青州楼(明治14年建築、登録有形文化財)>
新井旅館は、修善寺から桂川の東岸を10分ほど北に歩いた場所にある。道路から川音のする方に目を向けると、そびえ立つ青州楼が目に入る。最上階に六角形の望楼を配したこの木造3階建ての建物は正面から見ると洋風の楼閣に見えるが、側面から見ると城郭のような和風建築に見えるという趣向である。かつては三階にベランダもあったようだが、現在は撤去されている。

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<写真:新井旅館・月の棟(大正8年建築、登録有形文化財)>
敷地内に足を踏み入れると宇治の平等院鳳凰堂を模したとされる中央部分を一段高く作ってある玄関が目に入る。これが月の棟である。月の棟一階の玄関には正面左手に巨大な岩が配してある。修善寺に魅せられ、晩年「青々居」という別荘まで構えた日本画家・川端龍子が桂川の上流からわざわざ運ばせた巨岩である。3分の2が地中に埋まっているとのことであるが、見方によって龍にも日本列島にも見える。龍は建物を火から守るとされ、また日本全国から訪れてほしいという二つの思いがこめられているとの説明を受けた。

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<写真:川端龍子の書、旅館のロゴとして商標登録されている。中国でも申請した方が・・・>
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<写真:横山大観の書。ヘタ?>
玄関右奥の帳場の上、欄干にあたるところに大きな書が二幅かけられている。手前は川端龍子の手による「明月荘あらゐ」の書が、そして奥には「忘腰帯」と大書された横山大観の書が掛けられている。川端龍子のこの飄逸なる書は、新井旅館のロゴとして商標登録されている。ちなみに川端龍子の書は築地の「ちとせ」、銀座5丁目の画廊「一哉堂」の看板にも見ることができる。一方、横山大観の書は、「腰帯を忘れて歩きまわってしまうほどにリラックスする」という意味の通り、力の抜けた味のある書となっている。
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by iyasaca | 2010-04-10 23:05 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉・新井旅館にいってみた その1

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修善寺温泉では20の温泉宿が軒を連ねている。あさば、菊屋などいくつもの老舗旅館があるが、今回投宿したのは、新井旅館である。この旅館は、約3,000坪の邸内に建つ建物のうち、15棟が有形文化財に指定されている典型的な動態保存の文化財なのである。特に湯殿として唯一の有形文化財である天平大浴場は見ものである。

新井旅館は1872年(明治5)に「養気館新井」として創業している。源頼政の室であった「菖蒲の前」が入浴したという伝説のある「あやめの湯」を再興するためという創業者の思いがこめられていると伝えられている。創業者の相原平右衛門氏は、旅館業に転ずる前は、現在の新井旅館から天城方面に3キロほどの場所にあった修善寺町本立野新井という村落の地主で酒造元蔵元「新井」を営んでいた。新井という土地の名前の由来は、そのまま新しい井戸というところにある。良質の水の湧く酒造りに適していた場所だったのだろう。

当初は部屋を提供するだけで、食事は自炊、風呂も外湯のみだった。いわゆる湯治場を経営するかたわら、平右衛門は薪や炭の販売を行うなど、狩野川を経由して沼津港や横浜を相手にする船廻問屋で財をなした。

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新井旅館が飛躍を遂げるのは三代目相原寛太郎(1875-1945)の代になってからである。相原寛太郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に学び、画家を志していたが、その時に知り合ったのが、新井旅館二代目館主相原平八の娘つるである。相原家の婿養子に入った寛太郎は後に、三代目館主となった。三代目は、岡倉天心の没後に解散状態となった再興日本美術院や安田靫彦、前田青邨、今村紫紅、石井林響、川端龍子など、当時の若手芸術家のパトロンとなるなど美術界への支援を惜しまなかった。このことが、後の新井旅館の隆盛をもたらすことになる。後年、芸術に造詣の浅い私でも名前くらいは知っているという横山大観をはじめとする多くの文人墨客の作品が多く新井旅館に残されることとなり、その作品群は「沐芳コレクション」とまで言われるほどである。沐芳は寛太郎の雅号である。

新井旅館には書画として横山大観22点、前田青邨20点、紫紅14点、古径11点、良寛10点、安田靫彦85点など計300点以上、書簡としては安田靫彦500通、横山大観40通、今村紫紅32通、速水御舟7通、菱田春草7通など手紙、礼状、宿泊申込の書などが所蔵されている。多くが逗留のお礼で置いていったものである。
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by iyasaca | 2010-04-03 21:41 | 静岡 | Comments(0)

修善寺温泉にいってみた その1

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<写真:修善寺本堂正面に掲げられた副島種臣による寺号額>
駿河湾に注ぐ狩野川の支流、伊豆山中を流れる桂川のほとりに弘法大師の建立と伝えられる社殿がある。修善寺温泉の象徴として内外から観光客を集める修禅寺である。創建は807年。これは桓武天皇崩御の翌年である。写真の寺号額は、額は横246センチ、縦108センチの大きさである。表面は書を写して陽刻され、裏側には明治21年4月21日の日付、寄進した8名の世話人、制作に関わった大工職勝呂萬之助、塗師前田萬助などの名前が墨書されているとのことである。下地の朱色が金泥になじんで古色を帯びたこの寺号額は歴史ある修禅寺に最も相応しい。

さて古くは桂谷と呼ばれていたこの温泉地としての歴史も9世紀にまでさかのぼる。古い言い伝えが残っている。

f0008679_21262468.jpgある日弘法大師が、桂川の水で病気の父の体を洗っている息子を見かけた。その親孝行ぶりに感心した弘法大師は、
「川の水じゃ冷たかろう」
と持っていた仏具(独鈷杵、とっこしょ)を使って川の岩を砕いたところ、温泉が湧出したという。弘法大師に教わった温泉療法にて、10年来苦しんできた父の病はたちまちに治ったという。
<写真:独鈷杵のイメージ。奈良国立博物館所蔵>

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<写真:伊豆修善寺温泉場、六十余州名所図会、歌川広重>
時代はくだって江戸の中頃。この時期に修善寺界隈で湯治客相手に木賃宿として部屋貸しが始まる。江戸後期には、歌川広重の手による六十余州名所図会の中で、名所の一つとして「伊豆修禅寺湯治場」が紹介され、湯治場として全国的に知られるようになった。明治から大正にかけて修善寺は湯量が豊富だった(現在、共同浴場は独鈷の湯しか残っていないが、当時は9つもあった)こともあり、大いに栄えた。芥川龍之介、横山大観をはじめ、多くの文人墨客が訪れたことも修善寺の湯治場としての名をさらに高めることになった。ちなみに、夏目漱石が一時意識を失うほどの大吐血をして、2ヶ月もの長逗留をしたのもここ修善寺である。
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<写真:護岸工事中の桂川。奥右手に独鈷の湯が見える。>
戦後、源泉は乱掘され、1950年(昭和25)には自噴泉が枯渇し、源泉温度も低下する事態に立ち至った。見かねた修善寺の温泉事業協同組合は1981年に、当時利用可能だった74の源泉のうち優良な26カ所を選び、集中管理センターを立ち上げた。現在修善寺の源泉はすべて一カ所に集められ、そこから温泉宿に供給されている。したがって修善寺では、どの温泉宿に宿泊しても、同じ泉質を味わえる。
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by iyasaca | 2010-03-27 20:59 | 静岡 | Comments(0)

寸又峡プロムナードにいってみた

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温泉街からカジカ沢を越えて、寸又峡プロムナードというハイキングコースに向かう。しばらく歩くと営林署のログハウスが右手に見えてくる。その先がゲートとなっており、そこから一般車両は通行止めになっている。このログハウスの壁にビニール・シートで表面を保護した三枚の紙が貼ってある。右には「本川根方言」、真ん中に「昔暮らしのことわざ」、左が「大井川流域の文化と電力」という内容である。

真ん中の「昔暮らしのことわざ」が懐かしくもあり、面白かったので、書き出してみた。

昔 暮らしのことわざ
・冬至にかぼちゃを食べると中風にならない
・冬至にゆず湯に入ると風をひかない
・朝顔が屋敷内にあると蛇が入ってこない
・朝飯に汁をかけ食べると出世しない
・足の人差し指の長い人は親より出世する
・新しい着物を夕方おろすと凶
・蟻の行列をまたぐと良くない事が起こる
・一膳めしは縁起が悪い
・鏡餅に割れ目のある年は火事が多い
・元日に掃除をすると凶
・ざるをかぶると背が伸びない
・食べ物を箸移しで渡すと凶
・人に影を踏まれると死ぬ
・雛人形をいつまでも飾っておくと縁が遠くなる
・藤の花を屋敷内に植えると家が衰微る(ママ)
・闇夜に鳥が鳴くと火事がある
・便所掃除をすると綺麗な子が生まれる
・若白髪の人は出世する
・良すぎる名前をつけると名前負けする
・火事の夢は縁起がいい
張り紙はすべて味のある手書きで書かれている。
「なぜこの内容がこの場所に?」というout of place感と、「~すると死ぬ」、「~すると凶」など、情け容赦ないネガティブな言い切りが心地よい。

「何を根拠にそんなことを?」
という幼稚な質問は黙殺されるか
「むかしからそう決まってるんだよ。がたがた言うな。」
と怒られるだけだろう。
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この一帯は国有林となっている。ここからさらに上流域の、大井川の源流近くは栂(ツガ)を主とする温帯針葉樹林及び亜寒帯針葉樹林が良く保存されていることが評価され、日本全国に5ヶ所しかない「原生自然環境保全地域」に指定されている。本州で指定されているのはここだけである。
他の4ヶ所は環境省インターネット自然研究所のHP参照。
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さらに進むと正面に天子のトンネルが見える。正面の山は天子と呼ばれており、左手は松枯と呼ばれる絶壁である。この長さ210メートルのトンネルができるまではこの山を迂回した道を通っていた。

このあたりに来たところで雪と風が少し激しくなる。写真にも降雪の様子がかろうじて写っている。トンネル内に入れば少しは寒さが和らぐのではないかと期待していたが、ちょうど風の通り道になっていて、体感気温はさらに低く感じた。後で知ったが、寸又川上流から吹き抜けるこの凍えるような強風は、天子の鬼の風(龍神の風)と呼ばれており、この風に触れると無病息災がかなえられると伝えられている。
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トンネルを抜けると道は二手に分かれる。左の道は飛龍橋にまっすぐつながり、右の下り坂は夢の吊り橋へとつながっている。
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右手に広がる谷底には大間ダムと堰き止められた河水が青色に輝いているのが見える。
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ダム湖の水が青く見えるのはいわゆる「チンダル現象」によるものであるという。不純物の全くない蒸留水に近い水質であれば、光はまっすぐ川底まで反射されることなく到達するため、透明に見える。褐色の浮遊物が多く含まれる場合は川の水は褐色に見える。しかしこのダム湖の水にはごく微量の浮遊物が含まれているため、波長の長い赤色光は吸収され、波長の短い青が散乱光として反射しているため、青みがかった色に見えるのだと言う。日中の空が青く見え、夕焼けが赤く見えるという原理と同じだと思うが、分かったような、分からないような話である。いずれにしても実際に目に見える湖の色は乳白色に近い青色で美しい。
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そのダム湖の上8メートルに夢の吊り橋が架かっている。橋の中程でカップルが恋の成就を祈ると願いがかなうとされている。足場が狭く、しかもところどころ凍結している。カッコつけて颯爽と吊り橋に踏み出したら二歩目で凍結している足場に滑って危うく転倒しそうになった。その後も転倒防止に必死で、恋の成就を願うどころの状況ではない。しかしこの長さ90メートルの吊り橋からの見えるダム湖と寸又峡谷は美しい。紅葉の時期に人気なのは当然であろう。
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つり橋を渡り終えると先ほどのハイキングコースに戻るため一気に数十メートル上らないといけない。上りきるのにかかる時間は20分ほどであるが、その短い道のりに途上にある階段にそれぞれ「くろう坂」、「やれやれどころ」、「えっちら階段」と名前がついている。なるほど304段の階段はその名の通りきつい。

階段を上り終え、右に向かえば尾崎坂展望台、左は飛龍橋を経て先ほどの分かれ道に戻ることができる。尾崎坂展望台には森林鉄道として使われていたトロッコが展示してあるということを後で知った。階段を上り終えた場所に尾崎坂展望台を大々的にアピールする看板でも置いておかなければ、誰もが飛龍橋の方に向かう道を選ぶであろう。
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飛龍橋の手前に寸又三山前黒法師岳(標高1943メートル)の登山口がある。この途上に最初に源泉が出た湯山集落の跡地がある。その分かれ道を選ばずにまっすぐに温泉街に向かう道を進むと飛龍橋である。この高さ80メートルの橋梁は吊り橋よりも迫力があるが、つくりがあまりにしっかりしているため、恐怖感はない。風景を愛でるのに集中せよと言わんばかりである。

さて寸又峡プロムナードは、昭和40年代前半まで千頭山国有林の木材搬出のために敷設された森林鉄道の軌道を遊歩道に改修したものである。

千頭の国有林は約2万6000ヘクタール。雨量が多く、土壌の大部分が褐色森林土であることから材木の育成に適しており、面積の7割が中部日本有数の栂(ツガ)、樅(モミ)、ブナなどの針広混交林で樹齢200年を超えるものもあるという。標高が1,400メートルに至らない山腹にはヒノキや杉が植栽されている。

千頭の山は良質の木材を産することから、古くは天領となっており、江戸期には紀伊国屋文左衛門ら御用木材請負人によりヒノキ、ツガ、欅(ケヤキ)が大井川を経由して伐出され、駿府城、寛永寺、江戸城などの建築用材としても使われたとされている。その後明治4年には天領から官林に、明治22年には御料林となり、昭和22年から国有林となった。管理経営されるにあたっての名称は変わっているが、国が直接管理するという点については揺ぎなく、変わりはない。現在は東京営林局、千頭営林署の管理下にある。

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千頭は古くから質の高い木材を産することはすでに触れたとおりである。木材の搬出に当たっては十分の量をたたえる河水を利用した「川狩り」という方法に拠っていた。しかしこの水系の豊かな水量は電力需要の増大から電力開発という観点からも注目される。木材搬出と電力開発という二つの利を引き出すため、二兎を追うという決定が下された。つまり、水資源を利用した発電所建設と、木材搬出については川狩りの代替手段として、木材運搬軌道を敷設するということである。1930年(昭和5年)10月に湯山・大間発電所の建設許可が下りると、軌道建設工事が起工する。その後、数年かけて総延長48キロの森林軌道は完成する。

1933年12月 千頭堰提間(一級線20.4キロ)と沢間・千頭間(2.6キロ)竣工
1934年05月 大間川線(2級線2.6キロ)
1935年08月 頭堰提から寸又川に沿った延長線(2級線2.6キロ)
1935年10月 湯山発電所竣工
1936年11月 大井川発電所竣工
1938年12月 大間発電所竣工
1941年04月 柴沢までの本線の延長工事起工(2級線18.1キロ、完成は1945年12月)

敷設工事は第二富士電力が負担し、寸又峡谷の急斜面の谷壁部、起伏の激しい赤石山系千頭山の中腹を縫う寸又線、崩壊の激しい中央構造線フォッサ・マグナの貫通した複雑な地質構造を持つこの地帯への敷設は困難を極め、多数の労働者が動員され、昼夜を通した作業が続けられた。労働者は主に高知県、岐阜県などの山村地帯からの出稼ぎ労働者で、山泊まりして作業にあたった。

森林軌道は1969年に廃線となり、現在は寸又峡プロムナードとして多くのハイキング客の通る遊歩道となっている。
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by iyasaca | 2008-06-28 16:30 | 静岡 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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