勝手に僻地散歩



カテゴリ:群馬( 8 )


沢渡温泉 まるほん旅館にいってみた その2

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沢渡は、鉄道開通で湯治客の多くを失い、終戦間際に大火事にも遭ったが、まるほん旅館は、主人の福田勲一を中心に、戦後も粛々と営業を続けてきた。

しかし、災難がまるほん旅館を襲う。1996年に跡継ぎを不慮の事故で失ってしまったのである。後継者を失ったまるほん旅館は、第三者に経営譲渡するか廃業するかの選択肢しかなくなった。主人は、当然のことながら経営譲渡の道を探った。相談に乗ったのは、群馬銀行中之条支店の支店長代理の職にあった田中智氏であった。

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相談を受けた田中氏が、早速、得意先に買収の打診をして回った。旅館の財務状況が良好であったこともあり、すぐに3社が手を挙げた。経営譲渡の道は拓けたかのように見えた。

しかし、ここで主人は沢渡温泉管理組合の規約に「源泉使用権は相続人のみが承継可能」という条文があることを明かしたのである。元々は有限の湯量を新規参入業者による乱用から守ることを意図していた規約であったが、第三者への経営譲渡という選択肢が存在しなかったことを知った3社は、規約の存在を知り、全て手を引いたのである。ついに選択肢のなくなった主人は、田中支店長代理に廃業を告げたのである。

ところが田中はここで「ああそうですか」とはならなかった。「それなら私がやりましょう」と応じたのである。田中は家族を説得し、2004年1月末付で群馬銀行を退職、福田家に養子に入ったのである。「福田」智は、ほどなく勲一から経営権の譲渡を受け、今も営業が続いている。

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さて、まるほん旅館で外してはならないのは有名な総檜の大浴場である。目当ての大浴場は本館2階から隣の浴舎に渡してある廊下を抜けた先にある。引き戸を開け、浴舎に入るとすぐに1階に降りる階段があり、そこに脱衣スペースがある。浴槽のあるスペースと脱衣所の間には仕切りがあるわけではない。ただ衣服を置く棚があると言う程度である。
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浴舎内には、浴槽は大小二つある。湯温が多少異なるようだ。混浴であるため、女性には近寄り難いかもしれないが、青い敷石と檜のコントラストは見事であり、かつての湯治場の風情を味わうにこれ以上の場所はない。最近お湯を貯湯槽を経由させることをやめて、源泉から直接お湯を引くこととしたらしい。泉質はさらに向上したのだろう。

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 「湯さえ守っていれば、一生食いっぱぐれはない」

とは、まるほん旅館先代の言葉である。
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by iyasaca | 2011-08-27 23:11 | 群馬 | Comments(0)

沢渡温泉 まるほん旅館にいってみた その1

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上州路に加水、加温をしていない「源泉かけ流し」の宿があると聞き、沢渡温泉を訪ねた。

沢渡は、わずか12軒の温泉宿が丘陵地の斜面に軒を連ねるこぢんまりとした温泉地であるが、強い泉質の草津で湯ただれを起こした湯治客が「仕上げの湯」として湯浴みに訪れることも多いらしい。湧出する無色透明の硫酸塩泉は、その肌触りの良さから一浴玉の肌とも呼ばれている。

開湯の歴史は錯綜している。起源を縄文時代に求める記述から源頼朝を引く記録まであるが、風景の輪郭が見え始めるのは、江戸中期以降のことである。来湯者としては、沼田藩真田氏五代目藩主真田伊賀守信澄と母慶寿院、儒者の平澤旭山、書家市河米庵、蘭学者高野長英、後藤新平、医師のベルツなどが知られている。また図画の確認ができないが、上州沢渡温泉絵図なるものがあるらしい。草津、四万などは同様の絵図があるので、恐らく沢渡もあるのだろう。

f0008679_21253092.gif明治末期から大正時代にかけての盛時には湯宿だけでなく、小料理屋も多く軒を連ねていたと言う。この時期になると文人墨客の名前も出てくる。若山牧水は特に関係が深かった。

牧水は花敷温泉から沢渡に向かう途上、暮坂峠で「枯野の旅」という詩を詠んでいる。1922年10月20日というから晩秋、紅葉が残っていたようである。
<写真:若山牧水>

乾きたる/落葉の中に栗の實を
濕りたる/ 朽葉(くちば)がしたに橡(とち)の實を
とりどりに/拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ

長かりし/けふの山路/ 樂しかりし/
けふの山路/ 殘りたる
紅葉は/照りて餌に餓うる鷹もぞ啼きし

上野(かみつけ)の草津の湯より
澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路/名も寂し暮坂峠


花敷温泉の宿を早朝に発った牧水は、沢渡の正栄館に正午近くに到着し、昼食をとっている。わずかな滞留で、この詩のほかに53首の短歌と沢渡の湯を褒める文章をみなかみ紀行の中に残している。

牧水が沢渡を訪れた4年後の9月、JR吾妻線の前身、草津鉄道が開通する。東京から草津温泉へのアクセスが格段に向上することになったが、この鉄道開通によって人の流れが変わった。以降、沢渡を訪れる湯治客は少しずつ減り始めるのである。

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<写真:右手に見えるのが龍鳴館>
終戦間際の1945年4月16日には、近くの山小屋の火事が山林に飛び火し、温泉街が壊滅するほどの火災に遭う。現在も沢渡に宿を構える龍鳴館の主人、都筑重雄氏の言によれば、「戦後、ここに入った時は焼夷弾が落ちたような光景だった」と言う。しばらくは荒れるがままになっていたのだろう。

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<写真:沢渡に唯一残る共同浴場>
沢渡は1959年に復興したが、往時に50軒を数えた湯宿は、いまは12軒。5軒あった共同浴場も1軒のみとなっている。
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by iyasaca | 2011-08-20 22:29 | 群馬 | Comments(0)

四万温泉 積善館にいってみた その2

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当初木造二階建て板葺であった本館は、一階に帳場、家族用住居スペースがあり、二階は湯治客用として使用していたらしい。現在見られる3階部分は後の時代に増築されている。増築の時期ははっきりしないが、関家に残る寛永年間の記録では、すでに本館は3階建てとなっていることから、二階建てから三階建てへの増築はこの文書が書かれた以前、つまり寛政12(1800)年より前のことであると推測ができる。ちなみにこの本館の玄関部分は、平成8(1996)年3月29日に県指定重要文化財に指定されている。

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その隣に昭和5年に建築された積善館前新と呼ばれる鉄筋コンクリート造・木造三階建て、鉄板葺きの棟が建っている。大塚栄建築設計事務所の手による前新の1階には、大正ロマネスク様式に特徴的なアーチ型の窓があつらえられた「元禄の湯」がある。

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<写真:元禄の湯>
元禄の湯には、男女ともに5つの湯船と2つの蒸し風呂がある。飲泉所も元禄の湯前に設置されている。湯船には一つずつ源泉が注ぎ出す蛇口がある。蛇口のあたりは湯の花にしっとりと覆われている。
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<写真:岩風呂、どれが利根川の青石かは不明のまま>
同じく1階には、利根川の青石が壁に埋め込まれているという岩風呂もある。こちらは混浴であるが、20:30から21:30までの1時間だけは女性専用となっている。この岩風呂も、平成9(1997)年6月12日(原簿記載年月日、官報に告示されたのは6月24日)には国登録有形文化財に指定されている。

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宿の名前を「積善館」としたのは、だいぶ時代が下り明治になってからである。第15代当主関善兵衛が易経の中に「積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり」の一節を見つけたことが直接の契機だったようである。関善兵衛は、一族の屋号「せきぜん」と通ずるところを見いだしたのか、湯宿を「積善館」と名付けた。本館玄関に掲げられている積善館の看板は第15代関善兵衛の筆によるものである。ちなみに本館前の柱はすり減って、外側に反っている。これは当時この柱に馬をつないでいたからであるそうだ。

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<写真:松林の背後に建っている。中腹に建っている白っぽい建物が山荘、その奥に建っているやや高い建物が佳松亭>
本館の背後には、昭和11(1936)年建築の山荘がある。建築面積490平方メートル、木造二階建て、和室12室からなる山荘は、「国土の歴史的景観に寄与している」とされ、前新とともに国登録有形文化財および、群馬県近代化遺産に指定されている。建物の平面は突出した中央部を中心に左右対称の入母屋の屋根をつける変化に富んだ構成で、凝りに凝った桃山様式の床の間や書院などは、多くの文人、歌人に愛された。現在の積善館の3階部分にあたるところに山荘の湯があり、4階部分に鏡の廊下がある。
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館内には至るところに色紙や書が掛けられている。その中には、東条英機や片山哲や中曽根康弘など総理にまで上り詰めた人物の手によるものもある。

さらにその背後には、昭和61(1986)年に佳松亭が建てられている。佳松亭は5階から8階を構成している。社の湯、露天風呂は5階部分にある。本館、山荘、佳松邸の浴槽に注ぐ源泉は、積善館の前にかかる紅の橋の上流約100メートルの新湯川の河床から湧出している。摂氏78度の源泉の湧出量は毎分900リットル。この豊富な湧出量によって、元禄の湯は40分でお湯が完全に入れ替わるのだという。この高温の源泉は、川底に引かれたパイプを通した温度を下げた源泉と混ぜられ、適温に調整されてから浴槽に供給される。

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<写真:廊下橋。一般客は渡ることはできない>
ちなみに積善館に国登録有形文化財がもう一つある。前新と新湯川を挟んで反対側に建つ向新をつなぐ、長さ12.6メートル、幅15.5メートルの木造・鉄板葺きの廊下橋である。トラス状に組んだ支柱に切妻の屋根を置き、腰板を貼ったこの廊下橋が登録されたのは、平成9年7月15日(官報告示は7月30日)のことである。ガラス窓は後にはめ込まれたモダンな作りである。

冬は底冷えがするが、やはり積善館に泊まるなら本館を予約するのがいいであろう。

<リンク>
四万温泉 群馬県 旅館 積善館 【公式HP】
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by iyasaca | 2010-03-07 16:46 | 群馬 | Comments(0)

四万温泉 積善館にいってみた その1

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四万温泉街でひときわ強い存在感を放っているのは、元禄年間の姿を今に伝える積善館である。

代々四万村の名主を務める関家の当主善兵衛が、この土地に湯場と2階建ての湯屋を建てたのは元禄4(1691)年のことである。元禄7年に代官竹村惣左衛門宛に湯屋敷御年貢を納めていることが関家の記録に残されていることから、湯屋建築の3年後には旅籠宿として開業していることが確認できる。かつては元禄7年の棟札(寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札)も存在していたらしいが、現在は失われた。残された系図によると関家の本家については、以下の通り記録されている。

「関家の本家は、中之条町大字上澤渡字大岩にあり、残されている系図によると、遠祖は『大職冠・藤原鎌足公で、藤原姓・佐藤末葉』という。寿永元(1182)年佐藤肥後守清忠は、源頼朝から山口県下関の内160を領し『関』の姓を賜わる。鎌倉幕府滅亡後、関肥後守憲清が「吾妻郡澤渡の郷大岩」に移り、その長子・関堪解由左衛門の三男・関織部介行利が四万に分家、四万湖畔の殿貝戸の「せきぜん屋敷」に居住し『善兵衛』を名乗る。これが四万:関家の創祖であり、当主は、代々四万村の名主を勤め「積善兵衛」を襲名.元禄4(1691)年隠居して現在地に湯場を作り、旅籠宿を始めた」

とある。300年以上前の話である。
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by iyasaca | 2010-01-02 23:55 | 群馬 | Comments(0)

四万温泉にいってみた その2

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四万温泉は、43ヶ所の源泉が、41の宿と5ヶ所の共同浴場に湯を供給している。この源泉のうち40カ所が自然湧出で、残りの3箇所も堀削深度は100m~300mと浅い。湧出量はすべて合わせると毎分3,500リットル、平均PHは7.7。成分はカルシウム・ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉である。

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<写真:塩之湯飲泉所。町のあちこちに飲泉所がある>
湯は、熱いまま飲むと下痢症に、冷やして飲むと便秘症に効果があると言われており、口に含むと焦げたような匂いと粉っぽさが混じったいわゆる「石膏味」がする。飲泉所は3ヶ所ある。

大規模開発を免れた四万は往年の湯治場の雰囲気がよく残っており、多くの歌人・文人は、その町並みと高い泉質を愛した。昭和29年には青森県の酸ヶ湯、栃木県の日光湯元温泉とともに、日本最初の国民保養温泉地に指定されている。
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by iyasaca | 2009-12-26 22:46 | 群馬 | Comments(0)

四万温泉にいってみた

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<写真:四万温泉落合通り。昭和の匂いがする>
四万の病に効能を持つ四万(しま)温泉。草津、伊香保とともに「上州三名湯」に並び称せられ、また峨々温泉(宮城)、湯平温泉(大分)とともに「日本三大胃腸病の名湯」として世に広く知られている。呼称は時代によって、『四万村湯』、『四万の湯』、『四万村温泉』と変遷を続けてきた。
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<写真:御夢想之湯の外観>現在の四万温泉は、日向見(ひなたみ)、ゆずり葉、新湯(あらゆ)、山口、温泉口の5つの地区からなる。一番奥にある日向見が最も歴史があるとされている。日向見には、永延3(989)年源頼光の家臣・日向守碓氷(井)貞光がこの地に立ち寄った際、夢枕に立った童子に「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」との神託を受け、目覚めた早朝に発見したと伝えられている小さな湯処がある。共同浴場『御夢想之湯』として知られるその湯処は、2,3人も入れば一杯になってしまうくらいの大きさである。

永禄6(1563)年、四万温泉に最初の湯宿を開いたのは、田村甚五郎清正であると伝えられている。田村甚五郎清正は、武田(信玄)方、真田幸隆の猛攻を受け、居城岩櫃城を奪われた斉藤憲広が越後へ逃れるにあたり、四万山中で殿(しんがり)の一翼を務めた武将である。田村は追っ手を防ぎ、首尾良くその任を果たしたが、なぜか報賞を求めることなく、そのまま四万山中にとどまり、帰農して湯宿を開いたのだという。四万温泉が誇る高級旅館「四万たむら」は、田村甚五郎清正から3代目の彦左衛門が分家して開業した宿である。

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四万に魅入られた戦国武将はほかにもいる。上杉憲政である。上杉憲政は16世紀半ばには、北条氏康に居城平井城を奪われ、家督と関東管領職を上杉謙信に禅譲した戦国武将である。憲政は平素から四万を愛し、その利用の記録が残っているが、謙信が没した翌1579年、家督相続をめぐる一連の騒動のなか殺される。しかし上野国から越後へ逃れる、いわば生きるか死ぬかの逃亡劇のさなかにもわざわざ四万温泉に立ち寄っている。

上杉氏と北条氏との争いの舞台になることが多かった四万は、その後荒廃が進んだ。その温泉宿の再興に力を尽くしたのは、真田一族であった。真田昌幸・信之父子は、四万温泉周辺の道路や橋梁の修復・整備に尽力し、また宿と湯守も配置した。幕末から明治にかけては火災や榛名山の噴火などの天災にさらされ、寂れてしまったようだが、昭和29年の国民保養温泉の指定を受け、再興を果たし、現在に至る。
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by iyasaca | 2009-12-19 22:37 | 群馬 | Comments(0)

法師温泉長寿館にいってみた その2

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法師温泉の歴史はある郷土史家によると1,200年前にまで遡るという。川底から湧出する源泉を温泉として利用するにあたり、周囲を板と石垣で囲っていた。板と石垣が張り巡らされたことで、法師川は石垣を迂回する形となり、源泉あたりは河水に洗われることがなくなったため、かつて川底であった大浴場に敷き詰められている玉石は、現在の法師川の川底より8センチほど高くなってしまった。河水が川底を毎年1ミリ弱ほど削っているという計算から、川の迂回が始まった、つまり源泉を温泉として利用し始めてから1,000年から1,200年たつと算出しているという。
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入り口の大きな看板のすぐ後ろに駐車場が広がっており、本館に向かってはなだらかな坂が続いている。
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凍結した路面をおそるおそる歩いてようやく本館にたどり着く。明治初期の建造とされるこの2階建ての木造家屋はなるほど趣きがある。玄関の上部の屋根は切妻造、軒はせがい造となっている。古色蒼然とした木造建築の傍に立つ赤いポストが、降り積もる雪と古びた木材が放つ鄙びた風景に彩りを添えている。

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館内に一歩入ると、神棚やだるま、大きな木の切り株、テレビ、掛け軸、ポスターなどがいちどきに目に入る。
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入り口左手には囲炉裏に吊るしてある茶釜に火が入っている。水が良いためか、ここで入れてもらったお茶は軟らかな味がする。何よりも、ぱちぱちと薪が弾けるように燃える音を聞きながら飲むお茶は、冷える体に心地よい。
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<写真:法師温泉HPより>
何といっても法師温泉の目玉は長寿館大浴場である。法師温泉へは、ここに入るために来たようなものである。天井が高く、開放感のあるこの湯殿の設計に尽力したのは英国人の鉄道技師であるそうだ。法師温泉常務の岡村国男氏によれば、その英国人技師は、明治の中頃、東京から新潟まで鉄道を引きたいと考えていた当時の宿の主人がたまたま招いていたのだという。(JR東日本、トランヴェール,2010年2月号29ページより)脱衣場は近年までなく、脱いだ服は浴場の壁沿いに設置してある棚に置くのが作法であったが、2000年に男女別の脱衣場が新たに設けられている。上にあるのは法師温泉のHPにある写真であるが、ほかにも良く撮れている写真はネットに転がっているので、百度(baidu)ででも探してもらいたい。

温泉に敷き詰めらている玉石の真下に源泉があるため、小石の間からあちこちで自然湧出している。ここの源泉からは、毎分155.5リットル湧出しており、2時間で湯船のお湯が入れ替わるという。湧出する源泉の温度は42.7度というから、温泉にちょうどいい。珍しい源泉掛け流しの温泉であるため、湯船の場所によっては湯温が低い。しかし、それがゆえにかなり長湯ができるのである。浴槽のへりにある丸太を枕に過ごすひとときは至福の時間である。

混浴で、タオル持ち込みもできないので、女性客にとっては入りづらいのかもしれないが、それでもここの湯に浸かる価値はある。私が入ったときも男性客はみな、気を使ってか脱衣所に背を向けて入浴していた。本当はそのような配慮もないくらい自然にするのが理想だろうが。ただ20時から22時は女性専用時間であるとのことである。
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法師温泉には大浴場とは別に、総ヒノキ風呂の玉城乃湯(たまきのゆ)と写真はないが、婦人専用の「長寿乃湯」がある。この内風呂も素晴らしいのだが、大浴場の素晴らしさを知ってしまうと感動も色褪せてしまう。それだけ大浴場は雰囲気があるのである。
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秘湯の名の通り、アクセスは簡単ではない。バスは一日4便だけである。

法師の湯は多くの文人にも愛されてきた。与謝野鉄幹、与謝野晶子、直木三十五、川端康成、内村直也、中西悟堂などが法師を訪れ、歌を詠んでいる。

草まくら 手枕に似じ 借らざらん
山のいでゆの 丸太のまくら  与謝野晶子

春さむの越後山路を越へくれば
    猪の伏す如く 法師湯の伏す  直木三十五

山祈る太古の民の寂心
  今日新にす 法師湯にして  川端康成

妻の背を洗す夫あり 法師の湯  内村直也

仏法僧いまだ鳴きつつ 曇り日の
谷の真洞の空明けむとす  中西悟堂

最近では、FUJI ROCK FESTIVAL参加の某大物アーティストも定宿としているそうである。

<追記>
このエントリーの最後に書いた某大物アーティストは、忌野清志郎さんのことでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。(2009/05/09)
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by iyasaca | 2008-07-12 20:09 | 群馬 | Comments(0)

法師温泉長寿館にいってみた その1

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山間の一軒宿、法師温泉長寿館にいってみた。国道を途中から離れて、狭い山道をしばし走ると、その先に「秘湯 法師 長寿館」と大書された看板が現れる。「法師」の名の由来は、弘法大師巡錫の折に発見されたところにある。
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温泉宿となっている7つの建物のうち3棟は、有形登録文化財に指定されている。法師川をまたいで、東岸に明治初期に建造された木造2階建ての本館が、西岸には昭和15年に建てられた別館が並んでいる。そしてもう一棟は、明治28年に建てられた法師温泉長寿館大浴場、「法師の湯」である。
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この大浴場は、上の世代にとっては、この宿の大浴場は上原謙と高峰三枝子が出演した国鉄のフルムーン・ポスターの撮影場所として知られている。そのポスターは、本館内に今でも貼られている。
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部屋は簡素だが、掛け軸や欄間などに趣向が凝らされている。部屋は十分な広さがあり、快適である。
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ガラスは二重になっているので防寒も万全である。外の雪景色もまた美しい。
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長寿館は誰もが絶賛する温泉と対照的に、食事に苦言を呈する向きもあるようだが、供された食事は質も量も十分であった。

<リンク>
法師温泉長寿館公式ページ: インターネット予約も可能。Twitterもやっています。
〒379-1401 群馬県利根郡みなかみ町永井650
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by iyasaca | 2008-07-05 12:19 | 群馬 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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