勝手に僻地散歩



カテゴリ:北海道( 10 )


阿寒湖アイヌコタンにいってみた

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北海道・道東への旅はここ阿寒湖で終わる。

阿寒湖の畔にあるアイヌコタンには、30あまりの土産物屋、ショーと化したアイヌの儀式の案内ポスターが並ぶ。

アイヌの人口は減少の一途を辿っている。アイヌの文化はカルチャースクールでの科目となり、アイヌ語は言語学的には「消滅に近い言語」となっている。しかし、アイヌはおとなしく衰微してきたわけではない。ここに至るまでには、アイヌの抵抗の歴史があった。

抵抗はときに暴力的になることもあった。実際、アイヌによる武装蜂起は、かなり頻繁に起こっている。しかしその記録は、すべて松前藩によるもので、文字を持たなかったアイヌ側には存在しない。そして残っている記録も決して情報量が多いとは言えない。

その記録の一つが松前藩が1646年(一説には1643年)に江戸幕府に提出した系図に松前藩の歴史を補足して編纂した「新羅之記録」(しんらのきろく)である。新羅とは、近江国の新羅明神で元服した源義光(新羅三郎義光)のことである。なぜ松前藩が新羅なのかというところに新羅之記録を読み解く鍵がある。


1646年といえば徳川三代将軍家光が、いわゆる武断政治の総仕上げに向け、幕藩体制の強化を精力的に進めていた時代であり、江戸幕府の権勢が北の辺境蝦夷地でも強制力を持って受け入れられるようになった頃である。

統制が緩かった時勢においては、松前藩主公広は、「松前は日本ではない」とキリシタン禁制の幕府の方針を半ば無視する形で、寛容政策を採ることができた。その寛容政策は、外国人による最古の蝦夷地の報告書という形でその果実を残した。1619年に松前に渡ったイエズス会神父ジェロニモ・デ・アンジェリスが、布教の傍ら、ポルトガル語で書き連ねたその報告書は、現在ローマのイエズス会本部に保管されている。

しかし、1637年に発生した島原の乱の翌年に松前公広は、江戸でキリシタン取締りを厳命され、方針転換を強いられている。さらに松前氏に対するアイヌとの両属性を指摘する声を排すため、蠣崎・松前氏の氏素性が和人の側にあるという歴史を「創造」する必要があった。そこで持ち出されたのが、新羅であったのである。

蠣崎季繁の婿養子となり後に松前藩の藩祖となる武田信廣は、若狭の守護職武田信賢(のぶかた)の子とされている。武田氏は、新羅三郎の流れを組む一族で、清和源氏の嫡流である。つまり、「新羅之記録」は、蠣崎・松前氏は源氏の流れを組む一族で、アイヌとは関係がないという歴史を提示することを目的としていたわけである。ちなみに、若狭武田家の系図である「若狭武田系譜」に武田信廣の名はない。

しかし実際の当時の状況は新羅之記録が描写する世界とは若干異なっていたのではないだろうか。現代的な意味での「民族」という概念そのものが存在しなかったこの時代に、和人対アイヌという民族を機軸とする対立構造が成立していたのかどうか。おそらく、民族間の対立というよりも、「川の向こうに敵対する部族がいる」という程度であり、それが和人だろうとアイヌだろうとあまり気にはしなかったのではないか。和人がアイヌの一部族と同盟を組み、他のアイヌと戦うということもあっただろうし、また勢力争いをめぐる合従連衡の結果、和人とアイヌとが混淆していった部族もあったのではないか。蠣崎・松前氏もそのように混淆した部族の一つであったのかもしれない。以上は推測である。

以上を踏まえたうえでアイヌによる最大規模の武装蜂起コシャマインの戦いについて、「新羅之記録」に基づいて振り返ってみる。

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新羅之記録の編纂を遡ること200年、コシャマインの戦いは、1456年(康正二年)に志濃里(シノリ)の村で起きた和人の営む鍛冶屋の主人とアイヌの少年との言い争いを発端とする。アイヌの少年の名は残っていない。劘刀(マキリ)を注文したアイヌの少年は、値段に不釣合いに悪いその出来上がりに抗議する。

時折しも大陸の明朝の衰退期にあたる。1435年には明の宣徳帝が世を去り、その勢力圏は縮小しており、この時期にアムール川流域は、明朝の版図から外れていた。かつて鉄製品の入手先であった明が消え去り、鉄製品は和人が独占してしまったであろうことから、相場が高騰していたのかもしれない。

さて、鍛冶屋の主人は少年の抗議に激高し、少年をマキリで突き殺してしまう。この事件をきっかけとして、東部アイヌの首領コシャマインが一帯のアイヌとともに蜂起する。その数は九千とも一万とも言われる。

ちなみにコシャマイン(Kosamaynu)の(ア)インは、「アイヌ」という言葉から来ており、アイヌ男性の名を正式に呼ぶ際の尊称である。17世紀に起きる武力蜂起のアイヌ側首魁のシャクシャインの(ア)インも同様である。

戦端が開かれたのは長禄元年(1457年)5月14日。コシャマイン率いる軍勢は、道南十二館の一つ志濃里館へ向かった。わずか300ほどの兵力しか持たなかった志濃里館は、ほどなく1万近いコシャマインの軍門に下る。勢いづいたコシャマインは、次いで函館も陥し、さらに西をうかがった。わずか数日間の戦闘で道南十二館のうち花沢館、茂別館を除く10館が攻略された。(道南十二館の配置は、蠣崎幕府 を参照)

コシャマインは残る二館の攻略を急いだ。そして花沢館、茂別館の同時攻略の道を選ぶ。コシャマインは副将格のタケナシに2,000の軍勢を与え、花沢館の攻略に当らせ、自らは3,000余りの軍勢を率いて茂別館攻略へ発った。残りは大館はじめ奪取した館の警備に当らせた。


戦線の崩壊は花沢館攻略に向かったタケナシの側から始まった。花沢館の館主は蠣崎季繁。その配下には27歳の武田信廣がいた。花沢館を守る軍勢は、附子矢(ぶしや、トリカブトの毒を塗った矢)による攻撃を耐え、膠着状態になった機会を捉えて、タケナシの軍が潜む森を焼き討ちし、森から逃げてきたタケナシの手勢を待ち伏せし全滅させた。

この花沢館をめぐる戦いの帰趨が潮目となった。武田信廣は、タケナシの軍勢を全滅させた後、1,500名の軍勢を引き連れて花沢館を出ると、コシャマイン軍が占拠を続けていた原口館、比石館、禰保田館には目もくれず、敵の中枢である大館へ直行し、陥落させた。

6月18日の段階では、奪われた10館のうち8館までが武田側に渡り、コシャマイン側は函館と志濃里館をかろうじて保持しているという状態であった。形勢逆転の報告を受けたコシャマインの本隊はすでに茂別館の攻略をあきらめ、函館へ拠点を移していた。

武田信廣はコシャマインが本拠を構える函館攻略にとりかかる。籠城戦による兵力の消耗を嫌った武田信廣は、何とかコシャマイン軍を館から引き出し、野戦にて勝負を決しようと試みる。戦略的決定であったのか、麾下の軍勢を掌握し切れず、士気の下がった一部兵士の突発的行動によるものであったのかは不明であるが、コシャマインの軍勢はその誘いに乗って館の外での戦いを選択する。そして函館から北5キロ七重浜近くの森にまで展開したところで、コシャマインは待ち伏せしていた武田信廣の五人張の強弓によって左胸を射抜かれる。6月20日のことと伝えられている。

コシャマインを失ったアイヌ側軍勢は、この日を契機に崩壊する。一方、武田信廣はこの軍功を認められ、蠣崎季繁の娘婿として迎え入れられる。後に家督をも譲り受け、松前藩の藩祖となるのである。

コシャマインの戦いは短期間のうちに終息したが、アイヌによる戦いは17世紀のシャクシャイン、18世紀のクナシリ・メナシの戦いなど代表的な事例のほかにも断続的に続く。

明治維新後も、同化政策が進められ、アイヌの立場は十分に保障されてこなかった。1899年に制定された北海道旧土人法が廃止されるまでほぼ一世紀を要したことに典型的なように、アイヌの苦難の歴史は続いている。その苦難の歩みの現在形が、まさに観光地と化したこのアイヌコタンではなかろうか。

それにしても、釧路を起点に反時計回りに道東をめぐる旅はこれにて終了。アイヌの歴史の一端に触れることができただけでもこのたびの目的は果たせた。

<参考>
アイヌ政策推進会議: アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の答申を受け、立ち上げられた政府の会議
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by iyasaca | 2006-12-16 00:15 | 北海道 | Comments(0)

網走にいってみた

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なだらかな丘陵地の間を縫うように流れる網走川。その河口に広がるのが網走市である。

オホーツク海を望むこの一帯は、流氷だけでなく、さまざまな文化の玄関口であった。古くから続縄文文化、擦文文化とは異質の海獣狩猟や魚撈を生業とするオホーツク人が移り住み、その痕跡を残している。

オホーツク人が担い手となったオホーツク文化は、擦文文化と混淆しつつ5世紀から13世紀にかけて最盛期を迎えるが、その後突如として歴史の舞台から消える。そのオホーツク文化の代表的遺跡であるモヨロ遺跡が網走に残っている。

網走地域は旧石器時代からの遺跡が多く分布し、往時の繁栄をうかがい知ることができる。一帯は「オホーツク沿岸の古代遺跡群」として北海道遺産にも登録されている。


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その網走が大きな転機を迎えるのは1890年(明治23年)である。明治政府がこの地に大規模な刑務所の建設を決めたのである。翌1891年には1,500名を収容できる刑務所「釧路監獄署 網走囚徒外役所」が完成する。後の網走刑務所である。

網走に集められた囚人は、1,392人。全てが刑期12年以上の政治犯、凶悪犯であった。この囚人らが、160キロにも及ぶ現在の網走市―上川町間の道路(北見道路)の建設に昼夜兼行で従事した。あまりの重労働と劣悪な環境による栄養失調、怪我などで8ヶ月間で200人以上の死者を出した。囚人道路と呼ばれた北見道路の脇には、死者が埋葬された鎖塚が今も残る。
鎖塚とは、工事に従事し、命を落とした囚人が埋葬される際に目印として鎖を置いたということに由来する。

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天都山にある博物館網走監獄には、この当時の木造建築が保存公開されている。建物の梁や柱には、囚人が力を揮った荒々しい削り跡を見ることができる。

写真は有形登録文化財にも指定されている五翼放射状平屋舎房の内部である。1909年(明治42年)の大火事の3年後に建てられたもので、1984年(昭和59年)まで実際に使われていた。名前の通り、中央の見張り場から5つの方向に放射状に舎房が建てられている。雑居房の格子は房の外から中は見えるが中から向かい側が見えないというブラインド方式が採用されている。


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五翼放射状平屋舎房の外観。戦前には、治安維持法違反で収監された日本共産党の幹部である徳田球一、宮本顕治などもここに服役していた。
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現在の網走刑務所に向かう。刑務所の前には網走川が流れる。これは錦橋から見る網走川。かつてこの橋は木造で、受刑者はすべて、入所の際この橋を渡っていった。現在の錦橋はもちろんコンクリート製だが、復元された木造の錦橋が博物館網走監獄に展示されている。それにしても、やはり川のある町は美しい。
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これが、現在の網走刑務所。この赤レンガの塀は、1984年の大規模な改装工事を免れた唯一の建造物。この赤レンガは、刑務所内で掘り出した粘土を使用し、所内の工場で焼き上げたものである。使用された赤レンガの数は150万枚にものぼる。

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網走刑務所正門。赤煉瓦門とも呼ばれている。現在はここは出入り口として使われていないらしい。門の両脇にはドーム状の屋根を持つ小部屋がある。一つは看守の詰め所として、もう一つは面会に来た家族の待合室として利用された。

現在の網走刑務所は、重罪人の溜まり場というかつてのイメージとは異なり、比較的軽い刑の服役囚が収監されている。

<網走関係リンク>
北海道遺産:次世代に遺したい北海道の遺産として登録されている52件の文化、場所が紹介されている。
オホーツクファンタジア:19の北海道網走支庁市町村の総合情報サイト。網羅的にオホーツクに関する基礎情報をカバーしており、効率的な情報収集が可能。
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by iyasaca | 2006-12-09 00:29 | 北海道 | Comments(0)

知床にいってみた その2

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<写真:1904 photograph, taken from the book "Ainu: Spirit of a Northern People " ISBN: 0967342902. Author unknown. Public domain.>

アイヌは文字を持たなかったため、アイヌ文化期の知床の様子は、和人による記録に依拠するしかない。もちろん、ユカラなどの口承文学や言語、考古学的方法、また接触のあった他民族に残る記録(考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学)などを通じて歴史をさかのぼることも可能ではあるが、限界がある。これがアイヌに対する理解を難しくしている原因の一つである。数少ない残されている記録の中でも質量ともに充実しているのは、松浦武四郎の一連の著作である。

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松浦武四郎は、幕府に蝦夷地の調査を命じられ、1845年、1846年(樺太)1849年(千島)、1857年(崇谷―樺太)、1858年(石狩)、1859年(シリベツ、クスリ)の計6回にわたり蝦夷地に調査に入り、「東西蝦夷地山川地理取調図」、「戊午蝦夷地山川地理取調図」、「唐太日誌」「北蝦夷余誌」「石狩日誌」「天塩日誌」「夕張日誌」「納沙布日誌」「十勝日誌」「久摺日誌」「知床日誌」「東西蝦夷日誌」など貴重な資料を残している。アイヌの地名をびっしりと書き記した地図やアイヌの風俗を伝える色彩鮮やかな挿絵などは、デジタル・ライブラリーなどで鑑賞することができる。リンクはエントリーの一番下に。
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知床半島の地図にびっしり記載されているアイヌ語地名は、祭事を執り行う祭壇(ヌサウシ:nusa-ushi)、ニオモイ(流木が集まる入り江:ni-o-moy)、フンポオマモイ(鯨の入る入り江:humpe-oma-moy)など。知床がアイヌの生活圏であったことが見て取れる。残念ながら、松浦が残した地名のほとんどは、アイヌの衰退とともに失われ、現在は使われていない。(この知床の地図へのリンクも、エントリーの一番に下に)

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ちなみに松浦は「北海道」という地名の名づけの親とも言われている。音威子府での調査の際に、「アイヌは自分の国のことをカイと呼ぶ」と教えられた。 それを受けて、松浦は蝦夷地を「北のアイヌの人たちの国」すなわち、「北カイ(加伊)道」と呼ぶように提案した。しかし、明治政府は1869年9月に「北加伊道」を「北海道」として命名した。不本意であったのか、その後松浦は政府の仕事を辞している。

なお、「アイヌ」という言葉も「人間」を意味する。多くの少数民族がそうであるように(例えば前のエントリーで取り上げたナガ族の「ナガ」も人間という意味)、彼らが日常対峙していたのが自然であって、人間ではなかったことを意味する。しかし、アイヌの場合、単なる人間でなく、尊崇を集める人格を有した人間というニュアンスが含まれている。

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<おまけ>
熊がいた。

<知床関係オススメリンク>
北海道デジタル図鑑:知床のみならず、北海道について幅広く紹介している。何よりもデザインがかっこよくて、見やすい。
知床日誌(奈良女子大学付属図書館内の画像原文データベース):原典がデジタル化されており、かつテキストデータも参照できる。カラーつきの挿絵はここで見ることができる。
松浦武四郎が見た北海道の姿(北海道庁HP):松浦武四郎が著した「東西蝦夷山川地理取調図」にある北海道の地図。びっしりとアイヌ語地名が書き込んである。圧巻。

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by iyasaca | 2006-12-04 20:52 | 北海道 | Comments(1)

知床にいってみた その1

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シリエトク(sir-etok)。大地の突端との意である。東方上位の思想を持つアイヌにとって、また樺太などさらに北方の島々や極東ロシアまで交易圏がひろがっていたことを考えると、シリエトクという言葉には、巷間言われる「最果ての地」、「地の果て」というよりも、玄関口という語感がこもっていたのだろう。

知床半島は、860万年前の海底火山の噴火に始まる一連の火山活動によって形成された。このときに噴出した溶岩が長い年月のうちに侵食され、奇岩が連なる半島へと変貌を遂げた。現在の姿が形作られたのは、50万年前の火山活動によるものである。

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一帯は千島火山帯に属しており、半島中央を貫く知床連山は、羅臼岳、硫黄山という二つの活火山を抱えている。羅臼岳は2300年前、1500年前、700年前とほぼ700年周期で噴火を繰り返している。また硫黄山には安政年間(1858-1860)に4回の噴火の記録が残っている。この硫黄山が高純度の融解硫黄を噴出したことで、安政年間に会津藩が盛んに採掘作業を行った。硫黄は火薬の材料となる。


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この知床半島は、先端部に至る道路もなく、また多様な生態系(確認されているだけで鳥類270種、哺乳類63種、魚類265種)が評価され、近年世界自然遺産に登録されたことから未踏の地とのイメージがあるが、実際には約3万年前の先土器時代から人が住んでいた。知床岬には、縄文時代、続縄文時代、オホーツク文化期の大集落の遺構が残っている。


f0008679_1495166.jpgさて、続縄文時代やオホーツク文化時代など耳慣れない時代区分について、少し補足したい。もともと日本に渡ってきたモンゴロイドには南方系と北方系の二つのタイプがある。大雑把な分類としては、目が丸く二重瞼なのが南方系で、目が細く切れ長なのが北方系である。

日本に最初に渡ってきたのは、南方系であった。南方系は縄文文化の担い手として、生活圏を少しずつ広げてきたが、弥生時代に入ると北方系の流入が始まった。稲作文化を携えて渡ってきた北方系が開墾地を広げるにしたがい、狩猟を生業としていた南方系は、生活圏を徐々に北へ移すようになった。日本列島という同じ場に生活をしながら、南方系モンゴロイドは、北方系と異なる歴史を歩むことになる。北方系は日本史で学ぶように、縄文時代から弥生、古墳、奈良・平安、鎌倉、室町、江戸時代を経て近現代へと区分されるが、南方系モンゴロイドは縄文時代の後には、続縄文時代、擦文・オホーツク文化、アイヌ文化から近現代と区分されている。

続縄文時代は、弥生期に入っても稲作文化に染まらず、縄文時代的な生活が営まれた時代。擦文時代は、縄文・弥生と同様に土器の文様から名づけられた時代で、引き続き狩猟と雑穀農耕を生業とし、また徐々に鉄器も普及した時代である。
オホーツク文化は、シベリアからアムール、樺太、北海道北東部にまで展開した北アジア文化圏に属するもので擦文とは起源が異なる。例えば、13世紀に始まるアイヌ文化にとって重要な祭祀として引き継がれた熊送り(イオマンテ)はオホーツク文化にあるもので、擦文文化には存在しない。


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専門性もなく、根拠もなく言うのだが、縄文時代は狩猟と魚撈を中心とし、小さな集団で移動を繰り返しながら竪穴式住居で生活をし、弥生時代はコメ作り+定住生活を営み、貧富の差が生じ、云々という時代区分には違和感を覚える。あまりに物事を単純化しているように感じるからだ。仮にそれだけ異なる文化を携えたグループが登場し、かつ今までの文化が消え去ってしまったというのであれば、そこには大規模な戦闘なりがあって、旧文化が殲滅させられたということ以外には考えられない。しかし、大規模な戦闘があった様子がなかったことを考えれば、もっとゆっくりと時代が遷移していったということだろう。また貧富の差、階級がなかった社会というが、そのようなことがありうるのか。少なくとも現存するいかなる人間社会(どれだけ原始的でも)には階層が存在する。

縄文時代にも水稲耕作をしていた部族はあったであろうし、竪穴式住居以上の建築物を構築する技術は持っていた(三内丸山遺跡)。その場合、縄文と弥生はあえて分ける必要があるのかどうか。分けなければならないほど大きな文化的断絶なり転換があるのであれば、それはそれでいい。しかし、いつまでも縄文・弥生という区分の枠組みの中で、発掘調査の結果、次々に明らかになる新事実を説明するのではなく、もう少し新しい時代区分で古代日本を捉えようという試みがあってもいいのではないか。
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by iyasaca | 2006-12-02 13:12 | 北海道 | Comments(0)

野付半島にいってみた

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<画像:NASA's Shuttle Radar Topography Mission (SRTM) at JPL-Caltechより>
根室海峡に顎を突き出したかのように広がる野付(のつけ)半島。この奇妙な地形にちなんで、アイヌ語で顎を意味するノッケウ(notkew)と名づけられたとされる。標津川が運んだ土砂を膨大な時間をかけて海流が押し集め、全長28キロにも及ぶこの砂嘴(さし)が形作られた。


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日本最大級の砂嘴である野付半島は、江戸の中頃に至るまでトドマツ、エゾマツ、ハンノキ、カシワ、ミズナラ、ダケカンバ、ナナカマド、エゾイタヤなど豊かな樹種に覆われた原生林であった。擦文時代にあたる1300年前には、100以上の竪穴式住居が集まる村落を養うことのできた豊饒の土地だったのである。時代を下って、江戸中期から末にかけては国後や千島諸島へ渡る要所として機能し、さらに通行屋には北方警備の任にあたる武士も駐在していた。




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さて、野付半島は江戸中期に始まった地盤沈下によって、原生林は海水に浸され、トドマツ、ミズナラなどの樹木は立ち枯れを起こし、一帯は今に見られるようなトドワラ、ナラワラからなる荒涼とした風景へと姿を変えた。
近年は護岸工事やダムの建設などで、流れ出る土砂の量が減少し、特に半島の根元部分の浸食が激しい。しかし釧路土現が2004年に野付半島を撮影した航空写真を仔細に研究したところ、1965年から2004年の間に半島の先端部が600メートルほど延びていることが判明した。釧路土現は半島の保護措置を講じている。その一つは96年から設置を始めた突堤である。その数は、すでに21基に及び、2012年までにさらに10基の設置を計画している。また毎年約3万立方メートルの砂を運び込む措置もとっている。600メートルの砂嘴の延びは、突堤の設置や砂の運び込みという地道な措置の成果である。
野付半島の内湾である野付湾は、尾岱沼(おたいとう)と呼ばれている。2-5メートルほどの深さだが、海草に覆われており、それがゆえにホッカイシマエビの宝庫となっている。ホッカイシマエビの棲家である海草を切断しないように、漁に使われている打瀬船(うたせぶね)は、帆以外の推進力を持たない。風を小船の三角帆に受け、魚網を引くという漁である。


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尾岱沼の反対側、野付半島の北には国後島がある。天候が悪かったので、うっすらとしか見えないが、ここは、国後に最も近い地点である。
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by iyasaca | 2006-11-25 18:07 | 北海道 | Comments(0)

神の子池にいってみた sanpo

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摩周湖の北東に広がる森を深く分け入ったところに、鮮やかな青色の水を湛えた池がある。神の子池である。あまりの青さに、有毒物質が入っているのかと思ったが、池の底にはイワナの一種であるオショロコマが優雅に泳ぎ回っている。ここだけはなぜか、アイヌ語の地名がない。

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神の子池は、近年まで摩周湖の伏流水が湧出したものと言われていたが、千葉大学の濱田浩美博士による水質分析の結果、摩周湖の水とは全く関係がないことが分かっている。摩周湖の漏水の大部分は虹別サケマス孵化場付近、美留和孵化場、仁多川に湧出している。

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水はあくまでも透明で、深さ5メートルの池の底まで見通せる。池の底に沈んでいる倒木の間に、水が静かに湧き上がっているのを確認することができる。倒木は腐ることがない。一日の湧出量は1万2,000トンとも言われる。水温は平均で8度であり、冬でも池は凍ることがない。


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不思議なことに池の水は、神の子池を離れると青が消える。腐ることのない倒木、淡い青色の水と無色となった流れ出る水など、まさに神のなせる業である。


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神の子池の水は、そのまま札弦川として流れ出る。
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水は再び悠久の旅へ。


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by iyasaca | 2006-11-18 15:52 | 北海道 | Comments(6)

摩周湖にいってみた

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ここは神の湖、摩周湖。
流れ込む川も流れ出す川もなく、また峻険な崖によって、外界と隔絶され、古くから、人間を寄せ付けなかった。

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東岸にはカムイヌプリ(摩周岳)が聳え、また深い藍色の湖面には、ぽつんとカムイシュが浮かんでいる。ちなみにこの小島は、高さ約240mの火山の頂上部で、湖面からの高さは30メートルほどである。


カムイシュにまつわる伝承が残っている。

むかしこのあたりのコタンは、ある有力な酋長によって支配されていた。しかし、周辺のコタンとの関係は悪く、戦闘が繰り返されていた。イヨマンテ(熊送りの祭り)の夜、酋長は敵対していたコタンに攻め込まれ、謀殺され、一族郎党は皆殺しに遭ってしまう。何とか生き残った酋長の母である老婆は、よちよち歩きの孫を抱いて山へ逃げこんだ。木の実を食べ、夜露で飢えをしのぎつつ、逃避行を続けるなかで、老婆は徐々に体力を奪われ、ついには抱いている孫を手放し、気を失ってしまう。冷たい雨に打たれ、意識が戻ったときにはすでに孫の姿はなかった。

老婆は、孫を必死の思いで探し続けるが、一向に見つからない。探し続けるうちに、やがて屈斜路湖までたどり着いた。ここで老婆は、屈斜路湖の神に一晩の休息を願い出るが、断られてしまう。やむなく、さらに山を分け入っていくと、そのうちに摩周湖にたどり着いた。老婆は、カムイヌプリに摩周湖での一夜の宿を願い出る。カムイヌプリは、寛大にもその願いを受け入れた。老婆は、ようやく休息をとることができたのである。深い眠りについた老婆は、悲しみと疲労のうちにそのまま島になった。これがカムイシュ(アイヌ語で「神となった老婆」の意)である。

今でも人が来ると、見失った自分の孫ではないかと思い老婆は、うれし涙を流す。それが雨や雪となり、ときには深い霧となる。

摩周湖の霧をめぐっては噂がある。
1)カップルで摩周湖を訪れ、霧で湖面が見えなければ関係が長もちする。
2)未婚者が霧のかからない摩周湖を見ると婚期が遅れる。
3)お金持ちが摩周湖を訪れると霧に閉ざされ、貧乏人が訪れると晴れる。

私が訪れたときは、ご覧の通り晴れ(曇り)であった。

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カムイヌプリは、その荒々しくも荘厳な姿から、神の山として、アイヌの畏怖の対象であった。

この神の山にも伝説がある。

その昔、荒くれ者であった藻琴山(トエトクシベ=湖の奥の山)をピンネヌプリ(男山)が懲らしめようと槍投げの試合を申し込んだ。ピンネヌプリの投じた槍は、まっすぐ藻琴山の胴に命中した。藻琴山は、血を吹きながらも槍をピンネヌプリに投げ返したが、狙いは僅かに外れ、槍はピンネヌプリの肩をかすって、その後ろのカムイヌプリ(摩周岳)に突き刺さった。怒ったカムイヌプリは、千島の国後まで飛び、チャチャヌプリ(爺爺岳)となった。

だから今でもカムイヌプリの頂上は半分しかないのである。


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摩周湖は高い透明度を誇ることで知られている。透明度は、直径30センチの円形の白い板を沈め、肉眼で確認できなくなるまでの深度を測るというアナログな指標である。1931年8月に計測された透明度41.6メートルは、バイカル湖で1911年6月に計測された40.5メートルをおさえ、「透明度世界一」と言われた。国立環境研究所の調査によると1960年代以降も透明度は20-30メートル台で推移しているが、2005年の計測では14メートルにまで落ち込んだ。2006年の調査では24メートルに回復したが、かつての水準には遠く及ばない。

透明度は、ごく僅かな不純物に大きく影響されるというから、近年の透明度低下の原因は一つだけではないだろう。排気ガスなどによる周辺の環境悪化、1920年代に数十万匹の規模で放流されたニジマス、ヒメマス、ウチダザリガニ、道東地方で増加するエゾシカの食害にともなう樹木の減少による湖への土砂の流入量の増加などが摩周湖の透明度に影響を与えているのであろう。



さて、カムイシュにまつわる伝承の中で触れたイヨマンテ(熊送りの儀式)は、1955年以来支庁長と市町村長に対する北海道知事名の通達にて「野蛮な行為」であるとして禁止されてきた。しかし北海道は、2007年4月2日付でイヨマンテの禁止通達を撤廃した。この通達撤廃を毎日新聞の2007年5月2日付記事が詳しく伝えているので引用する。

<アイヌ儀式>「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃 (毎日新聞)
 「アイヌ民族の伝統儀式「イヨマンテ」(クマ送り)を「野蛮な行為」として事実上禁じた1955年の北海道知事名の通達について、道は4月、52年ぶりに撤廃した。イヨマンテは、神とあがめるクマの魂を天上に送るための儀式で、撤廃により行政が初めてアイヌ文化の枢要をなす儀式を認めた形だ。北海道ウタリ協会の阿部一司副理事長は「(イヨマンテの禁止は和人とアイヌ民族との)同化政策の総仕上げの意味合いがあった。今後は力を入れて儀式を復活させていきたい」と話している。

 イヨマンテについて道は55年、支庁長と市町村長に対し、「アイヌ民族の宗教儀式として生活文化を形成する要素となっていることは是認されるが、社会通念上または教育上好ましくない」「野蛮な行為であり廃止されなければならない」とする通達を出した。通達に法的拘束力はないが、近年の開催は極めて少なくなっていた。道自然環境課は「どういう目的、経過で出されたのか今となっては分からない」と説明する。

 同協会は05年、道に対して通達撤回を求め、道は国に動物愛護管理法との兼ね合いで正式な見解を出すよう要請。環境省は昨年10月、同法に基づく基本指針で、動物を利用した祭式儀礼について「正当な理由をもって適切に行われる限り法律に抵触しない」と初めて示した。これを受け、道は今年3月、環境省に改めて照会し「イヨマンテは祭式儀礼に該当する」との回答を得たため、4月2日付で通達の廃止を通知した。

 阿部副理事長は「通達の廃止は評価するが、今後どれだけ徹底していくかが重要。多民族、多文化の共生と、アイヌ文化の復活につなげていきたい」と話している。
【横田愛】
  ◇  ◇  ◇
 イヨマンテ アイヌ民族は、クマを「人間の世界に姿を変えてやってきた神」と位置付けており、大切に育てたクマの魂を天に返すことで謝意を示し、再び人間の世界に恵みがもたらされることを願う儀式。古くは近隣の村から大勢を招いて執り行われ、生け捕りにして2年ほど飼い育てた子グマに矢を放ち、肉をふるまった。近年は胆振管内白老町、日高管内平取町、旭川市などで数年に1度行われている。」


以前見たテレビ番組でアイヌ人として初めて国会議員を務めた(1994年から1998年まで参議院議員)萱野茂氏が若き日を回想して、「本来一年に一回行うか行わないかのイヨマンテを、観光客用のショーとして、一日に何度も行うというのは堪えられなかったが、生計を立てるため選択肢がなかった。そのうち感覚が麻痺してきて、なんとも思わなくなった」という趣旨のことを語っていたのを思い出した。(発言は正確な引用ではない)イヨマンテの禁止撤廃が、観光客目当ての無用なショーと化した「イヨマンテ」を解禁することとならないことを祈る。
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by iyasaca | 2006-11-12 02:27 | 北海道 | Comments(1)

厚岸にいってみた

f0008679_1737106.jpgかつて、東蝦夷地のコタン(集落)として栄えた厚岸(アッケシ)にいる。松前藩が厚岸にアイヌとの交易の場を築いたのは、寛永年間というから350年ほど前の話である。江戸幕府は、この要衝に、東蝦夷地の防衛とアイヌの教化のため、国泰寺を建立した。

アイヌによる和人への抵抗は、1456年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、そして1789年のクナシリ・メナシの戦いが代表的な事例として取り上げられていることが多いが、小規模の蜂起はもっと頻繁に発生している。松前藩の記録によると、騒擾事件は数年おきに発生している。(年表は 「アイヌ民族博物館HP、アイヌ文化入門 特別メニュー歴史(佐々木利和氏)」より)
1456 康正蝦夷の蜂起
1457 東部首長(コシャマイン)蜂起
1469 蝦夷蜂起
1473 蝦夷蜂起
1512 蝦夷蜂起
1513 蠣崎光広、大館を攻む
1515 東部首長(ショヤ、コウジ兄弟)の蜂起


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1525 東西蝦夷の蜂起
1528 蝦夷の蜂起
1529 西部首長(タナサカシ)の蜂起、セタナ来寇
1531 蝦夷蜂起
1536 西部首長(タナサカシの女婿タリコナ)の蜂起
    <以後東西地とも平安となる>
1551 初めて東西の夷尹を定める。東地チコモタイヌ(知内)、西地ハシタイヌ(瀬田内)
1643 西部首長(セタナイのヘナウケ)の蜂起
1648 東部蝦夷間の抗争
1651 東部メナシクルとシコツクルとの抗争(1648と同事件か)
1653 東部メナシの蝦夷蜂起
1655 シャクシャインとオニビシの和解
1662 東部の蝦夷騒乱
1665 東部の蝦夷和解(下国安季の斡旋)



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1669 シャクシャインらの蜂起; 10月23日、シャクシャイン謀殺
1670 西部与伊知(よいち)の蝦夷を征す
1671 東部之良遠伊(しらをい)の蝦夷を征す
1672 東部久武奴伊(くんぬい)の蝦夷を征す
1758 ノシャップの蝦夷とソウヤの蝦夷の抗争
1770 十勝の蝦夷と沙流の蝦夷の抗争
1789 クナシリ、メナシの蝦夷の蜂起(最後の対和人闘争)

厚岸に建立された臨済宗南禅寺派の寺院がどれほどの効果をもたらしたのか定かではないが、アイヌによる長きに渡った抵抗運動の末、平定されたという歴史を見れば、幕府の15世紀以来の同化政策は(残念ながら)成功したと言えるのだろう。

さて、厚岸(アッケシ)の由来は、例のごとく諸説ある。
 1.アッニケウシ(アツシ草を剥ぐところ)
 2.厚岸沼を指すアッケシュトー(楡下の沼)
 3.アッケシシ(牡蠣の多いところ)



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どの説が有力なのか、よく分からないが、厚岸では牡蠣が現在も有名である。厚岸の牡蠣はブランド価値がある。厚岸産ということだけで、市場での平均単価が宮城産より5割から2倍高い値をつける。この厚岸産牡蠣は、都市圏の一流料亭へ「カキえもん」として出荷されているという。厚岸は水温が牡蠣の生育に最適であるようで、厚岸湖には大小60もの牡蠣島がある。

明治7年に小島利兵衛が乾カキ製造を始めた。明治13年には、北海道開拓使が缶詰工場を建設。明治15年に開拓使が廃止を受けて、帝国水産会社が工場を譲り受け、製造・輸出を行った。競争相手を交えての大量採取の時代の幕開けであった。明治20年の乾牡蠣の生産量は、1,680トン。遠く清にまで輸出されるほどの生産量であった。しかしながら、この乱獲が響き、1930年代には生産量が1.8トンまで減少、禁猟の措置がとられた。その後、養殖が本格化し、現在の厚岸産の牡蠣はほぼ100%宮城県からの稚貝を養殖したものである。

東京で食べれば、それこそ値段が何倍もするだろうと、駅前に店を見つけ、牡蠣を食すことに。そこまで素材がいいのなら、当然生食すべきであったのだが、愚かにもカキそばを注文。ブランド牡蠣をこのようにして食べた。ある意味贅沢か。


 
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by iyasaca | 2006-11-11 18:18 | 北海道 | Comments(0)

霧多布にいってみた

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釧路から東、海岸線沿いに進むと霧多布にたどり着く。北海道の地名はアイヌ語起源であることが多いが、霧多布もその一つ、「キイタップ」、平坦な土地、ヨシ・アシの多いところを意味する。霧多布はアイヌ語の音に漢字を当てただけであるが、朝方には霧がかかりやすいというこの周辺の地勢をうまく表すよい当て字である。
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海側は太平洋側に突き出すように岬を形成している。岬は切り立った崖になっており、激しい波が岩場を洗っている。また、この辺りは海鳥の繁殖地でもあり、巨大な岩には多くの海鳥が羽を休めている。写真では鮮明でないが、岩の上部に生えている草にところどころ見える白い点は、海鳥(カモメ?)である。

さて、北海道の地名の語源として頻出するアイヌである。

「日本は単一民族国家である」という主張に対して、ほぼ反射的に出てくるのが、「いや、そんなことはない。沖縄は琉球だし、北海道にはアイヌ民族がいるではないか。サッポロとかオシャマンベとか、変な名前の地名はアイヌ語起源だし。」というような、とりあえずの反論がある。しかし、「で、そのアイヌって何?」と突っ込まれると、実は何も知らないことに気づく。北海道各地に残るアイヌ語起源の「変な」地名を目にするごとに、列島の北端の地に広がる圧倒的な自然の美しさだけでなく、地名の背後に宿るアイヌという民族について、少し学ばなければいけないと感じた。



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アイヌの人口は、1931年には、15,000人台にまで減少したが、現在は73の市町村に23,000人を越えるところまで増加してきている。(「ウタリ生活実態調査」によると23,767人:1999年)。人口は増加傾向にあるが、アイヌ語は危機的状況にある。

アイヌ語はかつて北海道だけでなく、樺太の南半分、千島列島、東北地方北部など広い範囲で話されていた言葉であった。東北地方では、早々に話し手が姿を消し、地名や東北方言の一部、マタギ言葉などにその名残りを残すのみである。

例えば、岩手県の栃内(とちない)は、アイヌ語のトチナイで、「栃の実」の意。似田貝もニタッオカイで「谷地の沢山ある所」という語源を持つ。ちなみにラッコもトナカイもマタタビもすべてアイヌ語である。

さてアイヌ人は、千島列島からも1910年代に消え、樺太のアイヌ人もソ連領となった後、多くが北海道へと強制移住させられ、消滅した。

北海道でも、アイヌ語を「流暢に話せる人(Active Speaker)」として分類される話者は、20人に満たない。一ケタ台であるとの説もある。話者の平均年齢は80歳で、消滅に近い言語(Nearly Extinct)とされている。
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by iyasaca | 2006-11-04 01:51 | 北海道 | Comments(1)

釧路にいってみた

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北海道・道東地方の中心、釧路にいってみた。釧路の語源はアイヌ語にある。しかし、どのアイヌ語が元なのか、諸説あり定かでない。語源探しで研究書が出ているくらいである。ちなみにその諸説とは、

クスリ(温泉、四方が高い山からのび上がる)
クシュル(通路)
クッチャロ(咽喉)
クシ・ル(越す・道)

などである。


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釧路の町の北には、28,000haにわたって大湿原が広がる。この辺りは、前回の間氷期に、遠浅の湾を形成していた。しかしその後、海水面が低下し、約4,000年前には現在の海岸線にまで後退した。かつて水没していた遠浅の湾の湾口部は、砂洲でせき止められ、内陸部は水はけの悪い沼沢地となった。さらに冷涼多湿となった環境が、沼沢地の泥炭化を促し、現在見られるような湿地が形成されたのである。道東にある多くの湿地帯は、ほぼ同じ経緯を経て、形成されている。

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<塘路湖>
湿原に残る湖の一つ塘路湖。周囲18キロもある釧路湿原最大の湖である。湿原に点在する湖や沼は、すべてかつて海であった頃の名残である。その証左として、海から湖へと変わる環境変化に順応して生き残った海跡動物イサザアミが生息している。ちなみに、イサザアミは霞ヶ浦にも生息している。だが、塘路湖で最も有名なのは、ワカサギ。冬には湖面に穴を開けて行うワカサギ釣りで賑わう。


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時代をうんと下って寛永の時代(17世紀)。松前藩がアイヌ人との交易のため、この地に漁場を開いた。この漁場はクスリ場所と呼ばれていた。さらに明治期に入ると、「和人」の本格的な入植が始まった。釧路が都市としての発展を始めるのはこの時期からである。写真は、和商市場。トッピングを勝手気ままに選ぶことができる丼もの「勝手丼」が名物である。地元の人で勝手丼を食べている人はいない。銀座並みに値段が張る割りに、ということであろう。
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by iyasaca | 2006-10-31 00:22 | 北海道 | Comments(3)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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