勝手に僻地散歩



カテゴリ:栃木( 23 )


旧青木周蔵那須別邸にいってみた

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那須野ヶ原の原野に佇む白亜の洋館、旧青木周蔵那須別邸を訪ねる。

明治にあって那須野ヶ原は、いわゆる華族牧場のメッカであった。1880年代以降、大山巌、毛利元敏、松方正義、乃木希典、山県有朋ら明治の元勲らが、殖産興業下における農業振興を先導するように次々と大農場を拓いていった。その中でも青木周蔵が1881年(明治14)、37歳の時に開設した「青木開墾」(1,576ha)は、松方正義の千本松農場(1,640ha)に次ぐ規模を誇った。

青木周蔵は、この広大な農場の管理拠点と避暑地邸宅として、ドイツ帰りの建築界の泰斗、松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)に設計を依頼、1888年(明治21)に竣工している。

松ヶ崎は1871年(明治4)、13歳の時に岩倉使節団とともに渡欧し、12年にも及ぶドイツ滞在中にベルリン工科大学にて建築を学んだ後に帰国、日本建築学会の前身、造家学会設立にも創立メンバーとして参画するなど日本近代建築の祖とも言うべき人物である。松ケ崎は、仙台の七十七銀行本店などを設計した後に、台湾に拠点を移し、台湾総督府交通局鉄道部、新竹駅、台北西門市場などの設計を手がけたが、多くは現存しない。この旧青木周蔵那須別邸は、国内に残る松ヶ崎設計の唯一の作品である。

f0008679_10242391.jpgさて、青木周蔵は長州藩西南部の吉田宰判土生村小土生(おはぶ)の地下医三浦玄仲の長子として1844年(天保15)に生を受ける。幼名は三浦團七であった。

1864年春に長州藩校明倫館好生館が陪臣、地下医にも開放されると團七はすぐに入門する。才気あふれる少年であったのであろう、翌年11月に、好生館教諭役で蘭学者の青木研藏の養子となり、青木周蔵に改名する。このときに大村益次郎が周蔵の語学力(オランダ語)を褒めたという話が残っている。

長崎にてしばし滞留した後、1868年(慶応4年)、24歳のときに長州藩留学生として3年分の費用1,575両を携え、ドイツに医学留学をするのである。

<写真:青木周蔵>

周蔵は奔放な人物であったようである。青木家に入る前の話は後年の回顧録にあるほかはあまり伝わっていないが、留学後から晩年に至るまで彩り豊かな人物であったことを物語るエピソードが尽きない。周蔵はもちろん対英条約改正交渉を始め、大いに大日本帝国に貢献した人物であるが、ここでは人間らしいエピソードを中心に紹介したい。

周蔵は藩留学生としてドイツに渡ってほどなく藩に相談することなく、政治経済学へと転籍をする。藩費での医学留学のため、この「勝手な」行動は騒動となる。この騒動は山県有朋の助けを借りて、何とか収まるが、その後も1872年(明治4)にも北ドイツ留学生総代となった後も在独留学生の専攻科目に容喙したりするなどして不興を買うなど活発であったようだ。

1874年(明治6)に30歳で帰国した後も、青木家との関係は微妙な状態であった。後見人とも言える木戸孝允が青木家より伝えられる不満(医師の家に入りながら、医学を放棄し、義父、義母の死に際しても連絡も寄越さなかったなどという苦言)を周蔵に伝え、幾度も萩に出向くよう説得するも、周蔵は結局一度もその意に沿うことはなかった。一時期は青木家より離籍するという話まで出るほどであった。

f0008679_1913267.jpg公使としてドイツに再び渡った後も周蔵は期待を裏切らない。青木家の養子という立場のまま、何とプロイセン貴族であるエリザベート(へルマン・カール・アルベルト・フォン・ラーデ、母はブランデンブルク家出身のクレメンティヌ・ヘンリエッテドの子)と結婚してしまうのである。


<写真:エリーザベト・フォン・ラーデ・フンケンハーゲン>
1886年に帰国した周蔵は政界に転ずる。1889年の第一次山県有朋内閣における外務大臣就任を皮切りに、松方内閣、第二次山縣内閣でも外務大臣を務めることになるのである。この外務大臣時代にも、周蔵らしさが見られる騒動を起こしている。1891年5月に発生した大津事件の対応をめぐる失策である。

大津事件とはロシア帝国ニコライ皇太子が大津にて滋賀県警察部津田三蔵巡査によって切りつけられ、右側頭部に9cm近くの傷を負わせた事件である。

この事件の処理をめぐって、犯人の死罪を強く要求していたロシア側は、政界の有力者に強く働きかける。当時外務大臣であった周蔵もその1人であった。ここで周蔵はロシア公使シュービッチに対し、犯人の死刑、つまり旧刑法116条大逆罪の適用を約束してしまったのである。

ちなみに旧刑法116条とは、
「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
とある。三后とは、太皇太后、皇太后、皇后のことである。

しかし大審院(現在の最高裁判所)は、旧刑法116条は日本の皇族にしか適用されず、外国の皇族は想定されていないとし、旧刑法292条一般人に対する誅殺未遂罪が適用され、襲撃犯の津田への判決は死刑ではなく、無期徒刑(無期懲役)となった。

この判決に憤激したロシア公使シュービッチは、周蔵との密約を公表する。これが、いわゆる公書問題である。この暴露に際して周蔵は「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と逃げ口上を図ったことが事態をさらに悪化させる。伊藤が「ロシア側の真意を確かめよと指示しただけ、政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職する」と反論したところ、周蔵はさらに「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言、大騒動となってしまう。そして、すったもんだの末、結局自身が外務大臣の職を辞することになったのである。

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さて旧青木周蔵那須別邸である。設計当初は、中央の2階建てのみであったが、その後東西に付属棟、東棟、西棟、中央棟屋上の物見台が1909年(明治42)に増築され、今の姿となった。写真では小さいが、最大の特徴は外壁を全て覆った鱗型のスレートである。

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ここは一階の一角にある浴室である。バスタブのほかにスツールが置いてあったという。随分小さなバスタブである。
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二階のスペースは、最も古い部分である。これまた小さな鉄製のベッドが2つ並んでいる。すでに残っていないが、窓際には水差しとホーローの洗面器を備えた机が置かれていたらしい。印象的なのは、暖色系の光を放つ球状の照明である。この形は邸宅にあるすべての照明に使われている。

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手前に見えるブリキ製のつづらは、もともと屋根裏にあったものである。よく見えないがつづらの蓋には、周蔵の娘ハナの夫の姓である「ハッツフェルト」と墨書されている。これはハナの家族がドイツ→東京→那須を移動する際に使用していたとのことである。

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<写真:青木邸に至るアプローチに立ち並ぶ杉並木>
青木は、農場の従業者の子弟のために小学校をつくったりするなど、地元に大いに貢献した。また避暑に訪れた際には、鹿狩りを楽しんでいたとの話も残っている。

エリザベートは周蔵の死後、ドイツに帰国してしまったが、地域の人に青木邸と呼ばれていたこの邸宅は、1960年代半ばくらいまで青木家の別荘として使われていた。

東京での喧噪から離れ、ドイツで過ごした豊かな時間に思いを馳せることのできたであろうこの空間も、主を失ってから時を経て、1989年に栃木県に寄贈された。その後に行われた1996年から1998年の解体修理の際に元の場所から南東に50メートル離れた現在の場所に移築、99年12月21日に重要文化財に指定されている。
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by iyasaca | 2013-11-10 20:48 | 栃木 | Comments(2)

奥那須 北温泉旅館にいってみた その2

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北温泉旅館である。

黒光りする柱と床、古びた箪笥、壁にかかる古い農具などすべての調度品がいかにも湯治場という雰囲気を醸し出している。
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まずは天狗の湯に向かう。内部の構造は迷路のようで、床も歩を進めるとギシギシ音をたてる。時節柄、耐震構造が気になるが、北温泉旅館は、そのような無粋者を静かに拒絶する。

天狗の湯には先客がいた。この混浴の湯船には女性がお構いなしに入ってくる。こちらが見えていないのかと思うくらいの奔放な振舞いに圧倒され、写真はない。

さて天狗の湯は、大天狗が宝亀年間(8世紀後半)、日光山より出羽の国へ行く途上発見したと言われており、浴舎の壁に大きな天狗の面がかけられている。湯の色は黄土色でそれほど湯温は低い。いつまでも入っていられそうな温度である。

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河原の湯に向かう。川沿いに作られた露天風呂で、砂防ダムを臨むことができる。
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続いて、相の湯に向かう。宿を一度出た場所にある小さな湯殿に男女別の小さな風呂がある。元々は混浴だったことから「相の湯」と呼ばれている。源泉がは天狗の湯とは異なるらしい。確かに、黄色がかったお湯であった天狗の湯とは異なり、やや赤茶けたような湯である。
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by iyasaca | 2011-10-29 00:09 | 栃木 | Comments(0)

奥那須 北温泉旅館にいってみた その1

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今回の目的地は、奥那須の秘湯、北温泉である。

北温泉は、かつては岐多、喜多とも表記されていたこともあったが、明治に入って「北」に統一されたようである。
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宿までは車で到達することはできない。旅館から約400メートルほどの場所にある駐車場からは、遊歩道を歩かなければならない。
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緩やかな坂道をしばらく下るとまず目につくのは谷間から顔を出す赤茶色のコンクリート壁である。防砂ダムと思われるコンクリート構造物の周辺に、黒い屋根の旅館の建物が見えてくる。一番古い建物は江戸時代の建造で、その後明治、昭和と新たな棟が建てられている。
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宿の脇には余笹川が流れている。
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坂を下りきると宿の全景が見える。右手には15m×10mの大露天風呂が目に飛び込んでくる。水着着用可能の混浴風呂である。湯温は低く、温泉というより温水プールである。人影はない。いよいよ旅館の入口に到達する。
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by iyasaca | 2011-10-22 00:55 | 栃木 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その5

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あまり食事のレビューをするのが得意ではないので、今まで食事を中心にしたエントリーは書いてこなかったが、手白澤温泉ヒュッテの食事とワインは出色であったので、あえて一本書いてみる。
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前菜
八汐鱒(ヤシオマス、栃木県名産らしい)
独活(うど)の酢漬け
蕨(わらび)のおひたし
蕗(ふき)の煮付け
コシアブラのおひたし

サラダ、塩辛とパンに食前酒

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メインは、イワナのムニエル 粒マスタードソース

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ポークヒレロースト エストラゴンソースに変わった味(コンソメっぽい)がした切干大根。

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デザートは、黒ごまのアイス

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食事のともは、Chateau Falfas 2005でした。
メルロー55%にカベルネ・ソーヴィニヨンが30%、マルベック、カベルネ・フランがそれぞれ10%、5%という配合。平均70年の古樹から収穫されたブドウのみで作られるワインとのこと。3,000円台のワインだが、当たり年と言われる2005年のワインという事実に満足。

本来なら、
「深みのある濃いガーネットの色合いで、しっかりした粘性がある。インク、タバコ、腐葉土、シナモンなどがアクセントとなり、インパクトある香りを形成している。口に含むと、樽に由来するヴァニラやシナモンの香りを強く感じる。 味わいにおいては、タンニン、酸、ミネラルそれぞれの要素が複雑に融合している。」

とでも表現しないといけないのだろうが、なかなか難しい。
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朝飯も堪能した。帰路にはかなりボリュームのあるおにぎりも用意してもらい、下山した。極上のお湯、食事を静かに楽しむことのできる手白澤温泉。足に自信がなくても宿泊できるオプションがあるのも良い。
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by iyasaca | 2011-07-09 00:49 | 栃木 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その4

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<写真:青みがかった乳白色の内湯。湯船は御影石で縁取りされている>
手白澤ヒュッテの最大の魅力は、薄い乳白色の温泉である。内風呂、露天とあるが、そのどちらにも贅沢に源泉かけ流しのお湯が注いでいる。
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<写真:内湯といっても、外が臨める趣向となっている>
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手白澤の名の由来は、絹の織物を織り続け、手が荒れてしまった絹姫が、流れる沢に手を浸したところ、もとの白い手に戻ったという言い伝えにあるのだそうだ。

温泉を発見したのは地元の民ではなく、東京渋谷で商い(一説には傘屋)をしていた宮下兵次郎という人物である。奥鬼怒によく狩りに入っていた平次郎は、ある日、塩谷郡栗山村あたりで湧出する源泉を発見した。その源泉は現在でも兵次郎の湯と言われている。

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<写真:露天。温度が低めで長湯ができる>
兵次郎はどこから資金を調達したのか、1935年(昭和10年)に、ブナの古木に囲まれた原生林の一角に2階建て9室の温泉宿を建てた。当時は今市の北にある小百という部落から徒歩で入るルートしか存在せず、手白澤を利用していたのは、登山者だけであった。

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<写真:湯の花とともに流れこむ>
湯宿は1997年(平成9年)に改装され、平屋6室の宿へと姿を変えた。宿には男女別に内湯と露天に、硫化水素臭がする無色のお湯(52.2℃)が毎分300リットル湧出している。加水も加温もしていないため、露天はいい塩梅の温度で長湯ができる。冬場には余ったお湯が宿の床暖房として使われている。
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この宿がさらに魅力的なのは食事を素晴らしいワインとともに味わうことができることである。食事のレビューは不得手であるのだが、手白澤ヒュッテの食事は書いておくべきだと思い、次回はその素晴らしさを紹介したい。
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by iyasaca | 2011-07-02 23:33 | 栃木 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その3

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女婦淵から徒歩で3時間、ようやく目的地に到達した。
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この日は東京は35度を越える真夏日であったらしいが、標高1,400メートルほどの奥鬼怒周辺は25度ほど。冬季には零下20度まで下がることもあるらしく、その時期の旅館の稼働率は2割程度まで落ちるという。それでも奥鬼怒4湯への年間宿泊者数は3万人ほどと言う。

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<写真:今は電気も水洗トイレもあり、快適>
奥鬼怒は1986年まで電線が引かれておらず、電力を自家発電で賄っていた。しかし出力が小さく、不安定であるため、蛍光灯は使えず、冷蔵庫などの家電も故障がちであったという。ほかにも電気を必要とする火災報知機も非常灯もなかった。トイレも穴を掘る染みこみ式で、電話もなかった。宿の予約は葉書でしか受付していなかったのである。
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<写真:ドリンクの支払いは自己申告制>

1996年になって、東京電力とNTTが共同で、女婦渕から7キロの架線整備が行われた。投じられた経費は1億5,000万円。4つの旅館も総額800万円の負担をしている。併せて電話線も整備された。この地域が通電したことで、関東で唯一の「未点灯集落」が消滅したのである。以降、発電機は不要となり、運び屋の荷物から重油が消えることとなった。通電する前の運び屋の荷物は食料、重油など合わせて50キロにも及んだという。

電気と水、通信環境があるおかげで手白沢ヒュッテは大変快適な宿となっている。
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by iyasaca | 2011-06-25 22:53 | 栃木 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その2

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<写真:楽ちんルート>
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<写真:健脚家向けルート>
女婦淵から1時間ほどで奥鬼怒4湯で最も手前にある八丁の湯に到達する。ここで小休憩をして、いよいよ手白澤に向かう。

道はここからまた険しくなる。八丁の湯から手白澤に向かうルートは2つある。距離は長いが緩やかな楽ちんルートと、距離は短いが傾斜が急な健脚家向けルートとである。往路は厳しい方のルートを選んだ。

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<写真:鬱蒼とした樗(ブナ)の原生林>
標高1,410メートル付近に到達するとブナの原生林が現れる。ブナ平である。この一帯には、樹齢100年を超えるブナ、ハリギリやオオシラビソなどの樹種も確認されている。またこの樹林帯でしか見られないガロアムシという昆虫は現代の化石と言われている稀少種なのだそうだ。
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ブナ林を抜けると下り坂が始まり、宿まで600メートルほどの場所で、生活道路に合流する。携帯電話(ドコモだけ)の電波もこのあたりまで。しばらく歩くと、手白澤の渓流の音が聞こえてくる。
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<写真:林の向こうが目的地の手白澤温泉ヒュッテ>
3時間かかってようやく到着。
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by iyasaca | 2011-06-18 00:31 | 栃木 | Comments(0)

手白澤温泉にいってみた その1

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<写真:案内板。テントの設営はダメらしい。>
手白澤温泉は奥鬼怒温泉郷四湯のひとつで、鬼怒川温泉駅からバスで2時間ほどの山あいにある女夫淵から徒歩でしかアクセスできない湯宿である。
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<写真:女夫淵へ向かうバス車内>
かつて激しい競争をj繰り広げていた日光市営バスとしおや交通は和解したようで、鬼怒川駅前から女夫淵へは、「日光市営バスの運行をしおや交通が受託した」形になっていた。八丁の湯を訪れた前回は道中ほとんど寝ていたが、今回は起きていたせいか、2時間は長かった。
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<写真:最初は少しだけ起伏がある>
バスの終点女夫淵から12キロほどの道のりは遊歩道が整備されている。遊歩道入口から入って10分ほどの区間と八丁の湯から手白澤までの間は、起伏があり、重力を堪能することができるが、それ以外は、足に大きな負担がかかることはない。
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<写真:途中から平らに>
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<写真:コザ池の滝>
健脚ならば2時間半ほどと言われている道のりだったが、休憩を挟みながら歩いていたので、今回の目的地、手白澤温泉までは、3時間ほどかかった。
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by iyasaca | 2011-06-11 21:03 | 栃木 | Comments(0)

足尾温泉 庚申の湯にいってみた

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足尾を巡る旅の締めくくりに、足尾温泉庚申の湯を源泉とする国民宿舎かじか荘(栃木県日光市足尾町銀山平5488)に立ち寄った。「かじか」とは、銅の鉱脈、鉱床を指す「河鹿」のことである。PH値9.5というアルカリ性単純温泉で、美肌の湯とも言われている。

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足尾に温泉が出たのは古い話ではない。初めて温泉が出たのは1971年(昭和46年)の秋、閉山のわずか2年前である。足尾の山の神は銅の鉱脈が尽きるのと引き換えに、温泉を差し出したのかもしれない。

備前盾山のほぼ中央の地下から湧出した源泉もやがて尽き、現在は標高1,892メートルの庚申山の麓にある銀山平に新たに湧出した源泉、庚申の湯を引いている。庚申の湯がオープンしたのは1997年のことである。ちなみに足尾町にはほかに、旧小滝坑内より湧出する直利の湯、向原地区内を源泉とする白樺の湯がある。

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国民宿舎かじか荘は、控えめで華やかさはないが、よく管理されていて、支配人の意思をすみずみにまで感じる。この日は残念ながら、石造りの露天風呂はボイラーの故障で閉鎖中。入れたのは内湯だけであった。

男湯は入って右手に6,7人は入れる大きな湯船があり、正面と左手は洗い場になっている。お湯はわずかに黄色がかっているが、透明感がある。硫化水素臭(腐った卵の臭い)が少しあるとの記載があったが、感じることはできなかった。むしろ消毒に使用しているという塩素臭(次亜塩素)が強い。源泉が36.0度であるため、加温がされているためか、湯船の湯温は高く、慣らさないと入れない感じだった。他の口コミを見るとぬるぬる感が強調する向きが多いが、それもあまり感じなかった。ひょっとしたら露天風呂は多少異なるのかもしれない。
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足尾を離れる前に間藤駅周辺を歩いてみた。夕暮れ前で人通りも少ない間藤の駅ではわたらせ鉄道の車両が乗客を待っていた。駆け足でめぐった足尾の旅はこれにて終了。世界遺産登録も数が増えすぎとの批判を受け、審査が厳しくなっているという。平泉も登録延期が勧告されたとの報も流れた。足尾は世界遺産に登録されなくとも、持てる観光資源を十分に活用してほしい。
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by iyasaca | 2008-05-24 21:29 | 栃木 | Comments(0)

古河橋と本山鉱山神社にいってみた(足尾の産業遺産4)

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本山は長く、銅山の中心として栄えていた。その現在の姿を見ようと渡良瀬川北岸にある本山に向かう。

その途上、川にかかる古い橋がある。古河橋(栃木県日光市足尾町赤倉)である。この場所には、かつて直利橋という木造の橋がかかっていたが、1887年(明治20年)4月の火災(松木大火)で焼失してしまった。現在かかっているこの古河橋は、1890年(明治23年)12月にドイツ・ハーコート社の設計により架けられた鉄橋である。

建設中に足場が一度洪水で流されるなどのトラブルがあったが1993年(平成5年)に隣に新古河橋が架設されるまで維持・補修を施されながら現役を続けた。長さ50メートル、幅4.6メートルのこの道路用の鉄橋としては日本で最も古いとされているが、現在は立ち入り禁止になっている。ほぼ同時期に鉄架空索道、間藤水力発電所、水套式溶鉱炉も作られ、古河橋とあわせて足尾銅山の四大工事と呼ばれている。

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橋を越えると右側は廃墟と化した精錬所がそびえる。精錬所構内は立ち入り禁止であるが、ネット検索してみると中に立ち入り、撮影を敢行した勇者もいるようである。
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精錬所を右に見つつ、さらにその先にある長い坂を上がっていくと本山に到着する。両脇にはところどころ打ち捨てられ、崩れるに任せている建物が見えるが、盛時には1718世帯、12,496人(1907年9月の統計)もの鉱山労働者家族が居住していた足尾銅山の中心をなす町だったのである。一帯には社宅だけでなく、選鉱所、医局、火力発電所、小学校、プール、スケート場などが設けられ、大いに発展した。明治40年に発生した労働争議を契機に鉱業所は掛水に移転され、その後徐々に人口は減っていったが、それでも1963年4月には290世帯、1,167人、閉山時の1973年にも138世帯、477人が居住していた。しかし8月に最後の住民が引っ越し、本山はついに無人となったのである。
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本山坑道近くに本山鉱山神社の参道入口がある。この神社は足尾鉱業所長が本山坑道で働く鉱員から3,279円53銭の寄進を集め、明治22年に造営されたものである。
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落ち葉が敷き詰められた参道が醸し出すその寂れた雰囲気に、一瞬踏み込むことをためらったが、せっかくここまで来たので、本殿に向かうことにした。参道の右手に点在する同浴場(跡)、使途不明の建物(跡)、倒れかけた壁などが時の流れを静かに訴えている。

参道入口に立っている看板にある当時の地図を見ると山上にグラウンドがあり、その先に神社の本殿がある。しかし不覚にも途中で道を見失ってしまい、本殿にまで到達することができなかったのが残念であった。この本山鉱山神社は日光市指定有形文化財として登録されている。
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by iyasaca | 2008-05-17 19:27 | 栃木 | Comments(0)


知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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