勝手に僻地散歩



カテゴリ:鹿児島( 9 )


屋久島にいってみた その9

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大王杉を過ぎ、細かな上りと下りが繰り返す山道を歩き続けると、忽然と目の前に木組みの展望台が現れる。5時間に及ぶ縄文杉を目指す旅が終わったのである。


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展望台の階段を登り終えると、目の前には厳かに縄文杉が立っている。うねるように渦巻く縄文杉の幹は、道中に見たどの屋久杉とも異なる。

素人目には確認することはできないが、縄文杉には、江戸時代の試し切りの跡が残っているという。胸高周囲16.4メートル、樹高25.3メートルという巨木であるにもかかわらず、伐採を免れたのは、幹があまりにいびつであったからであろう。その後数百年、縄文杉の存在は人々の記憶から忘れ去られていたのである。

しかし昭和の時代に入って
「ハッジョヤマには十三人で抱えるような太か杉がある」
という言い伝えを信じ、山を歩き続けた男がいた。屋久町役場の岩川貞次氏である。そして7年の後、伝説の巨大杉は「発見」された。1966年5月のことである。岩川氏はこの異形な屋久杉に「大岩杉」と名づけた。

大岩杉が世間に広く知られるきっかけとなったのは、1967年元日のことである。南日本新聞一面に「生き続ける”縄文の春“、推定樹齢3000年以上、芽を出したのは縄文時代」と写真つきで紹介された。この後、大岩杉は「縄文杉」 として知られることになる。

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南日本新聞で樹齢3,000年と報道された縄文杉であるが、その樹齢については諸説ある。

最初に科学的な調査が試みられたのは1976年のことである。九州大学工学部真鍋大覚助教授が過去に伐採された屋久杉のデータと気候データなどをもとに算出したところによると、その樹齢は7,200年とされた。

1984年には林野庁の委託を受け、学習院大学理学部木越教授が樹齢調査を行っている。腐食している内部の木材を放射性炭素年代測定法を用いて測定したところによると、木材の年齢は1920±150年であるとの結果が出た。しかし縄文杉は内部が腐食し、空洞となっており、採取したサンプルの年齢をもって杉全体の樹齢とは言えない。あくまでも、少なくとも1,770年以上であるということしか言えないのである。

最近では、2005年12月に高さ10メートルほどのところから折れた縄文杉の枝を放射性炭素年代測定法と成長錐年代測定で調査している。枝といっても長さ4.2メートル、太さ80センチ、重さ1.2トンという巨大なサイズである。調査結果によると折れた根元の部分の年齢は900年前後であると判明した。しかしこの調査をもってしても、縄文杉の樹齢を確定的に指し示すことはできない。

樹齢の推定にあたって、もう一つ留意すべきは、6300年前に、現在の鹿児島湾あたりで発生した鬼界カルデラの噴火である。その際に鹿児島県の南半分は約10センチから1メートルの火山灰で覆われている。したがって、屋久島の杉はどんなに古くても6,300年を越えることはないと考えるのが自然であろう。


さらに杉の寿命は一般には500年であると言われている。屋久島に樹齢1,000年を越える杉が珍しくないのは、島の組成に理由がある。屋久島は花崗岩が隆起した島である。その岩盤の上に薄い膜のように花崗岩の風化土が覆っている。貧栄養状態にあり、かつ薄い表土に根ざすことになった屋久杉は、通常の杉よりも成長に時間がかかる。よって年輪が詰まり、硬質になるのである。加えて通常の杉の6倍もの量の樹脂が、屋久杉に腐敗に強く、虫のつかない特性を与え、通常の杉よりも長いいのちを与えているのである。

屋久島が6,300年前に火砕流に見舞われていること、採取しうる最も古いサンプルが1770年前のものであること、そして植物としての杉の寿命が元々は500年であるということを総合すると、実際の樹齢は2,000年を少し越えたくらいであると考えるのが妥当だろう。

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縄文杉の前面斜面は観光用に150坪にわたって伐採されている。しかしこの伐採によって、縄文杉が根を張る地面が直接風雨に洗われることになり、表土の流出が急速に進んだ。表土の流出を防ぐため、今では写真にあるような造作が整えられ、幹に近づくことはできなくなっている。にもかかわらず、2005年5月に縄文杉の樹皮が12箇所にわたって剥ぎ取られるという事件が発生している。


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雨に見舞われないことはないという縄文杉への道。今回は往復8時間、一滴も雨に降られることはなかった。雨が降って、道がぬかるめば、これだけの山道を往復したときの疲労は何倍にもなっただろう。

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by iyasaca | 2007-11-17 15:51 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その8

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ウィルソン株を過ぎ、さらに110分。大王杉が現れる。ここウィルソン株と縄文杉の中間地点である。推定樹齢3、000年、樹高24.7メートル、胸高周囲11.1メートルの大王杉は、1965年に縄文杉が発見されるまでは、屋久島最大の杉と言われていた。急斜面に立っている大王過ぎの根元は3箇所にわたってひび割れしており、数人が入ることができる空洞まである。しかし以前に登山客が根元の空洞の中で焚き火をしたことがあり、今では近づくことはできない。幹には江戸時代に試し切りされた跡が残っている。現在に残っているところを見ると用材として不適格ということなのだろう。

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大王杉からしばらく歩くと、今度は左手に夫婦杉が姿を現す。右に立つのは夫で、左には妻が立つ。樹高は妻が25.5メートル、夫が22.9メートルで妻のほうが高い。しかし、妻の根元は夫の約3メートルほど下にあり、頂上部の樹高はほぼ同じである。しかし胸高周囲は夫は10.9メートルに対し、妻は5.8メートルである。二つの木は3メートルほど離れているが、10メートルのほどの高さで枝がつながっており、手をつないでいるように見えることから夫婦杉を呼ばれるようになった。

屋久島の杉は強風に耐えるため、周辺と突出して高く成長しない。したがって、樹高は周辺環境に影響を受けているが、有名な屋久杉のデータを見ると、面白い傾向が読み取れる。幹が太いとあまり高く成長せず、逆に30メートルを越える樹高の屋久杉は幹が細いのである。例えば30メートルを越える樹高の屋久杉は5本あるが、そのうち4本が胸高10メール未満である。逆に胸高10メートルを越える屋久杉も5本あるが(ウィルソン除く)その樹高は、おおむね22-25メートルにとどまる。(もちろん例外もあるが)

胸高周囲が10メートル以上の屋久杉
1位 縄文杉    16.4m (樹高25.3m)
2位 翁杉     12.6m (23.7m)
3位 大王杉    11.1m (24.7m)
4位 夫婦杉(夫) 10.9m (22.9m)
5位 大和杉 10.2m (34.9m)

樹高30メートル以上の屋久杉
1位 三代杉    38.4m (胸高周囲4.4m)
2位 大和杉    34.9m (10.2m)
3位 天柱杉    33.8m (8.2m)
4位 ひげ長老  32.0m (9.5m)
5位 母子杉(母) 31.1m (9.0m)

太ければ低く、細ければ高い。杉の生命力に限りがあるとすれば、縦に伸びるか横に広がるかの二者択一ということは当たり前なのかもしれない。
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by iyasaca | 2007-11-10 13:18 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その7

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縄文杉へと先を急ぐ。

険しい山道に入ってから40分、突然前が開け、巨大な切り株が目の前に現れる。ウィルソン株である。

この巨大な切り株の名称は、アメリカ人の植物学者アーネスト・ウィルソンの名前からとられている。ウィルソンは、針葉樹研究のため、日本を二度訪れており、屋久島へは、1914年(大正3年)最初の訪日時に立ち寄っている。そのときに、この巨大な切り株を発見したのである。ウィルソンはその調査結果を「日本の針葉樹林」という論文にまとめ、学会で発表した。その一節を引用する。

「至るところに濃密な原初の森が続き、空き地がない。広大な常用樹の天蓋の下に、潅木の低い茂みを伴った、全くすばらしい陰花植物の王国である。最も注目すべき森林は、杉がそこに南の故郷を持っているこの屋久島の森林である。」

切り株の高さは約4メートル、胸の高さの外周は13.8メートルある。樹齢は推定2,000年~3000年、中は空洞で人が入ることができる。かなり広い空間である。内部には、小さな祠があり、その脇からは水が湧いている。そして切り株の周りからは樹齢300年ほどの杉が3本切り株更新している。

さて、ウィルソン株の伐採された部分は一説によると豊臣秀吉が造営を命じた京都東山の方広寺大仏殿の用材として使うため、楠川の牧五郎七ら6名が櫓を組み斧で倒して京都まで運ばれたと言われている。方広寺と言えば、現在では大仏よりも、豊臣家滅亡のきっかけとなった鐘がある寺と言った方が分かりやすいだろう。言うまでもなく、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘が家康の名前を引き裂くものであると言いがかりをつけられたあの事件である。しかし、江戸期においては「京の大仏」の寺として名高く、18世紀に火災で焼失したときには、市中で大仏を惜しむわらべ歌が歌われ、また周辺の地名には大仏やそれにまつわる名が今でも残っている。

1586年(天正14年)、秀吉の命により造営が始まった方広寺大仏殿は、完成間近となった1596年(慶長元年)、慶長大地震に見舞われ、崩壊する。秀吉の死後、秀頼が大仏殿の再建を命じ、1612年(慶長17年)完成するが、1798年(寛政10年)、落雷による火災によって焼失してしまう。その後、方広寺は規模を大幅に縮小し、現在の場所(京都府京都市東山区大和大路通七条)に再興される。寛政年間に焼失した後、大仏殿が再建されることはなかったため、現在の方広寺に行っても、当時の面影はなく、また当時の様子を伝える資料も少ないため、長い間、大仏殿が建っていた場所すら正確に分からないままであった。

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<写真:ケンペル「日本誌」 1729年版>
しかし、資料が全くないわけではない。当時の様子をうかがい知ることのできる資料の一つは、ドイツ人医師のケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651-1716)が残した旅行記「日本誌」である。ケンペルは五代将軍徳川綱吉の時代である1690年に日本各地を訪れ、ドイツ語で「今日の日本」という原稿をまとめている。その中に方広寺の大仏殿を描いた挿絵がある。判読しにくいが、右上にDAJBODS(ダイボツ≠ダイブツ=大仏), Tempel even buyten de stad, MIACO(ミアコ≠ミヤコ=都)との但し書きがある。

ちなみに、ケンペルの死から11年、「今日の日本」の原稿はショイヒツェル(J.C. Scheuchzer)によって英語翻訳され、「The History of Japan(日本誌)」として世に出た。この本はすぐにベストセラーとなり、1729年にはフランス語(Histoire naturelle, civile, et eccl'esiastique de I'empire du Japon)とオランダ語(De Beschryving van Japan)に翻訳された。オランダ語版は1733年にも再刊されている。オリジナルは現在大英博物館に所蔵されており、現在でも江戸期の日本を研究する者の必読書となっている。

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<写真:都名所図会(1786年再版本) 巻之三 左青龍再刻 十四ページ、国際日本文化センター所蔵 >
さて当時の様子を伝えるもう一つの資料は、1780年に京都の書林吉野家が刊行した「都名所図会」である。焼失するのは1798年であるので、直前と言ってもよい時期である。この中にある俳諧師秋里籬島の説明書きによると、大仏殿は西向きに建てられており、東西27間(約49メートル)、南北45間(81メートル)の大伽藍であった。さらに、東西に100間(180メートル)、南北に120間(約216メートル)の回廊に囲まれていたと言う。そして大仏殿には、六丈三尺(約19メートル)の盧舎那仏の坐像が鎮座していた。楼門には一丈四尺(約4.2メートル)の金剛力士の大像が置かれ、門の内側には金色に輝く長さ七尺(2.1メートル)の高麗犬が、堂前には列国諸侯の名が刻まれた石灯籠が立ち並び、大仏殿の敷石と正面の石垣には諸侯の紋や名前が刻まれていたと言う。都名所図会には大坂の絵師竹原春朝斎の手による挿絵も残っている。

2000年8月に行われた発掘調査により、方広寺大仏殿の基壇と台座が発見され、大仏殿の建っていた場所と規模が明らかになった。調査結果によると方広寺の境内は、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含む広大な敷地にまたがり、大仏殿は都名所図会にある記述にほぼ等しく、東西55メートル、南北90メートルであったことが判明した。まさに奈良の東大寺を凌駕する規模であったのである。

ただ、この巨大な建造物に屋久杉が使われたのかについては疑問が残る。確かに1586年(天正14年)4月、秀吉が方広寺大仏殿の建築用材を諸国に求めたという記録はある。そして屋久島を治めていた島津義久が秀吉の軍門に降ってからちょうど二年後の1589年5月に
「羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ方広寺大仏殿用の柱及び島津分領中で刀狩した刀、脇差30,000腰の進上を賞す。」
との記述が島津家文書(2-780)に残っている。

しかしここにある「方広寺大仏殿用柱」が屋久島から届けられたかどうかの記述はない。またウィルソン株横の立て看板によると「伐採年代は18世紀末ごろと伝えられ・・・」とある。つまり伐採時期は今から200年ほど前ということになる。さらに言えば、ウィルソン株に根付いている3本の小杉の樹齢は、300年だと言われている。この巨大な切り株に新しい杉が着生するまで100年もかかったことは考えづらい。したがって伐採時期は300年ほど前と考えるのが妥当だろう。どれをとっても420年前の秀吉の時代とは合わない。

結局のところ、方広寺大仏殿とウィルソン株は関係ないのだろう。
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by iyasaca | 2007-11-03 17:50 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その6


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登山口から約8キロ、2時間半をかけて大株歩道入り口に到達する。ここの標高は929メートル。荒川登山口から335メートル登ってきたことになる。登山口から入り口の横には清流が流れていて、飲料水を汲むことができる。大株歩道から先は、いよいよ数々の杉の巨木を目にすることができる。ここからは、本格的な山道となる。
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大株歩道を登る。縄文杉までは、2キロの距離であるのだが、標高差は352メートルある。荒川登山口から大株歩道まで、8キロかけて登ってきた高さにほぼ等しい標高差をわずか2キロの道のりで登らなければならない。そのことだけで、ここからの道が今まで歩いてきた森林軌道とかなり異なるということは分かるだろう。山道に入って思いのほか活躍したのはトレッキングポール。緩やかな森林軌道を歩いているときは邪魔でよほどバッグパックの中にしまってしまおうかとも思ったが、山道では驚くほど使いでがあった。特に帰路、足に対する負担がピークになるウィルソン株から大株歩道までの下りでは、トレッキングポールなしでは、歩行のペースを維持できなかっただろう。

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<写真:翁杉。もうこの杉を仰ぎ見ることはできない>
屋久島の杉は樹齢によって名称が変わる。樹齢100年以下の若杉は「地杉」、1,000年以下は「小杉」、そして1,000年以上になって初めて「屋久杉」と呼ばれるようになる。

切り株歩道に入って、最初に出会う巨大杉は翁杉である。樹齢は推定2,000年。屋久杉である。寿命が近づいているこの老杉は、幹が地上23.7メートルのところで折れている。しかし幹の外周は縄文杉に次ぐ12.6メートルある。根元は苔に覆われ、幹には多くの着生植物が彩りを加えている。翁杉の語源は、杉の樹齢によるものではなく、ここから翁岳がよく望めることから名づけられた。

縄文杉への道のりはまだ長い。


<追記>2010年9月10日未明、翁杉が地表から3メートルのところで折れて、倒れているのが見つかった。屋久島を再訪できるかどうか分からないが、もう仰ぎ見ることができないと思うと寂しい限りである。推定2000年とも言われた樹齢の老杉にはお疲れさまと言いたい。またこの幹から新しい杉が生まれることであろう。
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by iyasaca | 2007-10-27 15:41 | 鹿児島 | Comments(1)

屋久島にいってみた その5

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鬱蒼とした林の中、トロッコ道は続いている。
左手には安房川が流れているはずだが、水の音はもう聞こえない。右手に目を向ければ、あちこちに寿命の尽きた杉が倒れている。しかしそこに見えるのは死の世界ではない。切り株や倒木の上から新たに若杉が芽を出しているのである。この若杉も、やがては巨木に成長する。切り株更新、倒木更新と呼ばれる森の新陳代謝が目の前で展開されている。そして、その幹は、例外なくコケの絨毯をまとっている。

縄文杉に向かう人は毎日かなりの数であるのだが、歩いていて気づくと前にも後ろも人がおらず、この深い森の中で一人きりになる瞬間がある。時間にすれば、ほんの十数分だが、日光が地上まで届かないほど密度の濃い森にあると、島民が、計り知れない森の深さに畏怖の念を抱くその気持ちが分かる気がする。島の民話には木の精、山姫が恐ろしい存在としてよく登場する。歩いても歩いても上下左右、杉の巨木に囲まれていれば、山姫に出会ったしても不思議には思わないだろう。
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さらに歩を進めていくと、岩肌にくりぬかれたかのように人工的な穴があいているのに気づく。防空壕である。ちょうど、防空壕の前にグループがガイドによる説明を受けていた。誰もいなければ、おそらく気にも留めず、通り過ぎてしまっただろう。

ガイドの説明によると、屋久島も戦争の歴史と無縁ではなく、終戦間際の1945年3月以降は集中的な空襲に見舞われているとのことである。この空襲の結果、多くの人家が消失し、多くの死者が出ている。この防空壕はその空襲を避けるために掘られたものである。集落から遠く離れた山の中に防空壕が掘られていることは空襲に対する島の人々の恐怖を今に伝えている。戦争中は疎開のため多くの島民が島から去って行った。戦後になると復員、引き揚げなどの要因もあり、屋久島の人口は急激に増加し、そのため、食糧難に苦しむという時代を迎えたという。説明をただ聞きして、さらに歩を進める。

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縄文杉を目指すこのトレッキングで、最初に出会う巨木は三代杉である。ここの標高はおよそ740メートル。一本に見えるこの巨木は、その名の通り三代目にあたり、初代の倒木から成長した二代目の切り株に根ざしている。初代の杉の樹齢は推定1,200年。倒木となり、現在は中が空洞になった初代の杉の上に育った二代目は樹齢1,000年に至ったとき伐採された。今から350年ほど前のことである。
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by iyasaca | 2007-10-20 15:26 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その4

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トロッコ道は正式には安房森林軌道と呼ぶ。安房森林軌道は、屋久島東岸の安房港から荒川分岐点、小杉谷製品事業所跡を経由して大株歩道にまで延びている。縄文杉を目指す登山客は荒川登山口から大株歩道入り口までの最初の2時間半、このトロッコ道の上をひたすら歩いていく。

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この森林軌道の工事が始まったのが1922年6月。屋久島の国有林開発への道を開いた、「屋久島国有林経営の大綱」が定められた翌年のことである。工費32万円をかけた16キロの森林軌道の完成は1923年12月というから、僅か1年半の突貫工事だった。

かつては、本線のほかにも石塚線(10.2キロ)、安房95支線(2.9キロ)、栗生線(5.5km)安房76支線(5.0km)など、総延長は26キロにも及んだが、1970年の小杉谷事業所閉鎖以降、1971年には安房95支線が廃止、1975年には安房―苗畑間が廃止された。石塚線に至っては、崩落のため線路が寸断されている状態のままになっている。

現在は荒川分岐点から先の7キロほどの区間は屋久島森林管理署が所管し、運行については、有限会社愛林に委託されている。主に民芸品加工のため土埋木(伐採木で使用できずに放置された切り株)の運搬や登山道途中のトイレの屎尿タンク輸送に使用されている。安房港から荒川分岐までは屋久島電工株式会社に払い下げられ、発電所の維持管理のために使用されている。こちらは一般の立ち入りが禁止されている。
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この森林軌道は日本で唯一の現役の森林鉄道である。下山途中、幸運にも走行中のトロッコに遭遇した。おそらくは、リタイヤした登山客の搬送のため稼動しているのだろう。
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by iyasaca | 2007-10-13 23:49 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その3

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荒川登山口から緩やかな坂道を歩くこと50分、小杉谷製品事業所跡に到着する。登山口との標高差はわずか60m。足元は森林軌道として整備されており、ここまでは体力の消耗はほとんどない。

屋久島の杉は、江戸末期までカツオ漁と共に島民の生活の糧の一つであったが、明治12年の地租改正を受け、島の森のほとんどが官有となり、伐採が厳しく管理されるようになった。生活を山海の恵みにより生活を営んでいた島民にとっては、片腕をもがれたような形になった。

島民は伐採再開に向け、嘆願を始める。1899年には、「国有土地森林原野下戻法」発布を受けて、村議会は、古来からの村持支配山を民間山林として認めてほしいという国有森林下戻申請を行うが、申請した村持支配山の範囲が古来からのものであるという証拠が不十分であるとの理由で却下される。

1904年には、島民が国を相手に「不当処分取消並びに国有山林下戻」訴訟を起こす。この訴訟は、16年という長きに渡る係争の後、島民側が敗訴するという結果になる。
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しかし1921年、国は方針を転換し、「屋久島国有林経営の大綱」が定められ、国有林伐採の道が開けた。小杉谷はその2年後の1923年に安房官行斫伐所として開設されるわけである。その後、小杉谷は、閉鎖される1970年までの47年間にわたり屋久島国有林開発の拠点であった。

国有林開発が始まったことで、森林軌道と呼ばれるトロッコ道、島の外周道路など屋久島のインフラは急ピッチで整備される。そして事業所での活動が始まると、小杉谷には労働者と共に家族も移り住んだ。1935年には、作業員200人、家族を含めて300人が住む集落となった。小杉谷集落には、各戸に電気と水道が引かれ、郵便局、床屋や銭湯、商店に至っては4店も並び、学童期にある児童のための私塾も営林署によって建設された。営林署の私塾は1943年には1943年に粟穂(あわほ)国民学校太忠岳文教場として国に認可され、正式に小学校となった。電気に水道そして交通機関。当時は鹿児島市内ですらそのようなインフラが整備されていなかった時期の話である。

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戦争が長期化するにつれ、小杉谷の集落の規模は縮小する。記録によると1945(昭和20)年、小杉谷の住人は30家族、100人にまで減り、1947年には児童数は5人にまで減少した。

しかし戦後作業員は再び増え始める。1960年には133世帯、540人が最盛期の杉伐採を支えた。1962年には小杉谷集落、石塚集落(小杉谷から上流へ徒歩一時間ほどにあった集落)からの生徒の数は小・中学校合わせて147名に達した。しかし1955年にチェーンソーが導入され、杉の伐採の増産体制が図られたことによって周辺の杉林は急速に消滅し、1970年小杉谷製品事業所は閉鎖された。

閉山から約40年、小杉谷はいま静かに原生林に戻りつつある。

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by iyasaca | 2007-10-06 19:02 | 鹿児島 | Comments(1)

屋久島にいってみた その2

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屋久島に来たからには、あの縄文杉を一目でも見なければという思いで、何はともあれ、縄文杉に向かうことにした。一月ほど前に島を襲った台風の影響で道路の一部が崩落し、登山口までの一般車両の通行が制限されているということで、路線バスを使って荒川登山口に向かう。宿を取った屋久島南部、尾之間から登山口までは70分かかる。

登山口に直行するバスはなぜか存在しない。路線バスは全て、荒川分れという登山口へ10分ほどの場所までしか行かず、そこから登山口までは別のバスに乗り換えなければならない。登山口までのバスを待つ間、ふと荒川分れのバス停の脇を見ると、ログハウス風の休憩所がある。休憩所横の白い杭によれば、このログハウス風の休憩所は平成11年4月の建築であるとのことである。比較的新しい建築であるにもかかわらず、休憩所は崖下に向かって大きく傾いている。
よく見ると、休憩所の壁には
「危険のため、休憩施設の利用を禁止します」
とだけ貼り紙がしてある。丁寧に6箇所を画鋲でとめてある張り紙はまだ新しい。休憩所が傾きはじめたのは最近のことなのだろう。気になって、地面を見渡すと、この辺りは地盤が緩いのか、足元にもところどころ大きなひびが入っており、すでに崩れた跡もあった。左の写真のようにかなり派手に崩れている場所も一ヶ所や二ヶ所ではなかった。

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荒川登山口は縄文杉まで約9時間で往復できる最も人気のあるルートの起点である。上級者は、宮之浦岳を経由する別のルートもあるらしいが、そのためには本格的な登山の装備が必要で、また時間もかかる。

しばらく待つと登山口までのバスが来る。坂を10分ほど下るとそこは荒川登山口である。登山口入り口に群がる記念写真を撮る集団を横目に登山届を出して、すぐに縄文杉に向かって歩き出す。すでに日の出の時刻を過ぎており、かなり明るく、ヘッドライトは必要がなかった。

写真の通り、荒川登山口からは、森林軌道と呼ばれるトロッコ道が真っ直ぐに走っている。入り口横には救急車が待機している。リタイヤする登山客を運ぶために必ず毎日出番があるそうである。この日は、登山ガイドまで救急車で運ばれていったのである。

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これより先は、ひたすらトロッコの線路の上を歩き、第一のチェックポイントである小杉谷製品事業所跡を目指す。登山口からは50分の道のりである。
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by iyasaca | 2007-09-29 11:59 | 鹿児島 | Comments(0)

屋久島にいってみた その1

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鹿児島県大隅半島の南端から南南西へ約70キロ、屋久島にいってみた。東シナ海に浮かぶこのほぼ円形の島は約1,500万年前の火山活動によってその原形が形作られた。海底に噴出した花崗岩は長い時間をかけ隆起を続け、現在の屋久島には、九州最高峰を誇る宮之浦岳(標高1,936m)を筆頭に、標高1,000メートルを越える山巓が30以上ある。


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<写真上:千尋滝(せんぴろのたき)、写真下:大川(おおこ)の滝>
長い時間をかけて形成されたこの急峻な地形は、508.8平方メートルの島に多様な気候をもたらした。気候帯として冷温帯に分類される山頂部では、冬季は冠雪する。一方亜熱帯である沿岸部は冬季でも霜が降りることはない。さらに高湿の南洋に出現した1,000メートル超の山系は、この島に豊かな水を供給することになる。山肌にぶつかった雲がもたらす雨量は東京の4倍、山地に至っては8倍にも達する。(東京の年間降雨量は約1,400ミリ、屋久島の場合平地では約4,000ミリ、山地では8,000ミリを越える)屋久島の各所に点在する滝は水量も多く、どれも見事である。

写真左の千尋滝は、剥き出しの花崗岩の上を流れる落差60メートルの大瀑布である。写真奥に見える小さな滝も落差は20メートルある。写真右は落差88メートルの大川の滝である。展望台から遠望する形になる千尋滝と異なり、滝壺近くまで遊歩道が設置されており、迫力は段違いである。


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さて屋久島に、いつ人が定住を始めたのかは定かではないが、島内に点在する遺跡から縄文時代前期にはすでに人が居住していたことが分かっている。飲料に適する豊かな水と海洋資源をもってすれば、人が住みにくい地ではなかったであろう。屋久島には一湊松山(いっそうまつやま)遺跡はじめ縄文前期から弥生時代の遺跡が65確認されている。この遺跡から大量に出土された曽畑(そばた)式土器は、朝鮮半島南部から九州全域、沖縄県読谷まで広く発掘されている。このことは、縄文の時代から九州や沖縄との間には、人とモノの往来があったことを示している。

屋久島の名前が文書に現れるのは、もう少し時代を下った7世紀のことである。隋の第二代皇帝煬帝が編纂した隋の正史「随書」の中で、
「異国の風俗を調べるため兵を東海に派遣したが、言葉が通じないので、地元の人を一名連れて帰り、翌年再び派遣したが、従わないので布甲などをとって帰った。その折、倭国の使者が来朝していて、これを見て、『それは夷邪久(いやく)国の人が使っているものだ』と言った。」
という記述が残っている。朝廷の使者が屋久島の存在だけでなくその産品についても知っていたということは、屋久島がこの地域一帯の海の交易ネットワークに入っていたことの一つの証左であろう。

世界遺産に登録され、多くの観光客が訪問するようになり、語り尽くされた感のある屋久島であるが、私自身の備忘録として屋久島の森と海について感じたことを何回かに分けて書いていきたい。
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by iyasaca | 2007-09-22 13:09 | 鹿児島 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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